62.魔獣研究
クレムポルテ王国の王城は一見複雑な構造をしているが、大きく分けて5階層から成っている。
通常の国家の実務に関する部署は1階層と2階層にある。
特に1階層は正当な理由さえあれば一般国民の立ち入りも許されており、国への請願を受け付けたり、身分証の発行などが行われている場所であるため、人の出入りは常に多い。
その一方、王が国政について裁可を下す執務室は3階層の最奥に位置している。同じ階層に禁書室や魔力に関する研究室など、国家の機密に関わる部屋もあり、原則として国の重臣や王の側近、軍の責任者クラスの特別な許可を持つ人物でなければ立ち入ることはできない。
注意深く人払いされた執務室には、部屋の主である国王ガルドの他、3名の人物が訪れていた。
執務台の椅子にどっかりと座ったガルドの前には、軍服姿のレオと、司祭のローブをまとったピーター、そしてその隣にはピーターの助手という形で上級神官のローブを着たトモカが、それぞれ神妙な面持ちで立っている。
表向きは何も肩書きのない一般人のトモカを、余計な不審を抱かれずに執務室のある3階層に入れるための苦肉の策だった。
ガルドは、差し出された瓶を珍しげにクルクルと回して眺めた。
「なるほどな。"菌"ねぇ。これがその魔獣の原因かもしれないということか」
それを見たトモカが慌てて注意を呼びかける。
「はい。あの、獣人に対する菌の影響は分かっておりませんので、ここでは蓋を開けられないようお願い申し上げます」
「ハハッ分かっているよ。俺も魔獣になんてなりたくないからな」
ガルドは気楽な様子で明るく笑いながら、手に持った瓶を重厚な木製の執務台にコトンと置いた。
トモカが菌の生えた培地をピーターとレオに見せた翌日の午後、3人は国王の執務室を訪れていた。
菌と魔獣の関係を研究したいというトモカを、国王ガルドに会わせるためだ。
クレムポルテ王国に限らず、このテナン大陸では遥か昔から魔獣の存在に悩まされてきた。魔獣を抑制する力を持つと言われる聖女が崇められるようになったのもその一端だ。
各国共に魔獣の扱いには手を焼いているのが現状だった。
しかし菌についてはともかく、魔獣に関しては国防上の問題でもある。更に、聖女であるトモカを魔獣と直接関わらせて良いのかという懸念もあった。ピーターやレオの一存で許可を出すことが憚られたため、国王の判断を仰ぐことにしたのだ。
通常なら謁見にはいくつかの手続きが必要となる所を、司祭ピーターの権威とレオの軍での肩書きを最大限に利用し、至急の報告があると捩じ込んだ。使えるものは何でも使え、がレオの信条である。
国王ガルドは瓶を置いてひとつため息をつくと、少し後ろに倒れて椅子の背もたれに体重をかけ、肘置きを指でトントンと叩いてしばし何事かを考えている様子だった。
しかしすぐに身を起こす。
「トモカはこれと魔獣の研究をしたいんだったな。個人の趣味の範疇で、という理解でいいのか?」
「……はい。今まで見たことがない菌なので、気になってしまって……」
「そうかわかった。いいぞ、好きなように進めてくれ」
「へ……?」
合理主義な父の性格を知っているレオはなんとなく予想もついていたが、トモカはあまりにもあっさり認められたため、反対に戸惑っている様子だった。
「驚くことはない。"菌"という物の現物も見せてもらったし、説明もよく分かった。研究の結果次第では魔獣の発生を抑えられる可能性があるということだろう?」
「……現状ではまだ分かりませんが、最終的にはそこまでいければと考えております」
トモカはやや緊張したような声で答える。
「それでも十分だ。少なくとも手がかりではある。ここしばらく魔獣の報告はなかったんだがな、数日前からまた西の森を出入りしている商人が襲われたという報告が入っている。確かに報告数自体は減っているが、完全に居なくなったわけではないようだ。無視する訳にはいくまい」
レオはピクリと反応した。
西の森でレオやトモカが倒した個体が全てではなかったらしい。
やはりまた現れはじめているのだ。
「国としても辺境や他国との交易路を荒らす魔獣については頭が痛い問題でな。軍や冒険者ギルドから上がってきた今までの討伐報告をまとめさせて、発生動向や生態を類推したりはしているんだが、どうもはっきりとした手がかりが掴めなかったんだ」
ガルドの言葉を受け、レオも大きく頷いた。
魔獣は魔力を感知する能力を持ち、魔力を持つ獣人が近くにいれば必ずと言っていいほど襲ってくるため、遭遇次第逃げるか討伐することになる。
つまり、魔力を持つ存在が近くにいない時に、魔獣がどのような生活を送っているのかなどは全くの不明なのだ。かと言って魔獣の調査に魔力を持たない者を送り込むような危険なこともできないため、その生態はほぼ謎に包まれていた。
それに、とガルドは執務台に肘をついて軽く身を乗り出した。
「トモカがガイアの地で医者のような仕事をしていたようだと言うのは、最初にピーターから聞いてる」
「は、はい。医者とは言っても動物専門なのですが……」
「それなら尚更だ。魔獣も聖獣も家畜もみな、動物は動物だからな」
ガルドはそう言って、執務台横の小さな台に置かれていた数枚の紙の束を、バサッと執務台の中央へ放り出した。レオは見覚えのあるそれを見て軽く目を見開く。
「もうひとつ。レオナルドからのこの報告書で上がっていた、ドムチャ村の牛の件だ。具体的な人物や施設は伏せられていたが、時期から言って、これもきみが治療したんだろう」
「……はい」
「やはりそうか。ありがとう、礼を言う」
ガルドは徐に椅子から立ち上がった。執務台の横を歩いてぐるりと手前に回ると、台の角に行儀悪く腰かける。黒く艶めいた尻尾がふわりと揺れた。
「確かに最近、ドムチャ村からの牛乳の出荷量が不安定になっているという報告は来ていたんだ。原因までは分からなかったんだがな。あの村は国じゅうの食肉と乳製品を扱っている地域だからな。あそこで何かがあれば国民の食糧問題に関わる。あまり長引くようなら調査の者を送ろうと思っていたところだ」
「そうでしたか……」
「村からの報告では、一時期は乳の出荷が極端に減っていたが、一昨日あたりからまた徐々に増え始めているらしい」
「本当ですか!? 良かったです」
トモカは心底安心したように微笑んだ。レオも少しホッとして息を吐く。
ガルドはトモカを見据える。
「トモカ、きみには既にそういう実績がある。つまりきみが持つ知識はある程度信用に値するという事だ。もしその研究が成れば、我が国だけでなく大陸中が魔獣の恐怖から解放されることになる可能性も秘めている。だから、俺はきみが個人的にとはいえ研究を進めてくれることについては全面的に賛同するし、必要なものがあれば国として援助もしよう。後で契約書を送らせる」
「ありがとうございます!」
トモカは勢いよく頭を深く下げた。
ガルドはそんなトモカの頭を不思議そうに見つめる。
そして窘めるようにトモカの頭を上げさせ、静かな声をかけた。
「礼は要らない。ただしひとつだけ条件がある。トモカ、きみは聖女だ。国としてはその事実はできるだけ隠すが、同時に全力で守らねばならない存在でもある」
「……はい」
「だから研究はしてくれて構わないが、扱うのは魔獣だろう? きみの身に危険がないよう十分に注意を払って欲しい。危ないことは決してしないこと。そして当然、周りにも危険が及ばないよう気をつけてくれ。何かあればすぐにピーターかレオナルドに相談しなさい」
「分かりました。私もやるならしっかりと安全対策をしてから進めるつもりではいます」
これはレオも心配していた事だった。
魔獣の研究をどうやって行うのかは分からないが、トモカが危険な目に遭うのは困るのだ。
しかし、トモカの目には迷いはない。この様子なら進んで危険に飛び込んでいくような真似はしないだろう。
「で、その研究はどこでどうやってするつもりなんだ。魔獣を扱うんだろう? 城で飼える場所を用意するか? なんなら城内で怪しまれずに研究が出来るように、それなりの役職を用意するが」
「い、いえ、当分はまだ魔獣自体を飼育するつもりはないですし、長時間の実験になる可能性もあるので、できればその場で寝泊まりできた方が楽なんです。あの……ピーターさんから明日の講義が終われば選んだ家に移って良いと言われています。もしそこを安全に使えるように改修しても良いのなら、それが一番良いのですが……」
魔獣を使う訳わけではないと聞き、ガルドは拍子抜けしたような顔になった。
「なんだ、魔獣は使わないのか。じゃあいい。家はリストを渡してあっただろう? あれに載っているのは全部、空き家状態が続いて国が代理で管理している建物で、持ち主はいない。改修はトモカの自由にしてくれていい」
「そうなんですか、ありがとうございます!」
レオも少しホッとする。
しかしこれで目的の国王の許可は降りた。
「では私たちはこれで……」
レオが退出の挨拶をして部屋を出ようとしたその時、ガルドがふと思い出したように告げた。
「そういえば伝えるのを忘れていたが、念のため、トモカの住む家には俺の配下の者を交替で警護に当たらせる予定にしている。どの家にするか決まったらピーターを通じて教えてくれ」
「は、はい」
「ええ……」
素直に返事をしたトモカとは対照的に、レオが眉を顰めて嫌そうな声を出す。
国王ガルドの配下の者ということは、おそらく国王直属の諜報部隊の誰かに違いない。表立って直接的に警護するのではなく、遠くから警護する形にしたいのだろう。トモカが聖女だと気づかれないように。そしてトモカが気兼ねなく暮らせるように。
レオのその声に気づいたガルドが意外そうな表情で聞き返した。
「なんだレオナルド、トモカに警護をつけるのが不満なのか。むしろ警護を増やせと言ってくるかと思っていたんだが」
「いえ、警護をつけること自体に異議はありません。失礼しました。ただ、私以外の男がトモカの家をコソコソとストーキングするのかと思うとつい」
レオの言葉を聞き、ガルドの目が呆れたように細められる。それと同時に、はぁぁぁ、と大きく長いため息が吐き出された。
「大丈夫だ。確かに警護には男もつくことになると思うが、トモカにとってお前以上の変態はいないから安心しろ」
「どういう意味です?」
「どういうも何もそのままの意味だぞ。まぁフラフラと女を渡り歩いてたお前にも、やっとそういう相手ができたってのは親としちゃ安心だが。今のお前を見てると今度は加減が分からなくて突っ走りそうでな」
「失礼な。ちゃんと我慢してますよ。我慢しすぎて辛いくらいですよ」
「そういう事じゃねぇんだよ。それしか頭にないのかエロバカ息子」
ガルドは立ち上がり、息子の黒い頭を平手で勢いよく叩く。
そしてトモカに向き直って真っすぐに見つめ、その肩にポンと手を置いた。
「トモカ、自覚のない変態の相手は大変だろうが、もし辛くなったらいつでも逃げていいんだぞ。今コイツは独占欲の亡者だからな。万が一監禁でもされそうになったらすぐにピーターに助けを求めろ。俺が直々にコイツを締めてやる」
「え……ありがとうございま、す?」
突然話を振られたトモカだったが、トモカは小首を傾げながらもガルドに素直に礼を言っている。
レオは焦った。
(いやちょっと待て、監禁って! オレ、そんなことしそうに見えるのか!?)
「ちょっ……トモカさん? オレ、トモカを監禁なんてしないからね? このおっさんの言うこと真に受けないで」
「うーん。数日くらいだったら別に監禁されてもいいけどね、レオになら」
「い、いいんだ!? え、も、もしかしてトモカそういうの好きなの?」
「……好きなわけないじゃない。何言ってるの」
予想外の言葉にやや興奮してうわずった声を上げたレオに、トモカの冷たい視線が突き刺さる。
ほんの一瞬、手足の自由を奪われたトモカの身体に触れる想像をしてしまったとは、この状況では口が裂けても言えなかった。それこそ間違いなく一生変態扱いされてしまう。
(あ、でもこういう蔑むような視線も結構いいかも……じゃなくて!)
危険な方向へ飛びそうになった思考を必死で引き戻し、慌ててトモカに言葉の真意を問う。
「え、じゃあどういう」
「知らない人なら死んでも嫌だけど、レオのことは一応……信頼してるから。レオに数日部屋に閉じ込められるくらいならなんとか我慢できるかなって。レオならそんなに酷いことはしないだろうし、イヤって言ったらやめてくれそうだしね」
そもそも監禁などしない、というレオの主張する方向とは完全にズレているが、これもトモカなりのフォローなのかもしれない。
(トモカが聖女様に見える! いや、聖女には違いないんだけど!)
しかしガルドは追い打ちをかけるようにトモカの言葉を諌めた。
「トモカ。こいつの外面に騙されるなよ。確かに女には優しいだろうが、最近目覚めたばかりの変態だからな。絶対閉じ込めただけじゃ済まないぞ」
「そうですな。レオナルド様はトモカさんを鎖で繋ぎたいとも仰っておられたそうですからなぁ」
ピーターまでもが参戦してきて、レオはギョッと目を剥く。
(待ってくれ、トモカを鎖に繋ぎたいなんて言ってな……あれ?)
頭の隅に引っかかった記憶を思い出し、レオの血の気が引いた。そういえばそんなことをどこかで言ったような気もする。
しかし、言った相手はピーターではなく……。
(あいつ! 喋りやがった!)
鑑定術士は基本的に口が固い。それは事実だ。
しかしそれは鑑定で知り得た情報に関してのみである、ということをレオはすっかり忘れていた。
「ピーターさん!? サーロスのやつ鑑定のついでにそんなことまで報告してんの? た、確かに言ったかもだけどあれは言葉の綾っていうかさ」
「……うん、いくら血の鎖とは言っても、本物の鎖で繋がれたらさすがに私もちょっと引くかな」
「トモカまで! だからしないって! サーロスにもしないって言ったはずなんだけど!?」
「ふふっ」
王城の執務室に、誤解を解くべく必死になっているレオの声と、トモカのおかしそうに笑いを堪える声が響いた。
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「へぇ、この中から選ぶんだ?」
「そう。どの辺りに住むのがいいのか全然分からなくて。レオならどこにするかなって」
城から教会に戻ると、トモカが自室から1枚の紙を持ってきた。トモカが住む家の選定を手伝って欲しいという。
裏口のホールに置かれた小さめのソファに2人で並んで座り、紙を覗き込む。
紙にはいくつかの建物の簡単な見取り図が記載され、それぞれが中央に描かれた地図と線で繋いであった。
(なるほど、若い女の子が好みそうな場所ではあるな)
提示されている建物は、いずれも女性向けの雑貨店などが立ち並ぶ通りや、小さな飲食店が軒を連ねる通りの近くだ。
周辺にはそういった店の従業員も多く住んでいる。トモカが1人で住んでいても特に違和感はない場所ばかりだった。
レオは一つ一つの建物の図を丁寧に眺め、やがてそのうちの2つを指し示した。
「そうだなぁ。この中だったらオレとしては場所的にこの辺りか、こっちがおすすめ」
「こっちは? 広くていいかなって思ったんだけど」
「このあたりは夜遅くまで酒を出すような飲食店が数軒あるから、特に夜がうるさいんだよ。治安はそんなに悪くはないけど、ナンパ目当ての男もウロウロしてるからさ、トモカにはおすすめしたくないな」
「そっかぁ。じゃあレオのおすすめのどっちかで決めようかな」
どちらもセントラル教会がある王城広場からはさほど離れていない。
「ここから近いし、今から見に行ってみる?」
「い、行きたい! いいの?」
「いいよ、まだ明るいし。どうせピーターさんが鍵持ってるんだろうし」
まだ夕方と言うには早い時間帯だった。家を2軒見て回るくらいなら問題はないだろう。
「ウーさんも連れてっていい?」
「そうだね、ウーも一緒に住むんだし、見てもらった方がいいな。ピーターさんに伝えてくるから、その間に普通の服に着替えておいて」
「うん、ありがとう!」
トモカはパタパタと部屋に駆けていく。レオはその後ろ姿をしばらく微笑んで眺めていたが、やがて軍服の上着を脱いでソファに放り投げ、ピーターのいる礼拝堂へゆっくりと足を向けた。
大変遅くなりましたm(_ _)m




