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毛利勅子の生涯(第一話)  作者: 木楽名優芽
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第一話・厚狭南校の歴史

 細く長く緩やかに上る坂道が校門へと続いて入る。道の両脇はつつじの生け垣が壁のように刈り込まれている。坂道の途切れた先を見上げれば、聳え立つヒマラヤスギやオガタマの木の巨樹群が天に向かって枝葉を伸ばしている。それらが昇り来る朝日を遮り、訪れる人を若草色の木漏れ日で迎える。学生達もこうして晴れた日は巨樹群の向こうに昇る太陽を感じながら登校したのだ。

何気なく聞いていた校歌の冒頭の朝日影が思い起こされた。まさにこの光景を歌っていたのだ。

時折微かな風に揺れて木の間から突き刺すような光芒が瞳を射る。いきなりの直射に思わず目を伏せると、厳しい冬を乗り越え逞しい赤に変色したつつじの葉が柔らかく受け止めた。朝日影と共にこの躑躅つつじ達もこの学校の象徴として一役買ったに違いない。一斉に花を付ける初夏の頃に思いを馳せた。沿道を縁取るピンクの帯が鮮やかに二本浮かび上がった。ここに通った生徒達の脳裏にも焼き付いているはずである。そうして左見右見とみこうみしながら誰もいない静謐な校門へと誘導する道を逍遥するうち、何時の間にか校内に足を踏み入れていて、自在に伸びた枝葉が鬱蒼と茂る巨樹群の葉陰に立っていた。息を吐き目を泳がせれば、校庭を取り囲む生垣のいぶきの前方は遠く霞んでいる。春ここは知る人ぞ知る桜の名所だったと聞く。町の最東に位置する物見山から見下ろすと校舎や校庭は淡い桜のピンク一色に覆われていたとも。だが今はもうその面影はない。名残りの古木がわずかあるのみである。校舎は校庭の左側である。歩を進め人気のない建屋の前に立った。

そこに佇むと不思議な感覚に襲われた。

かって若者に知を授けた学び舎としての威風であろうか、思わず襟を正しくなるような厳粛な面持ちになった。戦前戦後、ここに通う生徒は女学生の中でもエリートであった、裕福な家庭の子女のみならず相応の学力も必要とした。ここに通うと言うだけで名誉であり羨望の的であった。数少ないその頃の卒業生はそう語る。それが何時からのことだろう、憧憬の存在から遠ざかって行ったのは。

気が付けば斜陽の一途を辿り、今や商業科の定時制生徒が僅か夜間に使用するのみで、本来の役目は終えたかのようにひっそり終焉の時を待つばかりとなっている。学校としての機能は二〇一〇年、女子の南校に対し北に位置する北校に呑まれる形で統合を余儀なくされた。こうなる予兆はなくもなかった。

女子高に遅れること三十三年、ようやく創設された男子のための中学校が一九四八年、学制改革により県立高等学校に昇格した。それから間もなく時代の変遷に伴い学力重視の時代がやってくると、男子の北は世の趨勢すうせいになびいて進学校にシフト、進学を目指す女子を受け入れるようになり、南は北に入る学力を有しない女子の受け皿校に甘んじるようになった。時代の流れには抗いようがなくそれを追認するかのように、名所として親しまれた桜の木は歯が抜けるように数を減らしていた。そのうち仰ぎ見る程に高くそびえて朝日影と歌われた樹の一本・オガタマの木が枯死しても成す術はなかった。遂に一九九一年、二十一、二十二と相次ぐ台風がこの地方を直撃してユリノキ・ヒマラヤスギは倒伏した。

そこで目の当たりにしたのが三本は一辺が二・五メートルの正三角形の頂点に植えられていた事実。現場に居合わせた一同畏敬の念に身を震わせた。それは山口県民ならこぞって知る三本の矢の遺訓を想起させたからだ。何故ならこの学校の創始者が毛利家の流れを汲む一門の出身だからである。毛利家の始祖である戦国時代の名将毛利元就公は嫡子の隆元、吉川家の養子となった元春、小早川家の後継となった隆景、元就が正真正銘の実子と認める正室・妙玖との間に生まれた三人の公子を前に一本の矢は簡単に折れるが矢を三本束ねると容易には折れないことを実践して見せ、元春、隆景は偶々他家の名を継いだけれど、これは当座のことであっていざという時には三人は必ず力を合わせるようにと言い聞かせた話は人口に膾炙する毛利家の家訓であり遺訓である。それは元就公自身が三子教訓状として認め今なお現存する書状にもある。その家訓は生かされ毛利家は長く中国地方の覇者として君臨した。そして家訓は家紋にして伝承、その象徴である③が地上絵として現れたのである。ここが由緒正しき毛利家所縁の学校であることを知らしめる無言のメッセージであった。それがどうしてこんな小さな人口三万に満たない町に創設されたのか、そのためにはこの学校の歴史を紐解かねばならない。

厚狭高女の前身である船木女児小学校が創設されたのは一八七三年、維新より僅か五年後、大政奉還間もない世の中は混沌としていたであろう頃のことである。女子校としては東京。京都に次ぐ三番目に開校という快挙である。世は男尊女卑の思想はもとより、学ぶより飢餓からの脱出の方が優先され、その手段に子の売買も止むを得なかった時代である。その後一九〇八年鉄道敷設に伴う厚狭駅開業でこの地への移転が決まった。送り出す船木は断腸の思いだったに違いないが、受け入れる側の厚狭とすれば喜ばしい栄誉でその祝賀を記念してこれ等三本は植樹された。植樹はその時の教師が選定された木に込められた想いを一本一本言い聞かせながら生徒と共に植えたものだと語り継がれている。鎖国という長い眠りから目覚めると同時に、怒涛のように流れ込む先進国からの文明を戸惑いながらも精力的に吸収していく日本、誰もがこれからの日本は海外と協調していかねばやっていけないことを自覚しつつ、しかし考える余地も与えず流入する文明の中には無知なるが故に有害物も取り込んでいるはずで、それに警鐘を鳴らす意味での植樹であることを説きながら。激的な発展を遂げながら未だ解消されない不平等条約を後世にその挽回を期して植樹したとしても不思議はない。成長の速い外国種ののユリノキ・ヒマラヤスギには、海外と協調しながらもやがては追い越して欲しい願望を表し、それでいて失って欲しくない日本人としての魂は、日本古来より神木として崇められ、屈辱よりも義を重んじる国民性を象徴する木オガタマの木に込めた。取り囲む桜もしかり。文明の進化を考えれば明治は遠く古い、しかし人間としての進化を考えた時、明治はさほど遠くはない。根底にある愛国心は現在を生きる者とて同じである。時代背景を鑑みながらそんな感傷を抱きつつこの無言のメッセージを読み解けば、先人の国を想い後進に託した思いがひしひしと伝わってくる。女子教育創始を決意した心境とも取れる創設の立役者である毛利勅子女史の書が残されている。

”五十四年䔥《しょう》寺老終身一曲雉朝飛”意訳によれば、

五十四歳のこの年まで私は何不自由なく生きてきた。今人生の終わりに差し掛かったが人々の先頭に立ち新しい道を切り拓くということである。朝啼く雉の一声にはある決意を持って臨む意志が込められており、それを琴の曲にしたものがあり琴奏者の女史はそれを暗に詠っていた。残された時間が幾ばくも無い女史の胸に去来したもの、それは次世代の女子教育のことでその曲に重なったのであろう。日本の将来を担う子を育てる母が疎んじられる世であってはならない、その母に相応しいレディーを教育する必要性に駆られその理念を基礎に、誇り高き貴婦人育成のための学校創設に女史は晩年をかけた。

無言のメッセージに導かれるように創始者の墓のある菩提寺を訪ねた。墓のある洞玄寺は厚狭毛利家の初代元康の法名由来の寺である。晴れた日でもぬかるむ足場の悪い裏山へと続く山道を標識に従って登って行くと、えぐったように切り拓いた場所に墓所は有った。中国一の覇者であった毛利元就公分家、厚狭毛利の墓所で厚狭高女創設者・毛利勅子女史の墓もここにあると聞く。どっしりと大きい代々の領主の墓石に比べ二メートルばかり間を置いて対面する墓はどれもこじんまりとして雑然と並べられている。そこにあった。小さな墓石の隣の雨ざらしの古びた木札に、

学ぶ子のすすむ悟りにひかれつつ惜しき年はも知らで越えけり、とあり一目瞭然であった。まさに偉業の原動力となったであろう歌との出会い、女史の心情に迫る唯一の手掛かりでもある。しかし何と単純明解なのだろう。もっと小難しい歌を思い描いていただけに正直気抜けしたが、その分親近感で一杯になった。お輿入り道具目録にも記載され、宝物でもあったであろう所蔵物の一つである歌集のなかの、

”いとまあらずうるる若苗千町田にみよ豊かなる賤が賑わい”の躊躇わず百姓を賤と言い切った歌からして、近寄り難い身分なればこそ達成し得る偉業だとばかり決め付けていたが、ただ田植えをする百姓の活気を詠っただけで蔑む気持ちなど微塵もなく、純朴な子供の向学心に心動かされた心情の吐露もごく自然に湧き上がる普通の人と変わりない心の持ち主だったのではないかと、これまでの心象は覆った。雲上の人も普通の人だったのかも知れない。そのような人がどうして学校創設に関わっていったのか、創設に至る経緯に触れてみたい衝動に駆られた。(厚狭高同窓会誌)


勅子は一八一九年二月二十三年、毛利輝元の次男就隆を初代とする徳山藩四万石八代城主毛利広鎮と京都出身の側室、佐々木覚乃極の娘益井(ますい)(万世)との間に生まれた八女である。

広鎮には二度の離縁歴があり、三度目に結婚した継室の他、多数の側室が居て子供は全部で二十三人いた。当時子の早世は珍しくなく多数側室はいても成人する子は僅かで、城主にとって側室は必要不可欠の存在であった。一概に側室と言っても側室の在り様は本人の背負った宿命によるところが大きく側室それぞれである。

柳沢吉保の側室・正親町町子の場合は、自ら認めた日記に大樹の保護下にあったような意味にも取れる松陰と題しているくらいだから吉保の寵愛を受け屈託のない生涯を送ったのであろう。父親は公家の正親町実豊、母は遊女だが武士には公家との縁故には憧憬があり、一方公家は高官の武士の威光に縋りたい気持ちもあって、双方の利害は一致して町子は吉保の側室に迎えられた。その町子は幼い頃の一時期、文学に優れ和歌の碩学である父親と暮らしていたことがあり、その影響を受けたか文学の才能に秀でていて、その才能がやはり文学の造詣の深い吉保に見い出され、吉保の勧めもあって吉保栄耀栄華期の四年間を日記に認めたほどの才媛であった。日記と言っても人に見せることを意識して書かれた日記だから、紆余曲折の人生には触れられてはいないが、町子の日記に見られる

「中庸」「史記」「荘子」「古今集」「紫式部日記」「後撰集」「後拾遺集」「白紙文集」「菅家後集」「新古今集」など難解な典拠にもかかわらず精通した上での引用はどれも違和感なく使いこなされていて、流麗な文章で描写される四季折々の六義園の中で繰り広げられる貴族社会の日常へと読み手を誘う技量は非凡である。それだけに吉保からは大切にされたのだろう。自分の子供は病気をすれば見守ることのできる環境で育て、吉保の死後も六義園に残り子に看取られて亡くなった。

そんな生涯を送った側室がいる一方で、毛利家三代目、関ヶ原合戦の際主将であった輝元の側室のように二の丸伝説として語り継がれるほど悲しい生涯を遂げた女性もいる。輝元は家臣の娘でまだ幼い(かね)姫を見初め、父親に嫁に欲しいと請うた。だが輝元には既に正室がいて妾にされることを恐れた周姫の父親は、周姫が若干十二歳にもかかわらず急遽同じ家臣の下へ嫁がせる。それでも執拗に輝元は周姫を追い求め、周姫の父親が死ぬのを待って戦にかこつけて夫を殺し、周姫の乳母まで懐柔し周姫を手に入れる。だが夫に忠節を尽くす周姫に、輝元は今度は周姫の実家にまで禍を及ぼす。

遂に輝元の圧力に屈した周姫は二人の男の子を儲ける。しかし今度は輝元の正室の嫉妬が並々ならず住まいを転々とせざるを得なくなり、広島から山口の村まで逃げ延びて三十二歳の時美しく生まれた自分の宿業を呪い狂い死にする。その二人の子・就隆と秀就のうち次男の就隆が徳山藩の初代となる。

そんな数奇な例もあるにはあるが、勅子の母の場合はその頃の側室の大抵がそうであったように腹だけ貸して子が産めなくなれば御用済みとなり家臣の下へ引き取られる通例の典型であった。

                        (松蔭日記)(二の丸伝説)(福原越後)

hukuharaetigo

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