4.森で暮らそう
日が傾き、空がややオレンジ色に染まり始めている。
湖の畔に建つ小屋の前に立ち、トモカは考え込んでいた。
寝るまでに魔法の練習をしようと考えたが、何をすれば良いのかまるで見当がつかない。
トモカはすでに2回ほど風の魔法に助けられている。
何かをしたいなと願って、それを口に出すと風が代わりにやってくれた。
しかしトモカ自身は何もしていない。
つまり、トモカ自身が魔法を使って風を動かしているというよりは、風の方がトモカの願いを聞き入れて手助けしてくれたような状態なのだろうと思う。
(でも完全に他人任せってなんか怖いのよね)
自分の意思ではないので、頼んだ内容がどのように処理されるかはまったく分からないのだ。
一回目は確かに風が吹いて実が落ちれば良いのにと願い、その通りの現象が起きたが、小屋の掃除の時は旋風を起こせば良いとは口に出していないし、そもそもそんな乱暴な方法思いつきもしなかった。
魔法とはこういうものなのだろうか。
何が起きるか分からないというのは危険なようにも思う。
もう少し自分の意思で動かせるようにならないだろうか。
トモカは手の平を胸の前まで持ち上げ、そうっと上に向けて、その上に小さな風が起きるように念じる。
(風よ起きろ)
声には出さない。
おそらく、声に出せば風が勝手に吹いてくるのは想像がつく。
それではダメなのだ。
しかし、どれだけ強く念じても何も起こらない。
何度も何度も試してみるが、そよ風すら吹かない。
「ダメかー」
そう簡単にいくものでもないか。
掲げる手の角度を変えてみたり、目を閉じてみたり、念じる内容を変えてみたり、あの手この手で試してみる。
……やはり何も起こらない。
「そよ風、吹いて」
念じることに疲れて思わず呟くと、途端にヒューっと心地よい風がトモカの顔を撫でていく。
「……」
声に出した途端、あまりにもあっさりと風が吹いてくるのでトモカは脱力した。
(まぁ頼めばやってくれることは分かったわけだし、今はこれでいっか)
危ないことが起こらないように、発言に気をつければ良いのだ。
しかし雷属性の方は下手をすると大惨事になりそうなので、そもそも試してすらいない。
試行錯誤しているうちにだいぶ時間が経ってしまったのか、辺りは明度を下げ、徐々に森の向こうへ沈む太陽が赤みを増して、湖を赤橙色に染めている。
トモカは魔法を使いこなすことを一旦諦め、完全に暗くなる前に寝る支度をすることにした。
小屋の中は床張りだが、ベッドなどはないので床の上でそのまま寝るしかない。
「んー、落ち葉を敷いたらマットレスの代わりにならないかな」
葉っぱを集めるくらいなら危険なことはないだろう。
トモカは辺りをキョロキョロと見回し、危険物がないことを確認してから呟く。
「落ち葉をひと抱え分くらい欲しいな」
ヒュルルルルルル。
途端に森の中の少し離れたところで小さな旋風が起き、落ち葉を巻き上げながらどんどんこちらに寄ってくる。
旋風はトモカの目の前に来ると、スっと勢いを無くし、トモカの前にひと抱えの落ち葉を落として消失した。
「まぁ……危なくなければ便利は便利なのよね。風さんありがとう」
トモカはひとつため息をつき、積み上げられた落ち葉を抱えて小屋の中に入る。
小屋の外ではトモカの言葉にはしゃぐように、そよ風が湖面を揺らし遊んでいた。
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見覚えのある美しい猫が優雅に座り、まっすぐにトモカを見つめている。
全身を覆う艶やかな黒。大きく鋭いブルーグレーの瞳。
ただの猫なのに、思わずひれ伏したくなるような、威厳のある風格。
猫がゆっくりとその美しい頭を垂れた。とても優雅な仕草で。
何かを感謝するように。
そして再び顔を上げた猫の背後には、穏やかな老夫婦の姿。
猫はするりと立ち上がり、老夫婦の元へゆっくり歩いてゆく。
(ああ、助かったんだ、良かったね、サクラちゃん)
トモカは安堵し、再び深い眠りに誘われていった。
......................................................
チチチチ……チチ……。キョーイ!キョーーーイ!キョイーー!
森の方から聞いたことのない小鳥か小動物のような、何かの甲高い囀りがいくつも聴こえる。
窓から入る光が瞼を刺激し、トモカは目を覚ました。
頬に当たるのがいつもの枕ではなく落ち葉の感触であることに気づき、トモカは自分の状況を思い出す。
そうだ、よく分からない異世界にいるんだった。
慣れない世界であちこち動き回ったことで、やはり疲れていたのだろう。
寝る支度をして横になってからも、自分の置かれている状況やこの世界の異常さについて色々と思いを巡らせていたが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
気づけばもう朝だ。
寝る前に色々と考えていたせいか、何度も夢を見たような気もするが、うまく思い出せない。
集めた落ち葉を床に丸く広げ、マットレス替わりにして眠ったが、思ったよりも随分快適に眠ることができた。
床で寝た割に、覚悟していたほどは身体も痛くない。
身体が猫に近づいたおかげだろうか。
「んんーっ!」
大きく伸びをして、立ち上がる。
こんなにしっかりと夜に眠ったのはいつぶりだろうか。
昼も夜もほとんど眠らない化け猫のような生活をしていたトモカが、異世界に来て猫人間になったことで人間らしい生活リズムを取り戻すことができるとは、皮肉なものである。
(今日はどうしようかな)
とりあえず夜になっても朝になっても小屋には誰も来なかったし、昨日の埃の量を見ても長い間使われていなかったのは間違いない。本当にただの空き家なのかも。
だとしたら、このまましばらく借りていても問題はないだろう。
少しの間ここを拠点に周囲を探索して、この世界がどういう場所なのかをまず知らなくては。
このような小屋があるということは、どこかに人間か人間と同等の文明を持った存在がいるということだ。
ここで待っていれば、上手くすればその文明を持つ存在に出会えるかもしれい。
(まぁ出会えたところで味方になってくれるとは限らないんだけどね)
その時はその時だ。
そもそもこんな森の中にひとり放り出されていた時点で、味方など誰もいないのだから。
ベッドがわりに使った落ち葉をかき集め、外に出る。
清々しい朝日が湖に反射し、トモカを照らした。
とても良い天気。
落ち葉を小屋の外に広げて天日干しをする。
湖に行ってバシャバシャと顔を洗い、水を少し飲んだ。
喉を冷たい水がツツーッと通り過ぎ、すっかり目が覚める。
しばらくここで暮らすのなら、あの小屋を快適な住処にしなくては。
小屋の中に堆積していた埃はすっかり全部旋風が吸い出してくれたけれど、さすがに綺麗とは言いがたい。
小屋に戻り、昨日手に入れた木の実の残りを朝ごはんとして平らげると、トモカは早速行動に移る。
昨日の時点で、戸棚でバケツと布きれを見つけていた。
謎の布きれは小さめの風呂敷のようなサイズで、雑巾と言うにはやや大きいのだが、沢山あったので1枚くらい掃除に使ってしまっても問題ないよねと勝手に決めつける。
湖でバケツに水を汲み、布きれを1枚水に浸して固く絞って、小屋の中を隅々まで拭いてしまうことにした。
戸棚の外側、内側、壁、窓、作業台、床。
重労働ではあるがそんなに広くはない小屋なので、1人でも半日もあれば掃除できそうだ。
トモカは次々と布で磨いていく。
磨くついでに、昨日全部は見られていなかった造り付けの戸棚やそれに付随する引き出しの中を調べてみる。
何か使えそうなものがあれば使わせてもらおう。
しばらくすると小屋の中は見違えるほどピカピカになった。
外から見るとボロ小屋のままなのだが、誰に見せるわけでもないのでそこは気にしないで良いだろう。
そしてきれいになった作業台の上に、戸棚で見つけたものを並べていく。
戸棚の中は扉を開けてもほとんどが空だったのだが、それでもいくつか使えそうなものがあった。
昨日のうちに戸棚の1番大きい扉の部分から見つけていたのが、箒、ハタキ、バケツ。
本来は何に使うものなのかよく分からない、70センチ四方くらいの白い四角い布きれが20枚ほど。
そしてくるくるとまとめられ戸棚の扉の内側にぶら下げられていた、丈夫そうなロープ。
弦はないが弓と思われる形状の木の棒が1本。
今日新たに小さな扉から見つけたのが、金属製の皿のような鍋のような直径15センチ、深さ5センチくらいの把手のついた円筒状の容器と、同じく金属製のスプーンが3セット。
30センチほどの長さの、細く両方の先端が尖った串のような金属製の棒が12本。
ガラス製と思われるビール瓶くらいのサイズの茶色い瓶が2本。
瓶の片方は蓋もなく空で、もう片方はゴムのような栓がついており液体が半分ほど入っている。栓を開けるとウイスキーのような強いアルコール臭がする。
引き出しにはきれいに畳まれた簡素な布の服の上下一式が3セット。
クルミほどの大きさで、丸く艶やかに磨かれた灰色の石が3つ。
ベルト付きの鞘に入ったナイフが3本。どれも少しだけ錆びている。
使い道の分からないものもあるが、金属製の容器はスプーン状の器具と対になっていることから、おそらく食器で間違いない。
それと一緒に置いてあった金属製の串も、何か肉などを焼く時などに使うのだろう。
服は腰の部分を紐で縛るタイプの丈夫そうな濃緑のズボンと、頭から被って両脇を紐で止めるやや厚手の生成のシャツだった。男性物なのかどちらもトモカには大きいが、汚れてはいないようだし、着替えとして借りてしまっても良いだろうか。
服も食器もそれぞれ3セットあるので、おそらく3人で使っていた小屋だと想像がつく。置いてある物の種類からして、猟師や狩人の作業場とかだったのだろうか。
見つけたものをひととおり確認すると、服一式とロープだけ残して他のものを元あったところに片付ける。
トモカは昨日今日でだいぶ汚れてしまったワンピースを脱いで、置いてあった服に着替えた。
(うん、ラクチン!)
大きいが、腰の部分を紐で縛ってズボンの裾を折ってしまえばそんなに気にならない。
森の中をワンピースのまま行動するよりはマシだろう。
それに、うまい具合に腰の辺りに横向きの切れ目があり、そこから尻尾が出せるようになっていた。
あの小屋の本来の持ち主も、尻尾を持つ獣人なのかもしれない。
脱いだワンピースと掃除に使った布きれを湖の水でよく洗い、小屋の外にある2本の木にロープを張って干す。
燦々(さんさん)と降り注ぐ陽の光が痛いくらい眩しい。
太陽はちょうど真上にある。
掃除と戸棚の確認をしているうちに、すっかり昼になってしまったようだ。
(掃除も終わったし、近くを散策してみようかな)
ついでに何か食べられるものも探しに行かなくちゃ。
昨日採った木の実は朝ごはんに食べてしまったし。
トモカは少し考えて、戸棚からベルト付きナイフと新しい布きれを1枚、そして金属製の食器をひとつ持ってくる。
ナイフの鞘のベルトを腰に巻き、布きれは日除けのスカーフとして頭に巻いた。
猫耳が邪魔だが、耳の上から巻くと耳の内側がペタッとして気持ち悪かったので、ギリギリ耳の後ろと顎を結ぶことにする。
火が使えないし、またそのまま食べられそうな木の実でも拾ってこよう。
小屋の裏辺りを探していると、すぐにさくらんぼのようなサイズの赤い実をびっしりつけた木を見つけた。
今回は手が届くところにも沢山実がなっているので、風に頼らずとも採取できる。
ひとつ摘んで口に入れてみると、やはりさくらんぼに近い酸味の強い味がする。皮も実も問題なく食べられそうだ。
トモカは次々に赤い実を採って容器に入れた。
容器いっぱいに実を採っても全くなくなる様子はない。
これならしばらくは飢える心配はなさそうだ。
ガサッ。ガサガサッ。
(ん?)
木の実を採り終わって小屋に戻ろうとした時、木の根元で何かが動く気配がした。
降り積もった落ち葉が1箇所だけガサゴソと蠢いている。
(何か動物がいる?)
トモカは落ち葉が動いている場所にそぅっと近づき、落ち葉を持ち上げた。
「キョィー!キョイーー!!!」
落ち葉の下には、片手で抱えられるくらいのサイズのもふもふした小動物がおり、必死に近づくトモカを威嚇し始めた。
(そういえば朝、この鳴き声が聞こえた気がするわ)
毛色は白黒の斑模様でフカフカしており、見た目はウサギのような長く垂れた可愛らしい耳を持っているが……、頭に耳とは別に2本の短く尖った角が生えている。そして威嚇の声を出しているその口元を見れば、立派な2本の牙が……。
外から観察しただけでは猛獣なのか無害な草食獣なのかさっぱり分からないが、牙が生えているし、威嚇されているということは余計な手出しはしない方が良いのだろう。
「驚かしてごめんね」
言葉は通じないだろうがなんとなくそう話しかけて、トモカはめくった落ち葉を元通りに戻す。……とその時、目の端に赤いものが映った。
「あれ……、あなた怪我してるんじゃない!?」
もう一度落ち葉をめくってよく見ると、後肢の皮膚が裂けたように大きくめくれ、肉が露出しており、既にウジのような虫が沢山集っている。
怪我をしてからだいぶ時間が経っているようだ。
激しく威嚇をしているのに、攻撃する様子も逃げる様子もない時点でおかしいと思うべきだった。
最後の力を振り絞って威嚇しているだけで、相当弱っているのだ。
「お願いだから、大人しくしててね」
トモカはしばし逡巡したが、やがて日除けに巻いていた頭の布きれを外して広げ、その動物をこれ以上怖がらせないようにそっと包んで抱えあげた。
既に抵抗する元気もないのか、思ったより静かに抱えられている。
「道具もないから大したことはできないけど、困ってるのはお互い様だしね。元気になるまでうちで治療してあげるわ」
トモカは一方の手に布で包んだもふもふを、もう一方の手に木の実の入った容器を抱えて、急ぎ足で小屋に戻った。