6."疾風の大牙"レオ
窓から入る柔らかな陽射しが、室内の空気をゆっくりと暖める。
おそらく時間はお昼を少し過ぎた頃のはず。
あともう少しは気温が上がってくれるかもしれない。
トモカはほっとした。
顔と患部以外を布で覆っているとはいえ、お湯や火が使えないので体温の保持がどうしても難しかったのである。
陽射しのおかげか、嗅がせているアルコールのおかげか、先程からこの子の震えも少しずつ治まってきたようだ。
永遠にも思えた虫を取り除く作業がようやく終わり、消毒したナイフで残りの壊死した部分の皮膚を丁寧に切除する。
ガラス瓶につめた水を少しずつ振りかけ、残りの患部に残る壊死組織の欠片を丁寧に取り除くように洗浄すると、きれいなサーモンピンクの筋肉だけが残った。
よし、壊死組織の除去は終わりだ。
とその時、ずっとぐったりして身動きひとつしなかった獣が、ゆっくりと目を開けた。
頭は上げないものの、目だけでキョロキョロと周囲を伺っている。
ストレスとなっていた痛みの原因がなくなって、少し復活したか。
一旦処置を中断して、包帯状に裂いた布の1枚にたっぷりと水を含ませ、患部に巻いて乾燥を予防する。
鼻先に置いた酒の布を遠ざけ、別の布の切れ端に水を含ませて口元にぽたぽたと垂らしてやる。
アルコールの余韻で多少ボーッとしているようではあるが、処置を始める前よりは少し元気が出たようで、水が口に入ればぺろぺろと舌を動かし飲み込んでいた。
手足も少し動く。
このような怪我で一番辛いのは、おそらく虫が筋肉を食い破る痛みなのだ。
トモカは前の世界でも何度かウジに集られた動物の治療をした事があったが、その時も最初はグッタリしていてもウジを除去した途端に多少元気を取り戻すケースが非常に多かった。
(うーん、起きちゃったから、さすがに移植はしない方がいいかな)
いくらアルコール吸入で酩酊させても、傷みに対する感覚が鈍るだけで、痛みが完全にゼロになる訳ではない。
意識がないままなら、余裕のある腹部の皮膚を切って移植し、包帯で固定してみようかと思っていたのだが、意識がしっかりあるのに腹の皮膚を切り取るのは……さすがにまずいだろう。
皮膚移植をすれば早く治る可能性が高いのは間違いないが、今は縫合の道具がないため、切り取った皮膚片を包帯で固定するしかなく、正直なところ移植が成功する確率はおよそ五分。
半ば賭けのようなものであった。
その程度の処置なら過大なストレスをかけてまで行う必要はないだろう。
虫や壊死組織が残っていると治るものも治らないので、壊死組織の除去が全部終わっただけでも今日は充分なのかもしれない。
まずは体力回復を優先させよう。
(治りが悪ければどうにか麻酔の方法を考えて移植すればいっか)
湿らせた包帯を巻いた上から、カバーとしてさらに乾いた包帯をし、きつくなり過ぎないように気をつけて腰に固定した。
「今日はこれで終わるからね。明日包帯変えようね」
処置に耐えた獣を褒めるようにポンポンと軽く頭を撫で、落ちないよう作業台の上から床に移動させて、少し水を飲ませる。
頭を起こせるようになっており、少しずつ意識もハッキリしてきたようだ。
(よしよし。この調子なら怪我さえ治ったらそのうち自然に返せそうね)
トモカは安心し、使った道具や虫が大量に入ったバケツを持って外に出た。
バケツの中の虫は森の中にドバっと捨てる。
まだちょっと動いているように見えたが、気にしない。……ことにした。
使った道具や汚れた布、空になったバケツは、湖で丁寧に丁寧に洗う。
あとは全部ロープに引っ掛けて天日干しすれば終わり。
適度な疲れを感じてトモカはうーんと伸びをし、苦笑する。
まさか異世界に来てまでまた動物の治療をする羽目になるとは思わなかったな。
なんの因果なのだろう。
小屋に戻ると、小さな獣は上半身を起こして部屋に入ってくるトモカの姿を眺めていた。
「お、起きてるね。なんか食べるかい?」
答えが返って来ることは期待していないが、ついつい話しかけてしまう。
意味は分からずとも何か話しかけられたことは伝わったのだろう、獣は首を傾け、丸い紫の瞳でこちらを不思議そうに見つめている。
最初見せていたトモカに対する激しい警戒心は、もうあまりないらしい。
しかし、何を食べるのか分からない。
見た目はフワフワの体毛と兎のような耳と身体なのだが、角も生えていて、ヤマネコのような結構鋭い牙も持っている。
まるで可愛い小鬼のようだ。
牙だけ見ると肉食なのか。ただ目の位置は外向きでとっても草食獣っぽいんだけど……。
どっちなのかよく分からないが、そもそも食べられるものがこれしかないので仕方がない。
先程この獣を保護した時に一緒に採取していた赤い木の実を、口元にひとつ差し出してみる。
……。
反応がない。
いや、よく見ると全く無反応な訳でもなく、上目遣いで木の実とトモカの顔を交互に眺めている。
まだ食欲がないのか、一応警戒しているのか、純粋な肉食で木の実など食べない種類の動物なのか……。
見ているとトモカ自身がお腹が空いて来たので、獣の前に木の実を置いて、もうひとつを手に取り自らの口に入れてみる。
適度な酸味と甘みが疲れた身体にとても美味しい。もうひとつ食べよう。
トモカがもぐもぐ食べていると、その様子を眺めていた獣が少し試すように目の前の木の実を口に入れた。
シャクシャクシャクシャク。
(食べた!)
口に入れてみたら美味しかったのか、目を細めて嬉しそうに咀嚼している。
良かった。
思ったより元気そうだ。
もうひとつ差し出す。
今度はトモカの手から直接食べた。
そして1人と1匹は、満足するまでゆっくりと交互に木の実の食事を続けたのだった。
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「マスター!頑張ってる俺にエール1杯くれよぉ」
冒険者ギルド近くの酒場で、銅貨をジャラジャラとカウンターに並べ、昼間から酒を注文する不真面目な男が1人。
黒い大きな耳を期待でぴくぴく動かし、店主の登場を待ち構えている。
「なーにが頑張ってるだ。ギルドで暴れてきたんだって?"鬼殺し"がヒョロい奴1人にノされたってさっきから色んな奴らが噂してたぜ」
奥から出てきた店主がニヤニヤと下卑た笑みを見せながら、なみなみと液体の入った木のジョッキを差し出した。
レオはジョッキを受け取って、注ぎたてのエールをガブッと1口飲み込み、店主を軽く睨みつける。
「プハーッ。暴れてなんかないぞ。あっちが思ったよりガチでジャレてきたから、ちょっと場所考えろって優しーく教えただけだって」
「まぁお前さん、ここ1年以上ギルドに顔見せなかったからな。名前は知ってても顔までは知らんやつも多いんだろ」
"疾風の大牙"レオ。
稀に依頼を受けにやってくる凄腕のSランク冒険者。
ギルドから正式にSランク認定された者はクレムポルテ国内に3人しかいないので、冒険者でその名を知らぬ者はまずいない。
ただし、単独行動が多く、ギルドにもごく偶にしか顔を出さないので、ほとんどの冒険者は皆名前しか聞いたことがないのだ。
したがって"疾風の大牙"は1箇所に留まらず世界中を旅して難依頼のみを探して受ける、流れの冒険者だと思われている。
しかし実際は何のことは無い、単に冒険者稼業はただの趣味で、普段は別に本業があるのでなかなか顔を出せない、というだけだ。
世間の皆が知るのは、あちらこちらでささやかれる武勇伝と噂話のみ。
噂には本人の知らぬところで盛大に尾鰭がつく。
世界中の冒険者ギルドを牛耳っているだの、
3メートルはゆうに超える巨人だの、
怒らせると口から火を吹いて街ごと焼き尽くすだの、
1人で魔獣の村をひとつ滅ぼしただの、
あたかも魔王の如き語られようである。
最後だけはあながち嘘というわけでもないのだが……。
「レオ」なんてごくありふれた名前ではあるし、たとえ本人を目にしても、噂の凄腕冒険者サマの恐ろしいイメージと、目の前の細い優男風の容姿やチャラい言動とが一致しないため、同一人物だと分かっている者は特に親しい者数名とギルドの職員くらいしかいない。
本人を前に
「お前と同じ名前のレオ様ってすげぇ冒険者がいてな」
と噂話が開始することも多々ある。
レオ自身も特に気にせず
「へぇ。ほぉ。そりゃすごいねぇ」
とニコニコして相槌を打つものだから、まずもって気づかれないのだ。
尤も正直に「俺がそのレオ様だぜ☆」と名乗っても、周囲から白い目で見られるだけなのはレオ本人もよく分かっていた。
別に隠している訳では無いが、無駄なことはしないに限る。
「で?ここに来たっつーことは次の仕事の準備なんだろ?なんか要るのか?」
「さっすが話が早いねマスター!……魔導具師のケミックくんに繋ぎを取って欲しいんだよね」
銀貨2枚をカウンターにそっと差し出しながら、レオは声を顰めた。
「どこに行けばいい?」
店主は銀貨を受け取り手の平でそれを遊ばせながら少し考えていたが、やがて口を開き、低い声で告げる。
「……7月通り沿いにマルールって旨いパン屋があるの知ってるだろ。その右隣に空き家がある。鍵は掛かってないから、今日の夜、月が真上に来る頃にそこで待ってろ。アイツは夜しか動かねぇ」
「分かった。助かる」
レオは小声で返すと残りのエールをぐいっと飲み干し、にこやかな笑顔で空のジョッキを突き出す。
「マスター、その金でもう一杯だけちょうだい!」
「クソッ、ちゃっかりしてやがる」
店主は肩を竦めてジョッキを片手に奥に引っ込んだ。
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7月通りは王都ローレリアの街の中でも、パン屋や、カフェ、服屋、雑貨屋など小洒落た店が多く、昼間は若い女性達やデートを楽しむカップルで賑わう。
その反面、夜になると多くの店が早々に明かりを消し、月が高く昇った今では路上にはほとんど人通りがない。
「フンフフフフーン、フフーン♪」
レオは例によって下手くそな鼻歌を歌いながら夜道を歩く。
鼻歌に合わせて黒く長い尻尾が楽しそうに揺らめいた。
夜なので一応音量はかなり抑えている。
すぐ隣に人がいれば聞こえるかどうかの大きさ。
レオなりの気遣いだ。
月明かりに照らされた美味しそうなパンのイラストと、お洒落な細文字で書かれた「マルール」という店名を確認し、その右隣のあちこちペンキの剥げた水色の扉に滑り込む。
小さな窓からうっすらと月明かりが入っては来るものの、空き家の中はほとんど真っ暗だ。
レオは指先に魔法で小さな炎を灯す。
細長く狭い室内が、ぼんやりと赤く照らし出された。
軽く埃の積もった、古びた木の床。家具は何もない。
ガタッ。
その時、小さな物音と共に床板の一部が四角く外れ、扉が開くように上向きに反転した。
開いた床から四角くオレンジ色の光が漏れている。
ヒョイヒョイ。
床下から細く小さな手がにゅっと伸び、レオを手招きした。
レオはすぐさま穴の空いた床を覗き込むと、指先の炎を消す。
穴に繋がる梯子をスルスルと降り、最後に外れた床板を元に戻した。
床下からの明かりが遮断される。
そこには元通りの、月明かりが照らす薄暗く狭い部屋と、静寂だけが残った。