55.薬屋と薬師
「今までのところで分からない所はございますか?」
図書館のように本棚で囲まれた教会の応接室で、トモカはピーターの説明を必死にノートに書き込んでいた。
もちろんトモカが書いているのは日本語だ。
文字と基本的な単語は昨日ひと通り習ったが、さすがにまだ聞いたテナン語をスラスラ書き取れるほどにはなっていない。
昨日の講義は簡単なテナン語の読み書きとテナン大陸やクレムポルテ王国の地理、文化そして簡単な食事マナー。
今日の勉強はテナン大陸の大まかな歴史と政治情勢、そして聖女について。
なかなかの詰め込みカリキュラムだ。
「多分、今のところは大丈夫だと思います」
トモカはそう答えたが、実際は詰め込まれすぎて、分からないことがあるのかないのかすら分からない、といった状態だった。後でしっかり復習をしなくてはいけない。
ピーターはそんなトモカを見て目を細める。
「トモカ様、多少はこちらの世界に慣れられましたか」
「うーん。慣れたかと言われたら、正直なところ、まだあんまり。最初は森で過ごしていたのであまり実感がなかったんですけど、この国に来てからは獣人の人ばかりだし、魔法の力も普通の生活に使われてるしで、違う世界に来たんだなぁってすごく……実感してるところです」
トモカは率直な感想を述べる。ピーターはうんうんと大袈裟に頷いた。
「そうでしょうな。私はまず魔法の概念を受け入れるまでに数ヶ月かかりました。10日もかからず既に魔法を使いこなしていらっしゃるトモカ様は、相当優秀な方かと」
「そ、そうでしょうか」
トモカは手放しで褒められドギマギする。
(私が優秀というよりは先生が良かっただけなんだけど)
ウーのスパルタ教育を耐えてきた甲斐があったというものだ。
「それに、今まで他にも何人か転生者の方々の教育を受け持たせていただきましたが、トモカ様は吸収がかなり速くていらっしゃいます。本当に素晴らしいことでございますな」
ピーターの言葉はいつもやや芝居がかっているため、その大袈裟な賞賛が本気なのかお世辞なのかはよく分からないが、トモカにはどうにもむず痒く感じる。
何故だろうかと考え、1つお願いをしてみた。
「あのぅ、それなんですけど、私、庶民なので目上の方に"様付け"で呼ばれるのがどうしても落ち着かなくて。私はレオと違って王族でも何でもないですし……。もし可能なら普通に呼んでいただけると嬉しいんですが。呼び捨てでも構いません」
ピーターはそれを聞いて眉を大きく上げ、両手を上げた。
「おやおや、困らせてしまっていたのですね。ではトモカさんとお呼びいたしましょうか」
「はい、わがままを言ってすみません、ありがとうございます」
トモカが深々と礼をする。
すると、ピーターにはトモカが言いたいことが伝わったのか、少し砕けた口調になってニヤリと笑った。
「私の喋り方は前世からの癖でしてね。国王陛下にもよく胡散臭いとお叱りを受けるのです。申し訳ない」
「……もしかして前世でも司祭とか神父とかされてたんですか?」
「いえいえ、私は舞台俳優でした。舞台では少し大袈裟な方が映えますので、どうしてもね」
「舞台俳優さん!」
トモカは納得した。普段は少し過剰に見える大きな身振りや手振り、少し大袈裟なセリフも、確かに大きな舞台の上では見栄えが良いだろう。
そう考えるとピーターの司祭という立場も、ある意味信者の前で舞台に立っているようなものなのかもしれない、とトモカは思った。
「さて、今日は今からレオナルド様とお出かけになるのでしょう?」
「ご存知、でしたか」
なんとなく気恥ずかしくなって俯くと、ピーターはニヤリと悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
「レオナルド様が朝一番で乗り込んで来られて、トモカさんを連れ出す許可を求められましたからね」
「今朝来たんですか!?」
トモカは驚いて聞き返したが、ピーターは少し片眉を上げた。
「今朝どころか今もいらっしゃいますよ。資料室に」
「えっ」
「調べたいことがあると仰って閲覧許可を申請され、朝からずっと籠っていらっしゃいます」
そういえば昨日、レオが去り際に調べ物があると言っていたのを思い出す。
教会の資料を調べているのだろうか。
「今日の講義はもうこれで終わりですし、トモカさんも行かれますか?」
「私も入っていいんですか?」
王子であるレオに閲覧許可が必要だということは、トモカも何らかの制限を受けるのではないかと考えたが、ピーターは問題ないというように大きく頷く。
「お貸ししているその服は上級神官の物です。それを着ていれば資料室も自由に出入りができますよ。トモカさんは聖女ですから、ガイア教について深く知っていただくことは我々にとっても都合が良いのです」
そう言ってピーターは図書室へトモカを促した。
トモカが教会の別棟に建てられた小さな資料室に入ると、ピーターは中には入らず「それではごゆっくり」とニッコリ微笑んで去っていった。忙しい時間を割いて講義をしてくれていたのだ。次の仕事があるに違いない。
トモカは資料室の中にそっと足を踏み入れた。少し埃っぽい臭いが鼻孔をつく。
トモカはそこにある書棚の量に圧倒されながら奥に歩みを進める。
「トモカ?」
部屋のどこかからレオの声が響いた。
「う、うん。レオどこ?」
「そこで待ってて」
どこかでガタガタと本を書棚に納める音がした。トモカがどこだろうとキョロキョロしていると不意に後ろからガシッと硬い腕で抱きしめられた。
「ひゃあっ」
「おはようトモカ。……会いたかった」
後ろからがっちりとしがみつかれたまま、トモカは首だけを後ろに回す。顔は見えない。
「レオ。びっくりした、おはよう。よく私って分かったね」
「トモカの足音はもう覚えたし」
飼い犬か!と内心思ったが、トモカは黙っておいた。
しかし、そのうちレオのしがみつく力がだんだんと強くなり、少し息苦しくなる。
「ちょっと……レオ、苦し……」
「うん……」
レオは生返事をするが、それでも離さない。ぎゅうぎゅうとトモカを抱きしめたまま、トモカの肩に顔を埋めてくる。トモカの首筋にレオの硬い髪と尖った柔らかい耳がサワサワと当たった。ゾクリとするようなくすぐったさと抱きしめられている息苦しさでトモカの呼吸が少し浅く速くなる。
「トモカ……」
(何かあった?)
いつもと少し違う様子のレオにトモカは戸惑う。
気になって顔を見ようとしたが、身体に回る腕の力が更に強くなって動けない。
その時、首の斜め後ろに熱い吐息が当たった。何かぬるりとした熱く柔らかいものが押し当てられた、と思った瞬間、チクッと小さな刺激が走る。
「痛っ」
トモカがその刺激に驚いて首を勢いよく振ったため、レオの頭とトモカの頭が激しくぶつかった。
ゴチン!
一瞬視界が白く光った。
「いって!」
レオもトモカに回していた腕を片方外して、自分の側頭部をさすっている。
「いま、いま……く、首舐めた!? ていうか噛んだ!?」
トモカはレオの緩んだ腕から抜け出し、真っ赤になりながら自分の首の後ろを手で押さえる。
ようやくまともにレオの姿を見ることができた。レオはいつもと同じ、質の良さそうなシンプルな白いシャツに黒っぽい下衣を履いている。
レオは逃げ出したトモカに不服そうな顔を見せた。
「うん、舐めたけど。噛んではないよ、一応」
「な、なんで!?」
「なんでって……舐めたかったから? なんか美味しそうで」
「お、おいし……」
トモカは絶句する。
(何この変態)
しかしレオは全く悪びれずに答えた。どうも本気で納得していないようだ。
「トモカだって昨日キスしてくれたじゃん。オレもしたし」
「あれはほっぺたでしょ!」
「ちょっと場所が違うだけだよ。なんか違うの?」
「ちが……わないけど」
そう言われるとトモカもよく分からなくなってきた。
レオは軽く肩を竦める。
「ほっぺならいいの?」
「う、うん」
トモカは戸惑いながらも頷いた。
昨日自分からレオの頬に口付けてしまった手前、ダメだとは言いにくい。
「じゃあほっぺね」
レオは真顔でトモカの瞳を見つめたまま一瞬だけ目を細め、自分の唇をぺろりと舐める。
(な、なんか怖い)
トモカはレオが明らかにいつもと違う雰囲気を纏っていることに気づいた。
その鋭い視線から伝わってくるのは、飢え。そして不安。
トモカはひどく飢えた巨大な肉食獣の狭い檻に入れられたような気分になった。足が竦む。
レオはトモカの腰にするりと腕を回し、トモカの片頬にも軽く手を添え、反対側の頬にゆっくりと顔を近づけた。
レオの熱い息がトモカの頬を撫でていく。触れるか触れないかの微かな距離で、レオの唇がトモカの頬のあちこちを柔らかく啄み、その感触を確かめ始めた。
トモカはギュッと目を閉じた。強引ではないのが余計に緊張するのだ。
窓のない静かな資料室の中で、2人の呼吸の音だけが聞こえる。
やがてトモカのあごのあたりから頬の輪郭に沿って、ゆっくりじっくりと湿った熱いものが上へと辿り始めた。トモカにその熱さを伝えるように、その熱は小刻みに往復しながらじわりじわりと上に移動していく。
トモカの背中にゾクっとした甘い刺激が襲った。
「す、ストップ!」
トモカは、我慢の限界になり慌てて両手でレオの胸を押し戻した。顔が熱い。
「な、なんか、昨日と違わない?」
「何が?」
見上げるとレオのニヤニヤとした意地悪な瞳とぶつかった。明らかに分かってやっている。
しかし、レオの雰囲気がやっといつも通りに戻ったことを感じ取ったトモカは、大きくため息をついた。
「だめ。もう終わり!」
「あらら残念。トモカの顔、美味しかったのにな」
「やっぱり顔を舐めてたんだ……」
(間違いない、この人変態だ)
トモカは確信を持ったが、何故かあまり嫌悪感の湧かない自分が不思議だった。
「……レオの調べ物は終わった?」
「まだあるけど、もう数日通うつもりだからいいよ。トモカはもう終わったんでしょ? デート行こうか」
「う、うん。じゃあ着替えてきます」
「分かった。裏口のところで待ってるね」
トモカは急いで自室に戻り、レオに買ってもらっていた白いローブと淡い桃色の長い上着を身に着ける。
髪の毛を整え、裏口の所まで行くと、既にレオが壁に寄りかかって待っていた。
待たせてしまったか、とトモカは慌てて駆けよる。
「ごめんね、お待たせしました」
「いや全然? うん、やっぱりそれ、トモカに似合うよね。買っといてよかった」
「ありがとう」
トモカが礼を言うと、レオは嬉しそうにトモカの手を取って指を絡める。
その様子はすっかりいつものレオだった。トモカは安心してその指を握り返す。
(さっきちょっと変だったのは、やっぱり私の気のせいだったのかな)
トモカの心配をよそに、レオがやんわりとトモカの手を引いて裏口の扉を開ける。
「じゃあ行こっか」
「うん!」
2人は目を合わせて微笑み、裏口からそっと歩き出した。
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「すっご……」
その店に入るなり、トモカは目を輝かせた。
魔石で明るく照らされた店内の壁一面が棚になっており、そこには色とりどりの小瓶が並べられている。
その瓶の一つ一つに何か説明書きのついた紙が糸で括りつけられていた。
レオとトモカは薬屋に来ていた。
既に王城広場のお菓子や魔石やアクセサリーの人気店などをひととおり見て歩いたが、最後に王城広場から少しだけ5月通りに入った場所にある、王都で1番大きな薬屋へレオは案内してくれた。
(薬屋さんっていうより、香水屋さんみたい)
トモカの持つ薬の無機質なイメージとは違い、全ての液体薬は鮮やかで美しい小瓶に注入され、錠剤と思われる薬もカラフルな丸い球で、それぞれ装飾の凝った広口の瓶に詰められている。
「女性用の消臭液買ってあげるって約束してたからさ」
「そういえば。いいの?」
ドムチャ村の宿で使わせてもらった魔力を使った消臭液だ。牛の臭いを一気に消してくれた優れものだった。
レオはスタスタと店の中ほどに歩を進め、棚の一角を指差す。
「もちろん。消臭液はこの辺かな。俺が使ってる野営用の匂いが残らないやつがこれ。この辺に置いてあるのが匂い付き。1番手前のが見本だから。好きなの選んでいいよ」
「うーん、あんまり匂いつくの好きじゃないし、できたら無臭か匂いが少ないのがいいかなぁ」
「そっか。じゃあ、そうだな……これとか匂い強くないし、トモカに似合いそうなんだけど、どう?」
レオは棚の前で少し考え、慣れた手つきで1本の小瓶を取り出した。淡い橙色の透明な小瓶だ。
蓋を取り、トモカの鼻の前に掲げる。
トモカは指で少し瓶の口を扇ぎ、匂いを嗅いだ。
以前も嗅いだ緑茶のような匂いと共に、微かに果物のような甘酸っぱい香りが漂う。サッパリとして嫌味のない匂いだった。
「あ、この匂い好きかも。あんまり強くないし」
「良かった。オレも好きな匂いだからいいね。これにしよっか」
「ありがとう」
レオは棚の奥から同じ色の瓶を取り出し、見本の瓶を元に戻す。その慣れた様子を見ると、どうもこの店の常連のようだ。
(店員さんが見当たらないんだけど、勝手に触っちゃっていいのかな)
レオがトモカを振り返り尋ねる。
「他に欲しいものある?」
「ここ、薬屋さんなんだよね? どんな薬が置いてあるの?」
昨日簡単な単語の綴りを習ったとはいえ、まだまだ自分で薬の説明書などは読むことができない。
トモカの問いにレオが口を開こうとした時。
「何かお探しですか」「うわっ」
棚の方を向いて話をしていたトモカとレオの背後に、にゅっと現れた大きな人影があった。
完全に不意打ちだったため、トモカは思わず叫び声を上げる。
「……ノーラ、急に背後に現れないでくれる?」
レオが呆れた声を背後に投げた。
背後に立っていたのは、淡い水色のローブを着た、妙に背の高い、40代くらいの美しい女性だった。
長身のレオよりも更に頭二つ分くらい高い。
頭にはやや黄色っぽく細長い耳と、頭頂部の辺りに柔らかそうな角が2本生えている。
もしやキリンの獣人だろうか。
「おお、レオさんでしたか。申し訳ないです、ハイ。お連れの方も、驚かせて誠にすみません、ハイ。薬師のノーラと申します、ハイ」
「い、いえ、ご丁寧にどうも……」
「いえいえ、お嬢さん何かご入用ですか?ハイ」
背の高い女性に上から見下ろされるとかなり威圧感がある。見た目の迫力に反してやたら腰が低いので多少相殺されているが、それでもあまり背の高くないトモカにとっては脅威だ。
しかし、トモカの好奇心はその恐怖心に勝った。
トモカがドムチャ村の酪農家ギロたちと話をしていた時、この世界では薬師という職業が医師よりもずっと信頼されているような口振りだった。
また、使わせてもらった消臭液の効能もかなり高い。
おそらくこの世界の製薬技術はかなり高いのではとトモカは感じていた。
どんな薬があるのか、どうやって作っているのか、元獣医師としては興味が尽きないのだ。
トモカは恐る恐るノーラに話しかける。
「あの……ここのお薬ってみんなノーラさんが作られてるんですか?」
「ええ、ハイ。私のカワイイ子供たちです、ハイ」
「こども?」
「カワイイ顔をしているでしょう? あなたが持っていらっしゃるその消臭液は、17422本目の私の子供なんです、ハイ」
「はぁ……」
トモカは顔を引き攣らせる。方向性がマニアックすぎて上手く話についていけない。
レオがそんなトモカの様子を眺めて助け舟を出した。
「トモカ、気にしないでいい。ノーラは薬に関しては有能だけど、それ以外はただの変人だから」
「レオさんに言われたくないですね、ハイ。レオさんも充分に変人ですからね、ハイ」
変人と言われたノーラは、機嫌を損ねたようにふいっと外を向く。
(ああっ怒らないで)
トモカは慌ててノーラに話しかける。完全に機嫌が悪くなってしまう前に頼んでしまいたい。
「あの、欲しいものっていうか、お願いがあるんですけど」
「ん? ハイハイ、何でしょうか?ハイ」
『お願い』と言われたノーラは少し意外そうな顔でトモカを見下ろした。
レオが心配そうな顔でこちらを見ている。トモカが何を言い出すのか心配している顔だ。
(前科あるもんね……)
しかし、トモカは諦めなかった。
怒られるかもしれない。けれど。
自分の頭より遥か上にあるノーラの顔を真っ直ぐに見つめて、依頼を口にする。
「今日じゃなくていつかお暇な時でいいので、もしよろしければ、私に薬の種類とか作り方とか、そういうのを少し教えてもらえませんか?」




