第一章 その2
普通に歩けば役所から三十分の道程を、迂遠な回り道の末、二時間かかってようやくアパートにたどり着いた。昼間のうちにたっぷりと熱を溜め込んだ室内は、夜八時を過ぎてもまだ不快な温気を充満させたままだった。
後ろ手にドアをロックし、その場で着ているものをすべて脱ぎ捨てる。玄関横のユニットバスに入って湯張りボタンを押し、空の浴槽に腰を下ろすと、膝を抱えてじわじわ上ってくるお湯を感じながら、辛い一日がやっと終わったんだと、長い長い息を吐いた。
「PON! もう九十分も浸かってるよ」
脱ぎ捨てた作業服の胸ポケットからデンちゃんが現れ、忠告してきた。
「うーん……、すっかり寝ちゃった」
「バイタルメーターに異常はないけど、そろそろあがった方が良いんじゃない?」
「そうする。エアコンつけといて」
思考停止と脱力状態から回復したら、腹ペコであることに気付いた。こんなにすぐ傍にあるのに、どうして今まで気付かなかったのかが不思議なくらいの、ひどい空腹だった。
僕は冷蔵庫の中身を一つひとつ頭に浮かべる。
「よし!」
献立を〈一〇分カレー〉に決めると、勢いよく風呂から上がった。さっとタオルで体を拭き、一刻の猶予も無いとばかりに、全裸のまま調理の準備に取り掛かる。
〈一〇分カレー〉は文字通り一〇分以内に出来上がるカレーであり、手っ取り早く腹いっぱい食べるのに打って付けなため、頻々と我が家の食卓に上る。現在七通りのレシピがあるけれど、今日は買い置きの食材からして、茄子カレーより他に選択の余地はない。
どうしてだろう、〈一〇分カレー〉に決めた途端、元気が湧いてきた。湧くというより、瞬間的にポンと火が点ったといった方がいい得ているかもしれない。なんらかの脳内麻薬が分泌していることは間違いなさそうだ。
以前、丸一日掛けて牛すじカレーを作ったことがあるけれど、こんなふうにうきうきすることはなかった。ひょっとして僕がしばしば〈一〇分カレー〉を作るのは、無意識のうちにこの感覚を求めてのことかもしれない。
リビングの壁掛け時計を瞥見。今回は何分で出来上がるか。僕が〈一〇分カレー〉を作るということは、即ち限界への挑戦、タイムトライアルなのだ。
フライパンとソースパンに点火。
茄子を電子レンジに入れ、1000Wで四十秒加熱。
その間に、市販のミックス野菜ジュース一リットル二本を、ソースパンに入れる(火力が強すぎると、ジュースが焦げてしまうので、中火)。
手早く輪切りにした茄子を、オリーブオイルをひいたフライパンにぶち込み、蓋をしておく(強火)。
まだ沸騰していない野菜ジュースに、固形のカレールーを落とし入れ、溶かす。(沸騰していないというのがミソ。ぐらぐら煮えたぎったところにルーを入れると、ルーの表面にタンパク質の皮膜が張り、溶けにくくなってしまう)。
フライパンの茄子に小間切れ牛肉を加え、ある程度熱が通ったら、まだ煮立っていないソースパンに移し入れ、蓋をする。
時計を睨み、十時十分になる五秒前、ソースパンの蓋を開けた。
「よし、煮立ってる! 七分切った!」
一連の動きに少しでも淀みがあってはならない。スポーツをプレイしているような感覚であり、それでいて気分は職人。流れるような動きと手際の良さに、ちょっと自惚れてしまう。茄子カレーの記録更新に気分を良くしつつ、さっそく盛り付けにとり掛かる。
「勝因は室温の高さかな。野菜ジュースが予めあったまってたし」などと呟きながら、大皿を手にしていそいそと炊飯器に向き直った。
あ!
「しまった、ごはんがない……」
何度目だろう。〈一〇分カレー〉を作るとき、よくこれをやる。他の献立で、こんなヘマをやらかすことはまずない。やはり〈一〇分カレー〉特有の高揚感が冷静な判断を許さず、ミスを誘うのだろうか。
天国から地獄。
大皿を麺鉢に持ち替え、失意のどん底で茄子カレーをよそってカウチソファまで運んだ。カレーライスがカレーシチューになったくらいで、どうして人の心はここまで落胆するのか──などと馬鹿なことを考えるのはほどほどにして、アツアツの茄子カレーを頬張った。
「デンちゃん。茄子カレー、六分五十五秒、ってメモっといて」
「PON! すごいや。三五秒も縮まった。どうやったのさ?」
僕はさっきの手順を、事細かに説明する。
「まあ、これ以上の改善はちょっと無理かな」
「差し出がましくなければ、いくつかアイデアがあるよ」
「いくつもあるの? うーん、悔しいけど聞いておこう」
「輪切りにした茄子をフライパンに投入した後、お水を少し足してから蓋をすると、蒸し焼きになって、熱の通りが早くなるよ」
「なるほど、それはいいかも。ほかには?」
「結局、二リットルの野菜ジュースが煮立つまでの時間なわけだから、たとえば、半分を電子レンジで温めたりしたらいいんじゃないかな」
「それはダメだ。洗い物の数を最少限に抑えるっていう、縛りがあるんだよ」
「そっか。それじゃあ、これはどう? フライパンで炒めた茄子と牛肉をソースパンに移すんじゃなくて、ソースパンからルーを六割ほどフライパンに移すんだ」
「ソースパンからフライパンに、ルーを六割移す? どうして?」
「フライパンの方が高温になってるからだよ。二つの鍋で加熱すれば、煮立つのも早くなるよ。これなら洗い物も増えないでしょ? これであと二十秒縮まるよ」
「二十秒か。じゃあ、こんど試してみるかな」
僕はリモコンを手にしてテレビのスイッチを入れた。壁の奥に三百インチの立体映像が広がる。ザッピング中に、中井くんとシンゴちゃんのツーショットを見つけ、珍しいなあ、なんて思いながら、しばらく見入ってしまった。還暦を過ぎた男二人に、くん付けやちゃん付けはおかしいけれど、まったく違和感がないくらいに二人は若々しかった。
子供の頃から馴染みのタレントが今だに頑張ってる姿を見るのは、結構嬉しいものである。でもカメラアングルを変えたら、二人とも頭頂部が薄くなっているのが判り、なんだか哀しくなってスイッチを切った。
僕自身、まもなく三十になる。さくらも僕と同い年だ。
さくらと付き合い始めた七年前、彼女は「三十までに結婚したい」と、何気なく口にしたことがあった。僕は当然、その言葉を数年前から意識している。
元来行動力に乏しく、動き出しが遅い僕は、努めて意識することで自分の尻を叩く必要があった。といっても、今のところ何ら具体的な行動は起こしていない。
さくらの様子がおかしくなったのも、僕の煮え切らない態度に業を煮やしたからではないかと考えてみたことがある。しかし、どちらかというとさばさばした性格の彼女が、プロポーズを催促する手段に、シカトや思い悩むふりをするとはどうしても考えられない。二人の間がこんな空気になれば、かえって結婚について話しにくくなる。それが分からないような頭の悪い女性ではないはずだ。となると、やはり、あのカルチャースクール……
僕は頭を振って、カウチから身を起こした。今はあまりさくらの事を考えたくない。考えれば、最後には必ず落ち込むことになる。
気分転換を図ろうと、綿のTシャツと麻の短パンを身につけ、エアコンのスイッチを切って物干し場へ出た。途端、むっとする空気に包まれて、身体中から汗が噴き出す。
僕がこの部屋を選んだ理由は二つある。一つはガスコンロがあったこと。学生時代、僕は従兄と共同生活をしていて、その従兄から料理の楽しさを教えてもらった。そのとき使っていたのがガスコンロだったので、勝手の違うクッキングヒーターではどうにも不満があったのだ。
もう一つは物干し場が広かったこと。といっても、庭と呼べるほどの広さはなく、軽自動車がなんとか収まる程度だけれど。
日当たりもまずまずなので、僕はこの庭に沢山の鉢植えを置いている。ブルーベリー、ビルベリー、ラズベリー、苺、黒すぐり、柘榴、パッションフルーツ、そして数種のハーブ。これも従兄の影響である。ハーブを除く全てが株分けしてもらったものだ。彼の部屋を出るときに、餞別として頂いた。
しばらくここでゆっくりしていたいのに、蚊が許してくれない。全ての鉢にジョウロでたっぷり水を与えると、急いで部屋のなかへ退避する。エアコンを切って十分と経っていないのに、室内の温度は外と大差なかった。内壁がまだ冷めておらず、輻射熱ですぐに温まってしまったのだろう。
麺鉢をシンクに運び、カレーがこびり付かないよう水を張っておく。洗うのは明日の自分にお任せする。
ユニットバスに行って、残り湯に頭をドブンと突っ込み、髪を洗った。シャンプーで泡だらけの頭をシャワーで流す。こんなに蒸し暑いのに、真水はひどく冷たく、肩が竦む。
風呂の栓を抜く時、浴槽のへりにまた少しカビが生えているのを見つけ、歯を磨きながらトイレットペーパーで拭っておく。ついでに軽く風呂掃除をしてから床に就いた。
時計の針は午前零時を指していた。疲れた体は一刻も早く休みたがっているのに、なかなか寝付けない。いろんなことで頭がいっぱいだった。
しかしこんな時、僕には奥の手がある。
セミの声の後遺症だろうか、目をとじて記憶に耳を澄ますだけで、けたたましい耳鳴りのようなセミの大合唱がありありと脳内に蘇ってくる。しばらくすると大合唱は、リラックス効果のあるホワイトノイズと化し、ゆっくりと遠ざかる。
そしてあたりは静謐と化す。
最早特技といっていいかもしれない。僕はあの研ぎ澄まされた感覚を、意のままに得ることができるのだ。
静謐にそっと身を溶け込ませると、いつになく寂寥感が漂っていた。あるいは喪失感かもしれない。
さくらが口を利かなくなった当初、僕は訳が分からず、ただただ困惑するばかりだった。どうしてこんな状況に陥ったのかと、何度も何度も同じことを考えた。堂々巡りは不安を生み、不安はやがて焦燥に変わり、憤懣、沮喪、呆然、愁怨……
日を追うにつれ、心の様相はうつろい、新しいステップが加わっていった。
そして、どうやら僕は、最終ステージに辿り着こうとしているらしい。僕の心に漂い始めた不穏な空気の正体、それは、まぎれもなく諦念だった。
僕は覚悟を決めるべきなのだろうか。それとも、じたばたするべきなのか。
あまり見苦しいことはしたくない。してどうなるとも思えない。
とはいえ、最後に話し合いの席くらいは設けたい。どうしてこんなことになったのか、せめて理由くらい聞かないことには、このもやもやはこの先長期に亙って僕を悩ませ続けることだろう。
電話で話すのは気が進まない。膝を向け合い、直接目を見て話したい。たとえ彼女がそれを望んでいないとしても。
いずれにせよ、全ては休みが明けてからだ。とりあえずさくらのことは忘れよう。休みの間、ずっと彼女のことを考え続けるのは、精神衛生上よろしくない。考えすぎると思考がますます危険な方へと進んで行って、諦念のその先、自分でも予想のつかない未知の領域に足を踏み入れてしまいそうな気がする。
僕は心のもやもやを払拭するため強引に別のことを考えることにした。流行りの曲、話題の映画、好きなクラブチームと選手のこと、嫌いな芸能人のこと、さんざ迷った挙句、結局買わなかった車のこと、デンちゃんに教えてもらった茄子カレーのタイムを縮めるアイデアとそのシミュレーション。北海道にある種苗会社の最終面接があったあの日あの時、タッチの差で飛行機に乗り遅れていなかったら、今頃僕はどんな人生を送っていたのだろう……
さくらのことが頭をよぎるたびに、これらどうでもいいこと、今さら考えても仕方のないことを矢継ぎ早に繰り出した。そして長い休みの間中、それを繰り返すこととなった。
思いつく限りのありとあらゆるどうでもいいことを考えたつもりでいたけれど、この時の僕には、冗談にも、里帰りをしようなどという考えは思い浮かばなかった。
第一章 完




