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遠い日の約束1――それは無邪気な愛情だった

 庄司家と高橋家がお隣同士になったのは、両家の主婦が第一子妊娠中の事だったらしい。それまで住んでいたアパートじゃ手狭になるからと、新築一戸建てを奮発する事にしたのだそうだ。

 出産予定日が五日しか違わなかった事と、見知らぬ土地で同じ年代のお隣さんと言う事もあって、両家が親しくなったのは引越しして来てすぐの事だった。なにしろ引越し蕎麦を一緒に食べたと言うくらいだったのだから。

 やがて庄司家には女の子が、その三日前に高橋家に男の子が生まれた。それがわたしのおねえちゃんと、お隣のおにいちゃん。性別は違うものの同い年と言う事もあって、おねえちゃんとおにいちゃんはとても仲が良かった。かどうかはとても疑わしいのだけれど。

 そんなわけで、わたしが物心ついた時、おにいちゃんはもう既にお隣のおにいちゃんだった。

 わたしとおねえちゃんは学年が八つ違うけれど、わたしが二月生まれでおねえちゃんが五月生まれだから、九歳近くも年が離れている。だからおねえちゃんはわたしが生まれた時、凄く嬉しかったと言ってくれる。初めてできた妹が、可愛くて仕方なかったのだと。

 おにいちゃんは一人っ子で、だから家族ぐるみでお付き合いがあったお隣に赤ちゃんが生まれた時、自分にも妹ができたみたいで嬉しかった、と言っていた。


 おねえちゃんはたった三日だけとは言えおにいちゃんの方が先に生まれた事が悔しいらしく、何かにつけておにいちゃんに対抗意識を燃やしていた。

 そんなおねえちゃんだから、おにいちゃんがわたしと遊んでくれるのを面白く思うはずがなく、何度もわたしを取り合って喧嘩になっていたらしい。もっとも、おねえちゃんが一方的に売った喧嘩ばかりだったけれど。

 わたしはおねえちゃんもおにいちゃんも大好きだったから、二人の仲が悪い事が悲しかった。三人で仲良くできれば良いのに。ずっとそう思っていた。




 とっても優しくてちょっとだけ意地悪なおにいちゃんは、わたしの大好きな人だった。

「おとうさんよりもすき」

 と言って、父をがっかりさせた事もあった。おねえちゃんはもちろん、烈火のごとく怒っていたけれど。

「そんなに好きなら、まなちゃん、大きくなったら恭平のお嫁さんに来る?」

 高橋のおばさんがそう言った時、迷わず大きく頷いて、大人達の笑いを買った。おにいちゃんは困ったような顔をしながら笑っていて、おねえちゃんは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせていた。

 あれは、わたしが六歳。おにいちゃんが十五歳の時の事。




 八歳の時、おにいちゃんと同じ高校の女の子が、おにいちゃんを訪ねて来た。それはわたしの誕生日の二月十四日。女の子は小さな袋を、大事そうに持っていた。

 たまたまわたしがおにいちゃんに割り算を教えて貰っていた時だったから、その場に居合わせてしまった。

「高橋君が好きなの」

 ロングヘアーを綺麗に纏めた女の子はそう言って、真っ赤な顔で袋を差し出し、おにいちゃんはとても困った顔をしていた。

 その瞬間頭にかっと血が上り、わたしは後先考えずに飛び出して、おにいちゃんと女の子の間に両手を広げて立ち、叫んでいた。

「だめ! ぜったいだめ! おにいちゃんはわたしのだもん! だから、とっちゃだめだもん!」

 後から考えると、本当にとんでもない事をしたと思う。でもあの時のわたしには全然余裕なんてなくて、頭よりも先に体が動いてしまっていた。

「だめなの! ぜったいだめなの!」

 感情が昂ぶりすぎて、わけが分からなくなって。気が付いたら泣きながらおにいちゃんにしがみついていた。

 滅多に泣かないわたしが泣いた事で、おにいちゃんはかなり困惑していたらしい。けれどそっと抱きしめてくれて、いつものように優しく背中を撫でてくれた。

「そんなわけだから、ごめんな」

 それは、おにいちゃんが女の子に向けて言った言葉。

 あまりにわたしが泣いたものだから、女の子は呆れながらも、その日は諦めてそのまま帰って行った。次の日おにいちゃんは、学校でかなり食いつかれて困ったらしいけれど。

 女の子が帰った後、すぐにわたしは泣き止んだ。けれど何度もしゃくり上げていたせいで、胸が痛くなってしまっていた。胸を押さえながらしゃくり上げが止まらないわたしを、おにいちゃんは黙って根気強く撫でてくれた。

「ごっ、ごめん、なさ、いっ」

「何であやまるんだ?」

「だってっ、あのひっ、と」

 喋ろうとするのに、言葉がきちんと繋がらなくて。それでもおにいちゃんはちゃんと耳を傾けて返事をしてくれた。

「気にするな」

「む、り。だ、って、あれ、バレンタ、インので、しょ」

「どうせ受け取らないつもりだったんだから、いいんだって」

 その言葉を聞いて、考えた。小学校二年生にもなれば、バレンタインデーの意味くらい知っている。あの女の子がおにいちゃんの事を好きで、わざわざ自宅にまでチョコを持って来たのだと言う事も理解できていた。

 それを受け取らないのは、おにいちゃんはあの女の子の事を何とも思っていないと言う事なのだろう。けれどももしかしたらおにいちゃんには他に好きな子がいるのかもしれない、という考えに至ったわたしは、それをおにいちゃんに尋ねるべきか否か逡巡した。


「どうした?」

 ようやくしゃくり上げも治まって来たわたしの顔を覗き込みながら、おにいちゃんが首を傾げて訊いて来た。

 聞いてもいいのかな。でもやめた方がいいのかな。こんな事を言ったら、嫌われちゃうかもしれないな。そんな事を考えて、すぐに返答できないでいた。

「何か言いたい事があるんだろう? さっさと言えよ。さもないと」

「さもないと?」

「割り算、教えてやらないぞ」

「えええ!? そんなのひどいー!!」

「だったらほら。さっさと言いたい事を言えよ」

 意地の悪い笑みを貼り付けた顔が、凄く憎らしくて。同時に、やっぱり大好きだなあと思った。

「あ、あのね」

「ん?」

「おにいちゃんは、だれか好きな人、いるの?」

 それだけ言ったら、あまりの気恥ずかしさに俯いてしまい、やっぱり言うんじゃなかった、と後悔した。

「うーん。そう来たか」

 おにいちゃんは、困ったように唸っている。しばらく沈黙が続き、なんだかいたたまれない気持ちになってしまう。

 困らせるつもりじゃなかったけれど結果的にそうなってしまった事を、本気で申し訳なく感じてしまった。

「あの、もう、いいよ」

「あ?」

「おにいちゃん、困ってるみたいだし。どうしても聞きたい事でもないから、いいよ」

 本当はどうしても聞きたい事だったのだけれども、今のおにいちゃんを前にしてはそう言うしかなかった。

「だから、割り算の続き、教えて?」

「割り算ねえ」

「うん。割り算」

「なんっか、割り切れないよなあ」

「へ?」

 意味不明な言葉に、変な声を出してしまった。割り切れない? 小学校二年生のわたしが算数教室で習っている割り算は、全て割り切れる数字ばかりだった。だからおにいちゃんの言っている事が良く分からなくて、思わず顔を上げた。

「お前、なんでそんな事聞くわけ?」

「そんな事?」

「俺に、好きな奴がいるのかどうかって」

「え? や、あ、それは」

 そんな事を聞き返されるとは思っていなかったから、しどろもどろになってしまった。おにいちゃんって、やっぱりちょっと意地悪だ。内心そう思ったけれど、口には出さない。口に出したら、余計に意地悪になるのが分かっていたから。

「そんなの、まなちゃんが恭平の事を好きだからに決まっているじゃない。ねえ?」

 突然頭の上から降って来た言葉に驚いて、文字通り飛び上がった。

「そんな事、昔っから知ってる」

 機嫌が悪そうにむすっとしたおにいちゃんが、おばさんを睨み上げた。

 わたしは思わず耳を疑った。おにいちゃんが知っている事って何なのだろう。

「だったらそんな意地悪しなくても良いじゃない。まなちゃんを虐めたら、父母連合が許さないわよ? もちろんほのちゃんもね」

 父母連合と言うのは、わたしの両親とおにいちゃんの両親の事。そしてほのちゃんというのは本当の名前が穂之香で、わたしのおねえちゃんの事だ。

「別に、虐めているわけじゃない。ってーか、横から口出すなよ」

「あらやだ、反抗期? お母さんに向かってその口のきき方は許さないわよ?」

 なんだか親子で漫才をしているような雰囲気になり、いつの間にかわたしの緊張も解けてしまっていた。

「思い人に好きな人がいるのかどうか気になるのなんて、当たり前じゃない。八歳でもちゃんと女の子なんだから」

「分かってるよ」

「じゃあ、ちゃんと誠意を持って応えてあげるのが男ってもんでしょうが」

 おばさんはおにいちゃんの背中を音が出るくらい強く叩いて、

「がんばんなさい!」

とだけ言い残してキッチンに消えて行った。

 かなり痛かったらしく、おにいちゃんは唸り声を上げていた。おばさん、強いなあ。と妙な所で感心してしまう。

「あー、えーと。まな」

「はっ、はい!?」

「いや、そんなに緊張しなくていいから」

 思わず正座してしまったわたしに、おにいちゃんは笑いを堪えたような複雑な顔を向けた。

「あ、うん。で、なあに?」

「今のところ、好きだとかそんな女はいない」

「え?」

「まあ、強いて言うならお前が一番かもしれないけどな。でもまだお子様だし。俺、ロリコンってわけじゃないし」

「は?」

 ロリコンの意味が良く分からなくて、思わず聞き返した。でもおにいちゃんは気が付かなかったのか、説明してはくれなかったけれど。

「だから、せめて。そうだな、八年後。お前が十六になってもまだ俺の事が好きなら、その時はちゃんと考えてやるよ」

「八年後って、おにいちゃんは? 二十四歳か二十五歳?」

 十六歳なら、多分わたしは高校生で。おにいちゃんはすっかり大人と言うかオジサンに近いかもしれない。なんて心の中で、とても失礼な事を考えた。

「そうなるな。って、なんか俺、犯罪者っぽいな」

「はんざいしゃって、なに?」

 さっきからおにいちゃんは、良く分からない事ばかり言う。

「それはいいから。だから、それまでまなは俺の妹。分かったか?」

「じゃあ、十六歳までは予約って事?」

 おにいちゃんは何も言わないで、大きな手でわたしの頭をくしゃくしゃっと撫でてくれた。この撫でられ方が大好きなわたしは、それだけで機嫌が良くなってしまう。現金なものだ。

「この話はここまで。割り算の続き、するぞ」

「はあい」

 なんだか良く分からなかったけれど、とりあえず八年後に十六歳になるのがすごく楽しみだと思った。


 その後おにいちゃんがおばさんに

「幼な妻、予約しちゃってえ!」

 とエルボーをかけられたとか、両家共催のわたしの誕生日パーティーでその事を知ったおねえちゃんが久しぶりにおにいちゃんに喧嘩を売ったとか、そんな事はわたしの知らない間の出来事だった。

 八歳の誕生日は、思い切り泣いてしまったけれど、それ以上に思い切り幸せだった。ずっとこんな風に楽しくて幸せな日が続くと信じていた。二年後のあの日までは。




 小学校四年生も終わりに近付いたある日、高校の卒業式も終わってアルバイト三昧だったおねえちゃんが、帰って来るなり血相を変えて部屋に駆け込んで来た。

「おねえちゃん、おかえりー。って、どうしたの?」

 体全体で息をしているみたいなおねえちゃんの、鬼気迫った顔に恐れをなしてしまった。

「ま、な」

 荒い息を吐くおねえちゃんは、実はかなり美人だった。ぱっちり二重の切れ長の目に形のいい眉、すっきりと筋の通った鼻梁に薄めの唇。わたしの自慢のおねえちゃんは、けれどなまじっか顔立ちが整っているだけに、その時の顔はかなり怖かった。

 何を言えば良いのか分からず、取り敢えずおねえちゃんの呼吸が落ち着くのを待つ事にした。


 やがて深呼吸を二つしたおねえちゃんは、わたしの両肩をがしっと掴み、真剣な面持ちで顔を覗き込むように見つめて来た。

「まな、恭平から聞いてるの?」

「なにを?」

 いきなりおにいちゃんの名前が出て来てびっくりする。おねえちゃんとおにいちゃんは同い年で、同じ地元の高校に通っていた。けれど生来負けず嫌いのおねえちゃんはおにいちゃんに対してかなりのライバル意識があるようで、家ではほとんどおにいちゃんの事を話題にしようとはしなかったからだ。

 おねえちゃんにしては珍しく、なにかをどう言うべきか悩んでいる風だった。

 わたしが

「ねえ、なに?」

と促すと、下唇を噛んで俯き、やがて意を決したように顔を上げた。

「恭平んちのおじさん、地方の支社長になるんだって」

「ししゃちょう?」

「だから引越しするって。家も処分するらしい」

「え? お引越し? 処分って、もういらないって事?」

 高橋のおじさんのお仕事は、貿易会社のけっこう偉い人。転勤なんかもあって、全国を転々としていた。学校が変わるのは可哀想だと言う事で、おにいちゃんが生まれてからは、おじさん一人で単身赴任が続いていた。

 今まではそうだったのに、どうして急に?

「わたし、何も、聞いてない」

 そう。おにいちゃんからは、何も聞かされていなかった。

 おにいちゃんが東京の大学に行くのは知っていた。工学部に尊敬する先生(教授)がいるからで、春から一人暮らしをするんだって事も、おにいちゃんの口から聞いていた。それは仕方のない事で、わたしは何も言える立場じゃなかった。

 でも、お引越しの話は聞いていない。

「おばさんに、聞いて来る!」

 おねえちゃんが止める間もなく、わたしはつっかけを履くのももどかしくお隣に駆け込んだ。

「おばさん! お引越ししちゃうって、本当っ?」

 洗濯物を畳んでいたおばさんは、わたしの剣幕を見てかなり驚いていた。

「一週間後にね。もしかしてまなちゃん、恭平から聞いていなかったの?」

 おばさんの言葉に、ぶんぶんと力いっぱい首を横に振った。おねえちゃんから聞いたという事を告げると、さらに驚いて目を見開いていた。そして悲しそうな、寂しそうな何とも言えない表情になった。初めておばさんのこんな顔を見たわたしは、胸が苦しくなった。

「恭平もこの春から大学で、東京に出てしまうでしょう? これからは転勤もないって言う話だし、この家に住む人がいなくなっちゃうから」

 でも夏休みやお正月には、ここに帰って来るからって。おにいちゃんはそう言っていたのに。おじさんおばさんの家じゃなくなったら、おにいちゃんはもうここには帰って来ない。十歳のわたしにだってそのくらいの事は理解できた。

 信じたくないけれどどうしようもないのだと、心のどこかで納得していて。なのに、そんなのは嫌だ、絶対に嫌だ、と叫んでいる声もあって。頭の中で色々な事が渦巻いて、何も考えられなかった。

「……た」

「え? なに? まなちゃん」

「おにいちゃん、なんにも言ってなかったのに!」

 おばさんは何も悪くない。分かっていたのに、分かった顔をするにはわたしはあまりにも子供すぎて。叫んでしまってから口を押さえても、どうする事もできなくて。

 わたしは、逃げるようにお隣の家を飛び出してしまった。

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