エナメル質の原点
がらんとした広い無機質な空間が広がっている。壁面は大理石風の見たことのない鉱石で仕上がっている。上下左右すべて同じ壁面で、その空間が四方に無限に広がっているように見えた。辺りはほの暗く、薄いオレンジ色の光に壁面が微かに照らされていた。「カツーン。カツーン。」と硬い音がする。床を固い履き物で打つ音のようであった。やがて、薄闇の中から一体の少女が現れる。その少女の身は小学校低学年の児童の姿をしている。少女が着ている服は薄いゴムを広げた一枚のウェットスーツのようなものだった。色は周囲の光に照らされて微かにオレンジ色に見えた。不思議なことは少女の足元も薄いゴムに覆われていて固い履き物などは履いていないことであった。「約束の物。手に入ったよ。」少女は口を開いた。その声も小学校低学年の児童のものであった。どこかで聞いたことがあるような気がした。少女は両手をすっと前に差し出した。その広げた小さい両手の平に乗っていたもの。それは、小さい頃に流行ったおもちゃだった。「今度は何がほしいの?…くん。」その少女の声を最後に僕の夢は覚めた。僕が目覚めたのは学校の教室。今は長期休暇中で誰もいない。机の上から体を起こし窓の外を見た。青い空が広がっていた。校庭には誰もいないかと思ったが、児童が二、三人ボールを蹴って遊んでいた。僕は校舎を下りて校庭に出ることにした。校舎の中はシンと静まり返っていた。まるで、さっき見た夢の中のようであった。学校の玄関には僕の靴だけが置いてあった。チラッと人影が見えた。一瞬その人影が夢の中の少女の姿に見えた。人影は校内に入っていった。僕はその人影を追いかけて再び校内に入った。廊下が続いている。人影はない。僕は二階に上がることにした。階段を上る。それは今さっき下りてきたばかりのものである。二階に着いた。さっきまでいた教室の扉が開いている。出るときに閉めたはずだった。僕は再び教室へ入った。少女がいた。夢の中に出てきたあの少女だった。薄いゴムのウェットスーツをまとった少女。初めて分かったのはそのウェットスーツの色が淡い銀白色であり、少女の髪の色が薄い茶色であったということである。「ここでなにをしているの?」僕は声をかけた。少女はこちらを見た。黒い瞳をしている。「探し物をしているの。」少女は答えた。その声は夢の中の声と同じであった。「なにを探しているんだい?」「大切なもの。」僕と少女の声が響く。次の瞬間、僕の視野は異常な回転をみせた。辺りの景色が変わった。大理石の空間。オレンジ色の光。あの夢の中であった。空間は四方に広がっていた。よく見ると、その空間のところどころに何かがある。僕はそのひとつに近づいていった。そこにあったもの。それは、昔、商店街の薬局や何かの店頭によく置いてあったであろう大きな人形であった。そして、その隣にはなんだろうか、1台の自転車が置いてあった。また、その隣にも一本の鉛筆が置いてある。それらがほの暗い中で薄いオレンジ色の光に照らされて無言のままでいる。まるでそれは、歴史資料館のようであった。「カツーン。カツーン。」と足音がする。先ほどの少女であった。「君はなにをしているんだい?」僕は少女に尋ねた。「大切なものを探しているの。」少女は答えた。「ここに置いてあるこれらがかい?」「うん。そう。」少女はそう言うと両手を前に差し出した。「はい。見つけたよ。」少女の手の中には銀色の髪飾りがあった。「これは?」「大切なもの。次は何がほしいの?…くん。」「君は?」僕の視点が回る。気がつくと学校の教室にいた。窓の傍には少女がいる。「君はなにを探しているんだい?」「キューブ。」「キューブ?四角のこと?」「ううん。キューブはそれぞれのものを存在させているもののこと。」「DNA?」「違う。キューブはすべてのものにある。その机にもこの窓にも。あなたにもキューブはあるよ。」「僕にも?」「うん。」「君にも?」「ううん。わたしはキューブから作り出された複製。あなたが作ったの。…くん。」「僕が?」僕の視野が回転する。辺りはオレンジ色の光。周囲にはたくさんの思い出の品。思い出の人。そして少女の姿。「君は、…ちゃん。」「ううん。違う。わたしはあなたが作った…ちゃんの複製。ここにあるあれもこれも全部。わたしがキューブを集めてきたの。」「じゃあ本物は?」「ここにはいない。向こうの世界に何事もなく存在しているよ。わたしはキューブを写させてもらっただけ。…くん。次は何がほしいの?」視野が回る。しかし、辺りの景色は変わらない。辺りは僕の思い出の品と思い出の人の複製。マザーによって作られた少女。マザーはキューブが崩壊し世界が崩壊していく中でその崩壊を食い止めようと人と物を複製しているという。キューブを使って。少女はマザーの指示に従ってパラレルワールドを移行してキューブを写してくるのだと。辺りを包むオレンジ色の光がやわらぐ。「僕がマザー?」「ううん。マザーはもういない。マザーのキューブは崩壊しちゃったの。はじめにマザーがあなたのキューブを写しとってきたの。そしてあなたの複製を作った。マザーはそのあとすぐになくなっちゃったけど、あなたにキューブを集めるように指示したの。そして、あなたがわたしを作ったの。」「じゃあ本当の僕は?」「ここにはいない。ねえ。…くん。次は何がほしいの?」少女は尋ねた。僕は永遠に覚めない夢を見続けることになった。「カツーン。カツーン。」硬い物が硬い物を打つ音がする。エナメル質に包まれたもの。そのものとそのものが打ち付けられる音。その中身は薄く甘酸っぱい思い出であった。