波乱――心揺さぶるものは、たった一つ
翌日行われたロングホームルームで、今年度のクラス委員の選出があった。
姉の言葉があったからではないけれど、わたしは図書委員に立候補した。元々本を読むのは好きなので、貸し出し当番の間も好きな本を読んでいれば苦にはならないだろうと思う。
鈴華ちゃんも立候補して、女子の学級委員長に選出されていた。仕事のメインがクラス担任つまり佐野先生のお手伝いや補助なのだから、公然と二人きりにもなれるのだとか。先日来の佐野先生との微妙な雰囲気はどうなったのかとも思ったけれど、鈴華ちゃんの表情は今ひとつ優れない。とりあえず彼女から話してくれるまでは、何も聞かずにいる事にした。
「高橋さん、一年間一緒に頑張ろうな」
肩を叩かれて振り返ると、男子の図書委員になった松本君が、にこやかな笑顔を浮かべて立っていた。転校初日にわたしの机を移動させてくれた彼は、以来何かと気軽に声をかけて来てくれる事が多い。
「あ、うん。こちらこそ、一年間よろしく」
差し出された右手を握り返しながら、そういえば初対面の時も松本君と握手したっけ、と思い出していた。あの時はいきなり強く手を握られて、激しく動揺してしまったのだけれど。
「相変わらず、柔らかくて小さい手だなあ」
「え、そう? ふ、つうだと、思うけど」
なんだかしみじみと感慨深げに呟かれてしまった。強く握られているわけではないけれど、すぐに放してくれそうにはない。松本君はいい人なんだけれど、わたしは彼のこういう所が少し苦手だったりするのだ。
本当の所、わたしの手は少し小さい方だと思う。女性用の手袋では指が余り過ぎてしまい、いつも子供用の中から少し大きめの物を選んで買っているのだ。だから普通と言うのはちょっとしたわたしのプライドと言うか意地みたいな物なのだけれど。
「だーかーらー、いつまでも気安く女の子の手を握り締めてんじゃないわよ、松本ー」
また頭の中身があっちへ飛んで行ってしまっていたわたしは、その声で自分の手が解放された事に気が付いた。
「まなも、ぼーっとしてちゃ駄目じゃない。そんなに隙だらけだと、松本以外にも迫られちゃうわよ?」
今年も体育委員に選ばれたばかりの里中さんが、呆れたように言う。鈴華ちゃんからも隙があると言われ続けているけれど、わたしってそんなにぼんやりしているのだろうか。
ごくごく普通のつもりだったわたしは、少し困って鼻の頭を掻いた。
「ああ、もうっ。なんでこんなに可愛いのかなあ、高橋さんはあっ」
「にっ、にょええええっ」
背後からいきなり他の女の子に抱きつかれて、驚きの余り思わず変な悲鳴を上げてしまった。クラスのあちらこちらから笑い声が上がり、とても居心地が悪い。
「かっ、可愛くなんて、ないからっ」
「んまあ、なんて事っ。まなちゃんが可愛くないなら、わたしなんてどうなるのよ」
「え? さとちゃんは美人さんでしょ?」
スポーツ万能で引き締まったプロポーションの里中さんは、同じ女のわたしから見てもとても素敵なのだ。それに引き換えわたしは、背は標準よりも低いし胸だって小さくて腰はくびれてもいない、はっきり言って幼児体型。顔だって、不細工ではないと思いたいけれど、可愛いとか美人だとかそう言った部類には入らない。少なくとも、わたしの基準ではそうなのだ。
なまじ身近に姉や先生や鈴華ちゃん姉弟など美形ばかりが揃っているせいで、容姿に関してはコンプレックスすら持っていると言うのに。
「もしかしてまなって、みにくいアヒルの子?」
「は?」
みにくいアヒルの子って、あの童話の事、だよね。
「子供の頃十人並みだったんじゃない? 成長してきれいになった自分に気が付いていないのよ。間違いなくそうよ」
「さとちゃん、それ、違うから」
「違わない。みんなに聞いてみれば納得する?」
「はーい! 高橋真奈美はとーっても可愛い女の子だと思う人! 挙手!」
昨年度の女子の委員長の佐伯さんが音頭を取り、クラスメイト達が沸き立つ。うん。やっぱり団結力のあるいいクラスだと思う。思うけれど。
この、にょきにょきと上に伸びているみんなの手は何なのだろう。わたしは気恥ずかしさと居たたまれなさで、この場から逃げ出したくなるのを必死に堪えた。
「ほーら、二年五組の意見は全員一致。高橋、もっと自分に自信を持たなきゃ。ついでに危機管理もしっかりしなくちゃ」
「危機管理はなあ。高橋の場合、本当に必要だよなあ」
なんて、佐伯さんの言葉に男子達もうんうんと頷いたりしている。
自信なんて持てるわけがない。自分の容姿なんて、毎日鏡を見ているわたし自身が一番良く知っているのだから。
みんなして面白がっているだけなんだろうけれど、認めたくない事を再確認させられて、気分がどんどん沈んでしまう。
委員長の初仕事として佐野先生に呼ばれて職員室に行ってしまった鈴華ちゃんの帰還を、今ほど待ち遠しく感じた事はなかった。
一時限目の終了を知らせる鐘が鳴り響き、クラスのみんなが散らばり始める。ようやく一息吐き、ぼうっと座っていると、誰かがわたしの名前を呼んでいるのに気がついた。
教室の後ろの出入り口の所で、西條さんが呼んでいる。どうやら誰かが訪ねて来たらしい。精神的に疲れ果てていたわたしは、若干よろけながらも何とか歩いて行った。
そこにいたのは、三人の女子生徒と一人の男子生徒。男子生徒は良く知っているけれど、女子の方は知らない顔ばかりだ。襟の学年章は一年生の物だった。
「あれ。響生君、どうしたの」
二人の女の子に左右の腕を掴まれているのは、鈴華ちゃんの弟の響生君だった。もう一人の女の子は半歩前に出て、鋭い目付きでわたしの顔を睨み付けて来ている。もちろん漏れなく残りの二人の女の子の顔付きも険しい。
わたしはと言えば、こんな風に睨まれるような覚えはなかったから、さてどうしたものかと響生君に目で訴える。一体わたしが何をしたと言うのだろうか。
「元宮君。この人なの?」
「ああ」
前に出ていた女の子の口調が固い。響生君は、疲れたような表情で目を明後日の方に向けていた。
「ちょっと、あなた! 元宮君と付き合ってるって、本当なの?」
腰に左手をあて、右手の人差し指でびしっとわたしの顔を指している。失礼な態度だけれど、なんとも勇ましい。けれどその口から飛び出した爆弾のような言葉に、わたしは思い切り面食らってしまった。びっくりしたなんて可愛い物なんかじゃなく、それこそ飛び上がるくらいには驚いたのだ。
「違う。付き合っているんじゃなくて、俺が勝手に好きなだけだって言っただろう」
好きって、こんな場所でなんて事を。
「響生君? 話が見えないんだけど」
「ああ、悪い。こいつらが、好きな奴はいるのかってあんまりしつこいから」
つまり、こう言う事らしい。その容姿と新入生代表と言う頭脳とで、入学式以来響生君は、一年生女子の間でかなりの人気を得てしまった。さすがにまだ日も浅い事から告白される事こそないけれど、ひっきりなしに好きな異性のタイプや付き合っている異性がいるのかなどと訊ねられ、かなりうんざりしていた、と。そしてあまりのしつこさに、付き合っている相手はいないが好きな異性ならいると答えてしまい、しかもその時に上げたのがわたしの名前だったのだそうだ。
事情は分かった。分かったけれど、とてもではないが歓迎できる状況ではない。
「何で、そこでわたしの名前を出すかなあ」
「何でって、そりゃ、俺が真奈美に惚れてるからに決まってるだろ」
「それもそうか。って、ひ、響生くんんんんっ?」
今、さらりと凄い事を言われた気がした。
惚れている? 誰が誰に?
気が付くと、二年五組の教室の中も、何事かと興味半分に様子を窺っていた通行人達も、無言でわたし達を見ていた。
「でもこれは俺の一方的な気持ちであって、真奈美には関係ない事だからな」
響生君は、放心中の二人を左右の腕から振り払い、前にいた子も含めて三人に向かって冷ややかな視線を投げかけた。なまじ整った顔立ちだから、かえって凄みが効いていて怖い。
普通の状態ならば「どうしよう、恥ずかしいわ」とか「告白されちゃったの?」とか頬を染めながら恥らう場面なのかもしれない。何しろ相手は、年下とは言え響生君なのだ。だけど響生君は先生の従弟で。そしてわたしにとっても義従弟にあたるわけで。何よりも、わたしと先生が夫婦だと言う事を知っている、数少ない人なわけで。
苦し紛れにとりあえずわたしの名前を出したと言うのならば、まだ良い。本当は良くないけれど、仕方がないと思う事もできる。だけどもし。もしも本気なのだとしたら。
わたしの脳裏には、二日前、この響生君本人の口から言われた言葉が渦巻いていた。
「ちょっと、響生。人の教室の前で何しているのよ」
少し離れた場所から両手にプリントの束を抱えた鈴華ちゃんが、怪訝そうな顔で響生君とその取り巻きらしい女の子達を見ている。
わたしは弾かれたように顔を上げ、鈴華ちゃんに駆け寄った。
「り、鈴華ちゃんっ」
「え。なに、まなちゃん。どうしたの?」
「ひ、響生君があ」
「響生! あなたまなちゃんに何したのよ!」
わたしの様子にただ事ではないと判断したらしい鈴華ちゃんは、続きを聞く前に響生くんをぎっと睨みつけていた。
「何もしていない」
「何もしていなくて、どうしてまなちゃんが泣いているのよ!」
鈴華ちゃんの言葉に、わたしの体がびくりと震える。その拍子に、今まで溜まっていた涙が零れ出た。そうして、一旦溢れ出した涙は簡単には止まってくれそうにはない。
響生君のきれいな顔が僅かに歪んだのが見えた。周囲が一気にざわめきだす。
鈴華ちゃんは手に持っていたプリントの束を、彼女よりもずっと多くのプリントを抱えていたもう一人の委員長である加藤君に押し付けると、わたしの体に手を回してそっと抱きしめてくれた。
「おいおい、一体何の騒ぎだ?」
佐野先生の声とほぼ同時に、二時限目開始の鐘が校舎内に響き渡った。佐野先生は一年生の四人を追い払うように送り出し、廊下でたむろしていた二年生達にも教室に入るように促す。
「ほら、元宮と高橋も教室に」
「無理です」
躊躇なしに、鈴華ちゃんが即答した。
「無理って、お前なあ」
鈴華ちゃんの簡潔な返答に、佐野先生は呆れたような声を上げる。どうしたものかと思案している様子が伝わって来るけれど、わたしは鈴華ちゃんの肩に押し付けたままの顔を上げる事ができない。
今日は未だ決めなくてはいけない事や連絡事項が山のようにあるのだと、先程の時間に聞かされていた。すぐに教室に入らなければならないのは分かっているのに、わたしの気持ちは千々に乱れたまま落ち着いてくれそうにない。
鈴華ちゃんの手が優しく背中を撫でてくれるのを感じているうちに、涙だけは止まっていたけれど。
「佐野先生、どうかしましたか?」
不意に耳に届いたのは、高橋先生の声だった。クラスの副担任なのだからここに来ても不思議はないのだけれど、こんな情けない姿を見られたくはなかったのに。
「これじゃあホームルームどころじゃありませんね。とりあえず俺が高橋を保健室に連れて行ってきます」
「お願いします。元宮、あとは高橋先生に任せて、お前は教室に入れ」
鈴華ちゃんの手から力が抜け、彼女から引き剥がされたわたしは、先生に手を引かれて体の向きを変えられる。
わたしは泣き腫らした顔を先生に見られたくなくて、俯く事しかできなかった。
手を引かれて歩き出したわたしは、まっすぐ保健室に向かうのだと思っていた。けれど階段を下りて一階に着いた時、保健室がある東校舎ではなく西校舎の方向に向かっているのだと気がついたわたしは、それでも引かれるに任せて廊下を進んだ。
どの校舎も、一階には普通の教室はない。今みたいな授業中にこんな所を歩いているのは、わたし達くらいなものだった。
「え? ここ?」
先生に促されて入ったのは、数学の教務室の隣にある視聴覚室。時々鈴華ちゃんと佐野先生と一緒にお弁当を食べる事があるこの場所には、馴染みあがる。だけど今どうしてこの視聴覚室なのかが分からなくて、一歩踏み込んだまま立ち止まってしまった。
背後でドアの閉まる音が聞こえ、次いでかちゃん、と何かの音が耳に届いた。室内は上方にしかない窓のカーテンが開かれているけれど、少し薄暗い感じがする。
「で? 何があったんだ?」
「べつに、なにも」
「何もなくて泣いていたのか、お前は。お前が言わないのなら、響生を呼び出して聞こうか」
響生君の名前に、ほんの僅かに肩が跳ねた。これでは間違いなく響生君に関係があるのだと、先生に告げているのと同じ事だ。
「やっぱり、あいつが原因か。何か言われたか、されたかしたのか」
先生のいつになく優しい声に、ともすればまた涙が零れそうになる。それを必死に堪えているため、顔を上げる事も声を出す事もできない。
そんなわたしに呆れたのか、それとも怒っているのか、わたしには確かめる術はない。ぎゅっと上着の裾を掴んで俯いたままのわたしの耳に、先生の大きな溜息が聞こえた。
どくり、と心臓が大きく疼いた。
「まな、俺はお前のなんなんだ?」
「え?」
思いがけない先生の言葉に、咄嗟に顔を見上げてしまう。先生はわたしから三メートルくらい離れた場所で、壁に体を預けていた。その目には怒りや呆れと言った感情は見て取れない。静かな光を宿した目が、ただ真っ直ぐに、わたしを見つめている。そしてわたしはその目に射竦められたように、身動ぎ一つできなくなってしまった。
「俺はお前の、幼馴染のおにいちゃんか? だったら、なんでも相談できるんじゃないのか?」
幼馴染のおにいちゃんと妹分。確かにそれは、ずっと昔から変わる事がないわたし達の関係で、きっとこれからも続くであろう絶対的な立場。全てはそこから始まったのだから。
けれどいつからかわたしにとってのおにいちゃんは、誰よりも大好きで大切な存在になっていた。それが単なる幼馴染だとか兄のような存在に対する想いなどではない事を、他の誰でもないわたし自身が知っていた。
昔は何でも相談していた。姉と喧嘩した、友達と遊びに行った、母に叱られた、テストで百点を取った。愚にもつかないような些細な事さえも、全て報告していた。
おにいちゃんは姉のような大げさな反応はしなかったけれど、それでもわたしの話に耳を傾け、時折相槌を打ったりしながらちゃんと聞いていてくれた。それが子供心にとても嬉しくて、鬱陶しがられるんじゃないかと思うくらいに纏わり付いていた。
けれど今は、まともに会話を交わす事さえ滅多にない。
六年前の事故がなければ、あのままでいられたのだろうか。たとえおにいちゃんが大学に進学して遠く離れていても、あの優しい時間を持ち続ける事ができたのだろうか。
わたしが、壊してしまった。この手に掴んでいた物を失くしたのは、子供だったわたし自身のせい。
固く握った掌に、決して伸ばしてなどいない爪が突き刺さる。こんな痛みなど、六年前の痛みに比べれば、蚊に刺されたくらいの可愛いものだ。六年前、おにいちゃんがわたしの顔も見ずにいなくなった時の、あの心の痛みに比べれば。
「まな。俺はお前の、何なんだ?」
先生が同じ言葉を繰り返した。その声の近さに驚いて顔を上げると、すぐ目の前に先生が立っていた。けれどわたしの頭が麻痺しているのか、いつものように焦るような事はない。
また考えに沈みこんでしまって、周りの事を頭から追い出してしまっていたようだ。先程クラスメイト達から隙だらけだと指摘されたばかりだと言うのに、我ながら懲りていない事に呆れてしまう。
「先生で保護者、でしょう? わたしの」
六年前に失くしたと思っていた幼馴染のおにいちゃんは、再会して先生になった。形式だけの結婚をしたのは、わたしの怪我に責任を感じて一生の面倒を見るため。目の届く所に、わたしを置いておくため。だからこそ「他に好きな人ができたら」などと言えたのだ。わたしの意志を尊重するふりをして、わたしの想いを否定したのだ。
脳裏に浮かぶ、あの長い髪の女の人の後ろ姿。胸の裡に澱んでいる、姉と先生の間にある、わたしには分からない絆。
先生はいつも優しい。わたしを大事にしてくれる。けれどわたしが求めたのは、わたしが欲しかったのは、そんな関係じゃない。
誰に可愛いと言われたって、誰に告白されたって、わたしの心には響かなかった。わたしの心を打たなかった。わたしの心を揺さぶるのは、いつもただ一人の人だけなのに。
今わたしは、初めて先生を、おにいちゃんを、恨んだ。
だから言える。今なら、言える。
「もう、いいよ。もう、自由になろう、おにいちゃん」
涙は、出なかった。