第二章 その2
とはいえ、連休明け初日とあって、仕事は溜まりに溜まっていた。
さらに、街路樹の剪定に向かう途中、子供が公園で怪我をしたという知らせが入り、急遽、区内すべての児童公園の遊具を点検することになった。当然僕も駆りだされ、結局、午前中は公園を三ヵ所まわっただけでつぶれた。
役所に戻ったとき、昼休みは半分が経過していた。さくらはすでに食事を済ませて、自分のデスクにいるはずだ。
僕は階段を駆け上がり、フロアを見渡した。しかしどこにも彼女の姿はない。
「さっちゃん、さっきまでいたのになあ」
彼女のデスクまで来ると、隣の席の松本が、こちらを見上げて言った。同期の男で、僕ともさくらとも仲が良い。
すぐに戻ってくるだろうと、僕は彼女の椅子に腰を下ろした。
「最近、さっちゃんと話してる?」
僕は松本に訊いてみた。
「話すよ。どうして?」
「普通に?」
「普通に話すよ。どうして?」
「いや……」
どうしてなのか、こっちが訊きたい。
どうやら戸籍課はまた新しいPCを入れたようだ。立った状態では見えなかった画面が、座ると現れて、驚かされた。三面鏡の形で作業画面がディスプレイされ、宙に静止いている。さらに中央画面の後方には、十数枚の画面が重なって行列をつくり、天へと昇る階段のように見える。
左の画面にずらりと並んでいるのは、区民の個人情報だった。いくら座った位置からしか見えないとはいえ、こんなものを表示したまま席を外すのはまずいのではないだろうか。課長に見つかりでもしたら、後でお小言をもらう羽目になるのは必至だ。
お節介とは知りつつも、スライドショウに切り替えておこうとキーボードに右手を伸ばす。しかしこの新型PCのボードは極端にキーの数が少なく、どこをどう押せば良いものやらさっぱり分からない。僕の右手は行き場に困り、鳶のようにボードの上で円を描き続ける。
その時だった。
天へ昇る階段の裏からさくらが姿を現した。十数メートルの距離を真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
さくらが僕に気付いた。
彼女は足を止めることも、目を逸らすこともない。
僕も彼女の目に釘付けになったままだ。
距離は半分にまで近づいた。
とりあえず何か話し掛けよう。
何か。
何を?
何でもいい。
何も浮かばない……
「ねぇ、ハルくん、今夜空いてない?」
「へ?」
彼女の方から話し掛けてきたことで完全に意表をつかれ、僕は二の句を継げなかった。
「一緒に食事、どうかな?」
「あ、ああ、うん、そうだね、行こうか」
努めて冷静に返事をしたものの、動揺が顔に出なかったという自信はない。
「カルチャースクールは休み?」
僕は訊いてみた。
「カルチャースクール?」
さくらがきょとんとした表情で僕を見る。
「ああ! あーあー、あれね、あれはもう行ってない」
「ふうん……、そっか」
相手に喧嘩してる意識がないのに、こちらが喧嘩腰でいたのでは、まったく間抜けだし、丸く収まるものも収まらなくなってしまう。
さっきまでの重苦しい覚悟があっさりと肩透かしを喰らい、一転してフレンドリーな態度をとっている自分がなんだか可笑しかった。
腹の底から嬉しさがこみ上げてくる。快哉を叫びたいほどに。
その後、仕事の多さをお互い少しずつぼやいてから、彼女はまだ休み時間だというのにやりかけの仕事を再開し、僕は地階にある食堂へと向かった。
午後も目が回るほど忙しかったけれど、不思議なくらい辛くなかった。
夕方、剪定作業の現場に顔を出して終業を告げ、役所に戻る。八月に入ってからというもの、ずっと作業服のまま帰宅していたけれど、今日はそういうわけにもいかない。僕は更衣室に行って、汗で濡れた作業服と、その下に着ていた冷感シャツ(単なる気休め)を脱ぎ、出勤時に着ていた綿麻混の半袖ワイシャツに着替えた。
「デンちゃん。臭ってないかな」
「PON! 臭気指数7 問題ないよ。今日もお仕事、お疲れ様」
五時ちょうどにさくらの席へ行くと、彼女はにっこり笑って出迎えてくれた。七年間ごく当たり前に見てきた笑顔だけれど、とても感慨深かった。
店は、役所から二百メートルほど離れたレストランにすんなり決まった。いつもの店だ。
僕は歩きながらずっと、部屋の模様替えをしたときのようなくすぐったさを感じていた。彼女も同じ様に感じてくれていたら嬉しく思うのだけれど、彼女は普段の彼女だった。ごく普通に明るく、ごく普通に楽しそうにしていて、僕のようにふわふわした心地でいるようには見えない。
それでもここ一ヵ月のことを思えば、やはり喜ばしいことに違いはない。
『ルシェンブルゴ』はワインの品揃えに力を入れているレストランで、公務員の給料でも足繁く通える良心的な値段設定の店である。僕たちはこの店に、だいたい月二回のペースで訪れていた。七月上旬までの話である。
末広がりになったコンクリートの階段を上り、二階の店舗入り口に立って、観音開きの重厚なガラス扉越しに店内を覗き見た。飴色に輝く典雅な空間は、中に入るよりも外から眺めている時の方が、僕を幸せな気分にさせてくれる。
以前、そのことをさくらに告げると、彼女も共感してくれて、それ以来入り口の手前で一旦立ち止まるのが二人の決まりごとになっていた。
「なんだか久しぶりに来たような気がする」
正面を向いたまま、さくらが言った。
「実際、久しぶりじゃないか」
「一年くらい来てなかったような気がするの」
金メッキの施された太いパイプ取っ手を引くと、扉は音もなく開いた。途端、店内に籠もっていた歓談の声が一斉に押し寄せる。
顔見知りの店員に案内され、ほぼ満席の店内を一番奥まで進む。
革張りのソファに向かい合って腰を下ろし、窓側に身体をずらすと、僕は通路側に作業服の入ったトートバッグを置いた。彼女は傍らに、白い革製のショルダーバッグを、両手でそっと置いた。
「ずいぶん混んでるわね」
ホールを見渡しながら、さくらが言った。
「まだお盆休みの人もいるから」
こんななんでもない会話が、妙に嬉しい。
「あら、ワインリストが新しくなってる」
さくらは、羊皮紙に似せた合成皮革がはり付けられた見開きのワインリストを手に取った。彼女が左端を、僕が右端を持ち、二人で覗き込むように見る。左ページに載っているのは値の張るワインばかりだったので、自然我々の視線は待ち合わせでもしたかのように、僕側のページに落ち着いた。
「あれ」と言って彼女はリストから顔を上げ、僕に驚いた表情を見せた。
「いつものシラーがなくなってる」
料理に合うとか合わないとか、そんなことお構いなしに、決まって注文していたリーズナブルなチリ産ワインは、しばらく来ない間にリストから消えていた。
「安くておいしかったのにな……」
リストに視線を戻して、彼女は拗ねるように呟き、そしてむくれた。お気に入りのワインがなくなったことを嘆くというよりも、新たに自分の舌を満足させてくれる、お手頃価格が絶対条件のワイン発掘作業が煩わしいといった感じだ。
僕はワインについて特にこだわりはない。それこそ赤でも白でもどちらでもいい。
対して彼女は赤、それも頗るボディーのしっかりした赤を好んだ。
しかし、二千円以下で〈フルボディ〉と明記されているのは、彼女が絶対口にしない中国産だけだった。
どうやら僕は、自分で意識している以上にお祭り気分だったようだ。
「これにしとく?」と、彼女が三千二百円の甲州ワインを指したとき、僕はリストの彼女側、高級ワインの欄を見ていた。
僕はお祝いがしたかった。
彼女が戻ってきたこと、彼女を取り返したこと、彼女とのこれからのこと、何だっていい。とにかく一緒に乾杯ができさえすれば。
「これにしよう!」と言って、僕が二万五千円のトスカーナ産ブルネッロ・ディ・モンタルチーノを指すと、彼女は目を丸くした。そしてそのまま何も言わずに、こくんと頷いた。
顔馴染みの店員に注文を済ますと、さくらはいつものように席を立ち、化粧室へ向かった。
ひとりになった僕は、あらためて今日一日を振り返ってみた。昼休みの二人のやりとりを思い出し、午後のそわそわした気分を思い出した。午前中の重たい気分を思い出すと、自分がいま、こうしてここにいることが不思議でならなかった。
通路を挟んだ隣の席に家族連れが座った。どうやらこれで満席になったようだ。三人の若い女性が店内に入って来たけれど、受付の前でウェイトレスがお辞儀をしながら立ち塞がり、何事か告げて、また頭を下げた。三人は顔を見合わせて二言三言交わし、ウェイトレスに一言告げると、くるりと向きをかえて店を後にした。
裏ではおおわらわのはずなのに、忙しなく動く従業員はひとりもいない。広いホールにはゆったりとした空気が満遍なく行き渡っている。
さくらが席に戻ると、すぐにソムリエがワゴンを押しながらやって来た。テーブルにワゴンを横付けし、姿勢を正して一礼する。柔和な笑顔は嫌味がなく、営業スマイルとしては満点に近い。馴れた手つきでコルクを抜き、デキャンタに移し始める。
この店には常時ソムリエが控えているけれど、こうして直にもてなしてもらうのは、実に初めてのことだった。安いチリワインしか頼まない僕らには縁のない存在だったのである。
注文取りのバイト君も、基本的なワインの知識や取り扱いについては叩き込まれており、その応対になんの不満もなかったため、なおのことソムリエを遠ざけた。
もちろんワインリストにあるとおり〈お気軽にお呼び──〉してもいいんだろうけれど、そんなことすればこちらの方が恐縮してしまう。そして畏まりながら、身分不相応なワインを注文する姿が容易に想像できる。
余計な緊張を強いられたうえ懐も痛手を被り、まさに踏んだり蹴ったりなのである。
そんな訳で、とてもお気軽にはお呼びできないのだ。
「一時間ほどで飲み頃になります」と言い残して、ソムリエは去って行った。
僕たちは顔を見合わせる。
一時間!
彼女もさぞかしびっくりしたに違いない。
その次に僕が思ったのは、自分たちは料理の選択を誤ったかもしれない、ということだった。
「コース料理じゃないとまずかったかもしれないね」と僕は言った。
「一時間経つ前に、食べ終わっちゃうわね」と言って、彼女はくすくす笑った。
僕たちがオーダーしたのは、ローストヴェニソンのクランベリーソースがけ、ヴェニソンストロガノフ、これだけだった。パンとサラダが付いていることを考えても、三十分以上かけて食べるのは難しいだろう。
最もお手頃価格のコースなら、僕たちが頼んだ二品の合計よりも安かったけれど、僕たちは二人とも甘いものを好まないので、コースに付いているデザートがいらない。それにせっかく特別なワインを飲むのだから、普段食べないようなものを食べよう、という話になったのだ。
「いいじゃない。ゆっくり食べましょ。ねえ、それより、さっそく飲んでみない?」
「まだ一分も経ってないよ」
「味の変遷を楽しまなきゃ」
そう言って彼女はデキャンタに手をかけた。
両手で大事そうに持ち上げ、僕のグラスに少し注いでから自分のグラスにも同じだけ注ぎ、元あった位置に慎重に置いた。そしてグラスの柄を摘まんで掲げ、壁の照明にかざして色を確かめると、くるくると中身を回しながら、「私、鹿肉って食べたことないの」と言った。
「僕も初めて」
「ああ、楽しみー」
僕のうきうきに共鳴したのか、それともただ単にワインが美味しいだけなのか、食事の最中、さくらはやたら機嫌が良く、笑顔を絶やさなかった。
そしてその笑顔が、僕をさらなる幸せの高みへと導いた。
フォークとナイフを置いた途端、二人の口からほとんど同時に「ふぅー」という吐息が漏れた。
「美味しかったね」と彼女が僕に微笑んだその瞬間こそが、この日の幸せの絶頂だった。
そして、この日の幸せはここまでだった。