1-4.さいは投げられる
「ワシら死神には、鉄則がある」
狩野さんの声が低くなった。
「前世の記憶がある者に逢ったら、記憶を消さねばならん。ことに、世界のシナリオの記憶がある者――お主のようにじゃな――は決して見逃してはならんのじゃ。
前世の記憶を持つ子どもがたまにおるが、大きくなるにつれて忘れてしまうじゃろ。あれはワシらが消しておるからなのじゃ。すなわちワシは、今日、お主の前世の記憶を消さねばならん。実際そのつもりで来たのじゃ。
……じゃがこのようなことになってしもうた。助けてやりたいが、ワシにはできん。なぜなら死神が人間の定められた運命に介入するのは禁則事項。見逃してやるのもバレたらおおごとじゃ」
「は……はい……」
「じゃが、この状態はワシの責任じゃ。一度の失敗を隠蔽しようとしたばっかりに、お主を巻き込んでしもうたこと、まことに慚愧の念に耐えない。この狩野のプライドが許さんわい。うぬぬ」
ギリギリ、と狩野さんは歯を噛みしめた。
一瞬、あどけない子どもの姿の上に、正体であるところのキツネがうっすらブレて見えた。目をこすったらすぐに元に戻ったけど……狩野さん、よっぽど悔しいんだな。
「そこでじゃ、春花薫。ワシは、お主が前世について思い出したことを、今日は知らなかったことにする。お主はその記憶を使って、望むとおりの未来を手に入れよ!」
ばーん!!
と、効果音が聞こえそうな勢いで、狩野さんはかっこよく俺を指さした。
俺のほうは、目をぱちくりさせることしかできない。
「……え?」
の……望むとおりの……未来……?
「そうじゃ。よいか、お主は現世のシナリオを知っておるのじゃぞ。言わばチートキャラじゃ。
先ほども言ったとおり、ワシら死神はお主らの運命に手を出してはならん。じゃが、本人なら話が変る。人間が自分の運命を変えることは、神によって推奨されておる。恐れるな。フラグをへし折り、折って折って折りまくって、花婿候補たちを撃退し、お主の理想の運命を作り上げよ!」
今や狩野さんは立ち上がって、かっこよく両手を広げていた。
俺はひたすら身動きできずに、ぽかんと口を開けて見上げる。
――理想の、未来……?
「そうじゃ。あるじゃろ、石油王になりたいとか、IT長者になりたいとか。ついでにかなえてしまえ」
「え……あいてぃ……?」
「こっちにはなかったか。まあよい。ともかくお主にも夢があるじゃろ?」
「夢……」
俺は考え込んだ。
夢……あるかな?
「俺は……春花家を守りたい……とは思ってます……けど……」
考えたこともなかった。それって、夢なのかな?
俺にとって、春花家を守りたいっていうのは、当たり前の責任みたいなものだ。改めて考えたことなんてなかった。
「俺の夢って、なんなんでしょう……?」
思わず言葉がこぼれた。言ったあとでハッとして見上げると、狩野さんは呆れ顔をしている。
「ワシは知らんぞ」
「で、ですよね……変なこと聞いてしまってごめんなさい」
「ともかく、ワシもできる限りのぞきに来てやるし、何なら呼び出してくれてもいいぞ。来るのが無理なこともあるじゃろうが……呼びだし方はこちらのマニュアルに書いてある」
どこから取り出したのか、狩野さんはいかにも官公庁って感じの無骨なパンフレットを掲げた。
表紙に「誰でもわかる 初めての死神課」と太いフォントで書かれて、ドクロマークがにこやかに手を振っているイラストが入っている。
俺はパンフを握りしめて、相当おぼつかない顔をしたにちがいない。
自分の運命を、自分で変える。俺にそんなことできるだろうか。
俺はどうなりたいんだろう。
確かに、俺が頑張らなきゃいけないんだけど。だって、自分のことなんだから。
でも俺にできるだろうか……?
「ええい、まだるっこしい!! さあ、しっかりせい!」
ぱん、と肩を押されると同時に、
「しっかりなさい、薫!」
パシッと大きな音がした。
目の前で猫だましが炸裂したと気付くと同時に、俺はソファのスプリングをきしませて跳ね起きた。
「……はっ!?」
ここは……!?
「薫さん? 魂が抜けたようになっていましたよ」
心配そうに眉をくもらせた母さんと、猫だましの手をした父さんが俺をのぞき込んでいた。
も……戻った?
俺は居間のソファに倒れ込んでいたらしい。キョロキョロしたけれど、いつもの古びてはいるけど居心地のいい我が家の居間だ。花畑もないし、ましてやキツネも、小麦色の髪の男の子もいない。
「……あれ……?」
「大丈夫かい、薫。失神してたんだよ。よほど驚いたんだね」
――夢だった……んだろうか。
ふらふら起き上がる。
そうだ、パンフレット。狩野さんがくれたパンフは!?
見下ろすと、俺の手の中は空っぽだった。
夢だった、と一瞬思いかけたとき、お尻の下に違和感を感じた。腰を浮かせてみる。紺のスラックスの下の、にこやかなドクロのイラストと目が合った。
「……!」
心臓がどきんと打った。死神のパンフレットだ……。
ってことは……!
「どうなさったの薫さん……?」
びくっとして、俺は顔を上げた。
母さんと父さんが心配そうに俺を見つめている。
なんだろう、不思議な気持ちだ。
前世の家族のことはほぼ思い出せない。狩野さんから説明を聞いてみて、家族構成なんかはうっすら浮かんだけど、顔なんかは出てこなかった。
だから、今の両親への情が変化したわけじゃないんだけど……。
でも、お世話になったな……という感慨がしみじみと……。
俺は膝の上に手を揃えて、ぺこんとした。
「……今まで育てていただいて、ありがとうございます……」
「ど……どうしたんだい、薫、まだ具合が……?」
「まあ、結婚の挨拶? 失神するほど嬉しかったんですわね」
母さんが頬を染めた。
「喜んでもらえて嬉しいですわ。私もいいお話だと思いましたのよ。あなたと冬志さん、子どもの頃はとても仲がよかったですものね。年齢の釣り合いもちょうどいいし……そんなに気に入ったなら、さっそく厳原様にお返事して……」
「ち、ち、違います、ごめんなさい違います!」
慌てて俺は立ち上がった。
危ない。母さんのマイペースが発動してる。
やっぱり母さんは冬志さんとの縁談に大乗り気なんだ。
俺にノーの選択肢を与えるつもりはない――というより、母さんの天真爛漫な性格上、俺が冬志さんと結婚したくない可能性に気が付いてない、と言うか……。
母さんに悪気はない。
でもつねに、何かの考えに夢中になると、他のことに目がいかなくなってしまうんだ。
このままじゃ、ほんとに冬志さんと結婚することになってしまう――!
狩野さんは、俺に自力で何とかしろって言ったけど、こんな急に名案なんか出てこないよ!
「……と、父さんは、どうお考えですか」
「そうだね……」
せめて時間を稼ごう。
父さんは眉間にしわを寄せて、じっくりと熟考した。それから母さんをなだめるように背中をやさしくたたいた。
「桜、落ち着きなさい。薫に嫌な縁談を受けさせるつもりはないよ。心から愛した人と結ばれてほしい。……私のようにね」
「まあ、あなた……」
まるで少女のように、母さんは顔を赤らめた。
母さんはいつまでも若々しい。ふわふわの長い髪と、あどけない身振り、明るい色のワンピースが自然に似合う人だ。それでついみんなが甘くなって、この無邪気で突っ走り気味な性格がなおらないままなんだけど。ちなみに、そんな母さんに振り回されてきたせいか、俺は見た目は母さん似、中身は父さんの心配性を受け継いでいると言われる。
「うふふ、私だって、もちろんそう願ってますわ」
「だが薫、どうなんだい。君は気が進んでいないように見えるんだが」
「まあ、そんなことありませんわ。結婚したいですわよね、薫さん?」
「いやいや、本当に結婚したいのかい、薫? 嫌なら嫌と言いなさい」
「もう、薫さん、照れてるだけですわよね?」
「さあ、薫。本当は嫌なんじゃないのかい」
楽天家の母さんと、心配性の父さん。
二人が詰め寄ってくる。
時間を稼ぐ策は失敗だった。
ふたりをなだめるために精一杯ほほえんだけど、自分でも、くちびるの端が強ばってるのがわかった。
「し……しっかり考えたいので……時間をください……」
「ああ……それもそうだね。私としたことが、急かせてしまって悪かったね、薫」
「でも……」
戸惑い気味の母さんを、父さんがなだめてくれる。俺はその間に、急いで死神パンフを胸に抱きしめて、居間から逃亡しようと立ち上がった。お皿の上のマドレーヌ、結局食べられなかったな。でも今はお菓子につられてる場合じゃない。まず逃げないと……。
すぐに「嫌です」と言えなかったのにはわけがあった。
(ほ、本音を言うなら……断ってもらうしかないんだけど……)
でも、なにかが引っかかるんだ。
ひとつには、俺にだって春花家の息子としての覚悟がある。
正式な跡取りになれない男の俺と、身体が弱くて俺一人しか産めなかった母さん。親族の風当たりは強かった。
でも両親とも、俺に対して、「女だったら……」なんてことは一言も言わなかった。
心から可愛がられてきたと、素直に思える。そんな両親のためにも、ちゃんと家を守りたい。
しきたりとして「仮婿」をとらなければいけないなら、俺の戸惑いなんて飲み込んで、素直に従うしかないんじゃないだろうか。
そんな想いが拭えない。
そしてもうひとつ。
ゲームでのかおるは、こう答える。
――私には、お慕いしている殿方がおります。厳原さまとは結婚できませんわ。
実は、両親を納得させるための嘘だったんだけど……。
いま断わったら、ヒロインと同じ返事をすることになる。
だけど、それじゃあ、ゲームと同じシナリオをなぞってることになるんだ。本当にそれでいいんだろうか。
(……そもそも、冬志さんだって、俺と結婚したいわけないのに……。その上、このまま行ったら、冬志さんは俺の誕生パーティで糾弾されて恥をかかされるキャラクターなんだよな。そんなの絶対嫌だよね……)
俺は溜息をつきながら、居間の黒光りするドアノブに手をかけようとした。
そのときだ。
天啓のように、名案が落ちてきたんだ。
俺はドアを背にして振り返った。居間の中央のソファで、母さんはやっと納得したように紅茶のカップを手に取ったところだった。
どうかな、本当にこれでいいのかな?
わからないけど……でも、これしかない、って気がする。
最後に素早く考えて、俺は、パンフに回した指先に、ぎゅっと力を込めた。
「あの……母さん、父さん」
「まあ、なあに、薫さん?」
深呼吸。声を励ました。
「……やっぱり、お受けします」
ちょっとの間、両親は目をぱちくりさせていた。
それから、母さんの顔が輝き、父さんが眉を持ち上げた。
俺はもう一度、言葉を重ねた。
「結婚します。冬志さんと」
俺の声は震えていた。
これは、賭けだ。
だって、俺は知ってる。
冬志さんは、本心では俺と結婚したくないはずなんだ。
なぜなら、冬志さんは、三年前から俺を嫌っているからだ。
そして、そこに、俺の狙い目があった。