2.猫耳と尻尾
トモカは森の中で呆然と座り込んでいた。
深夜におよぶ手術が終わり、ようやく休めると思ったところでひどい頭痛に襲われて意識を失い、次に目を開けたら何故か真っ昼間の森の中に放り出されていたのだ。
しかも。
トモカは自分の着ているワンピースの裾から出ている白いモノを、半ば諦めの境地で眺めた。
どういう訳か尻尾が生えている。
ちゃんと動く、ホンモノの。
強く引っ張ったらめちゃくちゃ痛かったので、トモカから生えているのは間違いない。
(痛みは感じる。夢じゃない……。もしかして私、死んだのかな)
よく分からない。
生まれ変わったのだろうか。
それにしては赤ん坊ではないようだし、見慣れたワンピースや靴を身につけていることの説明がつかない。
(まぁいっか)
そもそも手足は人間なのに、猫みたいな尻尾が生えていることからして異常なのだ。
ここがトモカの知る世界ではないことは確かである。
考えると混乱しそうなので、様々な謎は一旦置いておいてありのままを受け入れることにした。
(サクラちゃん、最後まで見届けられなかったけど、元気になってたらいいな)
最後に手術をした、あのきれいな黒猫の快復を祈る。
(ま、東堂先生がちゃんとやってくれてるだろうし、大丈夫かな。それよりもこの状況をなんとかしなくちゃ)
とにかく、このままでは森の中で遭難だ。
色々考えるのは後にして、生き延びる努力をしなくては。
「まずは…水、よね」
トモカは呟いて、水場を探そうと立ち上がり、驚く。
身が軽い。
ゆっくり寝たからだろうか。
慢性的に寝不足だった頃に比べると、ずっと身体が楽だ。
そういえば長く苦しめられてきた肩こりも頭痛も全くない。
(健康って素敵!)
これならしばらくは水を探して歩き回っても大丈夫そうだ。
森は起伏があまりなく、ところどころ飛び出している木の根さえ気をつければ、パンプスを履いているトモカにも問題なく歩けた。
しかし、森は木が多くあまり遠くまでは見渡せない。
時計はないが、空を見上げると太陽がほぼ真上にあるので、今は正午に近い時間と考えて良いだろう。
暗くなる前に、水と安全に休める場所を確保しておきたい。
体感として1時間くらい歩いただろうか。
疲れはないが、景色が変わらないので、少々飽きてきたのも事実である。
同じような森の景色が永久に続くかと思われたが、ようやく木々の間に水面の煌めきを見つけた。
少し早歩きで近づくと、そこは広大な湖だった。
先ほどよりもやや傾いた太陽の光をキラキラと反射し、楽園のような明るい空間を生み出している。
(きれい……)
トモカは思わず景色に見とれたが、最初の目的を思い出す。
湖の水で手を濡らし、少し舐めてみた。
変な味はしない。問題なく飲めそうだ。
1時間も歩いたので、さすがに喉が渇いていたところだ。
水辺にしゃがみこみ、両手でそうっとすくって飲み込む。
適度に冷たくて美味しい。
ごくごくと喉を鳴らして飲み干し、もう一度飲もうと手を水に入れようとして……止まる。
違和感。
水じゃない。水は問題ない。
問題は、水面に映る自分の姿。
水面が揺れているのではっきりしないが、顔かたちはおそらくあまり以前と変わっていないと思う。
しかし、その頭上に生えるふたつの突起。
(角?)
手が濡れたままなのも気にせず、自分の頭に触れた。
髪の毛の中に、フワッと柔らかい毛の生えた平べったい出っぱりがある。
内側はつるっとした皮膚の感触。
この覚えのある感触は。間違いない。
(猫耳だ!)
しかし、既に尻尾が生えている時点で十分に驚き終わっていたため、猫耳などある意味想定内とも言えた。
手でぺたぺたと顔を触ってみると、顔の横の耳があったところには髪の毛が生えており、耳たぶはない。
猫と同じように、外耳道が上に向かって伸び、その先に例の猫耳があるようだ。
この際、他にも変わった場所がないか確認しておこう。
そう考え、トモカは全身を手で触ったり、服の内側を覗き込んだり、水面に映してみたりして自分の身体を調べる。
以前と変わったのは、猫耳が頭上に生えていること、尻尾が生えていること、犬歯が伸びて少し尖っていること。
あとは、はっきりとは分からないが、瞳の色が以前は濃い茶色だったのだが、水面に映った自分の顔は少し瞳の色が薄いように見えた。
そして、明るい場所では瞳孔が縦に細くなる。
この辺りは猫と同じ。
顔や手足の見た目は以前と変わらない。
強いていえば肌の張りが良くなっている。
どうもだいぶ若くなっているようだ。
見た感じ16、7といったところ。
胸やお腹も変化なく、別に乳首が8個になったりはしていなかった。
サイズも……変わらなかったけれど。
貧乳はステータスなのだと自分を慰める。
尻尾や耳は自分の意思ではまだ動かせない。
というよりも、どこにどうやって力を入れたら動くのかよく分からないのだ。
今はトモカの感情に合わせて勝手にピョコピョコ動いているようだ。
要訓練、といったところか。
ひと通り見て、どうも自分の身体が人間と猫の中間のような状態になっていることを把握した。
運動能力や五感もやや猫に近くなっているのか、身体は柔らかく、ジャンプ力が上がっているように感じる。
目覚めてすぐに身体が軽く感じたのも、長時間歩いてもあまり疲れていないのも、このせいかもしれない。
(疲れてはないけど、お腹空いたな)
水だけではどうも満たされない。
湖に魚はいるかもしれないが、いくら猫に近づいたとはいえ淡水魚を生で食べる勇気はない。火でも起こせれば別なのだが。
トモカはキョロキョロと周りを見回し、食べられる木の実でもないか探し始めた。
先程までは水場を探すことに一生懸命で、森の中は代わり映えのしない景色だと思っていたが、よく見ると生えている木は一種ではなく、様々な木が混在していることが分かる。
湖のほとり沿いに歩いていくと、ほどなく枇杷のような橙色の実をいくつもつけた木を発見した。
下に落ちている実は全て腐っているが、腐る前なら食べられそうだ。
しかし、きれいな実がなっている枝はかなり高いところにある。
多少ジャンプ力が上がったとはいえ、ジャンプしても届かない。
木を登っても良いが、おそらく降りるのが難しい。
「風でも吹いてあの実を落としてくれたらいいのになぁ」
トモカがそう呟いた瞬間、ゴゥッと上空で突風が吹いた。
そして5つの木の実がトモカの足元にボトボトボトッと落ちてくる。
「!?」
タイミングが良すぎる。
トモカはびっくりしたが、木の実が楽に手に入ったのは間違いない。
両手で木の実を抱え、この木を探す途中で見つけた湖畔の少し開けた場所まで戻ることにする。
「風さんありがとねー」
なんとなくそう呟いてその木を後にすると、背後で木々がザワザワとざわめいた。
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湖畔の広場まで戻り、座って早速木の実を食べてみる。
鶏の卵位のサイズの木の実は、爪で引っ掛けてツルッと簡単に皮を剥くことが出来た。
色は枇杷に似ているが、どうも違うようだ。
恐る恐る齧るとプルっとしており、ライチのような食感。
味はとても甘酸っぱくてリンゴに近い。
小さい種が4つ出てきたが、果実の部分がほとんどだ。
「んー!美味しい」
思っていたよりもまともな食事に、トモカは顔を綻ばせた。
2つほど食べ、残りはその場にまとめて置いておく。
(さて、食糧も見つかったことだし、後はなんか雨風を凌げるところはないのかな)
しかし湖は運良く発見出来たが、闇雲に歩き回っても迷うばかりな気がする。
それにせっかく良い水場と食糧を確保出来たのだから、できればこの近くを拠点にして動きたい。
「ゲームみたいにマップとか出せたらいいのになー」
単なる独り言のつもりだった。
しかし、そう呟いたトモカの目の前に下敷きほどのサイズの地図がピョンっと飛び出してきた。
宙に浮いて、少し透けている。
(マジか)
いよいよ智花が以前住んでいた世界とは全く違う。
これがいわゆる異世界転生というやつだろうか。
しかし、念願の地図が出てきたのだから活用しない手はあるまい。
気を取り直して、改めてマップを眺める。
水色に塗られた巨大な楕円形の湖、その北西に拡がる森林地帯。
湖の南側にも細い帯状に森林が拡がっているが、それを越えると沼地なのか、全体的にグレーで波模様が描かれている。
湖の北東は少し拓けていて、淡いグリーンに塗られており、v字の模様。草原に違いない。
森林地帯と湖が接する部分、ちょうど地図の中央になるところに小さな緑色の光る三角形が見える。
これがどうやら自分の現在地のようだ。
自分が右を向くとマップ上の三角形もぐるっと時計回りに動く。
三角形の先端が自分の顔の向きらしい。
おそらくトモカが最初に目を覚ましたのは北西の森林地帯。
そこから南東に進んで来てここにたどり着いたようだ。
南側は沼地になっているので、これ以上は進まない方が良いかもしれない。
なんせワンピースにパンプスだ。こんな服装ではとてもじゃないが沼地を進めるとは思えない。
進むとすれば北東にある草原地帯か。
しかし、ここからだとずいぶん遠そうだ。
それまでに何かないだろうか、と目を凝らすと、マップが現在地を中心にグイッと拡大された。
なるほど、念じれば見たい縮尺で見られるのか。
便利だ。
(あ、ここに何かある!)
拡大された地図には、現在地のすぐ近くに何やら小屋のようなマークが記載されている。
ここから湖のほとり沿いに左手に進んだところ。
木の実を取りに行ったのとは反対方向の場所だ。
誰か住んでいるのだろうか。
考えていても仕方が無いので、とりあえずその小屋を目指すことにした。
誰かいたらいたで頼んだら泊めてもらえるかもしれないし。
怖い人がいたらこの木の実ぶつけて逃げよう。うん。
余った木の実を両手に握りしめてトモカは立ち上がった。
湖のほとり沿いに進んでいくと、小屋は比較的すぐに見つかった。
なんというか……良い感じにボロボロで埃にまみれており、誰かが住んでいるようには見えない。
扉をノックしてみる。
コンコン。
予想通り、反応はない。
誰も使っていないのなら入ってしまってもいいか、とドアノブに手をかけ開けてみる。
鍵などはなく、ギィィィィィと悲痛な叫びを上げながら扉が開く。
中は外から見たよりは多少マシで、木の床板が張られたおよそ6畳くらいの広さの部屋の中央に、大きな木製の作業台が置いてあり、右手の壁は天井まである造り付けの戸棚になっていた。
ドアの反対側には大きく薄汚れたガラス窓があり、小屋の中に光を供給する唯一の光源として機能している。
やはり長い間使われていないようで、埃がかなり蓄積していた。
作業小屋のようでベッドなどはないが、仮の拠点にするには充分だ。
開き直って小屋の持ち主が現れるまで使わせてもらうことにした。
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こうしてトモカは、異世界での生活第一歩を踏み出した。