約束の意味――傷つくための想いではないはずなのに
今から約二ヶ月前の、雪が積もった日。何の前触れもなく突然会いに来た幼馴染のおにいちゃんは、小さい頃からわたしが大好きな人だった。
記憶の中の十八歳のおにいちゃんは、会えなかった六年の間に二十四歳になり、すっかり大人の男の人になってしまっていた。
「約束通り、迎えに来ました」
あの日、おにいちゃんがわたしの両親に向けて言った言葉。何の事だろう、誰との約束なんだろう。もしもわたしとの約束ならば、わたしが十六歳にならなければ果たされないはずだった。さらに言えば「迎えに」ではなく「会いに」来るはずだったのだ。
結局それが当の本人であるわたしをすっ飛ばして、おにいちゃんとおにいちゃんの両親とさらにはわたしの家族全員の間で結ばれた約束だったのだと分かったのは、今から一ヶ月前。おにいちゃんとの結婚式の日の事だった。
とにかく慌しかった。
春に入学したばかりの高校から今の将星学園への編入試験を受けるための勉強は、高校入学からの2学期間というかなり広い範囲のも物だった。それまで地元の高校ではそれなりに上位にいたとはいえ、決して楽なものではなかった。そしてその時には、なぜ転校しなければならないのか、転校してからの生活がどうなるのかなどの説明はほとんどと言ってなかった。
ようやく編入試験に通ったと思ったら、いきなりおにいちゃんとの結婚の話を聞かされて、しかも既に式場は予約済み。婚姻届には両親の署名と判も押されており、わたしの署名を待つのみの状態だった。
これだけ本人の意思を無視した結婚も珍しいと思いながらも、相手が大好きなおにいちゃんなのだからわたしに否やはなかったのだけれど。
住む場所だけは、学園の近くの新築マンションに決まっていた。二人の関係を誰かに見られる危険性よりも、障害が残ったわたしの脚での毎日の通学を優先させた結果だった。
それまで一人暮らしをしていたと言うおにちゃんの持ち物とわたしの持ち物を考え、新しく必要になる物などを揃えるのも、実は編入が決定してからの事だったのだ。
とにかく無我夢中で迎えた結婚式当日の朝、両親が笑顔で教えてくれた「約束」に、わたしは喜んでいいのか悲しむべきなのか分からなかった。曰く、わたしが六年前に重傷を負ったあの事故で、おにいちゃんはひどく責任を感じてしまい、わたしの将来の面倒を見る旨の事を自分から言い出したのだそうだ。その時既にお医者様からは、大腿部に大きな傷痕が残る事と後遺症が残る事を聞かされていたらしい。
おにいちゃんの両親は、おにいちゃんの意見に異議を唱える事はなく。わたしの両親はもちろん、おにいちゃんの責任だなんて露ほども感じてはいなかったから、必死に考えを改めるように説得したのだそうだ。けれどおにいちゃん自身の決意は固く、おにいちゃんに恋心を抱いていたわたしの気持ちを知っていた両家の親たちも、納得してしまったらしい。
唯一頭から反対していたのは、おにいちゃんと同い年のわたしの姉だけで、それも周囲の説得で渋々納得したのだそうだけれど。
それを誰一人としてわたしに告げなかったのは、万一わたしに他に好きな人ができた時の事を考え、その場合、約束は無効になると言う条件だったから。わたしの意志を尊重しているのか無視しているのか測りかねるその内容に、正直ショックを隠せなかった。にもかかわらずわたしがそれを承知したのは、六年間一度も会えなかったとは言え、やはりおにいちゃんの事が好きだったからに他ならない。
こうして法的に容認される十六歳の誕生日、わたしはおにいちゃんと結婚した。
全てが終わったその夜、わたしはおにいちゃんから、信じられない話を聞かされた。
夫婦とは言え、寝室は別々にする事。家以外特に学校では、あくまでも他人のふりをする事。万一二人で一緒に住んでいる事が知られた場合、従兄妹同士だと説明すると言う事。
そして何よりも信じられなかったのは、決してわたしに手を出すつもりはないと言う事だった。いわゆる夜の営みはおろか、キスすらもしないと言う。あくまでも六年前までのような幼馴染のおにいちゃんと妹分と言う関係を崩さない。それが一緒に暮らすための条件だとも言われた。
結婚式で舞い上がっていたわたしの心は、一気に地獄に突き落とされた。冷水を浴びせられたなんて可愛いものじゃない。絶対零度の世界に放り出されたような、それほどの冷たさを感じた。
冗談じゃない。それならば何のために結婚したのか。そう問い詰めたけれど、おにいちゃんはただ寂しそうに悲しげな表情を見せるだけで、わたしが納得するような言葉をくれる事はなかった。
どんな事があっても、お前を守るから。そのためだけにそばにいさせてくれと。もしもお前に本当に好きな相手ができたら、その時は身を引くからと。そんな事を言われて素直に喜べるほど、わたしは馬鹿でも子供でもなかった。
その日は奇しくもバレンタインデー。わたしはそれでも、と用意していたチョコレートとプレゼントを受け取ってもらおうと差し出した。けれど結果は惨憺たるもの。自分の誕生日に人にプレゼントなんて贈る物じゃないとか、この結婚自体がプレゼントだからとか、無理矢理な理由をつけて押し返されてしまったのだ。
いつものわたしならば、そんな事で引く事は決してなかっただろう。こう見えても、わたしは結構頑固なのだ。思い立ったらそう易々とは考えを変える事はない。
けれどおにいちゃんからの地獄の宣告とも言える言葉の数々によって無数の深い傷を負ったわたしの心は、それ以上の事に耐えられそうにはなかった。どうしても渡す事ができなかったプレゼントは、今もわたしの手元に残ったままになっている。
その夜、わたしは泣いた。自分のベッドで一晩中泣いていた。
左手の薬指にはめられた結婚指輪の、無機質な輝きが悲しかった。左手の薬指は、心臓に繋がっている。だから結婚指輪は心臓つまり心に一番近いこの指にはめるのだと、以前どこかで聞いた事があった。
愛の誓いの言葉も誓いの口づけも、そしてこの指輪さえも、ただ形だけの物。心に近いのに心とは無関係。それどころか、お互いを縛りつけているだけの物だなんて。
こんな物、いらない。そう思っても、捨てる事などできるはずもなくて。心は繋がってなんかいないけれど、この小さな指輪だけが、わたしとおにいちゃんを繋ぐ唯一の物だったから。
学校には、両家の両親とおにいちゃんが事情を説明したらしい。本来ならば教師と生徒なんて許される関係ではないけれど、おにいちゃんの決意と両親の涙ながらの説得に感動した理事長先生が、大いに理解を示してくれたのだそうだ。
そして表向きは従兄妹同士でわたしは居候。実体が伴わないままごとのような契約夫婦が誕生する事になった。
同じ学校の先生だから、家でも「先生」と呼ぶと言い出したのは、実はわたしだった。そうでなければ、うっかり学校で「おにいちゃん」と呼んだり名前を呼んだりしてしまう。そう言い訳を繕った。
けれど本当の理由は、「先生」と「生徒」だとわたし自身に言い聞かせるための呪文。単なる一介の先生と生徒なら、何もなくても当然なのだから。
だから。わたしの大好きだった幼馴染のおにいちゃんは、「先生」になった。
だけどこれは、誰にも言わない。誰にも言えない。お父さんにもお母さんにも、おねえちゃんにも。もちろん鈴華ちゃんにだって言うわけにはいかない。だから、秘密。わたしと先生だけの秘密。
こんな絶望的な状況なのに、こんな救いようのない内容なのに、二人だけの秘密を持てる事をほんの少しだけ嬉しく感じるなんて。
自分がこんなに女々しくてうじうじした人間だったなんて、思いもしていなかったけれど。
多分きっと両親は、わたしと先生が仲良く新婚生活を送っていると信じている。元々心配性だった両親は、怪我のせいでそれがさらにひどくなっていた。それを鬱陶しいとか煩わしいなどとは感じなかったけれど、遠く離れている今、きっと毎日気が気じゃないのだろうと思う。
時々かかって来る電話では、必ずと言っていいほどわたしと先生の両方と話したがる。たいした事は話さない。ほとんどがお互いの近況報告。あとはもうすぐ始まる春休みには、顔を見せに来て欲しいとか。わたしも両親やおねえちゃんには会いたいから、きっとね、と約束している。先生もいいよと言ってくれているし。
先生はいつでも優しい。時々意地悪な態度を取ったりしてわたしの反応を見て面白がったりするけれど、それでも先生は優しい。
なのにその優しさが辛いと感じてしまうわたしは、贅沢なんだろうか。いつも一緒にいられるのはとても嬉しいのに、それだけで満足できないわたしは我侭なんだろうか。
もしもそう先生に尋ねてみたら、どんな答えをくれるのだろうか。いつものように
「馬鹿か」
と一言呆れるのだろうか。それとも愛想を尽かされてしまうのだろうか。
今の二人の関係を壊すのが怖くて、何も言えない。何もできない。
泣いちゃいけない。何もしないわたしが泣くのは卑怯だ。
だからわたしは、そんな自分が嫌い。
だからわたしは、そんな自分が許せない。