地獄の宣告――だからわたしは気付かないふりをする
わたしが将星学園に転校して来たのは、二月十七日。本当なら十五日からのつもりだったけれど、編入試験があったり学校行事があったりで、少しだけ待たされた形になった。
なぜだか瞬く間に全校に「一年五組の転校生」の噂が広まったようで、わたしは行く先々で珍しい物を見るような視線に出会っていた。冗談抜きで、全校生徒の顔を覚えているんじゃないだろうか、この学校の人達は。
まあ、常に学園のアイドル元宮鈴華ちゃんと一緒に行動しているから、嫌でも目を引いてしまうんだろうけれど。
ある意味感心したり呆れたりもするけれど、幸い悪意のこもった視線は感じなかったので、それはそれで良しとする事にした。
ノリが良くて団結力が強く、クラス男女並べて仲が良いと担任さえも評する一年五組。転入から二週間も経つ頃には、わたしもすっかり馴染めていた。どちらかと言うと人見知りする事が多いわたしにしては、驚異的な事だと言える。
「今日の体育、校庭で持久走だって」
体育委員の里中さんからの連絡で、クラスのみんながどよめいた。ただでさえ四時間目の体育はきついのに、とみんなが口々にぼやいている。
「まなは、見学だよね?」
「うん」
「了解。他に見学者はー?」
里中さんが、体育教官に連絡するべく人数を確認している。欠席者が一人いるだけで、わたしの他には見学者はいないらしい。
「いいなー、まなちゃんは。体育見学できて」
西條さんの何気ない一言が、胸に突き刺さる。
がたん、と音を立てて鈴華ちゃんが立ち上がる。表情が険しい。
「西條さん、今の言葉、まなちゃんに謝って」
ああ、そうか。鈴華ちゃんは、わたしのために怒ってくれているんだ。
「良いよ、鈴華ちゃん」
「良くない! まなちゃんは、好きで見学なんかしているんじゃないのに!」
本気で怒ってくれているのが、凄く嬉しくて同時に悲しい。
こんな事で怒ったりしないで。わたしは平気だから。慣れているから。
「ごっ、ごめんね、まなちゃん。無神経な事言って」
鈴華ちゃんの剣幕に驚いていた西條さんが、ばつの悪そうな顔で謝ってくれた。
「ううん、良いよ。そんなつもりじゃなかったんでしょ?」
「うん。でも、ごめん」
「良いって。気にしないで」
まだ何か言いたそうな鈴華ちゃんの手を握って、もうやめて、と目でお願いする。
鈴華ちゃんは不本意そうだったけれど、まなちゃんが良いなら、良い。そう言って椅子に座り直した。
わたしは、体育に参加できない。正確には、お医者様から走る事を禁止されている。それは六年前のあの転落事故で負った怪我のためなのだけれど。
三ヶ月余りの入院生活を余儀なくされたあの大怪我は、いわゆる障害をわたしの体に残した。
最初の手術では、骨のすぐ側に通した金属の棒とそれとはまた違う長い金属で大腿部を串刺しにされ、それで骨を固定した。その後の手術で串刺しにした方の棒は取り除かれたけれど、骨の側に通してある棒は半年間そのままにされた。
その後また手術を受け、今では骨を繋ぐ小さな金具が残っているだけだ。それもいずれは取り除く必要があるらしく、体が金属に対して拒否反応を起こす前に、腰の骨を削って移植するのだそうだ。
歩けるようになるまでのリハビリが辛くて、まだ十歳の子供だったわたしは何度も癇癪を起こして泣いた。おとうさんやおかあさん、おねえちゃんにまで八つ当たりした事もあった。
それでも歩きたい一心でなんとか頑張ったけれど、わたしは少し右足を引きずるようにしないと歩けなくなってしまった。
それからは当然、飛んだり跳ねたり走ったりなんて事はできなくなった。少しくらいなら走っても大丈夫なんだけれど、何かの拍子に足が縺れて転んでしまう事が多いからだ。
そんなわたしは、小学校でも中学校でも格好のからかいの対象にされた。地元の住民の繋がりが強い地域だったから、虐めに発展する事はなかったのがせめてもの救いかもしれない。
そんなわけで、西條さんに言われたような言葉には慣れていた。慣れるしかなかった、とも言える。
その後の努力で、注意して見ていなければ、足を引きずっているのが分からないくらいにまでは自然に歩けるようになった。それでも、やっぱり体育は見学するしかない。
学校には当然、編入手続きの時点でお医者様の診断書を提出している。だから公然と見学できるのだけれど。
鈴華ちゃんにはある程度の事情を話しているから、余計に親身になって怒ってくれる。もちろん担任からクラスのみんなに簡単に説明をしてくれてはいるけれど、それでもやはり今日みたいな寒い日や授業内容が厳しい時などはやっかみも生まれて来る。
たとえわたしを傷つけようとして放たれた言葉ではないのだとしても、気付かないふりをする事は難しい。だから、仕方がないのだと。この六年間で、わたしはそう思えるようになっていた。
お昼休み。わたしと鈴華ちゃんは、数学教務室で高橋先生と佐野先生の4人でお弁当を食べるようになっていた。
この数学教務室は1階の北側の隅にあり、2階の職員室からも各学年の教室からも遠く離れている。だからここにいるべき教員達のほとんどは、職員室にいる事が多いのだそうだ。
それをいい事に、以前から佐野先生と鈴華ちゃんが、一人残っている物好きな高橋先生の元に押し掛けて一緒にお昼を食べるようになったのだとか。でも鈴華ちゃんと佐野先生のラブラブっぷりにあてられて、高橋先生が席を外す事の方が多かったらしいけれど。
「同じクラスの奴に、何か言われたって?」
いきなりの高橋先生の言葉に、危うく口の中の物を吹き出しそうになった。さては鈴華ちゃん、先生に余計な事を。
横目で鈴華ちゃんを見ると、てへへといった感じで舌を出していた。ごめんね、と言葉には出さず口の動きだけで謝られる。
その仕草があまりに可愛くて、文句なんて言えなくなってしまった。
「んー。でも、別に気にするほどの事じゃないですから」
お茶で口の中の物を流し込み、一息ついた。
「お前ね。俺が言った事、忘れたのか?」
「何でしたっけ」
げしっと頭を殴られる。女の子の頭を殴るのもどうかと思うけれど、グーはないんじゃないかと抗議のつもりで唸る。
涙目で恨めしそうに睨みつけても、先生は意に介していない。そりゃそうだ。こんな小娘に睨まれたって、痛くも痒くもないと思われているに違いないのだから。
本当は、覚えている。忘れてなんかいない。形だけの結婚式の後、初めて二人きりになった時に先生から言われた言葉。
あの時は何を言っているんだろう、と不思議に思えたけれど、今なら分かる。けれど分かりたくないから、分からないふりをする。
「帰ったら、もう一度最初から言ってやろうか」
「いいです、遠慮します」
本当に本気で遠慮したいので、真面目な顔で答えた。
「面白いなあ」
のんびりとした言葉に、わたしも先生も思わず声の主を見た。
佐野先生が、珍しくにやにやと口元を緩めている。先生は、そういうキャラじゃないと思うのだけれど。似合っていないから。
「いや、高橋君と真奈美ちゃんのやり取りがね。なんか、年季の入った夫婦みたいって言うか」
「どちらかって言うと、年季の入った夫婦漫才?」
「ああ、それそれ。そんな感じ」
鈴華ちゃんの言葉に満足そうに頷いている佐野先生。鈴華ちゃんの言葉も、到底フォローにはなっていない。第一そんな感じとはどんな感じだと言うのだろうか。
この二人って、似た者カップルかもしれない。などと漠然と思ってしまった。
けれどお陰で話題が逸れた事は、素直に感謝しておこう。
校舎内に予鈴が鳴り響き、高橋先生以外の3人はお弁当箱の包みを手に持って立ち上がった。
五限目が始まるまでに教室に戻るには、このタイミングでここを出なければ間に合わないからだ。わたしは走っては行けないから。
「じゃ、お邪魔さま」
「恭ちゃん、またね」
「じゃ、またー」
三人三様の言葉を残し、数学教務室から出ようとした時。
「まな。今晩、今度こそ忘れないようにじっくりと話し合おうな」
と、高橋先生の声が背後から届いた。
「あらあ。恭ちゃんったら、こんな所で熱烈愛情宣言?」
嬉しそうな鈴華ちゃんの言葉に、何もない廊下でうっかり躓きそうになる。
ある意味、先生の言葉よりも鈴華ちゃんの言葉の方が破壊力があるかもしれないなと、輝くような笑顔を前に思った。
帰宅後、自分の部屋の電気も点けずにその隅に座り込んだわたしは、限りなく憂鬱だった。かつてこれほど憂鬱だったのは、再手術後初めてのリハビリに行かなくてはならなかった日の朝くらいじゃなかっただろうか。それくらい、気持ちが沈んでいた。
理由は簡単。昼間の先生からの地獄の宣告のせいだ。
なにが悲しくて、あんな言葉をまた聞かされなくてはならないのか。あの言葉のために、結婚式の興奮冷めやらぬ最高に幸せだった心が、絶対零度の世界に放り込まれたかのように冷やされてしまったのだから。
言葉の意味はほとんど分からなかった。頭が理解する事を拒否していた。けれどもわたしの耳は、確実にその言葉を拾っていた。そしてわたしの頭の出来は、残念な事に悪くはなかった。
あんな思いをするくらいなら、結婚なんかしなければ良かった。本気でそう思うくらい、あの時わたしは打ちのめされたと言うのに。
もう何度目かの溜息を吐いた。溜息を吐くと幸せが逃げると言ったのは、どこの誰だったのだろうか。もしそうならばわたしは、この二十日ほどの間に、一生分の幸せを失くしているのかもしれない。
溜息なんて、吐きたくない。なのに後から後から零れ出る溜息は、止まる事を知らないのだ。
そろそろ先生が帰って来る頃だろうか。携帯の画面で時間を確認するけれど、今日はとてもではないが夕食の準備をする気にはなれなかった。
先生には申し訳ないけれど、外食で済ませて来て貰おう。食欲なんて全くないし。
メールを送るべく、携帯電話のボタンを操作する。
この携帯電話も、地元にいる時には持っていなかった物だ。必要がなかったから。でも結婚してこの家に住む時、連絡用にと先生からこれを持たされた。
人前で手に取る事はなかったため、わたしが携帯電話を持っている事を知らない人がほとんどだ。だからメモリには未だ、実家と先生と鈴華ちゃんしか登録していない。
――今日は夕食の準備、していません。
外で食べて来てください。――
それだけ打って、メールを送信した。
返信は、なかった。
突然光に包まれた。
何が起こったのか分からず、眩しさに目を顰めながら、明るさに慣れるまで待った。
「こんな所にいたのか」
ほっとしたような気の抜けたような響きのその声は、毎日耳にしている先生の物だった。
「え。あ、お帰りなさ、い?」
どうやら、しゃがみこんだままで眠ってしまっていたらしい。こんな所で、日頃の睡眠不足のツケが回って来たのか。
先生の大きな手が、わたしの髪をくしゃくしゃっと混ぜるように撫でる。子供の頃から、こうやって撫でてくれるおにいちゃんの手が大好きだった。温かくて優しくて気持ちが良い。
うっとりと目を細めて素直にその感触を喜んだのに、急に手が止まって離れて行った。もう少し撫でて欲しかったのに。
「お前、晩飯は? 何も作った形跡がなかったけど」
「うん。何も作らなかったから。メール、したでしょ?」
「ああ、見たよ」
なんだか先生の口調がいつもよりも優しく感じるのは、きっと気のせい。それとも夢でも見ているのかも。
「で、まなは? お前は何か食ったのか?」
「んー。食べてない。いらない」
「バカか、お前。何か食いに行くぞ。すぐに用意しろ」
さっきまで優しかったのに、いきなりいつもみたいな意地悪な口調に戻っていた。お陰で、これが夢じゃないと気が付いたけれど。
だとしたら、さっき頭を撫でてくれていたのも優しかった気がしたのも、やっぱり現実だったのだろうか。もしかすると、わたしの願望が見せた、都合のいい夢なのかもしれない。
「何をぼーっとしているんだ? 寝ぼけているのか?」
「え? あれ? だって先生、外で食べて来たんでしょう?」
「食っていない。真っ直ぐ帰って来た」
時間を見ると、六時半。いつもと同じ時間だった。
「え? だって、メールしたのに」
「外で食って来いなんて言って来たのは初めてだろう。何かあったのかと思ったんだよ。で、帰って来たら、暢気に寝ているしなあ」
明らかに、呆れられている。
「とりあえず着替えろ。そのままじゃ一緒には出られないだろう」
言われて自分の姿を確認して納得した。制服のままだった。
帰ってから三時間近くも、ここに座り込んでいた事になる。予想に違わず、制服が皺になってしまっていた。
「五分後に出るぞ」
そう言い置いて、先生はわたしの部屋から出て行った。
なんだか拍子抜けだ。地獄の宣告はどこに行ったんだろう。
いやいや油断させておいて、帰ってからやっぱりあの話が待っているのかもしれない。それなら食事になんか行きたくない。何を食べても美味しいなんて感じなくなってしまうから。
悶々と考えながらも、体だけは動いていたらしい。五分後には何とか着替え終わり、ハンガーに掛けた制服の皺を眺めて溜息を吐く。霧吹きで湿らせて浴室乾燥にかけておけば、少しはましになるだろうか。なんて考えながら。
半ば引きずられるようにして連れ出され、車で走る事三十分余り。近所にも和洋の飲食店が結構あるのだけれど、さすがに学校から程近い場所に行くのは気が引けるらしい。一応従兄妹という設定にしてはいるけれど、今のところ誰にも何も聞かれないから公表していないし。それでも二人一緒のところを見られたら、やっぱりまずいのかもしれない。
どんな物が良いかとか聞いてくれたけれど、生返事しかしないわたしに溜息を吐き、先生はイタリアンレストランを選んだ。
お店に入ると中は、落ち着いた照明の大人っぽい雰囲気が漂う造りになっていた。わたしみたいな子供にはちょっと不釣合いかもしれないけれど、ここなら学園の生徒と鉢合わせする確率が低いだろう、と先生が言った。
メニューを見ようともしないわたしにまた大きな溜息を吐いた先生は、適当にいくつかの料理を注文していた。食欲がないのだから仕方がない。何も食べたくないのに、メニューを見たって無駄と言うものだ。
終始俯き加減のわたしに、今度もまた先生が溜息を吐く。先生もこれでかなりの幸せを取り逃がしたなあ、なんてどうでもいい事を考える。
「何かあったのか?」
いつもよりも幾分低いトーンで、先生が話しかけて来た。
「何も、ないですよ」
「嘘つけ。何もなくて、そんなに落ち込むはずがないだろう」
落ち込んでいるわけではないけれど、気分が沈んでいる。結局は同じ事なのか。
「同じクラスの奴に言われた言葉が原因か?」
その言葉に、黙って首を振る。あの事はもういい。あんなのは、いつもの事だから。慣れているのだから。
店員さんが注文通りの料理をテーブルに並べてくれている間、わたしも先生も無言になる。重い沈黙に、体が沈んでしまいそうだ。
取り皿やカトラリーを並べてから「どうぞごゆっくり」と声をかけてくれた店員さんに、軽く頭を下げた。
「じゃあ、一体何なんだ? 言わなきゃ分からないだろう」
「たぶん」
「あ?」
「たぶん、言っても、先生には分からないと思います」
重い。苦しい。逃げ出したい。
「何だよ、それは」
低くくぐもった声に、体がびくりと震えてしまう。
「何なんだよ、それは」
先生が、怒っている。
そりゃ、こんな態度を取っていれば、怒られても当然なのかもしれないけれど。
「まな、顔を上げろ」
上げられるわけがなかった。
「こっちを向けと言っているんだ」
無理。先生の顔なんか、見られない。こんな顔、先生に見せられない。
だから、黙って首を振る。
「分かったよ」
何かを押さえ込んだような、苦しそうな声。先生のこんな声は、聞いた事がなかった。
ごめんなさい。わたしのせいだ。でも、だめ。
「とりあえず、食えよ」
先生はさっさと取り皿に二人分の料理を取り分け、その一つをわたしの前に置いてくれた。
「いらないってのは、なしだぞ。俺一人でこれだけ片付けるのは無理だからな」
いつもの口調に戻った先生に思わず目を向けると、フォークを手に、押し付けがましくはない程度に心配そうな視線を向けてくれている。
優しいな、と思う。そうだ、優しい。先生はいつだって優しい。わたしをからかってみたり意地悪な時もあるけれど、それでも先生は優しい。けれどその優しさが、わたしにとってどれほど残酷なものなのかを、先生は知らない。その笑顔がどれだけわたしを傷つけているのか、先生は気付いていない。
先生が気付いてくれないから。だからわたしは意地を張るしかないのだ。
わたしは弱い。こんなにも。とても一人では生きて行けないくらいに。先生の優しさに甘えずにはいられないくらいに、弱い。
だからわたしは気付かないふりをする。先生の想いも、わたしの想いも。その奥底にある、全ての事にさえも。
2005年に書いた作品です。
作中の携帯電話はいわゆるガラケーの事で、LINEやTwitterなどのSNSはまだ存在していません。