36.濡れ髪
靴を脱ぎ、行儀悪く背もたれの部分に片足を投げ出して、レオは横長のソファーへゴロンと仰向けに寝転がった。
居間の丸みを帯びたドーム状の天井を見上げると、そこにはガイア教の神話を模した精緻な絵画が描かれており、神々の首元や手足を飾る宝石に当たる部分に、キラキラと強い光を発する小さな魔石の欠片がいくつも埋め込まれている。
全て光魔法の魔力を注入された魔石だ。
そのため、部屋の中は適度な明るさに保たれていた。
光魔法は同じく光を放つ性質のある雷魔法や炎魔法ともやや違い、純粋に光だけを放つことに特化した魔法である。
魔力量に対する明るさは全属性の中で1番強く、ごく僅かな魔力量で周囲を明るくすることができる。戦闘能力としてはあまり役に立たないため冒険者で光魔法を主として使う者は少ないが、真っ暗な洞窟を探ったり、敵の目を眩ませたりといった補助的な利用をよくされている。また、日常生活では雷や炎よりも安全に周囲を照らすことができるため、重宝される能力でもあるのだ。
魔石は庶民にとってはやや高価な物であるため、安宿で使用されることはまずないが、こういった高級宿では安全性も考えて照明には光魔法を注入された魔石が使われることも多い。
ここは特に宿の主人が熱心なガイア教の信者なのかもしれない。非常に凝ったデザインで、リアルかつ躍動感に満ちた神々の姿絵が、効果的に埋め込まれた光魔法の魔石によってさらに神々しい雰囲気を醸し出している。
「ここまで凝ってると、宿ってより教会だな」
レオはセントラル教会の聖女ユーヒメ像を思い出す。
レオが見た時は、あの中庭のユーヒメ像の持つ玉は紅い光を放っていた。
おそらく聖女であろうトモカが今日無事国境を越えたので、今頃はあの石も緑の光に変わっているのだろうか?
ちゃんと緑に変わっていれば、聖女を保護して国内に入ったことは伝わっているはずだ。数日くらい遅れても問題はないだろう。
(ピーターさんは首を長くして待ってるだろうけどね)
しかし、トモカが初めて会った農民相手にここまで熱心に心を砕くとは思わなかった。
元々好奇心が強いのは分かっていたが、あの強い眼差しは好奇心だけではない。単なる正義感とも、ただの同情とも少し違うような気がする。
あえて言葉を当てはめるとすれば、使命感、だろうか。
目の前に自分にできることがあるのなら、やらなければ。
そういった強い気持ちを感じる。
レオはどこかで焦りを感じていた。
そのトモカの使命感の強さに。
異世界から突然こちらに放り込まれたトモカが、自分とは全く無関係な国民を懸命に助けようとしている今、決して無関係ではない自分は何をしている?
もちろん今は、聖女であるトモカを無事に教会まで届けるという大切な仕事がある。Sランク冒険者として仕事を受けた以上、これは現時点では最優先事項だ。しかも聖女の保護となれば国の損益にも関わる重大な案件だ。
しかし。
一方で長期休暇を取り、その役目から逃げるように本来の仕事を休んでいる自分の立場は。
レオは天井を掴むように両手を伸ばし、自分の手の甲を見つめた。
ガチャン。
その時、浴室の扉が開いた。
「お先に入りました、ありがとう」
トモカの声に慌てて足を背もたれから降ろし、身を起こして振り返る。
扉からは、浴室の棚に置いてあった長い部屋着を着て裾をズルズルと引きずり、頭からやはり備え付けの白く大きな柔らかい布を被った謎の物体が出てきた。
レオは思わず吹き出す。
「フハッ!トモカ?何その格好」
「レオも入るだろうし、終わったら早く出てきた方がいいかなと思って」
白い布をモソモソとめくり、そこからズボッとトモカが顔を出して微笑む。
髪の毛はまだぐっしょりと濡れたままだ。
その頬はほんのり上気して艶かしい。
「ゆっくり入ってて良いのに。こっち来てから初めての風呂なんだろ?」
「そうなんだけど。でもお湯にはしっかり入れたよ。すっごく嬉しかった、ありがとう」
「そっか良かったよ。じゃあオレも入ってくるよ。トモカは寝室で休んでて。ああ、でもその前に髪をしっかり拭いてね」
「……はい」
「?」
何か釈然としないようなトモカの様子に少し引っかかったが、レオはとりあえず風呂に入ることにした。さすがに昨日から西の森を往復して魔獣とも戦ったため、少し血生臭い。
レオはトモカが入っていた時の熱がこもったままの浴室に、いそいそと足を踏み入れる。
裸になり、張った湯と小さな布を使って頭からつま先まで全身をゴシゴシと洗い、ざっと入浴を終えると生き返る心地がした。
棚には身体を拭くための白い大判の布と先程トモカが着ていたのと同じであろう部屋着が置いてある。トモカが着ると引きずるようなサイズだったが、レオが着ると膝下くらいの丈でちょうど良い。
結局トモカと同じように、部屋着を着て頭から布を被って浴室から出ると、トモカは頭に布を被ったままソファに倒れ込んでいた。体調でも悪くなったのかと思ったが、規則正しい寝息を聞くとただ寝ているだけのようだ。
今日一日でかなりの距離を移動したため、疲れているのだろう。いくらジーニーの乗り心地が静かだと言っても、一切揺れないわけでもない。森の中なので、大きな木があれば曲がったり避けたりする。落ちないようにずっと同じ体勢で座ったままでいないといけないというのは、かなり体力を削られるものだ。
チラッと頭の布を捲ると、完全に熟睡しているようだ。頭には布を巻いていたので水滴がボタボタ落ちるほどではないが、髪も、白い猫耳も、まだかなり濡れている。
どうもレオが風呂に入ってすぐに寝てしまったらしい。
レオはクスリと微笑んで、トモカを起こさないよう頭に布を被せたままの状態でそっと抱き上げ、寝室に入っていった。
レオはトモカをそっと大きなベッドの横に横たえた。
居間で自分の鞄から自分用の薄くて小さい櫛を取り出し、再度寝室に戻る。
神々の絵が鮮やかにそして細やかに描かれていた居間とは違い、寝室には天井にも壁にもあまり装飾はなく、光の魔石の数も最小限だ。
安心して眠れるよう、薄暗い空間が保たれている。
レオは自分もベッドに上がりトモカの枕元に胡座をかいて座ると、トモカの頭を白い布ごと自分の足に乗せ、布をそっと捲った。
レオは櫛を持つ右手の指に風魔法と炎魔法を集め、そこから柔らかな温風を少量ずつ出す。反対の指でトモカの茶色の柔らかい髪をひと房掬っては、指先でその感触を楽しみ、引っ張らないように気をつけながらゆっくりと梳り、温風を当てて乾かす。
レオはその甘美な作業に夢中になっていた。
半分ほど乾いた頃、トモカが僅かに身じろぎし、うっすら目を開ける。そして目の前にあるレオの顔に驚き、次いで自分の頭がレオの足に乗っていることに気づいて、慌てて頭を起こそうとした。
「レオ!?ごめんなさい私寝てた?っていうかここ……!」
(あーあ起きちゃった)
レオは青ざめて起きようとするトモカの額を左手で押さえ、再び自分の足に乗せる。
「良いから寝てなさいって。まだ髪の毛乾かしてる最中なんだから」
「えっ髪って、えっ?え?」
「じっとしないとキスするよ」
「は、はい?」
トモカはまだ状況が把握できていない。
しかしさすがに額を押さえつけたレオの力には逆らえず、起き上がることができない。
そんなトモカをレオは優しく見下ろした。
「本当に髪の毛乾かしてるだけだって。そのままだと冷えちゃうじゃん。終わったら下ろしてあげるから、今はじっとしてて。ね?」
「うん……ありがとう」
トモカは観念したのか、大人しくなった。
レオは額からゆっくり手を離し、再びトモカの髪を乾かす作業を再開する。
せっかくトモカの目が覚めたので、後頭部の髪の毛を乾かすために今度はトモカを横向きに寝かせる。トモカはやや緊張しているようだ。頬を赤くし、首にはカチコチと力が入っている。
しかし、そっと髪の毛を扱うレオの指が優しいことに安心したのか、それともその状況に慣れてきたのか、トモカの目はやがて軽く閉じられ、トモカの頭や首に入っていた力が次第に抜けていく。
「……レオ、髪の毛触るの、上手いね」
トモカがポツリとそんなことを言う。
「そう?」
「うん、すごく気持ちいい」
トモカは目を閉じたまま、本当に気持ち良さそうに口の端を少し上げて、こめかみをレオの胡座をかいたふくらはぎに少しだけ擦り付ける。
(コラ、こっちは必死に我慢してんだから、突然可愛いことするのやめてくれよ)
レオはフーッと1度深呼吸をして昂りそうになった精神を整える。
全く油断も隙もない。
「……まぁ妹が2人いるからね、妹が小さい頃はよくこうやって乾かしてやってたんだよ」
「妹さん?そういえばレオって何人兄弟なの?」
「兄が2人、姉が1人。んで妹が2人。オレ入れて全部で6人。また増えるかもしれないけど」
「産まれる予定が?」
「いや、そういう訳じゃないけどさ……」
レオは何となくトモカには言いたくなくて、口ごもった。
髪の毛を乾かす作業に専念する。
「ま、色々あってね。王都に着いたらそのうち話すよ」
「うん?……うん、分かった」
トモカは少し目を開けて不自然に口ごもったレオを不思議そうに見上げたが、言いたくない雰囲気を察したのか再び素直に目を閉じる。
レオは乾いた部分の髪をそっと撫でて聞き返した。
「トモカは?こっちではいないだろうけど、ガイアの地ではどうだったの?」
「私? 私は歳の離れた兄が1人いたよ。2年前に死んじゃったけど」
「病気?」
「うん、……そうね、そんなとこよ。両親はその前にもう二人とも事故でいなくなってたし、私も死んじゃったみたいだしで、うちの家は結局誰もいなくなっちゃったなぁ」
トモカは目を閉じたまま、事も無げにそんなことを言う。
レオはチラッとトモカの表情を伺ったが、特に悲痛なものはない。
事実は事実として静かに受け入れているのだろう。
「でもね、死んだら存在がなくなるだけだと思ってたのに、まさかこんな世界でもう一度生きられるなんて思わなかった」
「戸惑ってる?」
「最初はね。だって尻尾生えてるし。なんか魔法みたいなの使えるし。何より仕事してて、意識失って、目が覚めたら突然1人で森の中に放り出されてたんだもん。ビックリもするでしょ」
それはそうだろう。
レオは魔法がない世界というのを見たことがないため、ガイアの地では魔法がない世界で人々が文明的に生活していると聞いてもピンと来ないが、実際目の当たりにすれば驚くのだろうと思う。
「今は慣れたってこと?」
「うーんどうなんだろ。まだビックリすることは多いけど、腹は括れたというか、何があってもおかしくない世界なんだっていうのはだんだん分かってはきたかな」
「さすがだね」
レオは最後のひと房に取りかかった。できるだけ完了を先延ばしにするため、わざとゆっくりと櫛を進めていく。
「うーん。慣れてきたのはウーさんとレオのおかげっていうのも大きいの。ウーさんは魔法の使い方知らなかった私にもビシバシ教えてくれたし。レオは親切だし、森の中で生活するしかなかった私をここまで連れてきてくれたし」
「お役に立てたなら何よりだよ」
「うん、ありがとう」
全ての髪は乾いてしまったが、レオは名残り惜しそうにまだトモカの髪の毛を触っている。しかし、トモカに気づかれた。
「あ、もしかして髪の毛終わってた? いつまでも足に乗っかっちゃってごめんね、ありがとう」
そう言ってトモカは身を起こした。自分の髪を触り、感動している。
「うわーすごいちゃんと乾いてる。もしかして風魔法使った?」
「そうだよ」
「あ、レオも髪の毛まだ濡れてる!ねぇ、私もやってみていい?ネズミの加工に使ったおかげで、風魔法もだいぶ上手く調整できるようになったの。温風は出せないけど……」
「じゃあお願いしよっかな」
「きゃあっ」
レオは座ったままレオの頭を触ろうとしていたトモカを無視して、ベッド上でゴロンと転がりトモカの膝に横向きに頭を乗せた。
「じゃ、よろしく」
横目でチラッとトモカを見上げニヤッと笑う。
トモカはさっきまで自分もレオの足を枕にしていたせいか、顔を真っ赤にしながらも文句は言わなかった。
トモカの細い指がレオの少し硬い真っ黒な髪をおずおずと触っているのが伝わる。やがてその指から出されるそよそよと優しい風の流れを感じた。
(確かになかなか気持ちがいいな)
レオは妹の髪の毛を乾かしたり整えたりすることはよくあったが、自分自身が誰かに髪の毛を乾かしてもらった記憶はあまりない。小さい頃からやんちゃで、周りの大人たちに身体を拘束されることをとにかく嫌がる子供だったのだ。
しかし、レオの髪の毛を乾かすトモカの手つきは繊細で、レオの触って欲しい所を余さず触ってくれる。風も温風とは言えないが、人肌程度の温度で、冷たすぎもしない。心地よい。
「トモカも結構慣れてない?すげー気持ちいいよ」
「私は仕事でね……動物の毛を乾かしたりとかよくやってたの」
髪の毛は終わったのか、トモカの手がレオの大きな真っ黒い耳に触れる。さすがに耳に空気を送られると少しくすぐったいが、レオはトモカに任せた。
「レオの耳って、私のよりかなり大きいよね。猫っぽいけど猫じゃない気もする」
「オレは豹の獣人だから」
「豹?ってことはジーニーとお揃い?」
「そうなるね。ジーニーはまたちょっと特殊な種類だけどさ。ただ、アイツもオレも豹は豹だ」
「ふーん?」
トモカはレオの耳も乾かし終わると、ポンとレオの頭を撫でた。
「レオ、終わったよ。髪の毛短いからすぐに乾いちゃうね」
「ありがとう。じゃあ寝ようか。明日の朝は日の出には農場に行くんだろ」
レオはムクっと起き上がってトモカに礼を言う。
すると、なぜかトモカはベッドから素足を床に降ろした。
「あの……じゃあ私向こうのソファで寝るね」
「何で?」
「だって、ベッドひとつしかないし」
「こんなに大きいんだから2人で寝ても余裕だろ。何か問題ある?」
「問題……というか」
トモカは真っ赤になって俯いてしまった。
なるほど、寝室を使えと言った時に複雑な表情をしていたのはこのせいだったらしい。
レオはトモカの頭をそっと撫でる。
「大丈夫。一緒のベッドで寝ても変なことはしないって。そりゃ本当は色々したい気持ちもあるけどさ、トモカが許してくれるまでは何もしないって誓うよ」
「ありがとう」
レオはトモカの頭をグイッと手で引き寄せ、耳元で艶っぽく囁く。
「もちろんトモカが許してくれるなら全力で頑張るけどね?」
「頑張らなくていいです!」
「ハハっ冗談だって。早く寝よ。寝坊するよ」
トモカは真っ赤な顔で目に涙を溜めている。
あまりからかいすぎるとますます警戒されそうだ。この辺にしておこう。
レオは安心させるように、ベッドの反対側の端へ行き横になった。
「オレこっちで寝るから、トモカはそっちね」
「うん……ありがと」
トモカは諦めたのか、そう言ってレオの反対側に横になる。
それを確認して、レオはトモカの方に寝返りを打った。トモカの横顔を真剣に見つめながら、静かに話しかける。
「ねぇトモカ」
「ん?」
「なんにもしないからさ、寝るまでの間、手だけ握ってていい?トモカの手、触るの好きなんだ」
薄暗い部屋の中、横になったトモカと目が合う。
嘘ではなかった。
今までたくさんの女性と触れ合ってきたレオだが、あまり好んで手を握るようなことはしなかった。暑苦しいし、面倒くさいだけ。女性が喜ぶから繋いだりする程度だ。
しかし、トモカの手を握るのは何故か気持ちがいい。いつまでもずっと触っていたくなる。
「……」
返事はない。やはり気持ち悪い要求だっただろうか。
ダメか、と諦めて仰向けになった時、レオの二の腕にそっと何かが当たった。
ふと見るとレオの二の腕の横にトモカの白っぽい細い手がある。
トモカが僅かに赤くなりながらも、真っ直ぐこちらを見て右手を差し出していた。
レオはふわりと微笑み、その手に自分の左手の指をそっと絡めて、その手を自分とトモカの中間に置いた。スルッと親指で優しくトモカの指を撫でる。
「ありがとね。おやすみ、トモカ」
「おやすみなさい、レオ」
2人は指先を絡めたまま、それぞれゆっくりと目を閉じた。




