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泣けない小鳥――涙は女の武器なんて誰が言ったのか

「高橋真奈美です」

 名前に続いて簡単な自己紹介をした時、クラス全員による盛大な拍手が起こった。受けたわたしがびっくりして、思わず仰け反ってしまうほど大きな拍手。

 何かの冗談か、それとも策略なのか? と思いきや、クラスメイト男女合わせて三十五人のどの顔も、にこやかな笑顔だった。これが佐野先生の言う団結力、なのかもしれない。

 クラスメイトの中に鈴華ちゃんの笑顔を見付けて、思わずわたしも笑顔になった。すると、なぜか男子生徒から、おお、と歓声が上がる。一体何なんだろう。

「席は元宮の隣。新しい机が届いているから、誰かそこに並べてやれ」

 鈴華ちゃんは実は高橋先生の母方の従兄妹で、つまりわたしにとっても義理の従姉妹にあたる。もちろん佐野先生はその事を知っているはずで、だから先生の配慮が嬉しかった。

 男子生徒の一人が、教室の片隅にあった机と椅子を並べてくれたので、そこまで歩いてから

「ありがとう」

とお礼を言った。

「どういたしまして。あ、俺、松本。よろしくな」

 笑顔で差し出された右手を、どうしたものかと戸惑いながら見つめる。これはやっぱり握手しましょうと言う事なのだろうけれど、わたしは男の子の手に触れた事があまりない。

 けれど世界共通の友好の挨拶ができないなんて、恥ずかしい。だからわたしは思い切って、右手を出した。

 松本君に届く前に彼の手が伸びてぎゅっと握られてしまい、心臓が飛び出るくらい驚いた。

「うわー。高橋さんの手って、柔らかいなー。赤ちゃんみたいだ」

「えっ。そ、そうかな?」

 それは良いから、早く離して欲しい。そう思っているのに、松本君がわたしの手を握る力がますます強くなっている気がする。

 何だか野次が飛んでいる気がするけれど、はっきり言ってそれどころじゃない。顔は火照って来るし心臓は落ち着かないしで、わたしは半歩後ろに下がってしまう。

「いい加減に、席に着け」

 どうして良いのか分からずにおたおたしていると、こつん、と誰かに頭を小突かれた。振り向くとそこに高橋先生がいて、危うく声を上げそうになった。寸前で堪えたけれど。

 でもそのお陰で松本君がようやく手を離してくれて、心底ほっとした。

「じゃあ、俺はこれで」

 副担任としての転入生との顔見せが終わったらしく、高橋先生は教室の後ろの戸から出て行った。空き時間だと言っていたから、職員室か数学の教務室に行くのだろう。

「転校生もいる事だし、前回の復習からいくぞー」

 佐野先生の声に、ざわついていた教室内が水を打ったように静まり返った。さすがは高偏差値を誇る将星の生徒だなあなどと、妙なところで感心した。

「大丈夫?」

 真新しい教科書を開いていると、鈴華ちゃんが小さく声を掛けてくれる。大丈夫、と言うのは授業の事だろうか。それとも先ほどの松本君の事だろうか。

 鈴華ちゃんの顔を見ていると、多分後者なんだろうなと思い至った。

「うん、大丈夫。ありがと」

 そう言うと、鈴華ちゃんが笑顔で応えてくれた。




 休み時間、クラスメイトに囲まれるのはある程度覚悟していたのだけれど、なぜか他のクラスや上級生なんかも教室を覗きに来ていたらしい。お陰でお昼休みになる頃には、ぐったりと疲れてしまっていた。

「まなちゃん、お昼は学食? お弁当?」

「んー。今日は学食ー」

 鈴華ちゃんとわたしの仲が良い事を不審に思ったクラスメイト達には、従姉妹である事を教えていた。鈴華ちゃんと高橋先生の関係は公表していないらしいので、わたし自身の従姉妹として。

 今朝は寝坊したから、お弁当なんて作る暇もなかった。朝食さえ高橋先生が用意してくれたくらいだったし。

「じゃあ急がないと、食券買いそびれちゃうわよ?」

「いいよ、売れ残っているので」

「わたしはお弁当だけど、まなちゃんは初めてだし、一緒に食堂で食べるわね」

 鈴華ちゃんは美少女と言うだけではなく、心根も優しい。心の美しさが外面に現れているのかもしれないと、思わずにはいられないくらいには。

「え。でも、鈴華ちゃん、いつも一緒に食べてる子とかいるんじゃないの?」

「いつもは、彼と一緒なの。今日はまなちゃんと食べるって言ってあるから大丈夫よ」

 こっそりと耳打ちされる。

「うわ。彼氏さんに悪いんじゃない?」

「だーいじょうぶ。そんなに心の狭い人じゃないから」

 そう言えば鈴華ちゃんに彼氏がいる事は知っているけれど、どんな人なのかは教えてもらっていない事に気が付いた。いつもお昼を一緒に過ごしているらしいから、この学校の生徒なんだろうけれど。

 彼氏さんには申し訳ないと思いつつも、初めての学食で一人で食べるのも味気ない気がして、お言葉に甘えさせてもらう事にした。

 お弁当持ちの鈴華ちゃんに席取りをお願いして、わたしは食券売り場に並んだ。さすがにお昼時。学食内は活気があると言うかある意味殺気立っているとも言える状態だ。

 順番を待つ間にも、なぜか

「お。転校生?」

と何度もお声が掛かる。もしかしてみんな、全校生徒の顔を覚えているのだろうか。まさかそんな事はないと思うのだけれど。全校生徒数は千五百人を超えるはずだし。

 じゃあよっぽどわたしが田舎者らしい顔をしているのだろうか。と密かに悩んでみたりもした。


 学食のメニューを眺めながら、何が美味しいのか鈴華ちゃんからお薦めを聞いておけば良かったな。と思いつつ、無難にうどん定食にしておく。

「まなちゃん、こっちー」

 鈴華ちゃんの声にそちらを見て、危うくトレイをひっくり返しそうになった。

 なぜわざわざ高橋先生の隣をキープしているんだろう。しかもそのお向かいである鈴華ちゃんの隣には、佐野先生までいる。お昼まで教員と顔を突き合せていたくはないと言うのがわたしの本音で、それが高橋先生だとなおさらだ。

 心で涙を流しながら、それでも仕方なく席に着く。高橋先生はカツ丼定食で、佐野先生はお弁当だった。

「高橋は弁当じゃないのか」

 悪気のない佐野先生の一言に、高橋先生がにやりと笑うのが視線の端に見える。

「今朝、寝坊しちゃって。お弁当を作る暇がなかったんです」

「じゃあ、明日からは弁当なのか?」

 高橋先生の言葉は、限りなく白々しい。お弁当を作る約束をすっぽかしてしまったわたしが何も言えないのを分かっていて、こういう事を言っているのだから。

「そうですね。学食だと栄養が偏っちゃうから、できるだけお弁当にしようかと思っています」

「立派な心がけだなあ。高橋、いい嫁さんになれるぞ」

 佐野先生って、もしかして天然なのだろうか。とても笑えない。

 案の定、高橋先生の肩が小刻みに揺れている。

「佐野先生、それって手作りですよね。奥様の愛情弁当ですか?」

「いや、俺は独身。これは彼女の手作り」

 仕返しのつもりで突っ込んだのに、焦る風でもなく笑顔で返されてしまう。そうか。佐野先生、彼女さんがいるんだ。大人なんだから当然かも、なんて事を考えながらお弁当箱を見ていて、ふと気が付いた。

「ねえ、鈴華ちゃん。鈴華ちゃんのお弁当と佐野先生のお弁当、おかずの中身、似ていない?」

 どうやらわたしは爆弾を落としてしまったらしい。鈴華ちゃんと佐野先生の動きが、瞬時に凍りつくように止まってしまった。

 高橋先生に「バカ」と軽く頭をはたかれてようやく、とんでもない事を言ってしまった事に気付く。

「あ、あれ?」

 もしかしなくても、もしかしてしまったのだろうか。

 鈴華ちゃんの胸元にかかっている指輪の贈り主は、この爽やかな童顔の担任なのかもしれない。わたしはなぜか、こういう事には敏感なのだ。

 見る見る真っ赤になる鈴華ちゃんと、気を取り直してお弁当をつつきだす佐野先生。

 それで確信してしまった。ラブラブで羨ましい事この上ない。




「鈴華ちゃん、お昼はごめんね」

 怒涛のような一日が終わり、鈴華ちゃんと一緒の帰り道。とりあえずお昼休みの事を謝っておく事にした。もちろん鈴華ちゃんは怒っているわけでもなかったのだけれど、わたしの気持ちの問題だから。

「気にしないで。まなちゃんにはちゃんと話すつもりだったから」

 ほんのりと頬を染める鈴華ちゃんは、女のわたしでも惚れそうなくらいに可愛い。

「ほんとに?」

「ええ。まなちゃんと恭ちゃんの事は知っているのに、わたし達の事を話さないのはずるいでしょう?」

 わたしとしては交換条件なんてつもりは毛頭なかったのだけれど、鈴華ちゃんは

「本当は誰かに知ってほしかったの」

と言った。

 秘密の恋だから、友達にも誰にも言えなくて、唯一高橋先生だけには佐野先生が相談を持ちかけたから知られているのだそうだ。

 そうだよね。恋の話ってしたいものだよね。

 寂しそうに笑う鈴華ちゃんが愛しくて、わたしは彼女の華奢な体をぎゅっと抱きしめた。今朝と逆だね、と笑いながら。

 目尻に滲んだ涙を拭きながら、そうね、と笑った鈴華ちゃんは、とても綺麗だった。


 途中二人で食品スーパーに寄って、わたしは夕食の材料と明日のお弁当の材料を。鈴華ちゃんはやっぱり明日のお弁当の材料を買って、後でうちで一緒に夕食を食べる約束をして別れた。

 メールで連絡したから、佐野先生も来るらしい。楽しい夕食になりそうだ。

 誰もいないマンションは、何だかだだっ広く感じる。なにしろ住み始めてほんの数日だから、荷物が少ない事も手伝って、寂しいとさえ感じてしまう。

 自分の部屋に入ってドアを閉じると、少しだけほっとした。ドアに凭れ掛かってそのままずるずると床に座り込んだら、なぜだかとても泣きたい気分になった。

 大好きなおにいちゃんが迎えに来てくれて、やっと一緒にいられるようになったって言うのに。なのに胸に押し寄せて来るこの虚無感は何なのだろう。

「きっと、贅沢な悩みなんだろうな」

 誰にも言えない。誰にも言わない。高橋先生にさえも。

 ううん、正確には、違う。高橋先生だからこそ、おにいちゃんだからこそ、言ってはいけないのだ。会えなかった六年間を思えば、今のこの状況だって手放しに喜ぶべきなのだから。

 ぶんぶんと首を横に振り、暗い考えを頭から追い出した。


 気を取り直し、とりあえず着替えてから宿題を片付けた。

 思ったほど量が多くないから助かる。これも生徒の自主性を重んじる校風からか、予復習は各自の責任において任せる、という事らしい。もちろん希望すれば、特別に課題を増やしてくれたりもするのだけれど。どこまでも生徒思いなのか放任なのか、良く分からない学園のようだ。


 エプロンを着けながらキッチンに向かう。もうすぐ鈴華ちゃんが来る時間だ。先ほど食品スーパーで二人で相談して、今日は人数が多いからお鍋にしようと決めていた。

 ここに来る時、日用品と台所用品はある程度揃えてある。やっぱり土鍋は欠かせないわよね、などと言いながら母と一緒に選んだお鍋セットに水を張り、だし用の昆布を浸しておく。昆布の端にキッチンバサミでいくつもの切れ目を入れるのがミソ。

 材料を適当な大きさに刻んでいたら、インターホンが鳴り、鈴華ちゃんが到着。

 このマンションはオートロックなので、鍵を持っていなければ住民に中から開けてもらわないと、エントランスに入る事もできない仕組みになっている。

「おじゃましまーす」

 玄関まで迎えに出ると、寒さのせいで赤くなった鈴華ちゃんがいる。真っ白なコートの真っ白なボアがふわふわしていて、美少女度がアップしていた。

「きれいに片付いているのねえ」

「単に物がないだけだよ。それにまだ三日しか住んでいないし」

 二人で談笑しながら残りの材料を刻み、お魚とお肉は冷蔵庫に入れておく。


 先生達が着くまでまだ少し時間があったから、ティーバッグの紅茶を飲みながら色々な事を話した。

 特に鈴華ちゃんと佐野先生がお付き合いを始めるまでの話は、お互いに告白できない立場ゆえの辛さとか、でも両思いになれて本当に良かったとか、きっと今まで誰にも話せなかったんだろうなと思うような事ばかり。でも頬をほんのり染めて話す鈴華ちゃんは、ふんわりとした真綿のような柔らかな雰囲気を纏っていて、とてもそんな大変な恋愛をしているようには見えない。

「まなちゃんは? 恭ちゃんとの新婚生活、どうなの?」

「え? どうって」

「ずっと好きだった人と結婚できるなんて、女の子にとっては夢みたいに羨ましい事じゃない? 幸せのお裾分けのつもりで、惚気ちゃわない?」

 そうなのだ、と思う。子供の頃からずっと大好きだったおにいちゃんと結婚できるなんて、しかも十六歳の誕生日に、だなんて、幸せすぎる事なのだろう。だからきっと、今のわたしは幸せすぎて感覚が麻痺してしまっているのだ。

「普通、じゃないかな」

「普通?」

「朝起きたら同じ家にいて、行ってきますの挨拶をして。夜にはお帰りなさいって言って、一緒にご飯食べてるよ」

「まあ、確かに普通だけど」

 なんだか不満そうな鈴華ちゃんの様子に、嫌な予感がした。

「そうじゃなくって、もっとこう、一緒にお風呂に入っているとか、おはようとおやすみと行ってらっしゃいとお帰りなさいのキスとか、そういう甘いお話は?」

「はああー?」

 目の前のふわふわ美少女の口から出た言葉に、あまりにびっくりして素っ頓狂な声を上げてしまう。

 その絵に描いたようないちゃラブ新婚さんな鈴華ちゃんの想像に、体ごとぶっ飛びそうになってしまった。

「そんな事、ぜんっぜんしてないから! 鈴華ちゃん、考えすぎ!」

「どうして? 好きで結婚したのなら、それくらいしても当然じゃない?」

 慌てて否定したけれど、鈴華ちゃんは

「そんなの新婚さんじゃないわ!」

と怒り出してしまった。怒られても困るのだけれど。

 照れとか謙遜とか惚気るのが嫌だとかそう言うわけではなく、わたし達には、本当に鈴華ちゃんが言うような事はないのだ。それが普通の夫婦だとは決して思わないけれど、わたしと高橋先生の結婚生活は「特別」だから。

「それって、絶対に変よ!」

 拳を握って力説している鈴華ちゃんに、けれどわたしは苦笑を返す事しかできない。

 それが最初の約束だから。おにいちゃんが勝手に決めて、一方的に押し付けられてしまった事だけれど。


 黙り込んでしまったわたしに鈴華ちゃんが何かを言いかけた時、インターホンが二回鳴った。一回ならエントランス。二回なら玄関先。だからこれは、玄関先に誰かが訪ねて来たと言う事を示している。

 多分先生達だろう。そう思って魚眼レンズから覗くと、案の定高橋先生の顔が見えた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 出迎えたわたしの頭を、高橋先生がぽんぽんと撫でてくれる。

「佐野先生、いらっしゃいませ」

「お邪魔します」

 ニコニコと笑顔で挨拶してくれる佐野先生。笑うと余計に幼く、じゃなくて若く見える。高校生でも通用しそう。

 でも本当にこの二人がお付き合いしていたんだなあと実感した。お話だけ聞いていてもぴんと来なかったけれど、さすがに目の前で見ると納得してしまう。

「お帰りなさい」

「ただいま、で良いのかな。でもよそ様の家だしなあ」

 リビングで待っていた鈴華ちゃんの出迎えに、佐野先生は真剣に悩んでいる。結構面白いキャラクターだったらしい。

 高橋先生が普段着に着替えて戻って来て、TVを見ながら佐野先生と何やら話をしている。時々キッチンにまで笑い声が聞こえると、鈴華ちゃんとわたしは顔を見合わせてくすりと笑った。

 こういう雰囲気っていなあ。そんな事をぼんやり考えながら、わたしはこっそり足元に視線を落とした。


 お鍋はまずまず好評だったけれど、

「でも、鍋は簡単だから、誰にでも作れるよな」

という高橋先生の余計な一言が耳に痛かった。

 一応わたしはこれでも、家ではずっとお母さんを手伝って食事の支度なんかもしていたから、思わずむっとしてしまう。

 明日から暫く、和食漬けにしてやろう。家庭の味、母の味を堪能させてやる。と密かに心に誓った。

「ねえ、どうして家の中でも恭ちゃんの事『先生』って呼ぶの? 恭ちゃんはまなちゃんの事『まな』って呼んでいるんだから、まなちゃんも名前で呼べば良いのに」

 食後のデザートに、佐野先生が買って来てくれたケーキをつついている時、鈴華ちゃんが言った。いつか突っ込まれるとは思っていたから、別段慌てる事もない。

「わたしっておっちょこちょいだから。家で名前で呼んだりしていたら、うっかり学校でも呼んじゃいそうなんだよね。いくら従兄妹でもやっぱりまずいんじゃないかと思って」

「でも、だからって、変じゃない? 何だかさっきからまなちゃんのお話を聞いていると、全然新婚さんらしくないわよね」

「こらこら、鈴華ちゃん」

 佐野先生に諌められ、『だってー』と鈴華ちゃんが不満そうな声を上げている。

 鈴華ちゃんの気持ちは分かる気がする。もしかしたら口に出さないだけで、佐野先生も同じ事を感じているのかもしれないとも思う。

 でも、だめだから。約束だから。

「うちは、これでいいんだよ」

 高橋先生がきっぱりとした口調で言うと、さすがに鈴華ちゃんも黙り込んだ。でも口を尖らせているから、不満は消えていないらしい。

 どんな表情をしていても、美少女は様になる。わたしがあんな顔をしたところで、せいぜい先生に『不細工』とかバカにされて終わるだけだろう。

 なんだか切なくなって来た。


 楽しい時間は過ぎるのも早い。あっという間に時計が九時を回り、鈴華ちゃんと佐野先生が帰る事になった。もちろん鈴華ちゃんは、佐野先生が送って行ってくれる。

「それじゃあ、また明日」

 二人を乗せたエレベーターのドアが閉まるのを見届けて、高橋先生が家に向かって歩き出した。けれどわたしはすぐに動く事ができず、振っていた手を下ろしたまま、閉じたドアを見つめていた。

 何だか、胸の奥がつかえているような、苦しいような苦いようなおかしな感覚に包まれる。

 どうしたって言うんだろう、わたし。

「まな? 早く中に入らないと、冷えるぞ」

 先生の声にはっと我に返り、慌てて小走りになる。

「まな、走るな!」

 次いで先生の鋭い声にびっくりして、足が止まる。

 ああ、そうか。先生は。

「大丈夫だよ、先生。わたし、少しくらいなら走れるから」

 笑ったつもりだった。だけど頬の筋肉が上手く動いていないのが、自分でも分かる。きっとまた不細工な顔になっているのだろう。

 ゆっくり歩き出し、すぐに玄関まで辿り着く。開いたドアを背中で押さえて待っていてくれた先生の顔を見ずに、家の中に入った。

 背後でドアが閉まる音と鍵の閉まる音が聞こえたけれど、先生を待たずに自分の部屋に入る。


 胸が痛い。鼻の奥がつんとするこの感覚を、わたしは知っている。

 泣かない。泣くのはずるい。泣くのは卑怯だ。泣いちゃ、いけない。

 必死に心の中で繰り返した。自分に言い聞かせるように。自分に暗示をかけるように。

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