37.ギロの農場
(きれい……)
天井に不規則に埋め込まれた光を放つ小さな石の欠片が、プラネタリウムのように寝室を淡く照らしている。
トモカはその光を見つめた。おそらくあの光も、何か魔法の力が使われているのだろう。
この村に入ってから、トモカは驚くことばかりだった。
森では自分とウーしかいなかったため、自分が魔法を使えること自体にただただ感動するだけだったが、ここでは少し違う。部屋の鍵や、魔力を送れば湯が浸み出してくる風呂もそうだが、あらゆる物にごく当たり前のように魔法の力が使われている。この世界ではおそらく魔法は誰にとっても必要な物で、日常に欠かせない物なのだ。
そして。
驚きといえばこの人だ。
トモカは隣で軽い寝息を立てる人物の、美しい横顔にそっと目をやった。
自分を保護して大きな街まで連れて行ってくれるというこの人。
気安い口調と人懐っこい笑顔でスルッと心に入り込み、ついつい気を許してしまいそうになる、不思議な人。
出会ってからほぼ丸一日。
こんなに短時間で、それこそ魔法のようにトモカの懐に入り込んでしまった。
他人と仲良くなるのが比較的苦手なトモカにとっては、驚異的なスピードで距離が縮まっている。
トモカは、自分の右手の指先に絡んだレオのやや節榑立った長い指を見て、ドキリとする。
それはまるで恋人同士のように甘く親密な光景で。
レオはトモカの手を触るのが好きだと言っていた。
そういえば村に入ってからは、何かにつけ手を繋がれていた気がする。そしてその間、ずっと指先を絡めたり、撫でたりして、その感触を確かめられていた。
そしてそれはトモカにとっても同じことで、レオに手を取られる度、少しの気恥ずかしさと共に、大きな幸福感が心を満たす。まるで難解なパズルの最後のピースがピタっと嵌った時のような安らかな心地良さだった。
トモカはレオがずっとやっていたように、絡み合ったレオの指をそっと親指で撫でてみた。それだけで心の奥から何か暖かいものが込み上げてくる。
トモカはその溢れるような幸福感に包まれながら、いつしか深い眠りの世界に落ちていった。
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やけにぐっすり眠ったような気がして、トモカはパチっと目を開けた。頭の中がとてもスッキリしている。
寝室には窓がないため部屋の中の明るさは変わらないが、隣を見ると既にレオは起きたのか、空になっていた。
トモカはうーんと伸びをして起き上がった。
ちゃんとしたベッドで眠ったのは本当に久しぶりのような気がする。
前の世界でもろくにベッドでは寝られていなかった。
資料を読みながら机に突っ伏して寝てしまったり、帰りの車から降りる気力が出なくてそのまま車の中で寝てしまったり。
(こっちに来てからもずっと枯葉のベッドだったしね)
トモカは裸足のまま床に降り、居間へと続く扉を開けた。
レオの姿はすぐに見つかった。
ソファに斜めに座り、後ろを振り返って窓を眺めている。
外はまだ真っ暗だが、地平に近い辺りはうっすらと白んできているようだ。
「や。トモカおはよ」
レオは近寄るトモカの気配に正面を向き直し、片手を上げ鮮やかな笑みを浮かべて声をかけてきた。
「……おはよう、レオ」
その手を見ると昨夜ずっと手を繋いで寝ていたのを思い出してしまった。何となく緊張してまともに顔を見ることができず、ついついレオの胸のあたりに視線を落とす。
レオはもう部屋着から普段着へと着替えていた。
昨日と同じ、質の良さそうなゆったりとした白いシャツとシンプルな黒っぽい下衣だ。左手首には部屋の鍵代わりの白い腕輪が装着されている。
昨日と全く同じ姿なのに、何故かそれを見るだけでドキっと胸が鳴る。顔が熱い。
「は、早いねレオ。私も着替えてくるね!ちょっと浴室借ります」
顔が赤くなってくるのがバレないように、サッと下を向いて荷物からワンピースを取り、浴室に飛び込んだ。本当は農場に行くのに適した服ではないが、怪しまれずに着られるものは今のところこれしかない。ギロの妻、アイラは着替えを貸してくれると言っていたし、おそらく大丈夫だろう。
浴槽にお湯を出し、急いで顔を洗って着替えて出てくると、レオはクスクス笑っていた。
「そんなに慌てなくても。日の出にはもうちょっと時間があるよ」
「でも、私が言い出したのに遅れたら悪いし」
レオは普段着の上から直接剣を佩き、鞄を腰に提げ、帽子を被ってマントを羽織った。
防具や篭手などは着けていない。
比較的危険の少ない村の中なので問題ないという判断だろう。
「じゃあちょっと早いけど行こうか。先にフロントに寄っていい?」
「うん、大丈夫」
部屋を出ると、レオは無言でトモカの手を握ってきた。例によってお互いの手の指を緩やかに絡ませて階段を降りる。
フロントのカウンターには、昨日見た宿の主人らしき人物ではなく、もう少し若い男性が立っていた。
レオの姿を見ると、すぐに声をかけてくる。
見ると、何やら片手に乗る程度の大きさの紙袋を手にしていた。
「おはようございます、お客様。先程承った物はこちらにご用意してございます」
「ありがとう、手間かけてごめんね。鍵は一旦返しておくよ」
「いえ、問題ございません。鍵はお預かりいたします。お気をつけてお出かけくださいませ」
レオは腕に填めた白い腕輪を外してカウンターに置き、代わりに紙袋を受け取った。宿の出口へと歩き始めるレオに手を引かれ、トモカは慌ててその後を着いて行く。
出口を出るとトモカはレオの手を軽く引っ張った。
「レオ、レオ、待って。何それ?」
「ああこれね、朝ごはん。本当なら日が昇ってから部屋に届けて貰えるんだけど、今日は日の出前に出かける予定だったからね。外でも食べられるように袋詰めしてもらったんだよ」
レオはトモカの手を離し、にこやかに笑って紙袋を振ってみせる。
「い、いつの間に」
「さっきトモカが寝てる時にフロントでね。部屋と中庭の延長手続きもしたかったし。これさ、行きながら食べない?」
「ありがとう、食べます」
さすが用意周到だ。
袋に入れられていたのは、茹でた野菜や焼いた肉を細かく刻んで混ぜ、薄く焼いた生地でギュウギュウに巻いた食べ物だった。これなら歩きながらでも食べられそうだ。
「いただきます」
トモカはレオから1つ受け取ると、ガブリと噛みつく。
「美味しい……!」
何のソースか分からないが、適度な塩気と酸味が効いたちょうど良い味付けだった。ただ、中の具がギュウっと詰められているため、見た目よりも相当ボリュームがある。レオは3口程であっという間に平らげていたが、トモカは少し苦労しながら食べた。
なんとかトモカが朝食を食べ終わった頃、昨夜出会ったハイエナの獣人ギロが経営する農場に到着した。
白い石を組んだ壁に赤い屋根の建物がいくつか建ち並び、長い長い木の柵で囲まれた、比較的きれいな農場だ。
遠くからナー!ナー!と牛にしては少し高めの変わった声が聞こえる。
周囲はだいぶ明るくなってきており、日の出まであと少し。
時間になるまで外でブラブラしておこうかと思った所で、少し離れた建物から名前を呼ばれた。
「トモカちゃん!レオくん!」
黒いショートカットの気の強そうな美しい女性が手を振りながら駆け寄ってくる。ギロの妻である犬の獣人アイラだ。
今日は膝下くらいの長さの、丈夫そうな生地でできた灰色のローブのような服を着ている。靴は木靴だ。これが女性用の作業着なのだろうか。
確かに汚れても洗いやすそうではあるが、あまり作業しやすい格好には見えない。
「待ってたのよー!」
「アイラさん、おはようございます。今日は突然のわがままを聞いていただいてすみません」
「やだ、それはこっちのセリフよー。作業用の服と靴は……そうねー、トモカちゃんにはうちの娘のがちょうど良さそうだから、それを貸してあげるからね!あら、レオくんは冒険者だったのね!ちょっと細いけど背は同じくらいだし、服は主人のでいいかしら」
トモカとレオは顔を見合わせた。やはりレオも参加することになっているらしい。申し訳なさそうにするトモカの頭をポンポンと優しく叩き、レオはアイラにニッコリと微笑んだ。
「ありがと、アイラさん」
「着替えはこっちの建物でね」
アイラに案内された建物に入ると、小さな天窓のついた薄暗い倉庫のような場所だった。少し埃っぽい匂いがする。
壁一面が全て棚で、その他にもいくつか大きな戸棚が背中合わせで縦にならべてあった。中には仕事で使うのだろうと思われる様々な道具が入っている。
「レオくんはこっち、トモカちゃんはこっちね。この段に服が置いてあるから。靴はいっこ下の段ね。使わない荷物はそこに置いておくといいわ。じゃ、着替えたら出てきてね」
アイラは建物から出てゆき、トモカとレオは部屋の中央に置かれた戸棚の左右にそれぞれ分かれる。
棚を見ると、確かにさっきアイラが着ていたような色の服が何枚も畳んで重ねてある。やはりこれを着るらしい。
「トモカ、服分かった?大丈夫そう?」
棚越しにレオの声が聞こえる。
ゴソゴソ音がしているので、もう着替え始めているのかもしれない。
「うん、大丈夫そう」
トモカも急いで棚に置いてあった服に着替える。サイズはちょうど良いようだ。脱いだ服は空いてる棚に置かせてもらった。下の段の木靴に履き替えて戸棚の陰から出ると、レオも同時に出てきた。レオの方は生成のダボッとした下衣にやはり大きめの灰色の上衣を着ている。
レオの服の方が多少作業はしやすそうで、トモカは少し羨ましく感じる。
2人が外に出ると、少し離れた建物からアイラが顔を出し、大きく手招きした。
急いでそこに向かうと、アイラは2人の格好を見てウンウンと頷く。
「うん、二人とも似合ってる。じゃあこっちがヒバーズ種の経産牛の牛舎よ。もう搾乳は終わったんだけど、今日もダメね。今は主人が奥でエサやりを頑張ってるわ。食べないけど……」
トモカとレオは牛舎に足を踏み入れた。
中は湿った草の匂いと土の匂いが充満している。
木の枠で区切られた場所にたくさんの牛がいる。立っている個体はおらず、皆床に座っていた。
姿を見れば牛と分かるが、大きさはトモカが今まで見てきた乳牛よりもかなり小さい。ポニーほどのサイズしかない。先の丸い角が額の中央に1本だけ小さくポコンと出ている。毛色は茶色で白の細かい斑点があり、目は青い。
はじめて見る品種だ。
手前から3番目の木枠の所で、大きな身体のギロがバケツを手に持ち作業をしていた。
「ギロさん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「ああん!?」
トモカが声をかけるとギロが不機嫌そうに振り向いたが、トモカの姿を認めると笑顔になった。
「おぅ嬢ちゃん、本当に来てくれたんだな!兄ちゃんの方も。ありがとな!手伝い頼むわ」
「はい。あの、今は餌をあげている所ですか?」
「そうなんだけどよ、どいつもなかなか食べなくてよォ。嬢ちゃん、牛が見たいんだろ?どうせならついでに他のやつにやってみてくれるか。餌はこれだ」
麦のような穀物がいっぱいに入ったバケツを渡された。トモカはその中身に一瞬目を丸くし、しかし素直に受け取る。
「分かりました。じゃあこっちの子にあげてみますね」
「おう、頼むわ。手が汚れたら入口の横に水汲み場があるからそこで洗ったらいい」
「ありがとうございます」
そう言って、1つ手前の木枠に足を踏み入れる。
トモカは一旦枠の外にバケツを置いた。
牛は入ってきたトモカの方に青い目を向けたが、すぐに頭を下ろしてしまう。全身をざっと眺めるが、やはり全体的に精気がない。
(かなり弱ってるなぁ)
牛の頭の前に置かれた四角い餌入れには少しだけ干し草が入っている。食べないので腐らないように減らしているのだろう。その干し草とバケツの中の穀物を牛の目の前に差し出してみるが、臭いを嗅ぐだけで食べない。
床が糞尿や土で濡れているため、トモカはローブの裾を縛って汚れないように気をつけながら座った。
頭を撫でてやると、少し気持ちよさそうにしている。嫌がってはいないようだ。
撫でる手を少し下に下ろして、下瞼をそっと捲る。そのまま口を触り口唇も捲って観察した。
(やっぱり歯は普通の牛と同じ。粘膜は白いけど。相当脱水してる。でも特に潰瘍も糜爛もないみたいね)
そのまま、あらゆる場所を頭の方から丁寧に丁寧に触って確認していく。
脚や蹄には問題なさそうだ。
聴診器がないため、胸に直接耳を当て、心臓の音を確認する。
何故か心音が2つ被っているような音がする。
(あれ?心雑音?……あ、でも、そういえば心臓が2つあるかもしれないんだっけ)
赤いネズミを解剖した時には心臓が2つに分かれていた。あの時は、炎を噴出するような魔力を維持するためかと思っていたが、この世界の動物の心臓が全て2つに分かれていてもおかしくはない。それにもしかしたらこの牛も何らかの魔力を持っている可能性もある。
乳房は身体のサイズの割にかなり大きい。そういえば乳が沢山採れる品種だと言っていたような。乳房表面の血管は怒張し、乳頭を触ると少し硬い。
乳房は大きいが、餌を食べていないせいか腹は凹んでいる。
床に落ちている糞を見ても量はかなり少ない。
(でもこの糞……)
トモカは隣で奮闘するギロに声をかけ、バケツを指さして尋ねる。
「すみませんギロさん、今あげている餌ってこれだけですか?」
「今はそうだなぁ。これは栄養分が高いらしくてな。これをやると体力がついて美味い乳が出るってんで評判の餌なんだ。周りの農家に病気が出たしうつされちゃ困るし病気予防も兼ねて先月あたりに買ったんだけどよ。結局こいつも病気の予防にゃ効かなかったんだけどな。最近は体力つけさせるためにこれしかやってねぇな。ただどっちにしろ今はあんまり食わねぇ」
トモカはそれを聞き、少し考えて言った。
「あのー、今朝搾乳した乳って残ってますか?」
「そこの扉んとこに置いてあるぜ。どうせ捨てるヤツだけどな」
それを聞きトモカが立ち上がると、後ろのレーンでレオが頑張って餌をやろうとしていた。全く無視されている。
トモカはそれを脇目に、搾乳された乳を見に行った。
バケツに入れられた乳は、ドロッとした薄い黄色をしており、所々何かの塊が浮いている。そしてバケツ周りにはかなりの悪臭が漂っていた。
確かにこれでは売り物にならないだろう。
(やっぱり。間違いないかな)
トモカはもう一度牛舎の様子を見回し、ある確信を持ってギロの元へ戻り、口を開いた。
「ギロさん。おそらくですが、病気の原因が分かりました」
ギロは訳が分からないという顔をしている。
レオも振り返り、少し驚いた表情でトモカを眺めている。
「はぁ?なんだ、やっぱり伝染病か」
「いえ、多分違います」
トモカはギロを真剣な眼差しでまっすぐ見つめ、ゆっくりと告げた。
「すぐ治るかはやってみないと分かりませんが、治療してみようと思います。少し、ご協力頂いても構いませんか?」




