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里帰りの傾向と対策  作者: 一里塚
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第一章 その1

 親の顔が思い出せない。

 最近まで思い出そうともしなかったので、思い出せないことにも気付かなかった。

 いつごろから思い出せないのかなんてもちろんわからないし、そもそも思い出そうとしたことがあっただろうか。

 そんなふうに考えていると、最初から知らないんじゃないかとさえ思えてくる。



      *



「デンちゃん、今の気温は?」


「PON! 三十八・五度だよ」


「ちょっとちょっと、さっきより上がってない?」


「ただいま本日の最高気温」


 灼熱の太陽が休みなく街を炙り続けるためか、昼下がりの目抜き通りには人影も疎らだった。こんな殺人的な日差しの下、用もないのに街をうろつく物好きはさすがにいないようだ。


「うわ、デンちゃん、ほら、遠くの高層ビルがゆらゆら滲んで見える。蜃気楼みたいだ」


「あちらでも、こちらを見ながら、同じことを思ってるかもしれないね」


「この炎天下で、あと一時間かあ・・・」


「もうひと踏ん張り!」

 がっくりと項垂れる僕を、人工知能のデンちゃんが励ましてくれる。

「頑張れ!」


 僕は携帯端末を仕事モードにして作業服の胸ポケットにしまうと、今日四本めとなる経口補水液を一気に飲み干した。


「よおし!」


 空になったボトルを握り潰すと、僕は最後の休憩を終えて、トラックの陰からゆらめく蜃気楼の只中へと、意を決して飛び込んだ。暑さと眩しさで、顰めた顔が元に戻らない。上空の巨大レンズによって収斂されたかのような、密度の高い日差しだった。 

 現場主任の僕が動いたのを見て、他の作業員たちも重い腰を上げ、持ち場へ向かった。各々、担当する街路樹の剪定作業を再開する。


 セミ時雨が僕に降り注ぐ。東京には虫を捕る子供が少ないためか、僕の頭上にとまるセミたちは、何ら警戒する様子がない。それでも僕は、なるべくセミを刺激しないよう心掛ける。おしっこが降り注ぐのだけは御免被りたい。

 際限なく続く都の緑化事業は、緑とともにセミの数も着実に増やしているようだ。夥しい数のセミによる、けたたましい鳴き声が、熱く灼かれた僕の鼓膜を、あるいは脳をビリビリと刺激する。


 ところが、この耐え難い大音響が、不思議な恩恵を僕に齎す。セミ時雨はいつしかホワイトノイズと化して、僕をリラックスさせてくれるのだ。

 それだけではない。大音響は意識からゆっくりゆっくり遠ざかって残響となり、その残響さえもすぅーっとどこかへ霧消し、やがて世界は無音に変わる。

 喧噪を超えて訪れる静寂。こういうのもゾーンに入るというのだろうか。暑さもだるさも、仕事をしている感覚さえも、遥か彼方にあるみたいだ。

 喧し過ぎて逆に静かに感じるこの感覚は、異常に集中力が高まったみたいで、なかなか心地良い。何も聞こえない、何も感じない空間で、思考の捗る僕の脳。


 二十九にもなると体力の衰えはもちろんのこと、頭の衰えを実感しはじめる。おまけに根気まで失せて、粘り強くひとつのことに拘れない。だから僕はこの静寂のひと時をとても大切にしている。普段解けないような難問でも、今ここでなら解けそうな気がするから。


 しかし、これほどまでに冴えわたった脳をもってしても、最近のさくらが何を考えているのか、僕にはさっぱりわからなかった。


 関東地方に梅雨明けが宣言された日、彼女は「暫らく忙しくなる」と宣言するや、どことなく素気ない態度へと変わった。いや、今にして思えば、それ以前から様子がおかしかったような気がしないでもない。カルチャースクールだかセミナーだかに通い始めたと言っていたけれど、はっきりとしたことは聞かされていない。会話していても、心ここにあらずで、気の抜けた相槌しか打たないのだから、聞き出せる筈もなかった。


 同じ区役所に勤めていても、この時期僕は現場が殆どで、さくらはデスクワーク専門なため、なかなか顔を合わす機会がない。日をおうごとに疎遠になっていくのを感じて焦った。気付かないうちに彼女を傷つけるような失言があったのではないかと、彼女との会話を可能な限り頭の中で再現してみたけれど、どれだけ記憶を遡っても、それらしいセリフは見つけられなかった。

 今までにも些細なことで言い争ったことはある。しかし今回は、それらとは明らかに異なっている。何を怒っているのか、何を悩んでいるのか、言いたくないのか、言い出せないのか、皆目見当がつかない。そんな彼女の態度が次第に腹立たしく思えてきて、こちらからも口を利かなくなっていった。


 八月に入ってからの僕らは、最早絶縁状態にあるといっていい。役所に居ても僕は極力さくらの方を見ないし、彼女の方も当然のように声をかけて来ない。SNSのやり取りは一切なくなった。電話で話す習慣はもともとない。この期に及んで、こちらから電話をかけるようなマネができるはずもない。

 とはいえ、僕には彼女を無視する明確な理由がなかった。そのうえ、こちらに非があるかもしれないという懸念が頭の片隅にある分、僕の怒りには迷いがあった。

 彼女と離れているとき、彼女の顔を見た瞬間、彼女の顔が見えなくなってから──状況に応じて僕の怒りは激しい振幅を生じた。また同じ状況にあっても、思考や妄想の展開次第で、怒りは満ちたり引いたりした。

 こうなったら意地でも話しかけるもんか! と、心の中でひとり過激になることもあった。そんな決意とは裏腹に、いつのまにか視界の端に彼女を捉えているのもまた事実だった。


 やはりカルチャースクールが原因だろうか。彼女の口から出た唯一のキーワードとでもいうべきこのカルチャースクールを、僕は当初から疑っていた。いったい何を受講しているのか、ほんとに受講しているのか、それはほんとにカルチャースクールと呼べるものなのか。ひょっとしたら如何わしいバイトだったり、胡散臭い宗教なのではないか。

 それならまだいい。良くはないけど、打開策の講じようがある。それよりなにより僕が最も案じているのは、あまり考えたくないけれど、カルチャースクールというのが単なる口実で、実は、新しくつき合いはじめた・・・

 この考えに至ると僕の思考は途端に泥む。この考え(あえて結論とは呼ばない)に至らないよう常に迂回ルートをとって思考を進めるのだが、迂回ルートを模索すること自体がこの考えを意識していることに他ならない。自動車教習所で教官が言う「障害物を意識すればするほど自然そちらへ寄って行き、避けにくくなる」というあれだ。

 僕は常にこの可能性を意識している。意識したくないけれど、意識せずにはいられない。どうすればこのもどかしい状況を終わらせることができるのだろうか。それとも、もう、終わっているのだろうか・・・


「主任さーん!」


 怒声にちかい大声で呼ばれ、はっと我に返った。気付けば、現場作業員八人全員の視線が僕に集まっている。声に幾分含まれていた苛立ちから察するに、どうやら繰り返し呼ばれていたらしい。

 僕を呼んだ造園会社からの応援である初老の親方は、隣の木の梢近く、地上六メートルほどの所にいた。クレーンのゴンドラから身を乗り出すような格好で、僕を見下ろしながら遠慮がちな苦笑いを浮かべている。ポカンと口をあけたまま状況を掴めないでいる僕を見かねて、親方は筋向かいの予備校の校舎に掛かる大時計を、ちょいちょいと指差した。


「あ・・・」

 時計は四時をまわっていた。

「ごめんなさい。あがって下さい」


 僕の一言で堰を切ったように後片付けが始まった。僕以外は全員外注の業者なので、勝手に作業をやめるわけにはいかないのだ。

 明日から盆休みに入るため、現場をいったん整理しなければならず、「今日はいつもより早めに切り上げましょう」と、始業前に自分で宣言していた。にもかかわらず、逆にいつもより遅くなってしまうとは。いつまで経っても作業をやめる気配のない僕に、皆やきもきしていたに違いなく、申し訳なかった。



 予定よりも十五分遅れて役所に戻った。環境課のある二階のフロアでは、皆すでに仕事を終えてのんびり寛いでいる。僕は、まったりした空気を切り裂く無骨者となって、階段から最も遠い自分のデスクへ急いだ。

「おや、残業かい?」

「ハルトくん、精が出るねぇ」

 といった揶揄を適当にあしらいながらも、さくらの姿を確認することは怠らない。彼女は自分のデスクにいて、福祉課のおばさんと談笑している。ただしそれは会話というよりも、おばさんが一方的に捲くし立てているだけにしか見えないけれど。

 僕が環境課に配属された当初からよく見る光景だ。終業時間を迎え、さくらと一緒に帰ろうと思って席を立つと、たいていこの光景が目に入ってきてた。そして僕は少し離れた場所で、おばさんの講釈だか漫談だかが終わるのを待たされる羽目になった。一度おばさんの背後に席をとって、しばし耳を傾けていたことがあるけれど、そのときもおばさんはのべつ幕なしで、いつまで経ってもさくらに発言権が回ってくることはなかった。それでも、傍から聴いているだけで辟易の僕に対して、さくらは涼しい顔をしていた。

 彼女は決して自分の意見が言えないような消極的な女性ではない。つまり、しゃべりたくて仕方がないおばさんへの配慮なのだろう。好きにさせているのだ。


 僕は自分の席に着くやペンタブレットを取り出し、急いで報告書の作成に取り掛かった。五時までにはとても終わりそうにないけれど、それでも猛然とペンを走らせた。どうあっても今日、彼女と言葉を交わしたい。休みに入る前にこのもやもやを払拭しなければならない。そんな思いに駆られながら。

 しかし、書類作成にあたってそうした考えは雑念でしかない。思いが強ければ強いほど、ペンの動きを鈍らせる。


 ほどなく五時を迎え、さくらの後ろ姿を無言で見送ると、右手のペンは走るのをやめてしまった。僕は背凭れに上体を預け、溜息を一つ吐くと、抽斗からウェットティッシュを取り出して、顔と腕のべたつきを丹念に拭った。

 一息ついて冷静になると、僕はある疑念に駆られた。それはさっきから心の隅にくすぶっていた黒い影で、あえて無視していたものだ。それがここへきて一気に表へ噴き出してきた。


『僕は本当にさくらと話をする気があったのだろうか?』


 仕事が終わらなくたって、彼女を呼び止めることは出来たはずだ。なのに何故そうしなかったのか。ひょっとすると、しなかったのではなく、出来なかったのではないか。

 すでに半月近く彼女と口を利いていない。だけどそれは、利こうとしなかったからであって、利こうと思えばいつでも利ける──そう思っていた。

 でもさっき僕は、彼女が去って行くのを黙って見過ごすことしか出来なかった。呼び止めることが出来なかったのだ。さくらとの関係は、僕が意識している以上に深刻なのかもしれない。


 いずれにしても、さくらの方に僕と話す気がなかったことだけは確かだろう。彼女は僕の方を振り向きもせずに去って行ったのだから。


「もう、終わってるのかなぁ・・・」


「PON!」

 飛行機の客室注意喚起音に似た音とともに、にっこり笑ったデンちゃんの顔が端末から飛び出す。

「就業時間は終わってるよ。レストラン・ルシェンブルゴの営業時間は、あと六時間五十二分。終バスは〇時六分」


 誰もいなくなった職場で、しばらく天井を仰ぎ見たまま静止した。


「終わってるのかもしれないな・・・」


「明日から七連休でしょ? 楽しいことがいっぱい始まるよ」



 役所を出ると街は橙色に染まっていた。ヒグラシの声をより遠くまで響き渡らせるような、透明感のある光景だった。

 僕が上京した十一年前、東京の夕焼けはもっとくすんでいたいたように記憶している。化石燃料で走る車が減り、ここ数年だけみても随分と空気がキレイになったのではないだろうか。百年以上かけて汚した大気が、表面上とはいえ僅か数年でここまでキレイになってよいものかとも正直思う。もちろん喜ばしいことではあるけれど。

 いつもなら綺麗に思えるこんな景色も今の僕には物悲しく映るだけだった。このまま真っ直ぐアパートへ帰る気にはなれず、かといって何処かへ寄り道する気にもなれない。

 僕はいつも利用しているバス停を素通りし、時間をかけてぶらぶらと歩いて帰ることにした。運動不足を自覚したときなど、こんなふうに歩いて帰ることは今までにもあったけれど、今日のような疲労困憊の状態では勿論ない。ずいぶん自虐的なことをしているなと、自分自身にあきれた。

 今の自分の行動に、自暴自棄という言葉が当て嵌まるかどうか、その行動原理を少し掘り下げて考えてみようとしたけれど、上手く頭が回らない。ただ、自暴自棄というのが、失恋という特殊な境遇によって引き起こされる無条件反射行動であるということと、今日さくらと言葉を交わせなかったことで、破局のその先にある荒野に片足を踏み入れたということを朧ろげに理解した。


 騒々しい表通りを避けて裏道に入ったのは、今の僕の暗澹たる気分がほとんど無意識にとった行動といえる。薄暗い路地に安息を求めたのだろう。

 ビルの角にさしかかった瞬間、不意に強い西日が真横から射し込んだ。僕は咄嗟に小手を翳して遮る。

 するとパチンコ屋の裏口に突っ立っていた警備員の爺さんが、ぴくっと反応した。機敏に僕の方に向き直ったかと思うと、あろうことか、ビシッと敬礼を返してきたではないか。

 きりりと引き締まった表情で、肘を正確な角度に曲げた爺さんの敬礼は、見るからに訓練されたものだった。現役軍人さながらの威圧的な敬礼に、僕はたじろぐ。

 六メートルの距離を置き、見つめ合って敬礼し合う僕と爺さん。射るような目で睨みつけられて、僕は右手を下ろすことはおろか、視線を逸らすことさえできない。暑さに起因するものとは別種の汗が頬をつたった。


 なんなんだこの状況は?

 

 困窮しながらも打開策を模索しようと努めるが、頭は麻痺したように働かない。時間が凝固してしまったかのようだ。


 くらくらする・・・


 と同時に目が霞んできた・・・


 !


 爺さんの顔がぼやけた刹那、窮余の一策がひらめく。

 目の霞みを追い風に、焦点を意図的に狂わすことで、僕はなんとか蛇睨みから逃れ、金縛りを解くことに成功した。

 俯き加減に顔を逸らし、ようやく踏み出した一歩は、関節が錆付いたロボットのようにぎこちなかった。

 爺さんの前を通るときも、爺さんは僕から片時も目をはなさず、括目して敬礼を続ける。内奥を見透かすようなそのぶれない眼差しは、理由もなく僕を疚しい気持ちにさせた。

 後頭部に突き刺さる爺さんの視線から一刻も早く逃れたくて、僕は曲がる心算のなかった次の十字路を左に折れた。仄暮の中、斜陽を背に受けながら、見慣れない道を知らない方へ知らない方へと進む羽目になった。



 細い川に架かる短い橋を渡ったところで、はたと足を止めた。ここはもう隣の区だ。外回りの多い環境課に転属して三年経つけれど、まったく見覚えのない場所だった。役所から二キロほどしか離れていないというのに。

 現在地を確認するためデンちゃんを呼び出そうとしたその時、僕の目がある一点にとまった。三十メートル前方の雑居ビルのエントランスに、十人くらいの若い男女が集まっている。その中のひとり──


「さくら?」


 僕は夕闇の中、目を細める。


「まさか・・・」


 ここの正確な位置はわからないけれど、彼女の住むワンルームマンションがこの近くでないことは確かだ。それに、さっき職場で見たときとは、服装が違っている。一度帰って着替えたのだろうか。

 僕は半信半疑のまま、さくららしき人物に向かって一歩を踏み出した。それと同時に、男女の集団も移動を始める。どうやら待ち合わせだったようだ。集団は、僕に背を向けて歩いて行く。


 僕は急いで追いかけるべきなのかもしれない。大声で呼び止めるべきなのかもしれない。

 けれど、そうはしなかった。理由は……もう、終わってるから。いや、違う。さくらだという確信がないから・・・ということにしておこう。

 僕は、つかず離れずで集団のあとを歩いた。そして、彼らの待ち合わせ場所だった雑居ビルの前まで来ると、足を止めた。袖看板に『カルチャースクール』の文字を見つけたからだ。


「本当にあったんだ」


 ここが僕とさくらの仲を引き裂いた件の施設なのかと、静かに怒りが込み上げてきた。憎しみや恨みの感情よりも、得体のしれないものを前にしたときの嫌悪感を強く催す。

 分厚いガラス扉の奥には、広くて明るいロビーが見える。ガラス扉には四枚のポスターが貼ってあり、そのうちの一枚がカルチャースクールのものだった。若い女性が微笑む写真とともに、たくさんの講座名が羅列してある。


 このうちのどれかを、さくらは受講しているのだろうか。


 あの集団の中に、さくらの新しい男がいるのだろうか。


 頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。しかし最早そんな気力すらない。疲弊しきった心と身体に、この複雑な状況はあまりにも酷だった。真相を究明してやろうなんて気にはとてもなれない。


 限界だ。

 

 もう何も考えたくない。


 すべて、どうでもいい・・・


 僕は目の前の建物と、遠ざかる集団との間に視線を往復させると、そのどちらでもない、あさっての方向に足を踏み出した。

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