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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

草の者

作者: 小城

「暑い。」

甲州は山が多く涼しいと思われていたが、武田氏の館がある甲府盆地は存外、夏は暑い。

「暑い。」

柿渋を塗った渋団扇を扇ぎながら、武田の本拠、躑躅崎館の下人小屋で胡坐を掻いている男がいた。

「暑い。」

その男は団扇を扇ぎながらも、しきりとひとり声を出していた。

「言わなくても分かります。」

その小屋にいつのまにか入って来ていた女がいた。

「お千。」

と呼ばれた女は、梓弓を持った歩き巫女の格好をしていた。

「捨松。」

と女は男を呼んだ。男は武田家の富田郷左衛門配下の草の者の一人であった。男は捨て子であった。松の根元に捨てられていたから捨松。富田郷左衛門は言った。

「駿河か遠江か?」

「遠江です。」

当主武田勝頼は長篠合戦で敗退してから、家中は衰退したとはいえ、遠江高天神などでは小競り合いが続いていた。歩き巫女はそうした敵国の情報収集を行っていた。草の者は合戦の小競り合いでの攪乱や偵察を生業とした。

「わしも行くぞ。」

郷左衛門に言伝を頼み。捨松は支度をした。歩き巫女と共の小男に扮した。身延道を通り、駿河を経て遠江へ行く。

「途中、久遠寺に寄ります。」

お千はそう言った。

途中、立ち寄った村々で卜占をしていく。

「近頃は徳川の侍をよく見かける。」

未だ駿河は武田家の掌中にあるが、長くは保たないだろう。駿河の小領主のもとへ徳川家の者が、頻繁に調略するべく、訪れていた。彼らは他国の旅人を装ってはいるが、こと他国の間者を長く見続けてきた国境の者たちには、ほんの些細なことからその違いが見てとれた。

 久遠寺で情報を収集して、二人はこのまま、駿河、遠江へと向かう。

「お千は何故、乱破を続けておる。」

誰もいない山中で捨松が聞いた。

「務めにございます。」

それ以上は言わなかった。

高天神の近くを通った。

「ちょっと行ってくる。」

そう言って捨松は姿を消した。

家康は高天神の周囲に付け城を築いて、高天神への兵糧、弾薬の補給を遮断していた。高天神城は孤立した。

「(あそことそこか…。)」

捨松は徳川方の物見の位置を予測し、その死角を塗って城に潜入した。自ら戦場で物見を行っている捨松は、敵の物見の大方の予測もついた。

「(高天神城兵の士気は未だ高いか…。)」

公式の潜入ではないので、味方の兵にも気づかれてはならなかった。城兵に捕まれば問答無用で斬られることは目に見えている。捨松は城の外から内の様子を一通り見て戻った。

 掛川付近の村でお千と落ち合った。どこの村でも村はずれの家の中には金銭を払って、歩き巫女たち間者を泊めてくれる家が一軒ぐらいはあった。そうした家は代々、間者たちの宿泊所として口伝されていた。

「(ここか…。)」

目印の梓弓が裏の軒下に吊してあった。捨松は裏口から内へ上がった。

「戻ったのですか。」

お千は衣服を脱いでいたところだった。

「うむ。」

捨松は何も言わずにそこへどかっと座った。お千は衣服を着直した。体でも拭いていたのだろう。

「どうでしたか。」

「城はまだ、一年は保つだろう。」

城兵の顔色は思っていたほど悪くはなく、活力もあった。

「大方、大仰に甲斐へ報告しているのであろう。」

そのような者に限って、相手方へ寝返る者が多かった。

「城方の一人や二人は既に、徳川へ寝返っておるかもしれぬな。」

捨松はそのまま寝転び、睡眠した。

「私は本当はのんびりと暮らしたいのです。」

道中、捨松のうるささにお千がそう言ったことがあった。お千のその言葉に対して、とうの捨松は何も言わなかった。

「(わしはどう暮らせば良いのだろうか…。)」

草の者としての足軽稼ぎで、捨松は日暮らしをしている。

「(わしとお千は相容れぬのか…。)」

捨松も本当は足軽稼ぎなどせず、のんびりと暮らしたかったのだろう。しかし、気がついたら、彼らは戦場にいた。

「(草の者がいくら働いたところで、役に立つのは侍たちよ。)」

家中では、草の者は足軽と同等かそれ以下の末端の存在であった。いるのかいないのか存在すらも確かでなない。

「(それが乱破の宿命よ…。)」

そうして自分を慰めることしか捨松にはできなかった。

 浜松から天竜二俣を通り、信濃へ向かう。

「木曾には寄るのか?」

「木曾はいいでしょう。」

飯田から諏訪を経て、甲斐へ帰った。甲斐へ帰ると捨松は郷左衛門から突然の失踪について大叱責を受けた。

「本来ならば打ち首ではあるが、今回に限り免じてやる。」

郷左衛門がそう言ったのは、今回で三度目であったが、本人は覚えてはいないのだろう。

 翌年、家康は大軍を持って、高天神を包囲した。が、武田家は軍勢を出さなかった。

「見捨てたか。」

捨松は武田家を出奔して、高天神へ向かった。

 1581年の3月。武田家の援軍の望みはなくなり、徳川家への降伏も拒絶された高天神の城兵たちは死を覚悟して城から討って出た。700名以上が討ち死にしたという。その中に、元、富田郷左衛門の配下、捨松の姿があったかどうかは定かではない。高天神の城は家康に火を放たれて燃えた。

 武田家の滅亡後、甲州の草の者たちの多くは真田家に引き継がれた。歩き巫女たちの多くも真田家に頼った。

 武田家滅亡から33年後の1615年。慶長から元和へと年号は変わり、戦乱は終結した。その報せを信濃国の小県郡の村はずれの一軒家で、のんびりと余生を過ごしていた一人の女性が聞いた。その家の軒下には壊れかけた梓弓がひっそりと吊されている。

 その家には、顔に古傷のある背の小さな男が時折、訪れることがあるというが、その女性と男の関係までは詳らかには分からなかった。

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