体感時間調整魔術。
ある村ではかつてから魔術が盛んで、その魔術をつかって面白い実験が行われたことがあった、なんでもその魔術は人々の“感覚”を入れ替えることができ、魔術の同じ印を別の人々にむすびつけると特定の(記述された感覚)が入れ替わるという村独自のうけつがれた秘儀があるという。
しかしそんな村でも、日々の生活は退屈がたまに遅い、魔が差すこともあるもので、特段意味もないのにそれぞれの“時間感覚”を入れ替えてみた。かねてより人々の間には世代間に対する不満や不平がたまっていて、ある種のデモンストレーションのような感じで、それぞれの役目について考えてもらう事にしたのだ。そこで“体感時間”を交互に入れ替えたところ面白いことがおこった。
老人はこう報告する。
若者は大変だ、簡単な仕事が難しく感じられ、緊張しなくていい場面で緊張するようになってしまった。
若者は、この新鮮な感覚で大変な思いをしていたのか。
若者はこう報告する。
何もかも味気なく感じる、心は疲れ切り、体はいうことをきかない。老人に無茶をいってたよりきってばかりではだめだったんだ。
女性はこう報告する。
男社会はこんなに機械的で、決まりにうるさくて大変だわ。
男性はこう報告する。
化粧も面倒だし、常に自分の容姿を磨かなければならない。男がやりたがらない家事もやらなくてはならない。
子供はこう報告する。
『大人のめんどくさい仕事をするより、まだおぎゃーおぎゃーいってる方が楽だよ』
そこでその村の人々の相互理解がはぐくまれたのだった。そこまではよかった。だがこれがエスカレートすると、これ自体がある種の娯楽となった。
なんでも正反対のもの同士だったらいい。いくらか親和性のある組み合わせがみつかると、例えばカテゴリとわず、子供に戻りたい人間は子供に戻り、苦労を感じたいひとは、さらに老い、もしくは若返り、大人びたい人間は、いくら失敗しようと大人の仕事をしたがりその場をめちゃくちゃにひっかきまわした。この遊びがあまりに流行り、魔術師たちもほとほとあきれつかれ、ひいてはこんなことばかりしていて最終的に村は立ち行かなくなるので、この儀式は年に一回だけの“祭り”という事になった。
しかし人々は結果、口をそろえてこういうようになったのだった。
『ああ、あの頃はよかったなあ』
『そうねえ』
『そうじゃなあ』
『おぎゃーおぎゃー』
『うん』