32.入国手続き
太陽の光が柔らかく煌めき、森を照らす。
森の中に張られた結界の中はその穏やかな光を受け、どことなく甘やかな空気が流れていた。
"敬語"と"さん付け"を禁止してから、少しずつトモカのレオに対する警戒心が緩んで来ているのが分かる。
言葉というのはそれだけで人の距離を近づけも遠ざけもするのだ。とりあえず、レオの作戦は今のところ成功していると言える。
それぞれ干し肉と携行食の食事を済ませると、レオはトモカに金属の水筒を差し出した。
「あれ食べると喉渇くでしょ。今朝汲んだ湖の水だよ。トモカも飲みなよ」
「ありがとう」
トモカは水筒を両手でおずおずと受け取る。蓋を外しそっと口を近づけて、トモカはコクリ、コクリと2口ほど飲み込んだ。
そのさらけ出された白い喉が動く様子を、レオはじっと凝視している。
飲み終わったトモカの口の端から一筋、溢れた水が垂れた。
瞬きもせずその様子をじっくりと見つめ、レオは無意識のうちに自分の唇を舐めて濡らす。
「ありがとう、レオ。ごちそうさま」
トモカは喉が潤ってホッとしたのか、柔らかい笑顔で水筒をレオに返した。
口の端にはまだ垂れた水滴が残っている。
(こういう所が無防備なんだよな)
レオは左手で水筒を受け取り、同時に右手をトモカの顔に伸ばし、親指でトモカの口の端の水滴を優しく拭う。
そして、ビックリしているトモカのグリーンの瞳を真っ直ぐに見つめたまま、わざとその親指をペロリとゆっくり舐めて見せた。
まるでトモカの唇そのものを舐めるかのように。
扇情的な眼差しで。
トモカはようやくその意味に気づいたのか、少し赤い顔になり慌てて服の袖で口を拭く。その様子を見て、レオはクスッと笑みを零した。
「トモカさー、オレのこと警戒してる割に色々と油断し過ぎだよね」
「レ、レオの攻撃レベルが高すぎるだけだってば。お願いだからもうちょっと手加減してください」
「やだ。オレの人生の目標は、トモカを身も心もグズグズに溶かしてオレがいないと生きていけない身体にすることだよ?昨夜出会った瞬間にそう決めた」
レオはトモカの頬にそっと指を這わせつつ、堂々とそう宣言した。その指を手でぐいっと押し戻し、トモカは少し嫌そうな顔をする。
「……おかしな目標立てるのやめてよ。人生はもっと有効に使お?」
「ねぇ、オレ、トモカ的にそんなにダメ?」
「ダメも何も、昨夜出会ったばっかりでしょ」
「じゃあ明日ならいい?」
「何が!?」
トモカは反射的に聞き返し、すぐに「しまった」という顔をしている。
レオはニヤニヤと意地悪く笑った。
「あれ、それオレに言わせていいの?」
「い、言わなくていいです!」
「トモカが聞いたんじゃん」
「……とにかく明日も明後日もダメ!」
レオはちぇっと舌打ちし、水筒の蓋を開けて中の水を豪快にごくごくと飲んだ。トモカが飲んだ後の水と思えばより美味しく感じる。
そんなことを素直に口に出せば、ますますトモカに警戒されそうなので言わないが。
「それに……歳も離れてるじゃない」
「それはどっちの意味で?」
「えっ?」
レオは口元についた水を腕で雑に拭いながら聞き返した。
トモカは意味が分からないというようにポカンとしている。
「そもそもオレのこと、年下だと思ってる?年上だと思ってる?」
「えっと、……どっちかと言えば、年下、かな?」
トモカは考えながらゆっくりと答えた。
「じゃあ6歳差じゃん。そんなの離れてるうちには入んないでしょ」
「で、でも16歳でもあるし!」
「そしたら外身の16歳と中身の33歳の間とって25くらいだよね?27歳のオレとは同い年みたいなもんだよ」
「屁理屈!」
トモカはレオに食ってかかった。少しイライラしているのか、その白い尻尾がパシンパシンと大きくうねっている。
「トモカだって先に進むのが怖くて色々理屈を捏ねてるだけでしょ。それに誰かを好きになるのに歳なんて関係ある?」
「それは……ないけど……」
「だよね」
「でも会ったばかりなのに好きとか嫌いとか……」
「オレはトモカが何歳だろうと好きだよ。それに出会ったばかりで知らないこともたくさんあるけど、ひと目見て好きになったから、その知らないことを全部知りたい。少しでも触れたい。仲良くなりたい。それだけ。だからこの話は終わりね」
レオは両手を上げてひらひらとおどけた。
むぅぅとトモカがむくれている。上手く言いくるめられてしまい、悔しいらしい。むくれ顔もなかなか良いものだ、とレオは観察する。
トモカは今までの言動を見ても、おそらくかなり頭は良い方なのだろう。だが、こと恋愛に関しては少々頭が硬く、理屈っぽいようだ。こういうタイプを陥落するには逆に理論で追い詰めて破綻させ、さっさとその武装を剥ぎ取ってしまった方が早い。
「それよりさ、『可愛くおねだり』の次の策はないの?楽しみにしてるんだけど」
「かっ考え中!」
「なんだ、残念。じゃあジーニーが帰ってくるまで膝枕でもしててよ」
「えっ、えっ?なんで……!」
トモカはレオの突然の要求に固まっている。
「風結界使うとさ、ずっと魔力出しっぱなしだから結構疲れるんだよね。ちょっと寝ておきたい。それに……」
レオはトモカの耳にこっそり囁いた。
「……次の作戦の点数が上がるかもよ?」
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
四半刻ほどで、結界の向こう側からジーニーたちの帰ってくる気配がした。
レオは目を開けると、名残惜しそうにトモカの膝をさらりと撫で、起き上がった。
トモカの方を見ると、緊張が限界まで来たのかやや潤んだ目をしている。
「ごめんね、無理させちゃった? 膝枕そんなにイヤだった? それとも足が痺れた?」
「ううん違うの、こっちの問題だから気にしないで」
「……? そう?」
あまり大丈夫そうには見えないが、怒っているような感じでもない。
「ありがと。気持ち良く寝られたよ」
レオはトモカの頭を優しく撫でると、立ち上がって伸びをした。
トモカは頭を押さえ顔を赤くしながらも、レオについて立ち上がる。
レオが結界の石を取り除くと、ジーニーが気づいて駆け寄り、レオの肩に鼻先を擦り寄せた。ジーニーの後ろからぴょこんと現れたウーも、素早くトモカの元へ跳んで行く。
レオはジーニーを労わるように、肩のあたりを撫でた。
「ジーニーお帰り。楽しかったかい?」
(ええとっても。レオ様もゆっくりお休みになれました?)
「まぁね」
(うふふ、よろしゅうございましたわね)
ジーニーは意味深に言葉を返してくる。だいたいの雰囲気は分かっているようだ。
「さて、そろそろ出ようか。ここからなら予定通り夕方には着きそうだ」
トモカとウーに向かって声をかける。
「うん。お願いします」
繋いだ荷物を再びジーニーの首に引っ掛け、トモカをジーニーの背に横座りにさせて、最初と同じような体勢になり、風結界を発動させて残りの道程を進む。
腕の中のトモカの口数は前半よりかなり少なくなっている。疲れたのだろうか。
レオはトモカが途中で寝てしまっても落ちないように、少し強めに肩を抱いた。トモカはレオの左腕に軽く右手を置いたまま少し俯き、身じろぎもしない。
(何か余計なことを考えてるかな、これは)
レオはあえて何も言わず、そのまま黙っておく。
しばらくすると、レオの胸にトンッという軽い衝撃が当たった。見ると、案の定トモカは眠ってしまったらしく、頭がフラフラと動いてその度にレオの胸板に軽くトントンとぶつかっている。
レオはその様子を愛しそうに見下ろすと、トモカの体勢を自分の方へやや傾けてやり、自分の胸へトモカの頭を完全に預けさせるような体勢にした。動かしてもトモカが目を覚ます気配はない。
トモカの左腕に抱えられたウーがひょこっと頭を出し、何か言いたげにレオの顔を見上げたが、レオがそちらに軽く微笑むと、ウーは再びトモカの腕の中に潜り込んで行った。
空が夕焼けの淡い橙色に染まりはじめる頃、レオたちは西の森の出入口を抜け、ドムチャ村に入る国境の門へ辿りついた。
門の少し手前でジーニーが立ち止まる。
「ジーニー、お疲れ。トモカ、着いたよ」
レオは風結界を解くと、腕の中で眠るトモカの白い耳に囁きかける。
トモカは目を覚まさない。
レオは少し悪戯っぽい表情で、トモカの耳に少し強めの息を短く吹きかけた。
フッ。
白い耳が突然の風に驚いて、ピコピコピコッと跳ね回るように左右に高速で動く。
「ひゃあっっ!?」
トモカは驚いて目を開けると、バッと辺りを見回す。
「トモカ、着いたよ」
レオがトモカの頭の上から優しく声をかけると、トモカは顔を上げた。完全にレオの胸に身を預けている自分の体勢を把握し、顔を真っ赤に染め慌てて身を起こす。
「ぎゃー!ごめんなさいレオさん!なんか……っ、寝てたみたいで」
「『レオ』」
「れ、レオ」
「可愛かったよ、寝顔」
「ごごごめんなさい」
「なんで謝るの? それだけジーニーの乗り心地が良かったって事だろ。オレはトモカの寝顔が見られて満足だし、ジーニーも喜ぶよ。さ、降ろすよ」
レオはトモカを抱えて地面に立たせ、自分もフワリと飛び降りる。
ジーニーがお疲れ様とでも言うように、トモカの顔に鼻面を擦り寄せた。トモカが恐る恐るジーニーの顔を撫でてやると、ジーニーも嬉しそうにしている。
レオは入国の手続きのためにトモカとウー、ジーニーをその場に残し、1人で門へ向かった。
入国の窓口には誰も並んでいない。レオが窓口に向かうと一見無人のようだったが、すぐに奥から声がした。
「おおっ、"疾風の大牙"の兄ちゃんじゃないか!」
レオが窓口から中を覗くと、昨日出国の時にいたベテラン兵が中から手を上げて歩み寄ってくる。
「ああ、ディム酒飲ませてくれた人じゃん。今日は入国側なの?」
「おうよ、入国側と出国側で一日交代さ。お前さんのファンのあの若いのは今日はいねぇけどな」
「あの子ね。彼は休み?」
「いや、ちょっと近くの農家でいざこざがあってね、その仲裁に行ってる」
それを聞き、レオの目が鋭くなる。まさかこちらにも魔獣が来たのだろうか。
「魔獣でも出た?」
「いやいや、農民同士のケンカさ。まぁここんとこ酔っ払いが多かったからな。今のところ魔獣は出てないぞ。それだけでずいぶん助かってる」
「そうか、なら良かったよ」
「なにか手続きはあるのか?」
レオは門の手前を指さした。
「あそこにいる 大型の召喚獣が1頭。あと女の子が1人。一緒に連れて入りたい。小型の召喚獣も1頭いるけど、そっちはいいよね?」
「大型の方は、ギルドに登録済みかい?」
「ああ。しばらく森の中に放してたんだが、捜索と護衛のために喚んだ」
「そうか、じゃあ問題ない。こっちの申請書に記入してくれ。お前さんの名前とランクと召喚獣を国内に置く間の管理場所ね。それから一番下の黒いマークに署名用の魔力を」
「分かった」
レオはスラスラと申請書を記入し、最後に僅かな魔力を送り込んだ。兵士に手渡す。兵士はそれを見て、少し目を見張った。
「おお、すげぇ、王国軍の獣舎か。さすがSランク様だな。まあ大型の召喚獣を保管できる場所は王都だと限られてるもんな。こういうのってのは、なんか伝手でもあんのかい?」
「まぁね、そんなとこ。で、女の子の方はどうしたらいい?」
「それがな、教会の方から昨日の昼に通達が来た。お前さんが連れてくる人物は暴れたりしなければ年齢種族問わず審査無しで通過させろってね。依頼されてたヤツなんだろ?そっちはいいよ。規則なんで、お前さんの身分証のチェックだけさせてくれ」
「なるほどね。そうなんだ、ちょっと内密の依頼でね。助かる」
レオは胸元から冒険者タグを引っ張り出す。
「じゃあこれ、身分証ね」
「はいよ。うん、問題ない。ああ、そういや首輪は持ってる?」
「うーん、ずっと放してたから今は持ってないな」
「この村は冒険者が立ち寄ることも多いから大型の召喚獣くらい見慣れてるが、さすがに何も付いてないと騒ぎになるかもしれない。念の為これを首に付けておいてくれ。不要になった時点で返してくれりゃいい」
兵士が手渡したのは、赤く長い紐がついた掌ほどの大きさの薄い金属板だった。"登録済"と大きく刻印されている。
「分かったありがとう。借りるよ」
「じゃあ通過していいぞ。入る時念じるのを忘れないようにちゃんとあの彼女にも言っといてな」
「そうだね、そうする。出かけてる彼にもよろしく伝えてね」
レオは金属板を受け取ると、トモカたちの方へ戻った。
「通っていいってさ。あ、ジーニーはこれ付けて」
レオはジーニーの首に赤い紐を結わえる。
「うん、赤い紐も似合うね。ジーニー可愛いよ」
(まぁお上手)
そう言いながらもジーニーは褒められて嬉しかったのか、首を軽く上下させてぶら下げられた金属板をプラプラと揺すった。
「トモカ。それからウーも。聞いてくれ。今から門を通過するんだけど、気をつけないといけないことがある。この大陸では各国の領土の外側に見えない防御結界が張られてる。それを通過するには、向こう側に行きたいと思わないと入れないようになってるんだ」
「思うだけ?」
「そう、思うだけ。別に強く念じる必要はない。あっちに行きたいなーって何となく思うだけで大丈夫。ただ別のことを考えてたり、行きたくないと思ってると通れない。気をつけてね。トモカとウーは初めてだから、一緒に行こう」
「わ、分かった」
トモカはウーを片腕に抱いたまま、緊張したような面持ちで目の前の門を見上げた。
門は、夕焼けに染まる空を背景に黒くそびえ立っている。
レオはトモカの前に立って振り返り、優しく左手を差し出す。
トモカが意を決して右手を伸ばすのを確認し、レオはその手をしっかりと握った。




