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心の波紋――初めて聞かされる、知らなかった事実

「もう、良いよ。もう、自由になろう、おにいちゃん」

 その言葉を伝えた時、先生は驚いたように目を見開き、次いで痛みを堪えるように表情が歪んだ。何か言おうとしているようだけれど、言葉が見つからないようだった。そして大きな溜息を一つ吐くと、無造作に前髪をかき上げた。

 細めた目が時折痛そうに辛そうに顰められる。泣きそうな顔と言うのはこんな表情なのかもしれない。わたしは生まれてから十六年間、こんな先生を見た事がなかった。

 わたしが知っているおにいちゃんはいつも、少し意地悪でけれどとても優しくて。年が離れている事もあって、決してわたしに弱い所を見せる事はなかった。いつもわたしよりもずっと余裕があって、ずっと大人だったのだ。

 もちろん人間なのだから、怒る時もあれば笑う時もある。けれど今思えばおにいちゃんは、どうしてもわたしの前では素を見せてくれていなかった。それはきっとおにいちゃんのプライドなのだろうけれど、それがわたしにとって結構辛い事だと気付いたのは、離れ離れになってからの事だった。

「もう、わたしに縛られなくていいから。責任なんて、感じなくていいから」

 だから自由になって。わたしから。言外の言葉は、ちゃんとおにいちゃんの心に届くだろうか。もっと言葉を尽くさなければいけないと思いながらも、どんな言葉を並べたところで、わたしの想いを伝えきる事ができない気がして。胸がつかえたように苦しくて。

 言葉にならないもどかしさを。声にならないこの気持を。溢れそうなこの想いを。伝える術を、今のわたしは持っていない。

「まな」

 呼ばれるだけで心が震えるのに。

「もう、わたしのためにおにいちゃんの人生を犠牲にしたくないの。だから、解放して」

 先生の人生を縛り付けているのは、わたし。先生の自由を奪っているのも、わたし。けれど本当に囚われているのは、先生ではなく、わたしの心なのだ。

「本当に好きな奴が、できたのか?」

 唇を固く引き結んでいた先生が、搾り出すような声を出した。

 ずきりと胸の奥に痛みが走る。本当に好きな人なんて、あなた以外にはいないのに。幼い頃から、わたしの心はあなただけの物なのに。いっそここで頷きでもすれば良いのだろうけれど、昔からわたしはおにいちゃんには嘘がつけない。ついたところで、即座に嘘だと見抜かれてしまう。だから、嘘はつかない。

 わたしは首を左右に振った。

「違う。そうじゃない。でも、もう良いから。だから、解放して」

 そんな言葉を口に乗せながらも、心の中で別の声が囁いている。そんな事は欺瞞だ。本当に解放されたいのは、わたしの方なのだろうと。そしてわたしにはその声を否定する事はできない。それが事実なのだと、他の誰でもないわたし自身が知っているのだから。

 否定され続けている愚かな想いを。叶わないと分かっている僅かな希望を。女々しくも捨てきれないのは、わたし。だからこれは、先生が悪いわけじゃない。現状に満足できないわたしが悪いのだ。


 一緒にいられるだけで幸せなのに、一緒にいるだけで傷ついているわたしがいる。幼い頃からの想いに縛りつけられて、身動きできなくなったわたしがいる。このまま一緒にいたら、きっと呼吸すらもできなくなってしまう。

 痛みに酔いしれて悲劇のヒロインを気取るのは簡単な事だ。けれどわたしはそんな事を望んではいない。

「高橋先生」

 改めて呼ぶと、先生の顔が痛そうに顰められる。こんな顔をさせているのはわたしなのだと、分かってはいるけれど。

「今までありがとうございました。あまり時間が空くとまずいと思いますし、保健室にはわたしだけで行けますから」

 ぺこりと頭を下げて、わたしは踵を返した。

「まな」

「高橋、です。先生」

 鍵がかかっているドアを開き、振り返らずに外に出る。薄暗かった視聴覚室から明るい外に出て一瞬目が眩んだけれど、立ち止まる事なく足早に保健室に向かった。

 ふと気になって頬に手を触れる。先生の前で泣かずにいられた事にほっとしながら、そんな自分を褒めてやりたい気分だった。




 ばたばたと言うよりもどたどたと大きな音が近づいて来る。

「ああ、来たみたいですね」

 のんびりとした声で保健医が言う。

 三学期の期末試験最終日に風邪で倒れた時、この人にお世話になったらしい。けれど熱で朦朧としていたわたしは、申し訳ない事にまったく覚えていなかった。それでも気を悪くした風でもなく、人あたりの良い笑顔で対応してくれたのはありがたかった。

 視聴覚室と同じ一階にあるこの場所に着いたわたしは、とりあえずこの赤くなっている目が落ち着くまで、ここにいさせてもらえるようにお願いしてみた。保健医はにこやかに了承してくれ、さらには理由などを問い詰める事はしなかったのでほっとした、のだけれど。

「ちょっと! まなは大丈夫なのっ?」

 がらりと勢い良く開かれた引き戸から、良く見知った人物が飛び込んで来た。その形相は凄まじく、なまじっか顔立ちが整っているだけに余計に凄みがきいていた。

 それを迎え入れた保健医は動揺もせずに、開け放たれたままの引き戸を閉めている。

「庄司さん、学校でその呼び方はまずいんじゃないですか?」

 保健医の言葉に、乱れた息を整えている人物が、はっとしたように口を噤んだ。

「だって政高が、まなが保健室に来た、なんて言うから何があったのかと思って」

「ほら、また。政高じゃなくて胡桃沢。まなじゃなくて高橋さん」

「あ、あうう」

 飛び込んで来たのは、この学校の図書室の司書でありわたしの実姉でもある庄司穂之香だったのだけれど、どうしてこの人が今ここにいるのかが分からなくて困惑した。そして思い出した。ここに着いて早々、保健医がどこかに電話をかけていた事を。どうやら内線で姉に連絡をしたらしいのだろうと思い至ったけれど、どうしてわたしと姉が結びついたのだろうか。それにどうも姉はこの保健医に、完全に言い負かされているようだ。口から生まれて来たと言われるほど口の回転が滑らかで、理屈屁理屈をこねさせたら天下一品の姉が、である。

「と言うわけで、庄司さん。高橋さんが視線で色々と説明を求めているようですよ」

「あ、そうだった! まな、じゃなくて高橋さんには話していなかったんだけど、わたし、この春からこの人と一緒に暮らしているのよね」

 姉の言葉に、一瞬思考が凍りつく。今確かに一緒に暮らしていると聞いた気がするのだけれど。

「は? おねえちゃん、じゃなくて庄司さんって、うちの保健医とお知り合いだったの?」

「そりゃあ、知り合いじゃなければ一緒に住んだりしませんよ」

 わたしの疑問には、姉ではなく保健医が穏やかな口調で答えてくれた。

 いやまあ、確かに見も知らない人とは一緒に住めないだろうけれど、わたしが聞きたいのはそんな事ではなく。


「改めまして、胡桃沢政高くるみざわ まさたかです。職業は将星学園高等部の保健室の先生、って、もちろんご存知ですよね」

「あ、はい」

「実は三ヶ月前にこちらの庄司さんとお知り合いになりまして、意気投合。めでたくも同居する運びとなりました。そう言うわけで、高橋さんと庄司さんの関係も、高橋先生との関係もすべて承知しています」

「同居、ですか」

「おや、ご不満ですか? それは同居に対してですか。それとも高橋先生との事に対してですか?」

「いえ、そう言うわけではないんですけれど」

 高橋先生との事は、姉が話したのだろうと推測した。と言うかそうとしか考えられなかった。

 そして胡桃沢先生は、姉とは同棲ではなく同居だと言った。と言う事はこの二人は恋人同士ではないのだろうか。それよりも問題なのは、出会ったのが三ヶ月前だと言う事なのだけれど。

 三ヶ月前と言うと、高橋先生とわたしが結婚した頃だろう。そして春休みには一緒に住む事が決まっていたと言う事は、たった二ヶ月ほどの間に二人の間に何があったのかは知らないが、男女が一緒に住むと言う事はつまりそう言う事だと思う。思うのだけれど、姉は存外身持ちが固い事を、妹であるわたしは良く知っている。少なくとも、知り合ったばかりのような相手にのこのこと着いて行くような人ではないはずなのだ。


「庄司さん、本当に何も話していなかったんですね」

「だって、黙っていた方が面白いと思ったんだもの。ま、じゃなくて高橋さんの驚いた顔ってすごく可愛いんだから!」

 姉の言葉に、思わずくらりと目眩を起こしそうになる。そんな下らない理由で、こんな大事な事をわたしに黙っていたなんて。

「高橋さんが可愛いと言うのは、他人の目から見ても確かですけれどね。こう言う大事な事はきちんと話しておくべきだと思いますよ」

 まさに正論。にっこりと微笑んだ胡桃沢先生に、なぜか姉の笑顔が引きつった。

「ちょうどいい機会だから、お話ししておきなさい」

「はあい」

 拗ねたような顔をしているとはいえ、姉がこれだけ素直に他人の言葉を聞き入れるなんて。のんびりおっとりしているように見えるけれど、もしかしたら胡桃沢先生は凄い人なのかもしれない。根拠はないけれどなんとなくそう思う。

「高橋さんは、その兎のような目の理由を話してくださいね」

 薮蛇だ、と思った。




 姉と胡桃沢先生が同居するに至った経緯を、姉の身振り手振りつきで聞かされた。時折入る胡桃沢先生の注釈と修正が面白かったのだけれど、そのたびに姉は少し拗ねたような素振りを見せる。そして胡桃沢先生は怒るでもなく、ただ穏やかに微笑んでいた。

 これでこの二人がお付き合いをしていない、本当にただ同居しているだけの関係だと言うのが、話を聞き終えた今でも信じられない。でも姉も胡桃沢先生も嘘やはったりを言っているようには見えず、だから信じる事にしたのだけれど。

 そしてわたしが教室で泣き出してしまった理由と、その後高橋先生に伝えた言葉を、姉と胡桃沢先生に話した。時折胸の奥からこみ上げて来るのを堪えながらの事だったので、何度もつっかえながらだったけれど、その間二人は何も言わないでただじっと耳を傾けてくれていた。


「まなは、それでいいの?」

 一呼吸置いてから、姉が静かに口を開いた。わたしの話が始まってすぐに胡桃沢先生が入り口の戸に鍵を掛けて来てくれていたので、誰かに聞かれる危険もなく、姉はわたしの事をいつも通りまなと呼んだ。

 静かだけれどとても優しい暖かな口調で名を呼ばれ、油断すると泣き出してしまいそうになるのを堪え、わたしは小さく頷いた。

「それなら仕方がないけど、今頃きっと恭平の奴、地の底まで落ち込んでるんじゃないかしらねえ。後で顔を見に行ってやらなくっちゃ」

 実に楽しげな姉の言葉に、けれどわたしはそんな事はない、と反論する。

「落ち込んでなんかいないと、思う、けど」

「絶対落ち込んでるわよ。あいつ、まなにべた惚れだもの」

「はあっ?」

 べた惚れなんて、先生のどこをどう見ればそんな言葉が出て来るのかが分からず、思わず大きな声で聞き返してしまう。

「おねえちゃん、それ、違うから。昔からべた惚れだったのはわたしの方で、先生、おにいちゃんは、わたしの事は可愛い妹くらいにしか思っていないから!」

「まなったら何言ってるの」

 姉が驚いたように目を見開いた。

「恭平は昔っからまなの事が本気で好きでしょ。わたしがどんなに邪魔しようとしても、まなを片時もそばから離さなかったくらいだし」

 腹が立つけどね、と姉が肩を小さく竦める。

「違うってば。わたしがおにいちゃんの後を追い掛け回していただけだから。おにいちゃん、迷惑していたかも、だよ?」

「それはない。絶対にない」

 姉は強い口調できっぱりと言い切った。

「九つ近くも年下の女の子に本気で惚れるなんて、そう言うのを世間で何て言うか知ってる?」

「ロ、ロリコン?」

 昔おにいちゃん本人の口から聞いた言葉を思い出す。

「正解。だから恭平ったら、まなとちゃんとした付き合いができる歳になるまでは、妹としてしか扱わないって宣言したのよ。このわたしに」

「まさか!」

 そんな事、わたしは知らない。知らされていない。

「本当だってば」


   姉の話によると、八年前のわたしの誕生日つまりバレンタインの日に同級生の女の子が家にチョコレートを届けに来た時の「予約」発言を、その翌日高橋のお義母さんが満面の笑顔で母に報告したそうだ。それを聞いた姉が烈火のごとく怒り猛って先生を追及したところ、実にあっさりとそれを認めたのだとか。

「わたしってほら、姉バカだから。わたしのまなになんて事をーっ! と思ってねえ。あんまり腹が立ったもんだから、勢いで恭平に決闘を申し込んじゃったのよねえ」

「け、決闘?」

 姉は護身術を身につけるためと称して、中学時代には空手部に入っていた。もちろん当時女子部なんて物はなかったのだけれど、姉の熱意に負けた空手部の顧問が、男子と一緒でもいいのならばと入部を許可したのだ。

 そんな姉だから、まったくの素人よりはずっと腕に自信があったのだろうけれど。

「まなが欲しかったら、わたしを倒して屍を超えて行け! って啖呵切っちゃったりしてねえ」

「普通の女子高生は、頭に来たからって男子に決闘を申し込んだりしないでしょうねえ」

「それだけまなが可愛くて仕方がなかったって事なの!」

 胡桃沢先生の突っ込みに、姉が照れ隠しのように言い返した。良く見ると頬が少し赤くなっていて、なんだかとても可愛い。

 そうか。春休みに聞いた姉の「わたしの屍を超えて行ったくせに」と言う言葉は、ここに端を発していたのだ。

「で、腹立たしい事に、あっさりと負けちゃったのよね」

「そうなの?」

「そうなの! その時に恭平が言ったのよ。ちゃんと本気だって。本気でまなの事を大事にしたいから、ちゃんとした付き合いができる歳になるまでは、って宣言したのよ」

 姉の言葉は、わたしが想像できる範囲を超えていた。聞く事全てが初めて知る事ばかりで、そのあまりにもわたしに都合が良すぎる内容に、とてもではないけれど俄かに信じる事などできるはずがない。

 あの時。ただのわがままで泣き出してしまったわたしを宥めるために「予約」なんて言い出したのだと思っていたのに。おにいちゃんは、ちゃんとわたしの事を好きでいてくれただなんて。


「東京の大学に行くって聞いた時は、まなを放って行くのかって腹も立ったけど、仕方なく納得したのよ。いくら何でも恭平の人生まで縛り付ける権利は、わたしにはなかったから」

「うん」

 それは、わたしも寂しかったし悲しかったけれど、仕方がないと思っていた。おにいちゃんがどうしてもその大学に行きたいと思っていたのを、知っていたから。

「そうこうしているうちに、あんな事故があったでしょ」

 それは六年前のあの事故の事なのだと、聞かされる前から分かっていた。

 わたしの胸の裡で、姉の投げ込む言葉が生み出す波紋が、少しずつだけれど確実に広がって行くのを感じていた。

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