さくらさく――いつか想いが花開く日は来るのだろうか
それからも、わたしにとっては意味不明瞭とも言える、先生の先生らしからぬ言動が続いた。時には思いもかけない行動に出たりするので、一緒にいて心臓に悪い事この上ない。
ここ二~三日、入学式と新学期の準備で忙しそうだった先生は、今日は出勤しなくてもいい日らしい。わたしがキッチンで朝食の片付けをしている間、新聞を読みながらテレビのニュース番組に耳を傾けると言った、お行儀が悪いけれど器用な事をしていた。
気象予報士の男性が、画面一面の桜の映像をバックに、近隣の桜の開花状況を読み上げる。アシスタントの女性と顔を見合わせ笑顔を交わしているその様は、やはり桜で少し浮かれているように見えた。
「まなー。今日、何か予定があるのかー?」
新聞から顔を上げてテレビを見ていた先生が、不意にカウンター越しにこちらを見た。密かに先生の横顔を見つめていたわたしは、びっくりして手に持ったグラスを取り落としそうになる。
「きょ、今日ですか? 今のところ、なにも。新学期用の文房具を見に行きたいなーとは思っていますけど、それは今日じゃなくてもいいし」
「桜」
「は?」
あまりに端的な言葉に、思わず聞き返す。桜が何だと言うんだろうか。
「咲いてるだろう? 見に行くぞ」
先生はばさばさと音を立てて新聞を畳んで立ち上がると、こちらに向かって歩いて来た。
「お花見?」
「わざわざ弁当を用意するほどでもないだろうしな。見に行くだけでもいいか」
「はあ」
日本人は桜が好きだ。他にも梅や躑躅や紫陽花など花と名のつく物の開花時期には、わざわざ混雑を覚悟して出かけて行く事が多い。
例に漏れずわたしも桜は大好きで、毎年この時期には、桜の木を見るたびに心がうきうきうきしてしまう。そう言えば子供の頃は毎年お弁当を持ってお隣の家族と揃って花見に出かけた事を、懐かしく思い出した。
「気のない返事だな。興味がないなら、やめとくか」
「え? や、そう言うわけじゃ、ってか、桜っ。見たいですっ」
「分かったから、洗剤だらけの手で俺の手を握るのはやめろ」
「え。うわっ ごごごご、ごめんなさいっ」
人間、焦るとろくな事をしない。洗剤だらけどころかスポンジを握ったままの手で先生を引き留めようとしていた事にようやく気付き、わたしは慌てて手を放した。
先生は僅かに首を傾げてから苦笑して、キッチンに入って来る。何事かと思ったら、ただ単に洗剤でぬるついているはずの手を濯ぎに来ただけだった。こんな事でいちいちどぎまぎしているのを知られたくなくて、わたしはできるだけ自然に見えるようにそっぽを向く。まるきり子供みたいだという自覚はあるけれど、実際子供なんだから仕方がない。
そしてわたしをやはり子供扱いするように、先生はきれいになった手でくしゃりとわたしの頭を撫でて行った。
先生の車で走る事約三十分。桜並木が続く、河川敷の公園に到着した。
桜は七部咲きで確かにきれいなのだけれど、わたしは純粋に桜だけを楽しむと言うわけにはいかなくなってしまう。大小にかかわらず木の根元にはビニールシートが敷かれ、家族連れやスーツ姿の人達がお弁当を広げている姿が目に入り、もしかすると知っている人に会うのではと言う危惧が頭から離れなくなってしまったのだ。
先生が
「別に見られても困らないだろう?」
なんて言うのは、従兄妹同士と言う設定を用意してあるからなのだろうとは思うのだけれど、やはり危険は少ないに越したことはない。火のない所に煙は立たないのだから。
自然と少し遅れて距離を保ちながら歩く事になり、先生が時折振り返っては足を止めて待ってくれるのを、少し複雑な気持ちで見ていた。
それでもやはりきれいな物はきれいなので、桜の木々を見上げながらしばらく歩く。かなり長い範囲に渡って桜が植わっているらしく、まだまだ桜並木も途切れそうにはない。
時々腕を組んで歩いているカップルとすれ違ったりして、そのたびに小さく溜息を吐いてしまう。羨ましいのか妬んでいるのかどちらなのかは分からないけれど、とにかくいい感情ではない事は確かだ。自分の心の狭さが嫌になって来る。
ふと、落とした視界に、自分の爪先が入った。砂利を敷いていない地道を歩いていたために、スニーカーが少し汚れてしまっている。帰ったら洗わなくちゃいけないなと思いながら視線を上げると、少し先を歩く先生の背中が目に映った。
今日は明るい色のコットン地のシャツに白のジャケットを羽織っている先生の姿は、その長身のために、少しくらい離れた所からでも十分確認する事ができる。すれ違う女の人達が瞳を輝かせて見ている事に、肝心の先生は気付いてはいない風だった。もしかしたら、気付いていても無視しているのかもしれないけれど。
ぼんやりと眺めている内に思いの他距離が開いてしまった事に気付いたわたしは、少し慌てて足早に先生の後を追う。さっきから先生は、こちらを振り向いてくれていない。きっとわたしがこんなに遅れてしまった事にも、気付いていないんだろう。
置いて行かれたらどうしよう。このままはぐれてしまったら。
ふと頭を過ぎった考えを、首を強く左右に振って否定する。先生がそんな事をするはずがない。そう自分に言い聞かせる。
けれど六年前、おにいちゃんは、わたしの前から姿を消した。また会う約束だけを残して。今度もそうではないと、どうして言い切る事ができるのだろうか。
次第に心の中に沸き上がる焦燥感。わたしの足取りは心に反して速くなってはくれず、それどころか鉛のように重くなっていた。
泣きそうになりながら必死に足を動かしていると、先生の動きが止まった。わたしの姿を探しているらしく、きょろきょろと辺りを見回している。
「せん、おにいちゃん!」
さすがにこんなに人がいる場所で先生と呼ぶ事はできない。それでもできるだけ声を大きくして、先生を呼んだ。けれど開いてしまった距離のために声は届かなかったらしく、先生はわたしに気付かず、立ち止まったまま人波に視線を漂わせている。
「おにいちゃん!」
もう一度、さっきよりも少し大きな声で呼んでみた。やっと気付いてくれたのか、先生の目がある一点に止まる。けれどその視線はわたしではなく、恐らく先生のごく近くだと思われる場所に向けられていた。
先生の目が僅かに見開かれ、口が何事か言葉を吐くように動いているのが見える。と言う事は、先生の知り合いなのだろうか。そう思いながらわたしは、ようやくまともに動くようになった足で、ゆっくりと歩きだした。
人波に埋もれていたその人物が女性だと、先生からまだ十メートル程も離れている時に気付いた。なぜなら、その相手が先生の首元に両手を絡ませ、抱き付いていたから。そしてその長い髪が揺れる背中に先生の大きな手が回されるのを、はっきりと見てしまった。
わたしの両足は、再びその場に縫い付けられたように動かなくなった。否、動けなくなってしまっていた。
気が付くと、携帯電話が鳴っていた。この着信音は先生だ。はぐれてしまったわたしの事を思い出して、連絡して来てくれたんだろう。それとも、あの人とどこかに行くから、一人で帰れとでも言われるのだろうか。
たった今目にした光景が頭の中を浮かび、ショルダーバッグのファスナーに掛けた手が止まる。しばらく鳴り続いた着信音は結局、バッグから取り出さない内に切れてしまった。
先生と女性が抱き合う姿を見てしまった後、わたしは言う事をきかない両足を叱咤し、必死の思いで体の向きを変えた。不思議な事に、先生達の姿が視界から消えた途端、足が動いた。最初はゆっくりと、けれどすぐに駆け足になる。決して速くは走れないけれど、それでもとにかくその場から離れたかった。
そして今わたしがいるのは、公園に着いた時に駐車場から下りて来た、階段のそばだった。
ようやくバッグのファスナーを開き、中から携帯電話を取り出す。画面には着信があった事を知らせる表示が出ている。履歴を確かめると、やっぱり先生からだった。
履歴を消すためにボタンを操作しようとした時、再び携帯電話が鳴り出した。確認するまでもなく。今度もやはり先生からだ。先生がわたしを探してくれているのは分かっているけれど、どうしてもあの髪の長い女の人が気に掛かってしまい、その事がわたしに着信ボタンを押す事を躊躇わせた。
「お前なあ。いくら携帯を持っていても、出なけりゃ意味がないだろう」
不意に掛けられた声に、まさかと言う思いで顔を上げる。手の中の携帯電話は、未だ着信音が鳴り止んでいないのに。
「え? 先生?」
先生が耳から携帯電話を放して長い指でボタンを押すと、同時に、わたしの携帯電話から流れる音も途切れた。
呆然と先生を眺める。少し硬くて癖のある髪を無造作に掻き上げる仕草が、妙に色っぽくてどきりとした。恐らく走って来たのだろう、少し息が乱れている。
もしかして、心配してくれたのだろうか。息が切れるくらい、探してくれていたのだろうか。
「迷子になったら、その場所から動くなって教えたはずだよな」
方向音痴のわたしは、自慢ではないが良く迷子になった。その最大の犠牲者が、いつもわたしが一方的に追いかけ回していたおにいちゃんだったのは、言うまでもない。迷子になったら云々も何度となく聞かされた言葉だったけれど、はぐれて一人きりになるとパニックを起こしてしまうわたしは、すぐに動き回って事態を悪化させてしまう事が少なくはなかった。
今回は迷子になったわけではなく、先生の姿が見えていたからこそ逃げ出してしまったのだけれど。それを先生に言いたくないわたしは、黙って視線を足元に落とした。
「桜はもう見たし、帰るか」
大きな溜息を一つ吐いた先生が、携帯電話をポケットに押し込んだ。その少し呆れを含んだ口調に、胸の裡に痛みが走る。
原因はどうあれ、心配を掛けてしまったのは確かなのだ。多分必死に探してくれていたのであろう先生に、わたしはありがとうもごめんなさいも言っていなかった事に、今さら気付いた。
どうしよう。朝夕の挨拶と「ありがとう」と「ごめんなさい」は人としての基本の言葉だって、小さい頃から言われ続けて来た事だったのに。
「どうした?」
立ち止まったまま動かないわたしを不審に感じたらしい先生は、少し離れた場所に立ってわたしを見ている。その目に怒りや呆れの色は、微塵も浮かんでいない。
どうしよう。完全にタイミングを外してしまったけれど、やはりお礼を言うべきなのに。どうしよう。さっきの女の人の事が、ずっと心に引っかかっているのに。
「まな? 真奈美? おーい、聞いてるか?」
耳のすぐそばで先生の声が聞こえて、一気に現実に引き戻された。また頭が思考に沈んでしまっていた間に、先生がわたしのすぐ隣まで来ていたらしい。
「うあっ、はいっ」
「どう言うリアクションなんだ、それは?」
じたばたと両手を振り回して慌てるわたしを、口元に手を当てた先生が楽しそうに眺めている。ああ、もう。いつもは無表情なくせに、こんな時だけそんな優しい顔を見せるなんて、ずるいと思う。
「相変わらず面白い奴。本当に見ていて飽きないな、お前は」
「面白いって、わたしは猿山の猿ですか」
「いや、大丈夫。猿より可愛いから」
「ほへ?」
「だからその反応が面白いんだって」
昔から褒め言葉なんてほとんど言ってくれた事がなかった先生の口から飛び出した言葉が、あまりに予想外だったものだから、咄嗟にその言葉の意味を理解する事ができなかった。そのせいで妙な声を上げてしまい、また先生がうけている。
わたしの都合の良い聞き間違いでなければ、今、先生は可愛いと言ってくれた気がする。たとえ猿よりもましと言う程度の事だとしても、これは青天の霹靂と言っても良いくらいの出来事なのだ。
一体これは何事なんだろう。桜の花の薄桃色。まるで夢のように淡い色彩の中で、先生だけが極彩色の現実味を纏っている。
春の陽気と美しすぎる桜の毒気にあてられて、わたしの頭がおかしくなって、あんな幻聴を聞いたのだ。きっとそうなのだ。
「このまま見ているのも面白いんだが、目立つのも困るしな」
ごくごく自然な動きで、先生がわたしの右手を掴む。触れ合った手が一瞬、火傷しそうなくらい熱を帯びた気がした。
先生の言葉にも、一理ある。先程から立ち尽くしているわたしと声をかけ続ける先生は既に、少なからず周囲の人目を引き始めていたのだ。このままここにいれば、それこそ注目してくださいと言わんばかりの自殺行為になるのは間違いない。
掴んだ手を引かれ、わたしは先生と一緒に駐車場までの道程を戻り始めた。
「あの、さっき、の」
「ん?」
あの女の人の事を聞きたかったけれど、何と言えばいいのか分からない。どんな言葉を選べば、不自然なく聞こえるだろうか。もしあの人と一緒にいた先生を見て逃げ出してしまったと知られたら、先生にどう思われてしまうだろうか。焼き餅焼きのつまらない子供だと思われてしまわないだろうか。
子供なのは仕方がないけれど、せめて嫌われる事だけは避けたい。もし今以上に先生の気持ちが離れてしまったら、わたしはきっと耐えられない。
「ト、トイレ!」
苦し紛れに出て来た言葉は、あまりにありきたりの言い訳で。
「急にトイレに行きたくなって、急いで戻ってきちゃったんです!」
「まあ、そんな事だろうと思ったけど」
「だから、その。勝手にいなくなって、ごめんなさい」
「んー? まあ、無事見付けられたから良かったけどな。こう言うのは二度と御免だぞ」
やっぱり呆れられている。凄く居たたまれない気持ちになって、自然と俯き加減になってしまった。
「ま、心配させられた分はツケといてやる」
「は? ツケ? って、なんのツケ?」
「鈍くて鈍感なまなへの、ちょっとしたお返しの分ってところだな」
鈍いと言うのを強調され、しかも二回も連呼され、わたしは少しむっとする。確かに良く鈍感だとか天然だとか言われるため、わたしも気にはしている。気にはしていても一向に改善されない辺りが天然の天然たる所以だとまで、鈴華ちゃんから言われてしまうくらいには鈍感らしい。でもこれは治しようがないんだから仕方がないと思う。
「おーおー。思いっきり膨らんでるなあ」
ぷにっと頬を突かれ、怒る気持ちが半減してしまった。さらには握られたままの右手を引かれ、顔がかっと熱くなる。きっと真っ赤になっている事は間違いない。
「その鈍さがもう少し改善されたら、俺も助かるんだけどな」
耳元で囁かれた先生の声が、不思議と妙に艶っぽい響きを持っている気がする。きっと、わたしも桜に酔っているに違いない。
尋常ならざる心臓の走りっぷりにわたしはさらに真っ赤になりながら、慌てて先生から離れようとして、見事失敗に終わった。手を掴まれたままだったのだから、あたり前だ。
「にっ、鈍いのはわたしのせいじゃないからっ!」
「お前のせいじゃないかもしれないけどな。こっちは現在進行形で被害者だから、シャレにならないんだ」
「もう少し、わたしに分かるように説明してくれませんか」
「自分で分かるようになったら、答え合わせしてやるよ」
こんな所で教師らしさを出さなくてもいいのに。わたしは相変わらず赤い頬のまま、先生の顔を睨んでみた。
珍しく目に見えて上機嫌な先生を横目に、けれどわたしの胸の裡には、あの髪の長い女の人の姿が引っかかっている。そしてまるで喉に刺さった鉤のように、じくじくと時折鋭い痛みをもたらしていた。
淡く儚い桜の色彩が視界の中で歪み、じわりと滲んだ。