熱病――夢の中でくらい幸せでもいいじゃない
睡眠不足が積もり積もったせいで、目の下にはくっきりと隈が貼り付いていた。我ながら顔色も最悪で、お化粧は嫌いだけれどコンシーラーやファンデーションで誤魔化している。
朝は先生よりも先に起きてお弁当を作っているし、夜はお風呂から出たらそのまま部屋に入るから、素顔は見られていないと思う。多分。
けれどそんな状態で勉強していても、頭の中に入るはずがない。授業中にうとうとしているなんて日常茶飯事。時折当てられても見当違いの答えをしてしまったり、質問の意味が理解できなかったりして、そろそろ鈴華ちゃんにも不審がられてしまっている気がする。
どうせ眠れないのだからとその分夜中に勉強しているから、なんとか遅れずに授業に着いて行けているんだけど。
でもさすがに、一ヶ月間溜まりにに溜まった睡眠不足のため、体の調子がおかしくなりつつある。食欲不振・生理不順に貧血、動悸・息切れ・眩暈に微熱。これで良く風邪をひかないものだと我ながら感心していたのに、とうとう回って来てしまったらしい。
いい感じに景色が揺れていて、机から頭が上げられない。
「まなちゃん、おでこが熱いわよ。絶対に熱があるわ」
「だいじょうぶー、じゃないかもー」
鈴華ちゃんは、先週かかった風邪がようやく治ったばかり。だから彼女からうつしたんじゃないかと気が気じゃないらしい。不摂生が祟って抵抗力が激減しているところだったから、どこからウィルスを貰っても不思議じゃない状態だったのだけれど。そう説明してあげたいのだけれど、不摂生を怒られそうだから言えないのが申し訳ない。
実際、一年五組のクラスメイト達も、数人単位で毎日順番に風邪をひいているようだ。
「休めば良かったのに」
「いや、でも学年末最終日だし。春休みにまで補習は嫌だしー」
「気持ちは分かるけど、でもね」
「あ。先生には言っちゃだめだよー。言うんなら、今日が終わってからにしてねー」
一応、釘を刺すのも忘れない。鈴華ちゃんはわたしの事になると、すぐに高橋先生に言ってしまうから。そうじゃなくても、鈴華ちゃんから佐野先生に言ったりすると、そこからすぐに高橋先生に伝わってしまうのだ。
学年末試験期間中は、生徒は午前中に帰宅できる。教員は当然いつも通りの勤務だから、昼間テスト勉強をせずに眠れる時間はあったのだけれど。でもやっぱりぐっすり眠る事なんかできなくて、結果この体たらく。
「今日はー、古典に、現社ー?」
「そうみたいね」
予鈴が鳴ったので、鈴華ちゃんが溜息を吐きながら自分の席に戻って行った。テスト期間中は出席番号順に並ばなくてはならないから、必然的に鈴華ちゃんとは離れ離れになる。
机に貼りついた頭を引き剥がし、とりあえず答案用紙を埋める事に専念した。
一通り空欄を埋めても、答えを見直す気にもなれなくて、そのまま引力に身を任せたら。ゴン、とおでこが机にぶつかった。教室のあちらこちらで小さな笑いが起きたけれど、そんな事は気にせず、冷たい机の心地良さに目を閉じた。
「高橋? 大丈夫か?」
この時間の試験監督は、佐野先生だったようだ。
「うあい。だいじょーぶでっすー」
「どこが大丈夫なんだ?」
「頭はせいじょーでっすー」
「保健室に行った方が良いんじゃないか?」
「せんせーは、わたしにほしゅーを受けろーとおっしゃーるのですかー」
怪しい外国人並みに呂律が回っていない自覚があったので、あまり喋りたくはなかった。
「そうは言わないけどなあ。でもなあ」
「げんーしゃーが終わるまーで、見逃してくださーいー。終わったーらー、保健室でもー病院でもーどーこでも行きまーすー」
頭の上から、佐野先生の大きな溜息が聞こえた。先生、ごめんなさい。と、心の中で手を合わせる。
うっすら目を開けると、鈴華ちゃんが心配そうにこちらを向いているのが見えたから、左手でピースサインを作った。うまく力が入らなくて、ふにゃんと指が曲がって変な形になったけれど。
なんにせよ、あと一時間とちょっと。何とか乗り切りたいところなのだ。
「まなちゃん、本当に大丈夫?」
「いえーさー。次で終わりだから、死ぬ気で頑張るよー」
頑張らなくても良いから、家に帰れば? と、男女問わずあちらこちらから声がかかる。分かってはいるんだけど、補習は困るのだ。是が非でも、春休みを確保しなくちゃならないんだから。
社会科は、実は大の苦手教科。歴史ならともかく、特に現社なんて、面白くも何ともない。社会科を勉強しなくても、社会に出れば実践で覚えられるのに。どうせ今の首相の名前を覚えたって、数年後下手をすれば数ヵ月後には別の人に代わっちゃうんだから。
などと社会科大好きな人に対して申し訳ない事を考えながら、貧弱な知識を駆使して解答欄を埋めた。埋めたところで、今度こそ本気で力尽きてしまう。と言うのも持っていたシャーペンが手から離れ、床に落ちる音を聞いたのを最後に、意識が遠退いてしまったからなのだけれど。
何だか体が浮いているような、雲に乗っているような、不思議な感覚に包まれる。さっきの状態で雲に乗っていたら、それはつまりあれじゃないかと自分自身に突っ込みを入れながら、変な余裕がある事が何となく笑えた。
「あ。笑ってる」
「間抜けな顔」
夢の中で聞こえた声に、間抜けな顔で悪かったわね、誰かに迷惑かけるわけじゃないんだからほっといてよ、などと心の中でツッコミを入れてみる。
「うわ。なんだかすごく攻撃的だね」
「まなちゃんたら、面白い」
面白いと言うのは決してほめ言葉ではない。聞きようによっては、すごく失礼だと思う。
「じゃ、すみませんが俺、早退しますんで」
「ああ。どうせ今日は、午後からテストの採点くらいしか仕事もないしね」
「それくらいなら家でできるんでしょう?」
「まあな」
「まなちゃん、落とさないでよ?」
「まなじゃあるまいし、そこまで非力じゃない」
なんとなくむっとする。今の言葉の意味を、深く問い質したい欲求に駆られた。もっとも、これは夢の中の出来事だ。遠くなのか近くなのかさえも定かではない声にいちいち反応するわたしが、馬鹿なのかもしれないけれど。
再び体が浮いたような気がして、うっすらと目を開けてみたら、そこには見慣れた顔があった。子供の頃から、ずっと好きだった人。今もやっぱり、誰よりも一番好きな人。
「おにいちゃん?」
「いいから、寝てろ」
「うん? 寝てるよ? だって今、夢見てるもん」
「寝ぼけてるのか」
呆れたような困ったような、でもとても優しい笑顔。昔は良くこんな顔を見せてくれたなあと懐かしく思う。
「えへへへへ」
「熱で頭がおかしくなったのか?」
「違うよー。嬉しいんだよー」
軽い振動が体に伝わって来る。時々何かの音が聞こえるけれど、それが何なのかには思い至らなかった。別に知りたいとも思わなかったから、まあ良いんだけど。そして今はおにいちゃんは、わたしの横にいるようだ。
「なにが」
「おにいちゃんが、やさしいからー」
おにいちゃんは何だかびっくりした顔をしてわたしを見て、でもすぐに視線を逸らしてしまった。なんとなく残念だけれど、こんな風におにいちゃんの横顔を見ているのも悪くない。
「いつも、優しいだろう」
「うん。ちょっとね、意地悪だけど、優しいよ」
「意地悪は余計だ」
「えへへへへ。あのね、わたしね。おにいちゃん、だいすきー」
「知ってる」
「いいのー。言いたいのー。好きだよー。いちばん好きー」
頭がぼうっとしていて、体もかなりだるい。なのに心だけがふわふわ軽くて気持ちが良くて、このまま夢の続きを見ていたい、と思った。
果たして、目が覚めたのは自宅のベッドの中だった。
やっぱり夢を見ていたのだろうか。夢と現実の境目が曖昧な気がするのだけれど、全ては夢だったのだろうか。わたしの願望が見せた夢。夢の中の先生は優しかった。いつもあんなに優しければ、そうしたら。そうしたら、何だと言うのだろう。
本当は、優しい夢は嫌い。目が覚めた時の現実が辛いから。だから眠りたくなかったのに。
「あれー?」
そう言えばいつの間に帰って来たんだろう? 確か、学校で学年末テストを受けていたはずなのに。
「なにが、あれー? だ、このばか」
もの凄く聞き覚えのある声に、驚いてそちらを見る。
そこには予想を裏切らず、高橋先生がいた。一瞬夢の続きだろうかとも思ったけれど、いつものように何だか怒ったような顔をしているからそうではない事が分かる。
「えー、と。すみません、今、何時ですか」
変に緊張して、間抜けな事を聞いてしまった。
「三時二十分」
窓の外が明るいから、昼間だと分かる。と言う事は、十五時二十分? どうしてそんな時間に先生が家にいるのかが分からなくて、頭が混乱してしまう。
って言うか、わたしの学年末テストは? 補習は? 春休みは? 思い出さなくても良いけれど忘れちゃいけない事を思い出してしまい、慌てて起き上がろうとした。途端に極度の眩暈と不快感に襲われ、とてもじゃないけれど頭を上げる事も出来ない。
「起き上がるのは無理だろう?」
溜息を吐く先生の手がわたしの方に伸びて来た。条件反射のように体が強張る。
先生の手が、額に触れる。その冷たさが気持ち良くて、ほっとした。
「まだ高いな。ん? 何だ?」
先生の手を力の入らない両手で掴んで、顔の位置まで引っ張る。頬に当てると、予想通り冷たくて気持ちが良い。
「先生の手、冷たくて気持ち良い」
「まなが熱すぎるんだ。お前、三十九度もあるんだぞ?」
それだけあれば立派な高熱。どうりで頭がくらくらするはずだ。
「先生、学年末試験どうなりました?」
「最後の現社の途中で力尽きたんだよ。狩野先生に呼ばれた俺が保健室に運んだって、覚えていないんだろうな」
うわ。先生が運んでくれたって、もしかしてお姫様抱っこだったんだろうか。想像したら、恥ずかしくなった。
「保健室で三十八度で、どうも下がりそうになかったから、俺が早退して連れて帰った。何か質問は?」
「ありません」
連れて帰られた、と言うのはもしかするとあの夢を見ていた時の事なんだろうか。妙にふわふわした感じがあったから。
とりあえず本気で倒れてしまったらしいのは分かったけれど、先程から先生の目つきが険しいと感じるのは気のせいだろうか。先生口調になっているところから察するに、機嫌が悪い事だけは間違いないと思うのだけれど。
じっと見つめられて、なんだか居たたまれなくなってしまう。もっと優しい目で見てくれたら。あの夢の中で見たような、昔と同じ温かい目を向けてくれたら。けれどそうしたら、変に期待してしまって、結局先生を逆恨みしてしまうような気がする。それならば、今のままで良いのかもしれない。期待を持たせるだけ可哀想だと、先生も思っているのだろうし。
だから、この手も離した方が良い。どうせ最初からわたしのものなんかじゃないのだから。
「お前ね。俺が怒ってるの、分かっているのか?」
「えーと。先生の手を、掴んだままだから、ですか?」
「天然なのか、わざとなのかどっちだ?」
「あ。それ。天然って何ですか? 鈴華ちゃんにもしょっちゅう言われるんです。いくら聞いても何の事だか教えてくれないし」
「話がずれている」
「あ。ごめんなさい。えーと、何でしたっけ?」
先生がこれ見よがしに大きく溜息を吐いて、じろりと睨まれた。いつもなら、怖くて体が心ごと竦んでしまうのかもしれない。けれど熱のせいかぼんやりしている今のわたしは、こちらを睨んでいるんだな、先生目つき悪いなと言う程度にしか感じない。
先生の目を真っ直ぐに見たのは、本当に久しぶりかもしれない。たぶん、結婚式以来じゃないだろうか。
「過労と睡眠不足と栄養失調。今まで倒れなかったのが不思議なくらいだって言われたんだぞ」
「お医者様?」
「違う。保健医。いや、一応あれも医者だな。一緒に住んでいて、どうして今まで気が付かなかったんだ、と嫌味まで言われた」
ああ、そうか。でもそれは先生のせいじゃなくて、わたしが必死に隠していたからなのだけれど。そんな事、保健の先生が知っているはずがないのだから、仕方がない。
そう言えば、今、保健室の先生に厭味を言われたとか聞いたような気がした。わたし達が一緒に住んでいる事を知っているのは、転入初日に校長室で顔を合わせたほんの一部の人達だけだったはずなのに。
けれど熱で逆上せた頭では、それ以上まともな思考を続けられない。
「最近、ろくに食べていなかったな。いつからだ?」
「覚えていません」
「夜遅くまで寝ないで起きていたのは?」
「寝ないんじゃなくて、眠れ、なかったから。テスト勉強も、あった、し」
また熱が上がって来たのか、息が苦しくなって来た。胸が圧迫されるような、そんな苦しさ。なんだか目を開いているのが辛い。
そんなわたしの様子を見てか、先生の手がもう一度わたしの額に触れた。
「ひゃあっ!?」
突然だったのとその冷たさとに驚いて、変な声を上げてしまう。
「何て声を出すんだ。お前は?」
「ごっ、ごめんなさい」
「やっぱり医者に行った方が良いな。市販の薬くらいじゃ治りそうにない」
その後、先生は鈴華ちゃんのお母さんに電話をかけて、近所の開業医を教えてもらっていたらしく、熱でふらつくわたしを抱えて家を出た。横抱きと言うかお姫様抱っこがかなり恥ずかしかったけれど、自力で歩くのが不可能だったから、なんとか我慢した。少しだけ嬉しかった事は、先生には絶対に言わない。
結局風邪が悪化して気管支炎を併発しているらしく、その場で栄養剤と抗生剤の点滴を受けた。今まで注射や点滴は嫌と言うほど受けたけれど、やっぱり好きになれない。けれど確かに点滴を受けている間はずいぶん楽になったから、今のわたしの体には必要だったんだと納得した。
そしてお医者様の診断は、三日間の絶対安静だった。
隣接された薬局に処方箋を出しに行った先生は、一旦わたしを家に連れて帰ってから、薬を受け取りに出て行った。何だったか。抗生剤と解熱剤とその他もろもろ、ついでに軽い睡眠薬を処方してくれていたような気がする。薬は嫌いじゃないけれど、あまり多いと嫌だななどと考えながら、わたしの意識は闇の中に飲まれて行った。
次に目が覚めたのは、夜中だった。熱があるからだろう。喉の渇きが尋常ではなく、とにかく水分が欲しくかった。
ふらつく頭をゆっくりと起こすと、汗を吸ったパジャマが体に貼り付いていて、凄く気持ちが悪い。それでも着替えよりも先に何か飲みたくて、ベッドから足を下ろした。当然の事ながら窓の外は真っ暗で、いつもなら豆電球を点けているはずの室内は、遮光カーテンが引かれている上に明かりもなく、足元すらまともに見えない。
だけどここは、勝手知ったる自分の部屋。とにかく立ち上がって、ドアがあるはずの方向に歩き出した。
ほんの二、三歩の所で何か柔らかい物を踏みつけ、ついでに眩暈なんてものまで起こしてしまい、わたしは見事にひっくり返ってしまった。頭がぼんやりしていた事に加え一瞬の事だったので、何が起きたのか理解したのは、ドアが開かれて明かりが差し込んで来た事に気付いてからだった。
「もの凄い音が聞こえたと思ったら」
光の中、呆れた顔でわたしを見下ろす先生の姿に、状況を忘れて見惚れてしまう。やっぱりかっこ良いのだから、仕方がない。
部屋の電気が点けられて、突然の眩しさに両手を顔の前に翳した。
「喉、渇いて。何か飲みに行こうと思ったら、何か踏んじゃって」
「これか」
そう言えばあの柔らかな感触は何だったんだろう? そう思っていると、先生が何かを掴んで見せてくれた。それは、いつもベッドの上に置いてあったはずのうさぎの形のクッションだった。ふわふわとマシュマロみたいな手応えで、昔から持ち続けていたお気に入りの一品だ。うさこという名前も付けている。
いつの間にか床に落ち、それを踏んでしまったらしい。そしてさらに良く見ると、お腹の辺りから少し綿が覗いている。踏んだ拍子に縫い合わせが解れてしまったんだろうか。
「どこか打ったのか?」
「え? あれ?」
気がつくと、目に涙が溜まって来ていた。うっかり瞬きしてしまい、それが目から零れて行く。
「え。うそ! これ、違う! 泣いてない!」
泣いちゃいけない、ずっとそう自分に言い聞かせて来たのに。なのにうさこのお腹が開いたくらいで涙が出たなんて。
「ええと、どこも痛くない、です。でもうさこが」
「あ? ああ、見事に綿が出てるな」
「だってうさこが。大事なのに。綿が出ちゃって」
熱のせいなのかうさこの事がショックだったのか、だんだん何を言っているのか分からなくなって来てしまった。
頭が混乱したままでさらに何かを言おうとした時、背中と膝の裏に温かい感触を覚えた。何だろう? そう思って目を開くとすぐ近くに先生の顔があって、心臓が止まるかと思うくらい驚いた。
横抱きに抱き上げられているのだと気付いてからすぐに、ベッドの上に下ろされる。
「ひどい汗だな。とりあえず着替えろ」
先生はそう言って、チェストの中からパジャマと下着を取り出して持って来てくれた。パジャマはともかく下着を見られるどころか触られたと言う事実に思い至ったのは、先生の姿が部屋の外に消えてからだった。
一人で恥ずかしがっていても仕方がないので、気を取り直してパジャマのボタンを外す。とにかく汗が凄くて、脱いだ時の気持ち悪さは半端ではなかった。できればタオルが欲しいところだけれど、とりあえず着替えるだけでもずいぶん不快感はましになる。
ちょうど着替え終わるのを見計らうように、部屋の戸が開かれた。入って来た先生の手には、ミネラルウォーターのペットボトルがある。
無言で差し出されたそれを受け取ると、先生はわたしが脱いだパジャマを手に立ち上がった。さっきはあの手で抱き上げられたんだ、と、わたしはただぼんやりと先生の手を見ていた。
「喉、渇いているんじゃないのか?」
受け取ったペットボトルを握り締めたまま動かないわたしを不審に思ったのか、一旦離れかけた先生がまた近付いて来る。
「え? あ、はい、渇いてます。ありがとうございます」
慌ててキャップに手をかけるけれど、それを回すほどの力が出ない。
見かねた先生の手が伸びて来て、わたしの手からペットボトルを取り上げると、いとも簡単にキャップが外される。再び手元に差し出されたペットボトルを受け取ろうとしたけれど、手が滑って取り落としてしまった。スローモーションのように床に落ちるペットボトルを、わたしは何もできずに見ているだけだ。
「しっかり持てよ、このくらい」
先生の声が、どこか遠くから聞こえて来るような奇妙な感覚。なにか言葉を返さなくては。そう思うのに、喉が反応してくれない。
ぐらりと体が傾いで、布団の上に倒れ込んだのが分かった。
喉を冷たい何かが通り抜ける。気持ちが良い。もっと欲しい。そんな欲求に応えるように、再び冷たい物が流れ込む。何度かそんな事を繰り返し、ようやく喉の渇きが落ち着いて、ほっと溜息を吐いた。
「ったく、お前は」
苦々しげに漏れ聞こえる声に、意識が突然鮮明になった。
目を開くと、予想通り至近距離に先生の顔があり、思わず息を呑む。怒っているのか細められた目はわたしを見ていて、そのまっすぐな視線に動く事はおろか息をする事もできなくなってしまう。
「まだ、いるのか?」
「え?」
何の事だろう? と思って首を捻るわたしに、先生は小さな溜息を吐いた。何か呆れられているらしい事は分かるけれど、何に対して呆れているのか、心当たりがありすぎて分からない。
不意に先生が、ペットボトルの水を口に含んだ。さっきわたしの喉を通り過ぎて行ったのは、ミネラルウォーターだったんだなとぼんやりと眺める。ただ水を飲んでいるだけだと言うのに、妙に色気があってかっこ良くて、なんだか凄く悔しい。
何も言わないで、ただ無言ですぐ近くにある先生の顔を見つめていた。そして気がつくと、ほんの数ミリメートルの位置にまで近づいた先生の顔。これだけ近くになると、目だけが大きく見えて、顔じゃないみたい。そんな愚にもつかない事を考えた。
未だ熱が下がっていないからなのかそれとも高熱の余韻なのか、わたしの頭はまともに働いていない。その証拠に、普段ならとてもあり得ないこの状況下で、慌てる事もしないなんて。
わたしの顎に先生の指がかかり、僅かに唇を開かされた。ほんの一瞬動きを止めた先生の瞼が閉じていくのを、現実離れした意識の中で見つめる。
そして重なる唇。
先生の口に含まれたミネラルウォーターが、わたしの口腔内に流れ込む。さっき喉に感じたのはこれだったんだなと思った。
こんなのはキスじゃない。心のない口付けなんて。結婚式の誓いのキスでさえも、先生からの愛情は欠片も込められていないなんて。
こんなに好きなのに。ずっと前から。ずっと今でも。