2-2 二枚目のスチル
ふわりとした笑顔が、俺をのぞきこんでいる。
やわらかく春の光にふちどられたその人を、俺はぼんやりと見上げていた。
くすっと笑い声がして、優しい指が俺の髪から花片をとってくれた。
背が高くて、色白。
髪の色も日本人にしては明るく、茶色に近い。顔立ちは整ってるけど、垂れ目気味のくっきりと二重な目が、柔和で清潔な印象だ。甘い印象のハンサム、っていうのは、この人のためにある言葉だと思う。
その人は、ふふふっと笑い声をこぼして、俺の隣に腰を下ろした。声も、木管の楽器みたいに耳に心地よく当たる。拍子にブランコが揺れた。
「花びらに包まれて眠っているから、眠り姫かとおもったよ」
「え……」
こんな……台詞を笑顔で言える人が……この世にいるなんて……?
俺は吹き出すようににっこりした。
「瑞希兄さん……」
「起こしちゃったね」
「いえ……すみません、気が付かなくて」
俺は首を横に振り、瑞希兄さんが座りやすいように、腰をずらして座り直した。
春花瑞希。
俺の二つ年上の従兄弟だ。
正確には、母さんの母さんの弟さんの息子の息子で「又従兄弟」に当たる。
もっとざっくり言うと、俺の母方の大叔父さんの孫――なんだけど、途中もろもろ省略して、人に紹介するときは「イトコ」と言っている。
修陵院高等科の三年生で、なんと学生会長でもある。成績優秀で、運動神経も抜群。思いやりがあって誰にでも優しくて、人望もあつい。
本当に王子様みたいだ。
だからか、あだ名は「春の王子」。
瑞希兄さんは、修陵院の寄宿舎生でもある。
休日にはちょくちょく家に来て、ピアノを弾いたり、父さんの蔵書を読んだりしている。それだけじゃなくて、宿題のわからないところを教えてくれたり、ちょっとした買い物につきあってくれたり……。
俺にとって、本当の兄さんみたいな人だ。
瑞希兄さんはにっこりした。
「今日も書庫で勉強させてもらおうと思って来たんだけど。玄関チャイムを鳴らそうとしてたら、ブランコが見えてね。もしかして、かおちゃんかと思って。直接回ってきたんだ」
「そうでしたか……」
「……なんだかおめかししてるけど、出かけるの?」
瑞希兄さんは聡い。おめかしってほどじゃないけど、今日の俺は、水色のシャツにアイボリーのベストで、ちょっとしゃっきりしたいでたちをしている。
俺は申し訳なく肩を落した。
「ごめんなさい。実はこれから、阿東のおじさん……阿東男爵ご夫妻がお見えになるんです」
「阿東男爵が? ……じゃあお邪魔だったかな……」
「いえそんな、邪魔だなんて。ただ、時間がどれくらいかかるかわからなくて……ごめんなさい」
瑞希兄さんの表情は変らなかった。何か思案するように、黙って俺を見つめている。
そうやっていると、兄さんの瞳は、明るい琥珀に緑が混じって見える。大叔父さんはフランスの女性と結婚なさったそうだから、その血のせいなんだろうか。
……きれいだなあ。
ふと、瑞希兄さんは優しい王子様スマイルを浮かべた。
「ねえ、かおちゃん。じゃあ今日は帰るけど、お客様が見えるまでここで僕とおしゃべりしててくれるかい?」
「あ、はいっ」
「とは言え、まだ眠そうだなあ」
瑞希兄さんはクスッと笑って、軽く地面についた脚を前後に動かして、ブランコの揺れを大きくした。
いきなりだったからバランスが崩れた。あわててロープを握る。
「わあ」
「びっくりした? ごめんね。でも、目が覚めた?」
「そ……そうかも」
「ブランコって楽しいよね」
ぶうん、とブランコが唸りを上げた。風が勢いよく顔に当たり、芝生と木立と空が混ざる。まだ体勢を立て直してなかったから、「ひえええ」と情けない声を上げてロープにしがみついてしまう。
「み、み、み、瑞希にいさ、」
「かおちゃん、楽しい?」
「は、は、はい、でも急で目が……ごめんなさい」
「ふふ、ごめんごめん」
風がゆるんで、ゆっくりとブランコがとまった。俺はほっとして顔を上げた。瑞希兄さんの嬉しそうな笑顔が俺をのぞいていた。
「ごめんね、かおちゃん。ついかわいかったから」
「もう。兄さんまでやめてください。もう俺、高等部生ですよ」
学校の廊下で、女子学生からささやきあっていた評判を思い出して、頬を膨らませると、瑞希兄さんは、ふと表情を改めた。
「……かわいいって、誰かに言われたの?」
「え? ああ……」
俺はつい暗い顔になった。
「……誰かというか……」
「……厳原くんに?」
瑞希兄さんは間髪入れずに聞き返した。
頭が一瞬ついていかなかった。
「……え?」
「近頃、厳原くんとよくいるみたいだね」
瑞希兄さんは、ブランコの肘掛けに頬杖をつく。
「朝、一緒に登校してるよね? 帰りも見かけるし、それにサンルームがよく見えるよ」
「み……見えてたんですか……?」
そうか。お弁当を食べてるサンルームは中庭だから、修陵院の高等部校舎なら、どこからでも目に入るんだ。
瑞希兄さんも気が付いてるとはおもわなかった。
「不思議に思ってたんだ。遠目だけど、かおちゃんはそんなに楽しそうにも見えないよ。……気になってね」
「そ……そうですか? ご心配かけてごめんなさい……」
さぐるように目を向けられて、俺はどきまぎ謝った。
瑞希兄さんは優しい。心配りしてくれてる。
それにしても、俺、そんなにわかりやすいかな……。冬志さんにも申し訳ないし、気をつけなくっちゃいけないな。
「ねえ、なにがあったの? 厳原くんとは、友達じゃなかったよね? 何かつきまとわれてる……とか?」
「い、いえ、違うんです」
急いで首を横に振る。
「それに、冬志さんとは、初等部のあいだは友達だったんです」
「そうだったの? ……初耳だな」
「そ、そうですね、お話しする機会もなくて……すみません」
「ちょっと意外だな……。ね、かばわなくてもいいんだよ」
心配そうに顔をのぞかれて、つい苦笑してしまった。
そうだよね。かっこよくて文武兼備の冬志さんと、地味な俺じゃ、つりあわないし。学年も違う。普通なら知り合うこともなかったんじゃないだろうか。
だからかな。
俺は、初めて冬志さんと会ったときのこと、すごくよく憶えてる。そう言えばあのときも、ハナミズキが咲いてる時期だった。
本当に小さなことだった。
傘だった。
俺は小学校に上がったばかりで、学校になじんでいるとはとても言えなかった。
それまで、身体が弱くて幼稚園にも通ってなくて、知っている子もいなかった。とにかく同い年の子がたくさんいるって環境が初めてだったし、もともとぼんやりした性格だったから、わんぱくな子や、押しの強い子、おしゃべりな子と会うと、圧倒されてしまうんだ。
もうできあがっている人間関係に入る度胸もなかった。
頑張って隣の子と話せても、周りの子たちが二人、三人と加わって、会話がキャッチボールみたいにあっちへ飛んだりこっちへ投げられたりし始めると、うまくボールを追いかけられなくなって、みんなが楽しそうにやりとりしてる横でぼんやりしてしまう。
そんなときに急に話しかけられたら、緊張して声が震えて、ちゃんと話せなかったり。
そしたらすごく恥ずかしくて、真っ赤になってしまう。自分が真っ赤になってしまうこと自体がまた恥ずかしい。
次第に、人のなかにいることそのものが面はゆくなって、そうっと離れたところにいるようになった。
その日も、俺は一人で帰ろうとしていた。傘立てをのぞいて、憶えのある場所に俺の傘がないことに気付いた。昇降口の外は雨がびしょびしょ降っていて、春も終わりに近いとは言え、濡れれば寒そうだった。
にぎやかな声に目を向けると、やんちゃな上級生の一団がいた。中の一人がさしている青い傘が俺のだったから、俺は立ちすくんでしまった。
似てる傘かな、と思ったけど、でも柄の下で、母さんが付けてくれた小さな名札が揺れていた。
――ぼくの傘。
思わず上げそうになった声は、のどでとまった。その子たちは五年生で、一年生の俺から見ると大人くらいに大きく見えた。傘を間違えたのかなあ、と、そのときの俺は思った。だったら言わなくっちゃ。
でも身体が大きくい彼の、太い笑い声を聞くだけで――いまなら言えるけど、国民的某アニメに出てくる、歌が下手なガキ大将に似ていた――、話しかける勇気が湧いてこなかった。
濡れて帰るしかない。気の弱い俺は、瞬時にあきらめようとした。
だけど、俺の横から歩み出した人がいた。しゃっきり背筋が伸びた男の子で、俺より二つか三つ、年上に見えた。実際は一歳違いだったけど、物怖じしない態度でそういうふうに見えたんだ。
男の子は、清潔な横顔できっぱりと、傘の子に告げた。
「それは俺の友達の傘だ。返せ」
五年生はムッとしたように彼を見返った。
「なんだよ」
「その名札」
声は雨音に負けないくらい強かったけど、澄んでいた。冷たい響きは、もうそのころからあったように思う。
「読んでみろよ」
「おまえ、なんなんだよ」
五年生は顔を赤くして何か言い返そうとした。男の子が殴られるのかと思って、俺は気が付いたら小走りに駆け寄って、口ごもりながら訴えていた。
「あの、あの、傘、間違えたんですよね?」
「はあ? 今度は何だよ」
歌の下手なガキ大将に似た彼は顔をしかめたけど、グループの友人たちが大笑いし始めたので、気勢を削がれたようだった。
「そうだよ、間違えたんだ」
言い捨てて、傘を投げるように男の子に渡す。そうして、友人の傘に入って、水たまりを跳ね上げながら雨の中に飛び出していった。傘は真っ直ぐに俺の手に戻された。
「傘を抜くところを、見ていたから」
男の子は、目も合せずに事務的に説明した。
「言うべきことは言わないと、押し負けるよ。……だけど、間違えたんだろう、というフォローはよかった。ウソも方便だね」
「……えっ」
俺はびっくりして男の子を見つめた。
「だって……わざと持ってく人は、いないでしょう?」
「え?」
「きっと、傘が似てたんですね」
男の子は馬鹿を見るような目で俺を見た。そして、「そうかもしれないな」と無愛想に言った。言った後、少し笑った気がした。
気のせいだったかもしれないけど。
それが冬志さんだった。
しばらくして冬志さんとは、阿東男爵の家の園遊会で再会した。
第一ボタンまできちんととめた冬志さんは、母さんの陰にいる俺を見て、「あ」と口を開けた。
それから、我に返ったように挨拶してくれた。
真面目に「こんにちは」と言った声が、とても澄んでいた。
やがて家にも来るようになった。冬志さんの家は少し遠かったけど、冬志さんのおうちには自家用車が三台あって、運転手さんに言えば連れてきてくれるそうだった。
冬志さんは並んでブランコに座って、ハナミズキを見上げて言った。
「ハナミズキは、あの白い花に見えるものは、実は花じゃないんだ。真ん中の黄色いもしゃもしゃしたところが本当の花だ。実や葉に毒があって、体質によっては、さわるとかぶれることがあるから、ここにいるときは気をつけたほうがいい」
なんて物知りなんだろう、と尊敬したことを憶えている。……。
――話し終えて、俺は溜息をついた。
「……それがきっかけで、冬志さんとは友達になったんです。別につきまとわれてるとかじゃ……」
「……知らなかったな……」
瑞希兄さんが眉をひそめる。なぜか不機嫌になってる気がした。
「僕が高等部に入って、この家にお邪魔するようになってからは、厳原くんの話は聞いたことがないね。どうして?」
「……それは……」
以前は俺もわからなかった。でもいまは違う。
俺はちょっと苦笑した。
「……冬志さんには、俺を嫌いになるだけの理由があったんです……」
それがわかったのは、前世の記憶が戻ったからだ。冬志さんは階級社会に傷ついてて、俺はそんなことにも気が付いてあげられてなかった。きっとそのせいで、冬志さんに不愉快な思いをさせたんだ。優しい冬志さんに、あんなに冷たい顔をさせてしまうほど……。
「……かおちゃん……?」
「……あ、ごめんなさい……」
鼻がツンとして、涙がにじんだ。みっともなくて、うつむいて鼻をすする。
「……ちょっと、寒いですね、木陰だから」
久しぶりに、小さいころの夢を見たせいもあるかもしれない。
あのころは悲しくて泣いたけど、涙が出るのは何年ぶりだろう。
「かおちゃん……」
優しい指を髪に感じた。兄さんが指を伸ばして、俺の頭を撫でてくれる――俺が泣いてるの、瑞希兄さんにはバレてるのかもしれない。恥ずかしくて、俺は目尻を拭おうとして、その時――全身に、どしんと衝撃が落ちてきた。
一枚絵の画像が頭に広がった。
花盛りのハナミズキの下で、ブランコに座り、見つめ合う二人。
ヒロイン目線なので、ヒロインの姿はなく、ほほえむ瑞希兄さんだけが花に彩られている……。
センチメンタルは全部吹き飛んだ。身動きできない。頭を殴られたようだった。俺は呆然と瑞希兄さんを見上げていた。
スチル絵だ。
春花瑞希――この人は、《はなこい》の登場人物の一人だ。
いや、それどころじゃない。
花婿候補だ。