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里帰りの傾向と対策  作者: 一里塚
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第二章 その3

 会話は消え、二人とも笑い疲れて脱力していた。

 それは僕にとっては、スポーツ後のような心地良さを伴なった脱力感だったのだけれど、さくらはどうやらそうではないらしかった。


 彼女は何か言い躊躇うような表情を覗かせると、右手を頬にあてて物思いに耽りはじめた。考える人のポーズをとりながらも、そのしなやかな指は菩薩の思惟手を思わせる。

 不意の思案顔に雲行きの怪しさを感じながらも、僕はまだ彼女の白い指に見惚れるだけの余裕を持っていた。このあと、その思惟手によって有頂天から突き落とされるとも知らずに。


「何?」と僕は尋ねてみた。


 すると彼女は、前もって決めた覚悟を仕切り直す様に、きゅっと唇を結んだ。


「うん。実はね」

 さくらはデキャンタに手を伸ばす。

「お盆休み、両親に会いに行って来たの。八年ぶりに」


 残りのワインを二つのグラスに注ぎながら、彼女がゆっくりと語りだした。その落ち着いた声の調子から、今夜この話をするために僕を誘ったんだと察しがついた。


「最近……、ってこともないか、もうだいぶ前からかな、結婚式に親を呼ばない人、多いじゃない? 友人しか呼ばなかったり、二人だけで挙げちゃったり」


 結婚式というワードに、一瞬ドキリとした。

 僕はまださくらにプロポーズすらしていない。なのに彼女は結婚について語ろうとしている。自分とはまるで関係のない話が始まるように思えた。

 僕の知らないところで一体何が起こっているのかと、嫌な想像がぶり返す。ひょっとして、カルチャースクールに関係した話だろうか。まさか、カルチャースクール氏と結婚するのでは……


「六月に健康課の八木さんが結婚したでしょ? 私も披露宴に出席したんだけど、そこにね、両家のご両親がいらしてたのよ。すごくびっくりしたわ」


 僕は、別れ話を切り出されるのではないかと気が気でない。

 さくらは背凭れから身体を離し、背筋を伸ばして静かに淡々とした口調で語り続ける。


「でね、後日八木さんに話を聞いたの。なんでも、初めは二人だけで式を挙げるつもりだったんですって。でも式場の下見に行ったら係の人に、お友達や同僚のかたも呼ばれた方が、とか、ご両親や親戚も、なんて熱心に勧められたらしいの。それで、はあ、そうですか、それじゃあ、ってなっちゃったんですって」


 笑顔こそないものの、別れ話を切り出す感じではない。

 しかし彼女が前置きした八年ぶりの帰省が、この話とどう繋がるのか、そのことが不気味に思えて、僕はまだ気を揉み続ける。


「そりゃあ、盛大にやってくれた方が式場としては儲かるわけだし、当然そう言うでしょ。商売なんだから」

 僕は平静を装い、とりあえず一般論を返しておく。


「うん、そうなんだけど。でもね、やっぱり、親も呼ぶのが普通なのかなって」


「最近は、少人数専用の式場の方が多いみたいだよ」


「うん、知ってる。親を呼ばない人の方が多いし、二人きりで挙げられるところもたくさんあるし、挙げない人もたくさんいる。それはわかってるの」


 彼女の口から〈親〉という単語が出るたびに、脳をきゅっと締め付けられる感覚があり、頭がくらくらした。

 僕は意味もなく空のワインボトルを引き寄せる。そしてラベルに描かれたセピア色のシャトーを眺めながら、さっき食べた鹿肉の味をしきりに思い出そうと試みる。

 しかし、どうしても思い出せない。具体的な味覚の記憶はきれいさっぱりなくなっており、「美味しかった」とか、「牛肉っぽい」という文字情報が残されているだけだ。


 僕はラベルから目を離し、さくらの方を見やった。彼女の視線の先には僕の手元のワインボトルがある。しかし、焦点は定まっていない。


 彼女は今までにも、友人の披露宴に出席するたび、それがどんなだったかを話して聞かせてくれた。でもその中に〈親〉が出てきたことは一度もなかった。

 僕にとって〈親〉と〈結婚〉との間にはなんの脈絡もない。彼女もそうだと思っていた。すくなくとも最近まではそうだったと思う。

 彼女が語る〈親〉と〈結婚〉の話は、僕の中で奇妙な違和感を生んだ。


「八木さんの披露宴ね、最初はすごく違和感があったわ。ご両親が、各テーブルを周って挨拶したり、みんなの前でスピーチしたり。私、そういうの初めてだったから、なんていうんだろ、昔の結婚式みたいって思った」


 さくらの視線はワインボトルから僕の顔へ、そしてまたワインボトルへゆっくりと戻っていく。


「でもね、なんだか素敵だった。和やかで、暖かくて、それでいて厳かで。私が今まで出た披露宴が、ただ正装しただけの飲み会のように思えた。ああ、こうゆうのが本当の披露宴なんだな、結婚式なんだなって……。印象的で、感動的で……、ちょっと羨ましかった」


 さくらが誰かの披露宴話をするときは、きまって嬉しそうに話すが、いまはまるで違う。どこか言いにくそうな、申し訳なさそうな、僕の理解が得られないことを承知している話し方だった。


 それにしても、一向に話が見えてこない。僕はいったい何を聞かされているのだろう。


「今年に入ったあたりから、なんだかハルくんの様子がおかしくて、それで私、気づいたの。ひょっとしたらハルくん、私にプロポーズしようとしてくれてるんじゃないかって」


 本当は二年前からだが、そこはまあ、よしとしよう。


「だけどハルくん、なかなかきっかけが掴めないみたいで、それで私も、雰囲気づくりに協力しなきゃ、二人の間を盛り上げなきゃって思ったの。そんな矢先に八木さんの披露宴があって……」


 どうやら僕にとって喜ばしい話の様だ。

 だけど、素敵な贈り物の中に変なものが混ざっている。どう考えても要らないものが。そのせいで素直に喜べない。


 さくらの視線は、僕の顔とワインボトルの中間をゆらゆら漂い続けている。目の焦点同様、話の論点が定まらず、僕もさっきから返事のしようがない。


「親の出席する結婚式って、どう思う?」


 僕の当惑を見越してか、そっと伺いを立てるようにさくらが質問してきた。


 僕だって、彼女との結婚について、想像してみたことくらいはある。でも想像の中の結婚式には、僕の両親も彼女の両親も出席していなかった。僕たちの結婚に親なんて関係ないと思っていた。


「私ね、結婚に親なんて関係ないと思ってた。私たちの結婚式や披露宴に両親が出席してるとこなんて想像もできなかった。だけど……」

 さくらは言い澱んで顔を伏せる。

「なんて言ったらいいんだろ。このままじゃ……」


 彼女が発した〈私たちの結婚式〉という言葉は、僕を一瞬色めき立たせた。しかし、その言葉は急速に色褪せていく。


「このままじゃ、一生親に会わないような気がするの。たぶんどっちかのお葬式まで」

 さくらは顔を伏せたまま、くぐもった声で続ける。

「そりゃあ現実的に考えれば、親戚のお葬式なんかで顔を見かけることくらいあるんだろうけど、でも……、本当の意味で会うっていうか……、そういう、ただ顔を合わせるだけじゃなくって、きちんと向き合うっていうか……」


 彼女の発する〈親〉は最早ジャブではなく、ミドルレンジから繰り出す相当重いパンチになっていて、僕のテンプルを容赦なく打ち抜く。

 彼女が僕との結婚を真剣に考えてくれているという喜びは、〈親〉という得体の知れない障害物の出現による、言い様のない焦躁感に掻き消された。


「呼びたいの? 親を」

 腫れ物に触る心持ちで訊いてみた。


「わからない……。結婚式に両親が出席するのは、今でもなんだかちょっと、違うような気がしてる。正直、呼びたくないって気持ちもある。でも……」


 どうやら彼女の方も、平静を装っているらしい。概ね静かな語り口ではあるけれど、時折力んで悲壮感を滲ませることがあった。そしてすぐ自重するように努めて声のトーンを落とした。


「結婚式が最後のチャンスのような気がするの。これを逃がしたら、もうこの先、きっかけがないんじゃないかって」


 彼女がゆっくりと顔を上げ、久しぶりに目が合った。


「私たち、お互いの親の話なんてしたことなかったでしょ」


 僕たちはお互いの親について何ひとつ知らない。


「別に避けてた訳じゃなくて、頭になかったもの、親のことなんて。だけど私、なんとなくわかる。ハルくんとこの親子関係。ハルくんひょっとして、もう十年以上、ご両親に会ってないんじゃない?」


 十四年以上会っていない。


「ハルくん、お父さんとお母さんの顔、思い出せる?」


 親の顔……


「私さっき、結婚式に両親を呼びたくないって言った。そういう気持ちもあるって。確かに呼びたいって言えば嘘になるけど、でも呼ばなきゃって思ってる。うん。呼ばなきゃいけないのよ」

 そう言って数秒の間僕を見詰めた後、さくらはまた俯いた。


 彼女に話を継ぐ気配がないのを見て取り、僕は「ちょっと、トイレ」と言って中座した。

 居た堪れなかった。

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