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遠い日の約束2――再びの、十六歳の約束

 どうしておにいちゃんが引越しの事をわたしに教えてくれなかったのか、冷静に考えれば良く分かる事だった。きっと、言わなかったんじゃなくて言えなかっただけなんだって事を。

 けれど幼いわたしの頭は、それを理解したくなかった。認めたくはなかった。

 高橋家を飛び出したわたしは、目的もなく闇雲に走った。とにかくじっとしてなんかいられなくて。つっかけだったけれど、そんな事は関係ないくらい、思い切り走った。


 どれくらい走ったのか、息なんかとっくに上がってしまっていた。喉が痛くて口の中に血の味がした頃、とうとうわたしは転んでしまった。スカートだったわたしの剥き出しの膝がずるりと擦り剥けていて、左の膝は小石で切れたらしい傷口から血が流れ出ていた。

 膝が痛くて胸も痛くて喉も痛くて。わたしはしばらくの間しゃがみこんだ場所から動けず、呆然としていた。

 どれくらいそうしていたのだろうか。辺りが薄暗くなって来た頃ようやく、そこが住宅地から少し離れた造成地の奥にある、未だ手が付けられていない雑林の細道だと気付いた。こんな所には大人だって滅多に近付かない上に、鬱蒼と茂った木や草で足元が見辛い。斜面や崖が隠れてしまっていて危険だからと、日頃から両親や学校から足を向けないように言われていた。

 でも、実はここには何度か来た事がある。駄目だと言われれば余計に行きたくなるのが子供とい言うもので。こっそりと来ようとしておにいちゃんに見付かり、無理を言って連れて来てもらった。もちろんその時は昼間で周囲も明るく、おにいちゃんと一緒だったから怖いなんて思いもしなかったのだけれど。

 おねえちゃん、心配しているかな。お母さんに何も言わないで来ちゃったな。などとぼうっと考えていて、気が付いた。今わたしがここに来ている事を、誰も知らないのだ。寒気からではなく、体が、ぶるっと震えた。

 気付いてしまってから、急いで家に帰ろなくちゃと思い、立ち上がろうとした。

「いたい!」

 膝の傷が引きつって、立ち上がる事ができなかった。それでもじっとしているのが怖くて、周囲を見回した。でも見えるのは、全く手入れのされていない原生林だけ。右も左も分からない。

 日が沈んでどんどん暗くなる中、心細さと恐怖心がむくむくと湧き上がって来る。人が通る事を想定されていない道には、当然街灯などあるはずもない。辺りが真っ暗になるのも、時間の問題だ。

 ざわざわと木々を揺らす風の音にさえも、心臓が跳ねた。

 小さい時からおねえちゃんとおにいちゃん、それに両家の大人達に囲まれて育ったわたしは、一人きりに慣れていなかった。


 迷子になった時は、動き回らないでじっとしている事。


 おにいちゃんに言われた事を思い出したけれど、それよりも今目の前にある怖さが、当時若干十歳のわたしには大きすぎた。

 かなり無理をすると、立ち上がる事ができた。膝は相変わらず痛かったけれど、そんな事よりもここから出たい気持ちが勝っていた。

 左足を引きずりながらゆっくりと動いたけれど、どちらに向かっているのか、さっぱり分からなかった。それでも動かないよりはましだと思った。

 物音がするたびにびくりと体が強張った。お化けや妖怪なんて信じていなかったけれど、真っ暗な中で何が出て来るのか分からない状態では、怖がるなと言うのがそもそも無理な話だ。

 無意識に走っていたとは言え、誰にも言わずにこんな所に来てしまった事を、とても後悔した。

 当時はまだ携帯電話が普及し始めたばかりで、とても十歳の子供がそんな物を持っているはずもなかった。

心細さと恐怖心で足が竦む。でもしゃがみ込んでしまったら、今度こそ立てなくなる。そう感じたわたしは、ふらつきながらも少しずつ移動した。

 辺りが闇に包まれ、足元どころか自分の手指の先さえも見えなくなると、とうとう一歩も動けなくなってしまった。

 今は何時だろう。暗くなって随分経ったけれど、お母さん達はわたしを探してくれているのだろうか。でもまさかこんな所にいるなんて、思いもつかないんじゃないだろうか。

 お父さんやお母さん、おねえちゃんにおにいちゃんに高橋のおじさんおばさん。みんなの顔を思い浮かべていたら、知らない間に涙が頬を伝っていた。

「うっく。おとうさあん、おかあさあん」

 久しぶりに声を出してみたけれど、もちろん返事が返るはずもない。

 黙っていると沈黙に押し潰されそうで、寒さにかじかんだ手を擦り合わせ、わたしは泣きながら歌を歌う事にした。学校の音楽の時間に習った歌に大好きなテレビ番組の歌。CMの曲におにいちゃんが好きなアーティストの歌。歌っているうちに涙は止まっていた。

 思いつく歌を片っ端から歌いきってしまい、同じ歌を繰り返し歌ったりもした。


 突然前触れもなく、不意に大きな手に腕を掴まれ、悲鳴を上げそうになった。

「まな!」

 耳に届いた聞き慣れた声が信じられなくて、固く閉じた目をゆっくりと開いた。

 そこに、大好きな人の顔が、あった。

「お、にいちゃ、ん?」

「良かった。やっと見つけた」

 大きく息を吐いて、わたしの体を抱きしめてくれる。その温かさに目頭がぼわんとして、止まっていたはずの涙がまた溢れて来てしまった。

「お、にいちゃ、こわか、っ」

「もう大丈夫だ。迎えに来たから、一緒に帰ろう。おじさんもおばさんも心配している」

 わたしは素直にこくりと頷いた。

 おにいちゃんは持っていた懐中電灯をわたしに向け、膝の怪我を見て眉を顰めた。特に左膝は足首まで血がべったりと貼り付いていたから。血はもう止まっていたけれど。

「痛そうだな」

「いたいよ」

「おんぶしてやるから、背中に乗れ」

「うん」

 言われるままに肩に手をかけかけたところで、ふと思い出した。

「おにいちゃん、どうしてお引越しのこと、教えてくれなかったの?」

 お兄ちゃんの肩が小さく跳ねたのが、手から伝わって来た。

「高橋の家がなくなったら、おにいちゃん、ずっと、東京に行ったままになるの?」

 一語一語、はっきりと喋った。おにいちゃんは何も言わず、大きな溜息を吐いた。

「おねえちゃんから、お引越しのことを聞いたの。おばさんにも。でもどうしておにいちゃんはなにも話してくれないの?」

「まな」

「夏休みもお正月も、帰って来る場所がなくなるよね?」

「まな」

「会えなくなっちゃうの? わたしのこと、忘れちゃうの?」

「まな!」

 大きな声で名前を呼ばれて、びくりとわたしの肩が跳ねた。その拍子に、お兄ちゃんに触れていた手が離れた。

 おにいちゃんがしゃがんだままの姿勢で振り向いた。なんだか怒っているみたいな、でもちょっと悲しそうな、そんな目で。

「十六歳になるまでは妹だって。それまでは予約だって。あの約束、どうなるの?」

 わたしは痛む足を引きずって、少しずつ後退った。

 分かっていた。おにいちゃんのせいじゃないって。どうしようもない事なんだって。でも、おにいちゃんからは何も言ってくれないのが悲しくて。

 分かっていたのだ、子供の我が儘だと言う事は。でも寂しくて、認めたくなくて。そんな想いが頭の中でぐちゃぐちゃになって。

 それなのに、おにいちゃんはやっぱり何も言ってくれなくて。

「おにいちゃんの、ばかあ! うそつき! だいっきらい!」

 それまで抑えていた醜い感情が爆発した。心細さや恐怖心や寂しさや怒り。とにかく色々な物がわたしの中で一気に膨れ上がって、子供だったわたしは、叫ぶより他に方法を知らなかった。

 子供のヒステリーだと言われればそれまでかもしれない。けれど子供には子供なりの理由があって叫ぶのだ。

「まな!」

 伸びて来たおにいちゃんの手を、全身を捻って避けた時、バランスが崩れて大きく体が傾いた。

 慌てて手を付こうとした場所に、けれど地面はなかった。




 目を開けたら、明るい光が眩しくて。少し目が慣れて来ると、真っ白な天井が目に入った。

「まな! 気がついたの?」

 お母さんが、わたしの手を握っている。泣いていたんだとはっきり分かるくらいに、目が腫れていた。

「おか、さ、こ、こど」

 ここはどこ。そう尋ねたいのに、ちゃんと口が回ってくれなかった。頭も体もぼうっとしていて、なんだか息苦しかった。

「ここはね。病院よ」

 びょういん、の意味を理解するのに、少しだけ時間がかかった。ああ、病院の事なんだと気が付いた時、じゃあどうしてお母さんは泣いているのだろうかと、不思議に思った。

 すぐに看護師さんやお医者様が来て、お母さんは病室の外に連れ出されてしまった。

「痛い所はない?」

 お父さんと同じくらいの年に見えるお医者様が、優しい声をかけてくれた。特に思い当たらなくて首を横に振ったけれど、体がぼうっとしている事だけは伝えた。

 お医者様と話しているうちに、だんだん口の動きが滑らかになって来るのが分かった。

「今はまだ麻酔が効いているからね。後で痛くなったら、またお薬をあげるよ」

「お薬?」

「そう。真奈美ちゃんは、崖から落ちたんだよ。大きな怪我をして、救急車でここに来たんだ。その怪我がとっても大きいから、麻酔って言うお薬で痛みを止めているんだよ」

 麻酔だなんてテレビでしか見聞きした事もない十歳の子供にも理解できるように、優しく丁寧に答えてくれる。

 てきぱきと処置を済ませたお医者様が

「お母さんを呼ぼうか?」

 と言ってくれたので、素直に頷いた。お父さんにも会いたいな。そう言うと、分かったよとも言って、出て行った。

 入れ替わりに両親が入って来た。お父さんも外で一緒に待っていてくれたらしい。

「お母さん、わたし、崖から落ちたの?」

「そうよ。救急車に乗ったのなんて、何年ぶりかしらね?」

「わたし、落ちたのも救急車の中も覚えていないよ」

「気を失っていたからだよ。今までずっと、眠りっぱなしだったしね」

 お父さんとお母さんの声が、いつもよりもずっと優しかった。


「ねえ、おにいちゃんは?」

 わたしがそう尋ねると、二人が息を呑んだ。顔を見合わせ、目だけで何かを語り合っている。日頃子供から見ても仲のいい両親は、良く目だけで意思の疎通ができるのだと自慢していた。わたしには全く見当もつかないのだけれど。

「病室の前に、いるんだけどね」

 凄く言い辛そうなお父さん。いつも陽気なお父さんには、とても珍しい事だった。

「もしかして、あれ? わたしがだいっきらいって言っちゃったから、怒っているとか?」

「違うわ」

「じゃあ、うそつきって言っちゃったからかな? それともバカって言ったから?」

 優しいけれど悲しそうな表情で、お母さんはわたしの言葉全てに首を横に振った。

 他に心当たりなんかないわたしは、困惑してしまう。

「会いたいか?」

「うん」

 お父さんの言葉に、わたしは即答した。もう、頭は十分冷えていた。

 分かったよ、と言ってお父さんが病室から出て行くと、ドアの向こうから何人かの話し声が聞こえた。お父さんとおにいちゃんと高橋のおじさんの声。

 高橋のおじさんは今、大阪にいるはずだった。お休みが取れて帰って来たのかな? そんな事を考えていると、ドアがゆっくりと開き、お父さんに続いておにいちゃんとおじさんが入って来た。

 おにいちゃんの手には、真っ白い包帯が巻かれていた。

「おにいちゃん、けがしたの?」

 驚いて尋ねると、おにいちゃんはとても痛そうに目を顰めた。

「え。痛いの? 大丈夫?」

 麻酔のせいかまともに動かない体を起こそうとしたら、お母さんに慌てて止められてしまった。お父さんもおじさんもびっくりした顔をしていて、わたしのほうが驚くくらいだった。

「俺は、大丈夫。こんな怪我、たいした事ないから」

「たいしたことあるから包帯なんでしょ?」

「お前に比べたら、かすり傷」

「わたし? なんで? ひざをすりむいただけだよ?」

 あと、気を失っていただけじゃない。そう言えばお医者さんが、大きな怪我をしたって言っていたけれど。

 わたしがそう言ったら、その場にいた全員がとても変な顔をした。なんて言うんだろう。痛そうな、悲しそうな、泣き出しそうな、そんな変な顔だった。


「はい、皆さん。真奈美ちゃんが疲れますから、今日はここまでにしてください。続きは明日の面会時間にお願いします」

 きびきびとした口調の看護師さんが、全員の背中を押すように声をかけた。

 でもわたしは、肝心な事は何も聞いていないのに。

 もう少しだけ、そうお願いしたけれど

「本当は面会謝絶なのよ」

看護師さんにそう言われて、渋々我慢する事にした。




 翌日は、頭もすっきりしていた。でもその分麻酔が切れてからの痛みが半端じゃなくって、看護師さんにお願いしてお薬を貰った。

 痛んだのは膝ではなく、体中のあちらこちらと右脚全体だった。だから大きな怪我って言うのはこの事なんだろうな、と漠然と気付いてはいたのだけれど。

 面会時間の午後一時を待っていたように、両親が病室に来てくれた。おねえちゃんはわたしが運び込まれた時に病院に来てくれたけれど、夜遅いからとお父さんに家に帰されたらしい。今日はどうしても抜けられないバイトが入っていて、時間に間に合わない事を悔しがっていたそうだ。

 おにいちゃんから聞いたと言う、わたしが崖から落ちた時の様子を、お母さんがゆっくりとした口調で話してくれた。

 おにいちゃんの目の前で、横向きに倒れるように高さ二十五メートルの崖を滑り落ち、途中の岩や木に何度かぶつかって、木に引っかかる形でようやく止まった時には、わたしは気を失っていたそうだ。

 おにいちゃんはわたしの後を追うわけにもいかず、できるだけ緩やかな斜面を選んで下まで下り、その時に手や足を切ったらしい。

 わたしが引っかかっているのを確認してから、少し離れた民家に救急車を呼んで貰えるように頼んでくれて、救急車にも一緒に乗り込んでくれたそうだ。

 そして驚いたのはやはり、お医者様が「大きな」と言っていたほどのわたしの怪我の内容だった。

 崖を落ちる間にぶつけた所は擦り傷程度ではすまなかったらしく、打ち身に捻挫は当たり前。頭を打たなかったのが奇跡だとまで言われたらしい。

 そして特にひどかったのが、右大腿部の怪我。開放性骨折と言って、折れた骨が筋肉と皮膚を突き破っていた。思わずスプラッタ映画を想像してしまい、気分が悪くなった。さらに何度もぶつけたせいで複雑骨折をしていて、だから今わたしの脚は錘をつけて引っ張られている状態だった。近日中に折れた骨を金属で固定する手術をすると聞かされ、さらに気が遠くなりそうになった。

 それでも子供のわたしには、あまり実感がなかったのだけれど。


 おにいちゃんは、その日も次の日も会いに来てくれなかった。

 四月になったら東京に行ってしまうのに。ここには帰って来なくなってしまうのに。そうしたら、会えなくなってしまうのに。そう思ったら寂しくて悲しくて、両親にお兄ちゃんを呼んでと何度も頼んだ。

 両親はわたしの頼みを聞き入れ、わたしが会いたがっている事を伝えてくれていたけれど、おにいちゃんは決して病院には来てくれなかった。

 そんなおにいちゃんに、おねえちゃんが何度も発破をかけたり宥めたり賺したり脅したりしてくれたらしいのだけれど、それでもダメだったと悔しそうに教えてくれた。

 結局おにいちゃんは一度もわたしに会いに来てくれず、重傷で入院中のわたしには外出許可など出るはずもなく、東京へ出発する日もお別れを言う事ができなかった。

 おねえちゃんが「預かって来た」と言って渡してくれたおにいちゃんからの手紙にはただ、

『十六になったら、会いに行く』

とだけ書かれていた。その文字を見たわたしは、その日涙が止まらなかった。寂しくて悲しくて。十六歳の「約束」が嬉しくて。そして切なくて。

 けれどわたしは知らなかった。わたしが事故に遭ってからおにいちゃんと両家の親達との間で交わされた、新しい「約束」の事を。

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