1-2.全然前世と死神の失敗
俺は、狩野さんの、黄金に輝く瞳を呆然と見つめていた。
「お主がいま暮している世界は、前の世界から見ると、いわゆる異世界、というやつじゃ。あっちとこっちは、パラレルワールドなんじゃ」
とんでもないことを、さっきまでキツネだった少年が軽やかに宣言する。
俺、何を見てるんだろう。
(もしかして……夢かな)
だって、さっきまでは普通の一日だったんだ。
今日は修陵院学園高等部の入学式だった。ほんの一時間か二時間前には、俺は新入生の席に、ぴかぴかの制服で並んでた。
学生会長挨拶では瑞希兄さんが優しい笑顔で壇上に立った。温かい挨拶に構内は華やいだ。目が合ったとき、合図するみたいに笑ってくれた気がして、何だかこっそり嬉しかった。
そのあとに、二年首席挨拶で冬志さんが登場した。無表情にさえ見える端正な目鼻立ちと、冷たい淡々とした事務的な定型挨拶に、今度は打って変わって構内は水を打ったように静まりかえった。思わず俺も気持ちがしずむのを感じたんだけど……でもそれだって、いつものことだ。
なんてことない春の日。
穏やかに、静かに暮れていくと思ってた。いや、はっきりそう思ってたわけじゃないんだけど、こうなってみると、何となくそんなふうに信じてたんだなって気が付く。
まさかそのあとで冬志さんとの縁談を持ち出され、一瞬にして森の中の花畑に移動して、ここがゲームの世界かもしれないなんて記憶が蘇ってくるなんて……。
こんなのほんとのわけがないよ。
あるにしても俺みたいなタイプの身に起きることじゃない。こういうのはもっと、何て言うか、冒険向きの人に起きるんじゃないだろうか。自分に自信があって、前向きで、明るくて、勇気がある、みたいな。男でも女の子でも、特殊な事件にあうのはそういう人だ。
俺なんて、特に才能もないし。小心者だし。人見知りだし。
地味に、目立たず、安心して生きてたい。それだけなんだ。
(だから、夢だ)
俺は瞳を閉じた。
この目をまた開いたら、男の子は消えてる。花畑も消えてるし、なんなら縁談も消えてる。俺は部屋にいて、高等部初日で疲れてうたたねしてる……きっとそうなんだ……。
「お主はあっちの世界では普通の男子高校生じゃった。ほんと、一山いくらって感じの平凡な存在じゃ。……今とあまり変らんのじゃないか?」
なぜか自然に罵られてるけど、これも夢だよ。
えーと何て言うんだっけ、俺の深層意識……みたいな……。
「……ん? お主、現実逃避しとらんか?」
顔の前でそんな声がして、俺は反射的にまぶたを持ち上げた。持ち上げてしまった。
俺はメルヘンなお花畑で、キツネ耳が生えたスーツの男の子と見つめ合っていた。
その金色の瞳は、あまりにも力強かった。一瞬で理解させられるくらいに。
(……夢じゃ……ない)
頭が真っ白だ。
変な汗が出てくる。ぶるぶる震える手を口に当てたけど、くちびるから漏れてくるのは言葉にならない言葉だけだ。
「あ、あ、あ、あわわわわわ……」
「落ち着けぃ」
後頭部をぺしんとされると、それで叩き出されるように、かすれた声がまろびでた。
「……俺……たしか、事故に……あった……? トラック……」
思いもかけない言葉だった。
でもそれをきっかけに、映像が頭の中でフラッシュバックした。
見えるのは、大きなトラックの正面だ。俺に迫ってくる。轟音と地鳴り。身体が凍り付いたように動かない、全てがスローモーションのように動いている……。
目の前がちかちかして首を横に振ると、狩野さんは重々しくうなずいた。
「そうじゃ。……狩野の手違いじゃった」
「あ……その言葉も聞いたことあります、俺……狩野さんに、前……同じこと言われた……?」
「うむ! まことにあいすまなんだじゃ!」
おごそかに狩野さんは野草のあいだに膝と手を突いた。
ホットケーキ色の頭が下がる。土下座だ。
――めちゃめちゃ謝られてる? どうして?
意味がわからなかったけど、俺は思わず見とれてしまった。あんまり土下座というものに詳しくはないけど、狩野さんの土下座は、土下座の教科書に載せてもいいくらい堂に入っていた。所作が綺麗なので、謝ってるわりに堂々として見える。何だかそのポーズも俺の記憶に引っかかった。
ああ――……そうだ。
前の人生の最後、俺は遅刻しかけで、トーストした食パンをくわえて走っていた。
角から飛び出したところで轟音に気がつき、振り向いたら、とても大きなタイヤ――俺より大きく見えた――トラックのタイヤが、土煙を立てながら猛スピードで迫ってきたんだ。それが3トントラックのものだと気付く前に、俺の視界は真っ暗になった。
次の瞬間のことは記憶にない。
ともかく、またたきしてまぶたを開けたら、俺はこの花畑に座っていて、目の前でこの人(キツネ?)が土下座していた。
そして言った。
――ワシは死神じゃ。お主が死んだのはワシの手違いじゃ。どうかこのことは神様には内密にしてくれぃ……!
「……そうでした……!」
俺はぐらぐらする頭を抱えた。
「……だから、狩野さんに見覚えがあったんだ……!」
「おまえの前世は、あと七十二年五十九日二十三時間の残余時間があったんじゃ。本来、亡くなるのは同じ町内の、三歳の男の子のはずじゃった……」
狩野さんも花の間から身を起こして、正座したまま、頭痛がするようにこめかみをおさえた。
「狩野がうっかりじゃった……。狩野の初めての一人での仕事じゃったのじゃ」
「初めて?」
「十六年前、ワシは死神課に配属されたばかりの新人じゃった。緊張していたワシは、早く仕事を終えようと、ターゲットと名前が同じ別人を召してしまったのじゃ……それが前世のおまえじゃった。同じ町内に、たまたま同姓同名が住んでいるなんて、誰が思う? あっ、言うておくが、勘違いするなよ、ワシは無能なわけではないぞ。成績は同期の中ではトップじゃ。この件だけ、ミスしてしまったんじゃ」
ハッとしたように狩野さんは早口で付け加えた。別に狩野さんを無能なんて考えてなかったけど、俺は気圧されてこくこくとうなずいた。
ふと疑問が浮かぶ。
「あの……その男の子はどうしてるんでしょうか」
「憶えておらんのか?」
「え?」
「あのとき、お主の身体は大破してしもうてな。とりあえず生き返らせるのは無理じゃった。すると、お主が言うたのじゃ。『どうせ自分はもう死んだんだし、自分のぶんの寿命はその子にやってくれ』とな。確かにそれなら神様にごまかしがきくから……じゃない、おまえの善意に感動したから、寿命をそっちに付け替えてやったわい。元気にすくすく育って,今年は大学生になるようじゃ」
「そ……そうですか……せめて誰かの役に立ったんなら、まあよかった……のかな?」
俺はちょっとホッとした。
そりゃ俺だって若くして死ぬのは嫌だけど、それでもたった三つの男の子が死ぬのはかわいそうだし。俺の寿命がせめてむだにならず役立ってると聞くと嬉しい。
「……思い出せないんですが、俺の家族は……?」
「憶えておらんか。お主は、七人というなかなかの大家族の子じゃったんじゃ。五人兄弟の真ん中でな。上から数えても下から数えてもきっちり三番目、典型的な中間子じゃった。あのときお主から頼まれたので、ワシができるだけ目を配っておる。みな病気ひとつせず元気じゃぞい」
狩野さんは小さな肩を落した。
「……お前の件はワシの黒歴史じゃ。今でも、大型トラックは『お迎え』に使わんようにしとるんじゃ」
「す……すみません……」
こんな小さな子にしょんぼりされると、なんだか俺のほうが申し訳ない気がして、思わず俺は頭を下げた。
なんだか前世の俺自身の記憶は、「すごく昔に見た映画の断片的な記憶」って感じなので、あまりそのこと自体はショックでもないし……。
「……だから気にしないでください」
励ました俺に、狩野さんは目をすがめるように細くした。
「励ましてもらえるのはありがたいが……お主……お人好しじゃろう。ワシが相手だからいいようなものの、相手に悪意があればつけ込まれるぞ。気をつけろ」
「え……すみません」
「大体トロい。のんびりしすぎじゃ」
何故また怒られてるんだろう……。
「話を進めるぞ。お前をお迎えしてしもうた当時、ワシは、ミスが立て込んでおってな。次やらかしたら異動の希望がかないそうになかったから、なんとかごまかそうと……ごほん、いやいや、なんとかしてせいいっぱいの誠意でお詫びさせていただこうと考えたのじゃ。そこで、おまえに希望の世界への転生を申し出た。その結果、おまえはここに生まれ変わったのじゃ」
「……ということは……えっ、俺、ここに生まれたいって頼んだんですか?」
俺、このゲームがそんなに好きだったのかな? あんまり記憶にないけど……こういういわゆる「乙女ゲーム」って、女性向けじゃなかっただろうか?
でも狩野さんは首を横に振った。
「違う。おまえが望んだのは、〈前世でプレイしてたゲームのような世界に生まれ変わること〉じゃった。中でも、大人気RPGゲーム、『ドラゴニック・ラグナローク』のような剣と魔法の世界で、主人公チームの一員になり、世界を相手に戦う大冒険をしてみたいと」
「それは……乙女ゲームの世界とはだいぶ違うような……?」
うっすらした記憶をかき寄せて、俺は小首を傾げた。
「うむ。じゃが、狩野の担当してる範囲には、『ドララグ』はなかった」
「じゃあ、どこかに『ドララグ』の世界もあるんですか?」
「あるぞ。じゃが、死亡率が高くて忙しいわりに、黒魔術で死神を攻撃してくる住人も多くて危険でな。ベテランしか配属されんのじゃ」
「だ、だいぶ物騒なんですね……」
「そこで、『ドラゴニック・ラグナローク』は無理ということで、ワシはおまえの記憶を調べてみたのじゃ。他にプレイしてたゲームは何か、調べるためにな。すると、この『花開く帝都の夢恋』があった。ここなら狩野の担当区域なので、少し無理が利く。じゃからおまえはこっちに転生することになったのじゃ」
「じゃあ俺、このゲームをしてたんですね」
「ワシの調査に感謝せい」
狩野さんは誇らしげにスーツの胸を張った。そう言われてみたら、スマホ――ってなんだろう――の画面に映るゲーム画面を憶えてる気がする。俺はうなずきかけて、
――でも、待てよ。
何かが引っかかった。俺は腕組みして首を傾げた。
「……あれ……? 確かに憶えてはいますけど、でも……」
記憶の中のゲーム画面と俺の間に、もうひとつ頭が見える……。これは……。記憶の中に、ほかに誰かいる……?
「……プレイしてたのは〈姉ちゃんたち〉だったような……?」
口にしたら確信になった。
そうだ。
前世の俺には姉と妹がいた。っていうか、俺は姉妹のまんなかにポツンと混ざった男で、姉と妹に挟まれていた。姉妹たちが乙女ゲームをプレイしていたんだ。お互い情報を交換しあって、俺はそれを横で聞くともなしに聞いていた……気がする。
俺は思わず狩野さんを見つめた。狩野さんの金色の目も俺を見つめていた。人(キツネ?)が青くなるのを、俺は生まれて初めて見た。
「俺……このゲーム……してないです……」
狩野さんは瞑目して天を仰いだ。かすかなつぶやきが漏れる。
「……マジかー……」
「……はい……」
俺も力が抜けてうなだれた。
俺……よく知らないうちに死んで、よく知らない世界に転生しちゃったのか……。
「……すまん……」
「いえ、もう……今ではこの世界に慣れてますし……悪気じゃないのもわかってますから……。それにドララグの世界に行っても、一日で死んでたかもしれないので……この平和な世界のほうが俺には向いてる気がしますから……」
できるだけ、俺は微笑んだ。
ショックで脱力してるのはほんとだけど、そう言ったのもウソじゃなかった。
俺は、両親も俺の家も、生まれてからずっと住んでる俺の町も、結構好きだ。
ドララグの世界に転生しても、一村人としてすぐにゴブリンなどに殺され、村を焼かれて、勇者が旅立つきっかけとして終了してたような気がする。これだけ生き延びられたことを思えば、結果オーライと言えるんじゃないだろうか。
「そ……そう言ってくれるか……」
狩野さんはちんまりとうなだれて涙を拭いている。その姿を見ていると、この人(キツネ?)、悪い人じゃないな、とも思った。まあ、ちょっとせっかちだけど。
「その上、ワシはお主の記憶も消しきれておらず……そのためにお主の運命がどうなるか、この十六年はハラハラし通しじゃった」
「……記憶を消す……?」
「うむ」
狩野さんはうなずいて、
「ワシらは、魂省の寿命スケジュールに従って、寿命を迎えた魂をあの世に召すのが仕事じゃ。『あの世』へ行った魂は、しばらくリフレッシュ休暇をとる。『あの世』は有名な観光スポットやリゾート地があるから、そこでのんびりしてもいいし、人によっては、お別れのために、ご家族や恋人に会いに行ったりする。
そんなふうにしばらく休憩していると、記憶が乾燥してくるのじゃ。
カピカピになって、垢が浮いてくるみたいに魂から剥がれて浮いてくる。そしたら頃合いじゃ。洗浄機に入って、記憶を洗い落とし、すっかりピカピカの魂になって、次の世界に行くことになっておる……じゃから、みんな前世のことを憶えておらんのじゃ。
たまに転生前のことを話す者がおるが、あれなどは、担当した死神が、まだ充分乾燥しておらんのに慌てて洗浄機に入れてしまったか、洗浄が足りなかった場合じゃ」
「そういうものなんですか」
感心して相槌を打つと、狩野さんは後ろめたそうに指先をもじもじさせた。
「お主の場合は、ワシのせいじゃ。ワシは急いでおった……なんとか転生の段取りをつけ、バレる前に、いやいやできるだけ早くお主の希望をかなえてやろうと、急いで乾燥させて洗浄した。それが悪かった……。記憶の乾燥も、洗浄も不充分で……じゃからお主の記憶は断片的に残っていて、いずれはっきりと思い出すことは予想が付いておった。ワシはちょくちょくお主のようすを見に来て、その時に備えておったのじゃ」
「ああ……だから今、こうやってすぐにいらっしゃったんですね」
聞きながら、俺は首を傾げた。
どうして狩野さんは、まだこんなに後ろめたそうにしてるんだろう。
うっかり殺されちゃったことは、すでに謝ってもらった過去の話だし、転生先が乙女ゲームだったことも、まあ平和って意味ではかまわないし。
それにしても、俺、この世界でどんな役なんだろう?
モブかな?
ヒロインのクラスのCGで、後ろに顔もなく映ってるような感じかな?
まさか、ヒロインの攻略相手だったりして?
だったらちょっと照れくさいけど……いや、でも俺なんてモブAだよね。
そんなことを考えながら、俺は何とか、うすぼんやりして混乱した記憶を整頓していた。
まだはっきり思い出せないけど、《はなこい》は、ちょっとレトロな時代の帝都・東亰を舞台にした乙女ゲームだ。
時代は太正。
俺が憶えている以前の世界とはちょっと歴史が違うらしい。ほのぼのとした春のような好況のもと、東亰は平和と繁栄を謳歌している。
そんななか、ヒロインは、華族・春花家の跡取りとして生まれた。
その名は、「春花かおる」……。
「……あれ?」
つらつら考えてみて、改めて俺は気が付いた。
ヒロインの名前は、春花かおる。
俺の名前は、春花薫。
「……名前が同じですね。なんだか俺、この世界のヒロインみたいです」
あまりの共通点に俺は笑ってしまった。
なぜか狩野さんは得意そうなきらきらした目で俺を見ている。
ここで会ってから初めての嬉しそうな顔だ。
……ん?
「『みたい』ではないぞ」
「え?」
「そのものじゃ。おまえがこの世界のヒロインなのじゃ」