7.聖魔法
「手当て」という言葉がある。
一般的には治療全般を指す言葉だが、元々は痛いところに手を当てて痛みを和らげる行為を指していたと考えられる。
お腹が痛い時、頭が痛い時、足が痛い時、腰が痛い時。
人間は無意識のうちに、自らの痛い場所に手を当ててさする行動をする。
もしくは子供が何か痛い思いをして泣いている時、親や周囲の大人が痛いところをさすってやり、子供が泣き止む場面などもよく見る。
これが「手当て」だ。
別にこれは超能力だとか、霊的なハンドパワーが……だとか、そういう怪しげな話ではない。
実際に外科的・内科的治療をする行為だけでなく、痛い部位にただ手を当てる行為にも、何らかの痛みを和らげる作用があるのだ。
手でさすることで、痛みによる精神的なストレスや不安を軽減したり、ホルモンを放出させて実際に痛みを軽減することは、医学的な研究でもある程度明らかになっている。
だから智花は自分が担当した患畜には、時間が許す限りなるべく「手当て」をするように心がけていた。
痛みで不安を感じている心が少しでも楽になりますように。
この手の温もりが、少しでも痛みを和らげてくれますように。
そう祈りながら。
トモカは木の実の食事を摂った後、いつもの慣習通り、この小さな獣にも「手当て」を行うことにする。
獣はいくつかの木の実を食べ、最後に少し水を飲んだ後、再び寝てしまった。
処置により邪魔をしていた壊死部分が取り除かれ、止まっていた組織の再生が開始したために、そちらに大半のエネルギーが割かれているのかもしれない。
虫や壊死組織は全て取り除いたとはいえ、皮膚は大きく喪われ、広範囲の筋肉がむき出しのままだ。
もちろん湿性包帯もしているので処置前ほどの酷い痛みではないだろうが、痛くない訳がない。
「手当て」によって痛みによるストレスが少しでも減ることで、細胞の再生がより促される可能性が高い。
二重に巻いた包帯の上から、ごくわずかに触れるか触れないかくらいの強さで右手を当て、優しく優しくさする。
揃えた手指の真ん中あたりで自分の体温を感じ、その体温をそっと患部に手渡してクリームを厚く塗り広げるように患部に触れる。そんなイメージ。
手術後の簡単なルーティーンとして、いつもやっていることだ。
「痛いの痛いの飛んでいけー」
昔ながらの、そんなありきたりなフレーズを唱えて。
しかし。
数回さすったところで違和感を覚える。
いつもと違う。
何か強烈に熱いものが全身からトモカの手に集まり、指先から粘っこい液体としてドロっと物凄い勢いで出ていく感覚。
一瞬、出血をしたのかと勘違いするような熱さだ。
「あっつっ!」
突然の熱に驚いて思わず手を離した。
けして火傷をするような熱さではないが、予測もしていなかった温度。
右手の指先を反対側の手で掴み、よく観察する。
出血などはしていない。
痛みもない。
ただし、トモカの右手の指先からはボゥッと淡い緑色の光が発していた。
淡い緑の光はけして強くはなく、気をつけて見ないと気づかない程度の明るさだった。しかしそれは、光でありながらまるで粘度と質量を持った液体かのように、トモカの指先から溢れてはトロリと地面に垂れている。
地面に垂れ落ちた光は一瞬だけ強い瞬きを残し、床の隙間に吸い込まれて消えていった。
「なに、これ」
一言呟き、ハッと気づいて今まで撫でていた動物の患部に目をやる。
巻かれた包帯がやはり淡い緑色に光って微かに揺らめいている。
そしてその光はどんどん患部に吸い込まれていた。
トモカは焦った。
右手の指先から溢れる緑の光の正体が何なのか分からないが、せっかく処置を施した患部がおかしなことになっては困る。
幸い指先からはこれ以上の液体状の光は出ないようで、全てを地面に落としたあと、何もなかったかのように光を消した。
しかし包帯の巻かれた脚に落ちた光は、まだぼんやりと輝きを放っている。
トモカは包帯の結び目を解き、急いで包帯を外していく。
「うわわっ」
全ての包帯を外し、トモカは思わず目を細める。
脚の広範な傷口は、眩しいほどに白緑色の強烈な光を発していた。
明るすぎて何も見えない。
しかしやがてゆっくりと光が弱まっていき、明るさの落ち着いた視界に飛び込んできたのは、すでに傷の1/3程が再生したばかりの柔らかい皮膚に覆われている光景だった。残りの2/3も、既に薄く皮膜のような透明な組織が覆って、筋肉表面を保護している。
「う……そでしょ……?」
トモカは思わず驚愕の声を漏らした。
壊死部分を切除する処置はつい先程終わったばかり。
時間にすると1時間も経っていないはずだ。
皮膚の再生が始まるとしても、ここまで大きく延びるためには普通どれだけ早くても最低10日はかかる。
ありえない。
何が起きた?
こんな魔法みたいなこと。
(魔法みたいなこと?)
はたと気付く。
そうだ、魔法なんじゃないか、これは。
ここはどう考えても異世界だ。
そしてトモカのステータスには「魔法属性:聖、風、雷」とあった。
自分で自由に制御することはできないまでも、風魔法が使えたのだから、傷を癒す聖魔法が使えてもおかしくはない。
処置を行う前に「傷を治して」と言った時には何も反応がなかったため、トモカには使えないものと思い込んでいたが。
きっかけはどう考えても今の「手当て」だ。
しかし本来「手当て」の効果というのは、実際に病気や怪我自体を治すことではなく、それによって痛みを和らげたり、痛みによるストレスや不安を軽減したりという、文字通りの「気休め」なのだ。精神安定剤と言ってもいい。
こんな効果があるとは思えない。
しかし。
もしかしたら。
トモカは既に光のなくなった自分の右手を見つめた。
さっきの光はどうやって出てきた?
いつも手術後にやっているルーティーン。
指を軽く揃え、そこに自分の体温を感じ……その体温を患部へ手渡し、クリームを厚く塗り拡げるようにするイメージで……
先ほどと同じことを、今度は包帯を巻いていない患部に直接やってみる。
「!!」
途端にトモカの全身から指先に一気に熱が集まり、指先が緑白色に輝く!
そして指先からトロリと蜂蜜のように創面に垂れた緑の光は、傷全体を覆い、明るく輝き出した。
指先が、熱い。
傷を覆った光は、アメーバのようにぐにぐにと蠢いている。
トモカは先ほどと同じように、あのフレーズを呟いた。
「痛いの痛いの飛んでいけ!」
ピカッ!!!
トモカが呟いたその瞬間、フラッシュのように傷口が強烈な光に包まれ、その中からレーザーのような光条が何本も飛び出す。生き物のように傷を這い回る白緑色の光の筋。
光条は忙しなく動き、太さや濃度を次々に変え、最後にひときわ強く輝いた後、ゆっくりその明るさを落とす。
そして、光が消えた患部を見ると、再生したばかりの柔らかい皮膚が完全に傷口を覆っていた。
「は……はは……治っちゃった」
さすがに体毛までは再生していないが、皮膚はすっかり元通りになったようだ。出血も筋肉の露出もない。
トモカは今、目の前で見たものにまだ脳の理解が追いつかず、乾いた笑いを零す。
そして痛みがなくなり元気になったのか、ふわふわとした小さな獣はいつの間にか目を覚まし、自分の傍で脱力しているトモカを紫の瞳で不思議そうに見つめていた。
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「レオさんひどいよ!何の嫌がらせなんだよ!」
真っ黒い髪の毛と尖った耳、背中に小さな翼を持つ細い少年は、地下にある自分の仮の工房に入るなり、レオに向かって激しく文句を言い始めた。
「え、何?なんかオレやっちゃった?」
レオは何故自分が怒られているのかさっぱり分からない。慌てて尋ねる。
少年は半分涙目でキッとレオを睨んだ。
「ボクが他の人より耳が良いの知ってるでしょ!?何のために静かな夜に活動してると思ってるの!?あんな酷い鼻歌を聴かせるなんてあんまりだ!うわぁぁぁぁん」
「ご...…ゴメンて、ケミックくん」
両手で顔を覆い、本格的にヒステリーを起こして泣き始めてしまった少年を前に、さすがの"疾風の大牙"レオもタジタジである。
ケミックと呼ばれた少年は、蝙蝠型の獣人であり、年齢はまだ13歳。
しかし見た目は年齢以上に更に幼く、背が低く、手足も細く、頭だけが大きい。8歳と言っても十分に通用しそうなほどだ。
明るいブラウンの瞳は丸みを帯びてクルっと大きく、濡れたような長い睫毛に囲まれており、白く柔らかそうな肌とふっくらとした形の良い紅い唇。
一応生物学的な性別はオスだが、オスメスどちらとも言い難い、まるで陶器の人形のような中性的で愛らしい外見をしている。
そんな完全に子供と言える容姿の少年ケミックだが、非常に頭が良く、今は腕の良い天才魔導具師として冒険者にオーダーメイドの魔導具を作って売る仕事で生計を立てている。
元々スラム街に捨てられていた孤児で、行き倒れていたところを保護し、そのずば抜けた能力を見出して仕事を斡旋したのがあの酒場の店主であった。
「悪かった、今度仕事の代金とは別に旨いもん買ってきてやるから勘弁してくれよ、な?」
「……何を?」
覆った両手の隙間からチラッとレオの顔を窺う。
「あー、アレだ、王城広場で売ってる、評判のミートパイはどうだ」
「……うん分かった!それならいいよ、許す!」
パッと手を外し、天使のような可愛らしい笑顔で元気よく答える。
「ハイハイありがとね……」
(くっそ、腹立つくらい可愛いな!)
自分の幼く愛らしい容姿の効能を十分理解しギリギリまで有効活用するその姿は、天使というよりは小悪魔であるが、分かっていて喜んで振り回されている男もたいがい変態である。
しかも、こんな夜更けに、成人した男が少女のように可憐な(見た目だけは)幼い少年と、狭くて薄暗く密室に二人きり。
どう考えても絵面がヤバすぎる。
(犯罪に走る前に帰りたい。神様助けて)
今度はレオが両手で顔を覆う羽目になった。
「で?今日は何が欲しいの?」
レオの祈りを知ってか知らずか、イチャイチャとふざけるのをやめてさっさと仕事の話に切り替えるケミック。
(助かった)
レオは内心ホッとした。
「ああそうだった。聖属性の魔力だけ感知するセンサーを作って欲しいんだよ」
「聖属性だけ?」
「そう。市販の魔力センサーだと魔獣の魔力なんかも全部反応しちゃうだろ。ちょっと次の仕事でさ、詳しくは言えないけど聖魔法だけに反応するヤツが必要なんだ」
「ふーん」
ケミックの茶色の瞳がキラリと光り、焦点が遠くなる。
既に脳内で魔導具を作る計算を始めているようだ。
この状態の彼を決して邪魔してはいけない。
地下室が沈黙で包まれる。
そして、ゆっくりと100を数えた頃だろうか、ケミックが口を開いた。
「ねぇレオさん、このまましばらく待っててもらっていいかな」
「何?もしかしてすぐ作れんの!?」
数日はかかると思っていたのだが。
「もちろん。ボクを誰だと思ってるの?天才魔導具師のケミックだよ?」
「お、おう」
「お代は銀貨10枚と王城広場のミートパイ大5個ね!」
(あれ、なんかミートパイ多くね?)
そうは思ったが、仕方なくレオは頷く。
「……OK。それで頼むわ」
「うん!ミートパイはレオさんの仕事が終わってからでいいよ。一緒に食べよう」
またこいつと密室かよ、勘弁してくれ。
しかし、レオは"疾風の大牙"としての尊厳を保つために、なんでもない顔で承諾する。
「任せとけ!」
……それはどう見てもおっさんのニヤニヤと緩んだ顔だったのだが、ケミック以外は誰も見ていなかったので、幸いにもレオは尊厳を保つことに成功した。