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心の居場所――声を聞かせて、笑顔を見せて

 保健医が書いてくれた早退許可書を差し出すと、佐野先生が少しだけ変な顔をした。早退理由は貧血と睡眠不足。わたしには前科があるだけに、先生も必要以上には突っ込んで来なかったけれど。

 心配してくれる鈴華ちゃん達クラスメイトに会釈だけを返し、わたしは一人帰宅した。

 すぐに部屋に行き、ボストンバッグにとりあえずの着替えなどを入るだけ詰め込んだ。当面はこれで何とかなるだろう。残りは別の日にでも改めて箱に詰め、宅急便で出せばいい。先生が学校にいる間なら、いつでも可能だ。教科書が学内販売ではなく、指定書店へ出向いての購入なのが幸いした。

 制服を着たままマンションを出たのは、午後四時半。先生はまだ帰ってはいないけれど、結構ぎりぎりになってしまい、急ぎ足で姉と胡桃沢先生の住まいに向かった。本当はかなり気が引けたのだけれど、かと言って他に頼る相手もなく、やむなく身を寄せる事になったのだ。

 もちろん姉は大歓迎、胡桃沢先生も

「一人も二人も同じですから」

と笑顔で了承してくれた。

 結局わたしはまだまだ子供で、一人ではどうする事もできないのだと、改めて思い知らされた。

 彼らが同居するマンションは、わたし達が住んでいる所から徒歩七分の所にある、ファミリー向けの豪華な分譲マンションだった。まさかそんな近くに姉が住んでいるとは思いもしなかったわたしは、驚きを隠せない。


「まなの手料理、久しぶりだわ」

 春休みに里帰りした時は、わたしの母と高橋の義母が

「たまにはゆっくりしなさい」

と言って食事の支度を引き受けてくれていたので、上げ膳据え膳の恵まれた環境だった。あまりにする事がなくなってしまい、かえって手持ち無沙汰だったほどだ。だから姉の食事を作るのは、実に三ヶ月ぶり。

「胡桃沢先生のお口に合うと良いんだけど。ってそう言えばおねえちゃん、毎日お料理してるの?」

 実家にいた頃はわたしと母が家事を分担していたため、姉はほとんど何もしていなかった。アイロンがけさえも、ろくにした事がないはずだ。それがいきなりの胡桃沢先生との同居で、生活は大丈夫なのだろうか。

「わたしが料理なんてできるわけないでしょ。政高が作ってんのよ」

 からからと明るい笑い声を上げ、姉が手を上下に振りながら言った。

「えっ?」

「政高ってああ見えて、家事全般オールマイティーにこなしちゃう優良物件なのよー。いい拾い物だったわ」

「優良って」

 物件とはえらい言われようだ。さらに拾い物とは、一体姉は胡桃沢先生の事を何だと思っているのだろうかと、わたしの胸に一抹の不安がよぎる。

「わたしもお風呂洗いとかゴミ出しくらいはしてるわよ。あと、洗濯は各自でするし」

「それだけ?」

 つまりは、家事の大部分を胡桃沢先生におんぶで抱っこ状態という事じゃないか。

「掃除を穂之香さんに任せても、結局僕が手直しをする羽目になりますからね」

 いつの間に帰っていたのか、胡桃沢先生がにっこりと笑顔で説明してくれた。

 この突然の出現にわたしはかなり驚いたのだけれど、姉は平然としている。もしかしていつもこうなのだろうか。

「お帰りなさーい」

「あ、お邪魔しています」

「はい。ただいま」

 姉に応える胡桃沢先生の笑顔が、心なしか柔らかくなった気がした。学校で見かける胡桃沢先生はいつも笑顔を貼り付けていて、何を考えているのか分からない、むしろ感情を隠しているかのように見えるのに。

 そして少し経ってから気付いたのだけれど、胡桃沢先生は姉の事を学校では「庄司さん」と呼び、家では「穂之香さん」ときちんと呼び分けているらしい。頭の切り替えが速いのだろう。羨ましい限りだ。

「真奈美さんも暫くはここで一緒に住まれるんですから、お帰りなさい、でお願いしますね」

「あ、はい。お帰り、なさい」

「はい。ただいま。いい匂いですね」

 さっきと同じ返事をして、胡桃沢先生はキッチンの中を覗き込んで来た。

「あ。胡桃沢先生、和食がお好きだって聞いたので、煮物と焼き魚にしたんですけど」

「穂之香さんの手料理は薬があっても遠慮したいところですが、真奈美さんの手料理はかなり楽しみですね」

 わたしの言葉に、胡桃沢先生はいつもの笑顔を浮かべた。

 ちらりと姉の様子を窺うと、文句こそ言わないけれど思い切り舌を出している。けれど胡桃沢先生はそんな事は意にも介していないらしく、涼しい顔をしていた。

 なんとなく不思議な雰囲気の二人だけれど、それなりに上手くやっているようで安心する。

「じゃあ、さっさと着替えてご相伴に与かる事にしましょうか」

「あ、はい。すぐに食事の用意をしますね」

 いつもと違う家。いつもと違う顔ぶれでの夕食は、わたしに奇妙な緊張感を抱かせた。保健医の胡桃沢先生はともかく、もう一人は生まれた時から知っていて、ほんの二ヶ月前まで同じ家で暮らしていた実の姉だと言うのに。一緒に暮らし始めてまだ数日しか経っていないと言う二人は、けれど不思議なほど打ち解けている。まるで本当の家族のようだと思わせるくらいには。

 何となく居心地の悪さを覚え、けれどわたしはそれを顔に出さないように、努めて平静を装った。


 胡桃沢先生はわたしの手料理がお気に召したらしく、何度も褒めてくれていた。八割くらいはお世辞だろうけれど、それでも悪い気がするはずがない。

 どうやら一緒に住み始めた当初、試しに姉が何かを作ってみたらしいのだけれど、それは胡桃沢先生の口には合わなかったらしい。お世辞どころか、大変な事になったたのだとか。姉が一体何を作ったのか想像もつかないけれど、その時の胡桃沢先生の気持が少しだけ分かる気がした。

 高橋先生は口に合わない時にはそれを言うけれど、わたしが「美味しい?」と訊ねなければ、滅多に褒めてくれない。それも渋々仕方ないと言う口調で。

 そんな風に無意識に比べてしまっている事に気付き、わたしはこっそり溜息を吐いた。




 夕食後お風呂もすませ、胡桃沢先生が敷いてくれたらしい布団の上に腰を下ろした。とことん姉は何もしないのだなと、変に感心してしまう。家事全般苦手な姉とは言え、この状況を従容として受け入れている胡桃沢先生は、実はかなり寛容な心の持ち主なのかもしれない。

 時刻は午後九時半。マンションを出て、既に五時間が経っていた。

 学校を早退したから、高橋先生にはあの視聴覚室以来会っていない。たった半日あまり。たったそれだけの時間なのに、まるでもう何日間も会っていない気がする。一緒に暮らし始めてからでも、丸一日以上会わない時だってあったし、さらには六年間、顔を合わせていなかったと言うのに。


 先生は、一人でもちゃんと、夕食を食べたのだろうか。

 なぜだか急に先生の顔が見たくなって、かと言って家に戻る事なんてできなくて。わたしは鞄に手を伸ばし、電源を切りっぱなしだった携帯電話を手に取った。

 携帯電話のカメラで撮った先生の写真があった事を思い出し、電源を入れる。誰かに見られるわけにはいかないので、待ち受け画面にはできないけれど、データフォルダに残してあった写真を表示した。

 いつもの、銀縁眼鏡をかけた先生のきれいな横顔が、画面いっぱいに現れる。この時の先生は、携帯のレンズを向けても全然協力的ではなく、声を掛けようが肩をつつこうがちらりともこちらを向いてくれなかった事を思い出した。車の運転中だったから仕方がなかったのだけれど、信号待ちの間くらい協力してくれても良さそうなものなのに。

 けれど実は先生の横顔を見るのが好きなわたしには、それでも十分貴重だったりする。

「先生、今頃何してるのかな」

 我ながら女々しいと思いながら、画面の先生を見つめた。

 ふと思い立って通常画面に戻すと、端っこに点滅する着信ありの表示に気付いた。やはり電源を切っていた間に着信があったらしい。

 ボタンを操作して履歴を表示して絶句した。わたしが早退してからの十時間ほどの間に、何十件もの着信があった。そのほとんどが先生からで、五回に一回くらいの割合で鈴華ちゃんの名前がある。鈴華ちゃんにしてみれば、突然理由も分からないけれど泣き出したわたしが、高橋先生と保健室に行きそのまま早退してしまったのだ。当然心配を掛けてしまった事だろう。

 電話で直接話せるような事ではない上に、問い詰められたら全て話してしまいそうで。だから、鈴華ちゃんにはメールで謝ろう。そう思ってメール画面を開いたら、受信フォルダに何通ものメールが届いていた。その尋常ならざる量のメールを前に、わたしは胸がつまりそうだった。

 どうしよう。こんな時なのに。

 着信履歴と受信メールの数がそのまま、先生からわたしへの想いの大きさのような気がして。鈴華ちゃんから寄せてもらえる、好意の証のような気がして。不覚にも、目頭が熱くなってしまう。

 そして徐に流れ出した着信音に、体がびくりと震えた。思わずわたしは手に持ったままの携帯電話を見つめる。出たくはないけれど、声を聞きたい。けれどわたしの震える指は、受信ボタンにかかったまま動かない。

 そうこうしている内に、着信音が途切れた。ほっとする半面、言い知れない寂しさがわたしの心に沸いて来る。着信を知らせる照明が消えた携帯電話をじっと見つめても、もう何の音も聞こえてはこない。

 行き場のない感情を持て余しながら、わたしは再び携帯電話の電源を切った。


 横になって布団に潜り込み、固く目を閉じる。手には電源を切ったままの携帯電話を握り締めているあたりが、ちょっと情けない。

 脳裏に浮かんで来るのは、おにいちゃんの顔。伊達に物心ついた頃から好きでい続けたんじゃないな、と我ながら感心した。

 他の事を考えようと必死に思考を巡らせるけれど、浮かんで来るのはおにいちゃんの事ばかり。素っ気無くてちょっと意地悪で、さりげなく優しくて。本当に好きで好きで仕方がなくて。煩いくらいに追い掛け回していたわたしに、けれど迷惑そうな素振りを見せる事がなかったおにいちゃん。

 おにいちゃんもわたしの事を想っていてくれただなんて、そんな都合の良い姉の言葉を俄かに信じる事は到底できないけれど。それでもその中には、ほんの少しでも「本当」が含まれているのかもしれないと。僅かな希望を抱いている未練がましさに、自嘲の笑みが浮かび、唇を噛みしめた。

 声が漏れたりしないよう、必死に息を飲み込みながら、押し寄せる感情の波に耐える。知らず滲んで来た涙が、目尻から零れ落ちた。


 体の震えがようやく落ち着き、わたしは息苦しさを感じて布団から頭を出した。横になったまま、大きく息を吸う。泣いたからなのかそれを堪えたからなのか、頭の芯が少し痛んだ。

 ふと、襖の向こう側から聞こえて来る声に気付いた。言葉の内容までは聞き取れないけれど、どうやら何事か言い争っているような険悪さが感じ取られる。姉と胡桃沢先生が揉めているのだろうか。だとしたら、わたしが転がり込んで来た事が原因かもしれない。

 わたしは布団から起き上がり、襖に手を掛けた。

「だから。まなはここに置いておくって言っているでしょう! まな本人がそれを望んでいるのよ!」

 姉が声を荒げている。わたしの名前が出ていると言う事は、やはり原因はわたしにあるのだ。

 急いで襖を開け、声がする方を見た。

 姉と胡桃沢先生は玄関先に立っていて。胡桃沢先生がその体と腕で作った障壁の向こう側。二人の背中越しに見えた姿に、わたしは呆然と立ち尽くす事しかできない。

「まな!」

 声が、響いた。

「せん、せ?」

 そこに、おにいちゃんが、いた。

2005年12月に書いた作品です。

当時はガラケーが主流でスマートフォンは影も形も存在しませんでした。当然TwitterもLINEもなく、メールで連絡を取り合うのが普通でした。

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