第二章 その4
トイレには誰もいなかった。二つある個室の奥の方に入り、扉を閉める。そして用を足すでもなく、しばらくの間、ただじっと佇んた。
僕の中ではまだ〈結婚〉の話に〈親〉がうまく馴染まない。それどころか〈親〉は、圧倒的な異物感でもって、僕を嫌悪させる。
今まで〈親〉に嫌悪感を抱いたことなんてなかった。邪魔だとか、疎ましいとか、そんなふうに感じたこともない。僕は〈親〉に対して、どのような感情も持ってはいなかった。
おそらく親の方も、僕に対してなんの感情も持っていないはずだ。十四年間離れて暮らし、一切関わり合うことなく過ごしてきたのだから。
今さら結婚式に出席してくれなんて、言えるわけがない。むこうだって出る気なんかないだろうし、そんな招待を受けても迷惑するに決まっている。
呼びたくないけど、呼ばなきゃいけない──さくらはそう言った。
ひょっとすると、彼女は映画やドラマにある様な、親密な親子関係に憧れているのだろうか。確かに世の中には、虚構を地でいく親子もいることと思う。様々な親子のかたちがあるのは知っている。マザコンやファザコンと呼ばれる人たちがいることも、子供を愛玩動物のように可愛がりながら育てる親がいることも。
でもそんなのは普通じゃない。八木さんの結婚式がどれだけ感動的だったか知らないけれど、それは八木さん親子が元々特別な関係にあったからであって、僕とさくらが両親を呼んで同じ様になるとは思えない。
僕は普通の人間だし、彼女もそうだ。ドラマのような親子の馴れ合いを演じるなんてことは、僕たちには無理だ。素でそんなこと、できっこない。そんなことができるのは、普通でない(それを理想的と呼ぶ人がいるかもしれないけれど)、ごく限られた特殊な親子だけだ。
五分ほどで個室を出た。しかし、まださくらと向き合う準備ができていない。洗面台の前で、またしばらく佇む。
僕は彼女にどうにか反論しようとしている。結婚式に〈親〉を呼ぼうという提案に。
ところが、なぜ反対なのかが自分でもよくわからない。なぜ嫌なのかが説明できない。だから理論武装のしようがない。今戻ったところで論陣を張れるとは思えない。
「デンちゃん。結婚式には、両親を呼ぶべきなのかな」
「PON! 結婚式に両親を呼ぶ人、24・2%。片親だけを呼ぶ人、6・6%。両家の両親がそろう割合、18・3%」
「ふうん。思ったより多いな」
「結婚するの? おめでとう!」
「いや、まだそんな……」
扉が開いて、学生風の男がごく小音の口笛を吹きながら入ってきた。入れ違いで、僕はトイレをあとにする。
細い通路からホールに出ると、さくらがこちらへ歩いて来る姿が目に入った。すぐに目が合い、僕は気まずさを感じる。彼女は少し目を伏せただけで、表情も歩く速度も変わらない。
すれ違う時に何か一声かけるべきだろうと頭をフル回転させるものの、何も言葉が浮かばない。そして、そのまま僕たちは、他人のようにすれ違った。
席に戻ると、窓の外を眺めながら、憂鬱な気分でさくらを待った。遮音ガラスの向こう側を、音もなく車が行き交う。夕日の残光が消え入り、街灯の明かりが存在感を増していく。窓にぼんやり映っていた店内が、くっきりとした像を結ぶ。
僕はガラス越しに、通路を挟んだ隣の家族連れに焦点を合わせた。
中学生と思しきお姉ちゃんは、ソファに浅く腰掛け、携帯端末のプロジェクタから浮かび上がる画面を見ながら、右手親指をこね繰りまわしている。左手にフォークを握り立てているけれど、先端には何も刺さっていない。
その横では小学生の弟が、リンボーダンスさながらの体勢でソファに沈み込み、携帯ゲーム機から飛び出した小さなホログラムの男たちを闘わせている。目の前のハンバーグから立ちのぼる湯気が薄らいでいくのに気を留める様子もない。
その向かいでは父親が、憮然とした顔で黙々と食べ物を口に運び、咀嚼にいそしんでいる。
母親は子供たちに何か言おうとしたものの、結局は何も言わず、疲れた表情で自分の食事に戻った。
陰気な家族だった。
さくらが席に戻っても会話はなかった。傍から見れば、さぞかし陰気なカップルだろうと思った。
「ハルくんのおじいちゃんとおばあちゃんて、元気なの?」
しばらくしてさくらが口を開いた。さっきの話の続きでなくてほっとした。
「四人とももういない。最後の一人が死んだのが、六年生の時。あとの三人については顔も名前も知らない。たぶん、僕が生まれた時にはもういなかったんじゃないかな」
「最後の一人って、おじいちゃん? おばあちゃん?」
「おばあちゃん」
「何か思い出とかある?」
「電車で三十分くらいの所に住んでて、盆と正月以外にも、ちょくちょく遊びに行ってた」
「何しゃべったか憶えてる?」
「う~ん……、ずーっとDSやってたからなあ……。くれたんだよ、おばあちゃんが。小学校の入学祝いに。う~ん……、DSやってた記憶しかないなあ」
「私も持ってた、DS。二画面のやつでしょ?」
「そうそう、ペン使って、絵とか文字とか書くやつ」
「私、実家の引き出しにまだあったよ」
「まだ使えた?」
「さあ、やってないからわかんない。ねぇ、知ってる? ポケモンて、私たちが生まれる前からあるんだよ」
「そんなこといったら、マリオなんて、ずーっと、ずうーっと前だよ」
「えっ、マリオってポケモンより古いの? ふ~ん……」
白々しい会話はここでぷつりと途切れた。お互い空元気なのが辛いほどわかって、これ以上はとても続けられなかった。
隣の家族連れが席を立ち、のろのろと引き上げて行く。男の子だけはしばらく残って、さっきと同じリンボーダンスの体勢でゲームを続けていたけれど、やがて気だるそうに立ち上がると、レジの方へふらふら歩いて行った。あとには食品サンプルのようなハンバーグが残されていた。
さくらは、テーブルの上でかるく握った両こぶしを、見るともなしに見続けている。
僕はグラスを手にとって、一口分の量しかないワインを半分残して飲んだ。デキャンタに移してからちょうど一時間経つけれど、一口めの方が遥かに美味しかった。
ふと気付くと、さくらが僕の顔をぼんやり眺めている。
「会ってきなよ」
おそらく親に会ってこいという意味なのだろう。それが催促なのか助言なのか分からず、どう答えたものかと思案しながら、食べる心算のなかったピクルスをひと欠片抓まんで口に入れた。
「がんばれ」
「はは、がんばることか? 親に会うのって」
さあ帰りましょ、と合図するようにさくらがワインを呷るのを見て、僕もグラスに手を掛け、半口分のワインをさっと口に流し入れた。飲み込む刹那、モンタルチーノを飲むことはもうないだろう、と誓うように思った。
テーブルにそっとグラスを置いたとき、さくらの口から微かに溜息が漏れるのを聴いた。彼女はショルダーバッグを肩に掛けながら立ち上がると、僕の方を見ずに呟いた。
「私はがんばったわよ」
第二章 完