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新しい生活――秘密じゃないけどないしょの関係

 目覚まし時計の代わりにセットしていた携帯電話のタイマーの音に、熟睡していたわたしの脳が刺激される。まだ、眠い。ここ数日まともに眠れていないのだから、当然と言えば当然だった。

 どうしても起き上がる気になれず、ふかふかの掛け布団を頭まで引き上げる。温かくてなんだか幸せ。そう思っていたのに。

「まな。起きないと遅刻するぞ」

「んー。まだ眠いー」

「転入早々遅刻する気か? それとも、サボる気なのか?」

 布団越しに聞こえて来た、耳に心地良い低音の声。思わず聞き惚れてしまうけれど、でも実はそれこそが、この睡眠不足の原因だったりする。

「まなは低血圧だったか?」

 違います。ただここのところ絶対的に睡眠時間が不足していて、脳に酸素が回っていないだけです。ぼそぼそと布団の中からそう告げる。

 このまままったりと眠っていたい。そう思っているのに無情にも布団を捲り上げられ、抗議の唸り声を上げる。これでも一応は乙女。人並みに羞恥心くらい持ち合わせていると言うのに。

「ただでさえ訳ありなんだから、初日くらいしっかりしろよ」

 けれどそれはもっともなご意見なので、仕方なく体を起こした。でもまだ目はなかなか開かないのだけれども。

 欠伸をしながら、シャツタイプのパジャマのボタンを二つ目まで外した。ふと視線に気付いてそちらを向くと、シニカルな笑いを貼り付けた顔が、すぐそばにあった。正直言って朝からこれは心臓に悪い。

「着替えるんだから、出てってください」

「俺の部屋なんだけど?」

「いいから出てってってば!」

 すぐ側にあった枕を掴んで投げつけたけれど、憎らしい事にあっさりとそれを躱された。

「朝飯は俺が用意したから、さっさと来いよ」

「分かってます」

 枕をぽんと投げ返しながら部屋を出て行く後ろ姿に、思い切りあっかんべをした。




 顔を洗ってダイニングに行くと、見計らったように、焼き上がったばかりのトーストが差し出される。相変わらずの手際の良さに感心をしながら、いくら何でも無言は失礼だと思い、小さくありがとうと言って受け取った。

 時計を見ながらトーストとサラダを口に運ぶ。こう言っては何だけど、まめな人だ。そのまめな人は今わたしの前の椅子に座って、マグカップ片手に新聞を読んでいたりする。

 六年前はあんなに優しかったのにな、と思うと溜息が零れてしまうのも無理はない。それほどまでに、目の前の人の変化は大きかったのではないだろうか。

「なんだ?」

 恨めしそうなわたしの視線と溜息に気付いたらしく、顔はそのままに目だけこちらを向けて来る。昔からかっこ良いと思ってはいたけれど、年を重ねた分、子供っぽさが抜けて男前度が上がったような気がする。

 図に乗られるのが嫌だから、絶対に言ってあげないけれど。

「先生も、そんなに余裕ないんじゃないんですか?」

「俺は大丈夫。車だから」

 ごまかそうとして咄嗟に出た言葉だったけれど、その返答に何だか不愉快になる。学生がやっとこさっとこ歩いて通う距離を、気軽に車で通うんですか。そうですか。

 大人と子供の違いを思い知らされるのは、いつもこんな些細な会話だったりする。そんな時は、余計に話題を振ってしまった自分が嫌になる。

「ごちそうさまでした」

 最後の一口をミルクで流し込み、鞄を手に取って玄関に向かう。後ろからついて来る気配に、靴を履いてから振り向いた。

 予想通り、少し意地悪な笑顔を貼り付けた顔がそこにいて、真新しい白い壁に凭れ掛かりながら軽く首を傾げて立っている。

「行って来ます」

「途中で転ぶなよ。お前、何もない所ですっ転ぶのが得意だからな」

「っ。気をつけます!」

 確かに何もない所で転ぶ事が多いわたしは、顔を真っ赤にして言い返した。当たり前だけれど、転びたくて転んでいるわけではない。実はちゃんと理由があって、この人はそれを誰よりも分かってくれているはずなのだけれど。

 決して優しいとは言えない言葉に腹が立って、玄関ドアを力いっぱい閉めて外に出た。




 吐く息が白い。目の前に広がる雪景色も白い。二月も半ばを過ぎているのだから当然と言えば当然なのだけれど、寒い。正直、学校になんて行きたくない。

 眠いし寒いし、これであとお腹が空けば凍死するよね。なんて頭の中で思い切り文句ばかり言っていても、それを実行するほどの度胸なんて持ち合わせていないのだけれど。


 わたしの名前は、庄司、ではなくて高橋真奈美。三日前に十六歳になったばかりの高校一年生。

 昨年の春にちゃんと受験して合格した地元の高校から、訳あって、遠く離れたこの土地の将星学園高校に、今日から編入する事になっている。子供の頃から仲が良かった友人知人達はもちろん、親元からも離れてこんな所に来る事になるなんて、一ヶ月前のわたしには想像もできなかった事だ。

 ようやく受験から解放されて喜んでいたのに、何が悲しくて編入試験なんてものまで受けなくちゃいけなくなったのだろうか。地元でも偏差値の高い高校に通っていたから良かったものの、編入先の学校だってかなり偏差値が高かった。本当に、良く編入できたものだと思う。


 マンションを出てから約五分の交差点で、こちらに向かって手を振っている人を見付け、わたしも手を振り返した。わたしと同じ制服なのに、まるで誂えたかのように上手に着こなしている。誰が見ても美少女だと認めるであろうその女の子は、つい先日義従妹になったばかりの元宮鈴華もとみや・りんかちゃんだった。

 同い年で近所に住んでいる彼女は、今日から同じ将星学園に通う事もあって、色々とお世話を焼いたりしてくれている。鈴華ちゃんがいてくれるからこそ、この重苦しい気分も少しは楽になると言うものだ。

「おはよう、まなちゃん」

「鈴華ちゃん、おはよー」

 にっこりと笑顔を向けられると、同性のわたしでさえうっとりしてしまう。いいなあ、と十人並みの容姿のわたしは素直に羨ましく思う。神様は何て不公平なんだろうか。


 二人並んで歩き始めて間もなく、鈴華ちゃんにいきなり左手を掴まれた。

「まなちゃん、指輪は? しないの?」

「え。だってやっぱりまずいでしょ」

 今朝洗面所に行くまで、わたしの左手の薬指にはシンプルで飾り気のない指輪があった。プラチナ製で特に石などはついていないけれど、十分上質だと分かるそれは、とてもではないけれど学生の身には相応しくない物だ。

 将星学園は偏差値が高いためか、校則が驚くほど緩い。厳しく縛りつけず生徒の自主性に任せているだけでも、それほど奇抜な事をするような者は滅多にいないらしいのだ。

 そんな校風だから、装飾品に関しても規制が緩い。あまりに華美でない限り、予め学校に申請さえすれば、指輪やピアスくらいでは問題にならないらしい。さらにはその申請も、余程の問題がない限り許可されるのが通例だと言う。

 生徒を信用しているのか放任なのか良く分からない気がするけれど、不良と呼ばれるような人はいないと言うから驚きだ。

 そして目の前にいる鈴華ちゃん自身、お付き合いをしている彼からのプレゼントの指輪を、チェーンに通して肌身離さず首元に付けている。

「害虫除けにちょうど良いのに」

「え。虫がいるの?」

 害虫と言うくらいだから、ムカデやハエやゴキ、とかなのだろうか。わたしはあまり虫が得意じゃないから、ちょっと嫌かもしれない。でもあの指輪に虫除け効果があったとは、全然知らなかった。プラチナの中に超小型の超音波発生装置などが埋め込んであるのだろうか。

 そんな事を考えていたら、鈴華ちゃんが小さく吹き出した。

「まなちゃんって、天然?」

「天然ってなに?」

 意味が分からないから聞き返したら、今度こそ本当に笑い出してしまった。

 鈴が転がるような声ってこういうのを言うのかと思わせる、少し高くて耳障りのいい声。大笑いしていても絵になる美少女ってどうなんだろう。

「まなちゃん、可愛い!」

 いきなり抱きつかれた。身構えていなかったから勢いでよろけそうになり、必死で両足を踏ん張って何とか耐えた。いきなり何をするんだろう、このお嬢様は。

「心配でわざわざ将星に入れた恭ちゃんの気持ちが分かるわ」

「どうしてそこで先生の名前が出て来るの?」

「んー。まあ、そんなところもまなちゃんの魅力だけど。恭ちゃん、苦労しそうね」

 鈴華ちゃんは学校に着くまでずっと笑いっぱなしで、笑われているわたしは何となく不機嫌になってしまった。


 正門を入った所で鈴華ちゃんと別れ、職員室に向かう。編入試験やその後の手続きなどで何度か来た事があるから、いくら方向音痴のわたしでも場所は覚えていた。

 職員室の前に着いたと同時に予鈴が鳴り、どうやら職員朝礼が始まってしまったらしい。仕方なく、壁に凭れて待つ事五分。本鈴が鳴って、数人の教員達が出て来た。

 人が引くのを待ってから中を覗き込むと、担任を持たないらしい半数くらいの教員が、まだ中に残っているのが見て取れる。

「失礼します。あの」

 さほど大きな声を出したつもりはないのだけれど、なぜか視線がわたしに集中した。そんなに珍しいのかしらと思いつつ、人見知りしがちなわたしは、居心地の悪さを感じて落ち着かなくなる。

「転校生、だよな?」

 男性教員の一人が手招きしているのが見え、もう一度ぺこりと頭を下げて職員室に入る。

「担任になる佐野だ。よろしく」

「あ。転校生の庄、じゃなくて高橋真奈美です」

 うっかり間違えそうになり、慌てて言い直した。

 佐野と名乗る先生は、背はそんなに高くないけれど、どちらかと言うとかっちりとした体格をしている。やや幼い顔が少しアンバランスで、人懐っこい笑顔が魅力的だ。この人となら、すぐに馴染めるかもしれない。

「すぐに教室に、と言いたいところなんだが、先に校長室に行くように言われているんだ」

 職員室側に設けられた校長室へのドアを佐野先生がノックすると、中から

「どうぞ」

と返事が返った。その声に、またしても緊張で体が硬くなってしまう。

 佐野先生に促され、後に続いて校長室に入ると、そこには校長先生と教頭先生に理事長先生まで揃っていた。いわゆる学園のトップスリーが揃い踏み。これで緊張するなと言うほうが無理だろう。

 結婚式に参列してくれていた理事長先生の他に、良く見知った顔も一人いたけれど、ほっとするどころか、かえって緊張感が増してしまう。

「おっ、おはようございます。し、高橋真奈美です」

 また間違えそうになった。まだ慣れていないのだから仕方がない、と心の中で自己弁護する。

「ようこそ、将星学園へ」

 さすがは女性ながらに校長先生を務めているだけあって、きびきびとした口調で、学園の事を手短に話してくれた。しかもその間笑顔を絶やさなかったのだから、凄いと思う。

「いいですか、高橋先生、高橋真奈美さん。ここではあなた方は従兄妹という事になっています。くれぐれも間違いのないように。万一夫婦だという事が知られれば、校長はもちろん教頭であるわたしや理事長にまで迷惑が及びますからね」

 やや甲高い、ちょっと神経に触るような声で、教頭先生が念を押すように言った。先日から何度も聞かされたため、その内容を暗唱できる自信がある。

「分かっています。学園にご迷惑をおかけしないよう、十分気を付けます」

 いつの間にか隣に立っていた高橋先生が、ちらりとわたしを横目で見た。そう。この人が、ほんの三日前に結婚したばかりのわたしの旦那様で、実は六年ぶりに再会したばかりの幼馴染でもある高橋恭平先生だ。

 さすがについ三十分ほど前まで家で見ていた意地悪な笑みは、すっかりなりを潜めていた。

「あ、はい。わたしも気をつけますので、よろしくお願いします」

 その視線に促され、慌てて頭を下げる。

「まあ、あまり堅苦しくならずに、残りの学園生活を堪能してください」

 理事長先生がにこやかに掛けてくれた言葉に、少しだけほっとする。

 将星学園に赴任して二年目の数学教師と現役高校一年生のわたしが夫婦だなんて、普通に考えれば非常識この上ない事だ。実際教頭先生は、わたしの編入に最後まで反対していたらしく、編入するのならば高橋先生を他の学校に転任させるとまで言われていた。

 まあ、それが世間一般の正常な判断だとは思う。

 ところがわたしと高橋先生の両親の言葉に心を動かされた、と言う不思議なくらいに理解のある理事長先生が、二人とも将星学園にいる事を許可してくれたのだ。卒業までの間、夫婦だという事を隠す事を条件に。

 予めなされていた打ち合わせで、表向きは従兄妹同士としてわたしが高橋先生の家に「居候」していると言う事になっていた。だから結婚の事を知っているのは、わたし達以外には校長・教頭・理事長・担任の四人だけ。この人達の協力を得ながら、何とかボロを出さずに二年余りを乗り切らなくてはならない。

 まったく。人生、思いもかけない出来事が良くこれだけ続くものだと感心するしかない。




 校長室から職員室に戻ると、さらに教員の数が減っていた。SHRが終わって授業が始まったからだ、と佐野先生が説明してくれた。

 わたしが編入する一年五組は一時限目が佐野先生の現国だそうなので、少しくらい遅れても影響がないらしい。ついでに言うと高橋先生は副担任で、この時間は空き時間だとか。

 しかしどうしてわざわざ、高橋先生が副担任をしているクラスに入れるのだろうか。隠せと言うのなら、もっと徹底的に離してくれた方が良いのに。

 そんな事を考えてはみるけれど、さすがに口には出さない。今日帰ったら、先生に聞いてみよう。教えてくれるかどうかは分からないけれど。


「高橋」

「あ、はい?」

 一年生の教室がある四階への階段を上っている時、佐野先生が急に声を掛けて来た。

「一年五組には、まあ、悪い奴はいない。むしろ結束力が強くて、男女ともに仲のいいクラスだ。皆いい奴なんだが」

 なんだろう。なんだか言いにくそう。いい人達ばかりなのに、なにが問題なんだろうか。

「なんと言うか、ノリが良すぎるところがあってな」

「ノリ、ですか」

「ああ。だから、まあ、気を付けろよ」

「はあ」

 何に気を付けるべきなのか、肝心の論点がはっきりしない。目的語が存在しないのだから、汲み取るのは無理だ。佐野先生は、仮にも国語教師なのに。

 説明を求めて高橋先生を振り返っても、微苦笑を浮かべるだけで何も言ってはくれない。自分で考えろという事なのだろうか。

 はっきり言ってわけが分からないと思うのは、わたしの理解力が足りないせいなんかではない、と思う。

 まあ何とかなる、と良いのだけれど。


 一年五組の教室の前。他のクラスはとっくに授業が始まっているからか、このクラスも比較的静かなものだ。

 戸に手を掛けた佐野先生が、行くぞとばかりにこちらを見た。ドンと来いとは言えないけれど、とりあえず身構えてみる。

「おはよう」

 引き戸の開く音と共に、佐野先生が生徒に声を掛けた。

 わたしの将星学園での生活が、今ここから始まる。

2005年8月に書いた話です。そのため話中の携帯電話は、スマートフォンではなく、ガラケーをイメージしています。ご了承下さい。

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