二人きり――重苦しい沈黙と、未だかつてない緊張と
気が付くと、目の前に姉の顔があった。正確に言うと横になっているわたしの顔を姉が覗き込んでいたため、目を開いたと同時に視界に入っていたのだ。
「まな、大丈夫?」
「あれ? おねえちゃん?」
「まだ脈が少し速いですね。少し熱もあるようだし、もう少し安静にしていてください」
わたしの手首を取っていた胡桃沢先生が、声を掛けてくれる。
頭の芯がまだ痛い事に加えて、横になっても目の前がくらくらしている。この感覚には覚えがある。以前風邪で倒れた時と同じだ。
「えー、と?」
何があったのか、良く分かっていなかった。
「まなったら、突然倒れたのよ。覚えていないの?」
そう言われれば、目の前がぐらついて、足元が崩れるような奇妙な感じがしたような気がする。記憶にはないけれど、やはり姉が言う通り倒れてしまったのだろうか。
脚の怪我のために跳んだり走ったりができないわたしは、基礎体力があまりない。体が弱いわけではないけれど、それでもやはり若干抵抗力が弱く、体調を崩しやすい。とは言え、自分でも無理をしていると分かっていた結婚後のあの時期ならともかく、今日一日少し無理をしたからと言って倒れるほど、ひ弱ではなかったはずなのに。もしかすると、精神面が影響でもしたのかもしれないなと、漠然と思った。
「あ、えっと。ごめんなさい」
姉と胡桃沢先生に迷惑を掛けてしまった事を申し訳なく思い、わたしはとりあえず謝罪した。
「別に謝る事じゃないでしょ。体調が悪い事に気付いてあげられなかったのは、わたし達のほうだし」
「ううん。わたしも自覚がなかったから」
「んふふー。まなったら、相変わらず守ってあげたくなっちゃう可愛さよねー。あー、本気で恭平なんかには勿体ないわ」
むにむにと頬を撫で回す姉の指先がくすぐったくて、わたしはそれから逃れるように顔の角度を変えた。そして視線の先にある人の姿を認め、飛び起きるように上半身を起こす。
途端に襲い来る眩暈にぐらついた体を、姉が慌てて抱き止めてくれた。
「触るな」
低い声が響く。普段とあまりに違うその響きに、一瞬誰の声なのか分からなかった。
「あんたね。わたしにまで焼き餅焼いてんじゃないわよ。誰のせいでまなが倒れたと思ってんの。第一、非常時でしょうが。独占欲が強すぎる男は見苦しいわよ」
姉が「あんた」と呼んだのは、やはりわたしの視線の先にいた人で。わたしが会いたくて仕方がなくて、でも会えないと思っていた人で。
「先生?」
姉の肩越しに見える姿は、わたしが子供の頃からずっと好きだった、おにいちゃんその人で。
「はい、そこまででストップ」
呆然と見つめているわたしに向かって歩み寄って来るおにいちゃんを、けれど別の声が遮った。にこやかな笑みを浮かべながら、胡桃沢先生がわたし達の間に立ちはだかっている。
そういえばここは胡桃沢先生の家なのだと、今になってようやく思い出した。そしてわたしが横になっていたのが、和室に敷いてもらった布団だったのだと気付く。
「真奈美さんが現状を把握できていないようですし、穂之香さんと僕もお二人の事は詳しく分かりませんし。とりあえず情報交換でもしませんか」
その言葉に、姉は大きく、高橋先生も不承不承と言った態で頷いた。
今まで誰にも話していなかったわたし達の結婚後の関係を、至って簡潔な言葉でおにいちゃんが説明した。わたしはそれを聞くのが嫌だったのだけれど、席を外す事を胡桃沢先生が許してくれなかった。
こみ上げて来る感情と滲む涙を必死に堪えるわたしを、姉がずっと抱きしめてくれていた。その優しさがかえって辛くて、わたしは俯いたまま下唇を噛み締める。
本当は、誰にも知られたくなかった。たとえ姉でも。わたしの幸せを、誰よりも願ってくれている姉だからこそ。わたしがこんな思いをしている事なんて、知られたくなかったのに。
「恭平、あんた、馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、そこまで馬鹿だとは思わなかったわ」
眦を吊り上げている姉の怒気を孕んだ声に、わたしの肩がびくりと跳ねる。それに気付いた姉が、一転して気遣わしそうな視線でわたしを見た。
「なるほど。お話は分かりました。真奈美さん、今まで随分辛かったでしょう」
「いえ」
胡桃沢先生の言葉に、わたしは小さく首を振る。辛かったのは確かだけれど、決してそれだけではなかったから。
「まな。こんな自己中くそばか野郎の恭平なんかに、遠慮しなくていいのよ。辛くないはず、ないでしょ」
「穂之香さん、女性がくそばかとか言うものじゃありませんよ」
「う。じゃ、じゃあ、自己中朴念仁で」
「それなら、まあ、いいでしょう」
姉の言葉に修正をかける胡桃沢先生のやり取りのおかげで、わたしは途中で唇を噛み締めるのを忘れていた。朴念仁とはまたえらい言われようだと思いながらも、変に険悪になるよりはずっと良いとも思う。なぜだか緊張が削がれる事は否めないけれど。
話はわたしが泣き出してしまった原因にまで及び、響生君の名前が出た時には、わたしはまた泣きたい衝動に襲われていた。
どうやらわたしが早退した後、おにいちゃんと姉は個別に鈴華ちゃんはじめその場にいたクラスメイト達に、理由を訊ねていたらしい。そこから響生君に至ったのだそうだ。
「でも、恭平には響生君を責める権利はないわよねえ? ダメもとでも行動に出るだけ男前ってもんよ。十五歳の男の子に負けてるなんて、情けないにもほどがあるんじゃない?」
「そうですか? 一応形だけとは言え真奈美さんの夫なんですから、それを知っていて行動に移した元宮君に対しては、十分文句を言える立場だと思いますよ」
胡桃沢先生の言葉は、一見おにいちゃんをフォローしているようにも取れるけれど、明らかに皮肉を含んでいた。そしてもっと激昂するかと思われた姉の態度は、表面上予想外に穏やかで、むしろその静かさが不気味とも言える。
そんな二人を前に、おにいちゃんは眉間に皺を寄せ、何か言いたそうに口元を歪めていた。
「事情は分かりました。が、高橋先生。真奈美さんを連れ戻して、どうするおつもりなんですか」
自己満足のために今までの関係を強いるつもりならば、どんな事をしてもわたしをここに引き留める。胡桃沢先生は、はっきりきっぱりとそう宣言した。
「これからの事は、まなと、二人で話し合いたい」
「その必要はあるでしょうね。真奈美さんにその気があるのならば、ですが」
三人の視線がわたしに集中する。
話し合い? 今更何を? また、あの地獄の宣告のような言葉を受けろとでも言うのだろうか。思い出しただけでも胸が苦しくなるような、あの言葉を。
胸の前で両手を握り締め、わたしは首を横に振る。まるで子供がいやいやをするかのように、固く目を閉じて。
「でもね、まな。別れるにしたって元の鞘に戻るにしたって、このままじゃ事態は何も好転しないのよ。それは分かっているんでしょう?」
だからきちんと二人で向き合うべきだ。普段は甘いだけの姉の、厳しいとも取れるその言葉は、けれど本当にわたしの事を思ってのものだと分かってはいる。
でも、姉は知らない。長年抱き続けた想いを否定された時の、わたしの絶望感を。ようやく手に入れたと思っていたものが目の前で崩れ去ってしまった、あの喪失感を。
誰も、知らない。誰にも、分からない。
俯いて体を強張らせたまま黙り込んでいるわたしの肩に、温かい手が触れる。顔を上げてみると、そこには胡桃沢先生の穏やかな笑顔があった。
「少なくとも、今以上に悪い方向に向かう事はありませんよ」
「ど、して、そんな事」
どうしてそんな事が言えるのだろう。この人に、何が分かると言うのだろう。
「こう見えても、真奈美さんの倍近くの人生を経験していますからね。それよりも何よりも、高橋先生の顔を見ていれば分かりますよ」
そう言っておにいちゃんの顔を見る胡桃沢先生の目が、すっと細められた。いつもの穏やかな胡桃沢先生とは打って変わったその冷たい視線に、背筋がなぜかひやりとした。
もしかして普段の胡桃沢先生は、意図して作られた表情を装っているのかもしれない。この冷ややかな光を宿した胡桃沢先生が、この人の本来の姿なのかもしれない。どこにも根拠などないのに、漠然とそう感じた。
「これまで、十分に傷つけていた事は認めます。でも、これ以上にまなを傷つけるつもりは、ありません」
少し苦しそうな辛そうな響きのその言葉に、けれどわたしはおにいちゃんの顔を見る事ができないでいる。顔を見たらまた涙が止まらなくなりそうだったから。
ずっと「泣いちゃいけない」「泣くのは卑怯だ」と自分自身に言い聞かせて我慢して来た反動なのか、わたしの涙腺は緩みっぱなしなのだ。これではおにいちゃんと向き合う事はおろか、まともに話をする事すらできそうにないと言うのに。
「三十分」
胡桃沢先生が右手の指を三本立てて、おにいちゃんに向けて突き出した。
「時間を差し上げますから、その間に真奈美さんが納得のいくように話し合ってください。三十分経っても真奈美さんに帰る意思がないようなら、高橋先生一人でお引取りいただきます。それで良いですね」
良いわけがない。三十分もおにいちゃんと二人きりで話をするなんて、今のわたしにとっては拷問に等しい。そんなわたしの気持を知ってか知らずか、おにいちゃんと姉が同時にこっくりと頷いた。
ああ、もうどうにでもなれ。半ばやけくそな気持になるのは、決してわたしのせいではないと思う。
「恭平。あの時わたしにあれだけの啖呵を切ったんだから、これ以上まなを泣かせたら、容赦しないわよ?」
姉が凄みを利かせて言ったところで、おにいちゃんには全然堪えないだろう。長年の二人の関係を知っているわたしはそう思ったのに、意外にもおにいちゃんは「ああ」とだけ短く応えた。
「じゃあ、わたしと政高は向こうの部屋にいるから。恭平に何かされそうになったら、大声を上げるのよ?」
そう思うのなら、一緒にここにいて。そう言いたいのに、さっきからわたしの喉は、声の出し方を忘れたかのように機能してくれていない。圧倒されていると言うわけではないけれど、抗議の声を上げる事ができずにいる。
いつの間にか姉と胡桃沢先生が出て行ってしまい、和室におにいちゃんと二人取り残されるに至って、ようやく気が付いた。おにいちゃんと一緒にいる事に、あり得ないほど緊張してしまっていたのだと。
生まれた時からずっとそばにいたおにいちゃん。六年間離れていた時は、寂しさと不安で心が押し潰されそうな時期もあった。それでもたった一つ。十六歳の約束だけが、わたしの心を支えてくれていた。
おにいちゃんに再会した時、すっかり大人になったその姿に多少緊張はしたけれど、それ以上にまた会えた事の嬉しさの方がずっと大きくて。結婚式の時もやっぱり緊張はしたけれど、そんなものは目の前にある幸せに比べれば微々たるもので。
だからこんなに居心地の悪さを感じるような緊張なんて、今まで一度もなかった事だった。
「まな」
重苦しくのしかかって来るような沈黙を破ったのは、おにいちゃんだった。
そろそろと顔を上げ、さ迷っていた視線をようやくおにいちゃんの顔に合わせると、困り切ったようなどことなく情けないような奇妙な表情をしている事に気がついた。
恐らくこの十六年間わたしの前ではほとんど見せた事もないような、なんとも居心地の悪そうなその顔を、わたしはただ呆然と見つめていた。