嵐の予感――今を幸せだと言えるのならば
先生の仕事の都合で四日間と短めだったけれど、とりあえず里帰りは終了し、次はゴールデンウィークに帰って来いと言う両家の両親の言葉に笑顔で頷いた。先生はわたしだけでも残るように言ってくれたけれど、鈴華ちゃんと春休み中に会う約束をしている事を理由に、一緒に帰宅する事にしたのだ。
約束もさることながら、本当は、先生と少しでも離れていたくなかった。先生と二人きりでいると、胸が苦しくなる。息ができない。一緒にいると窒息しそうな気がするのに、勝手なものだなと自分でも思うけれど。
実のところ、昨日母達から離れた後は頭の中が混乱してしまい、とてもではないけれど何も手につく状態ではなかった。何をしていても頭に浮かぶのは先生の事で、母達から聞かされた思いもかけない言葉の数々が、ずっと耳にこびりついて離れなかったのだ。
混乱していた頭の中がようやく整理できたと思ったら、その後はひたすら疑問符が飛び交っていた。先生は、八年も前から本気でわたしの事を想っていてくれたのだろうか。他に誰ともお付き合いをした事がなかったと言うのは、本当なのだろうか。今も本当は、わたしの事を好きでいていくれるのだろうか。それならばなぜ先生はわたしと形だけの結婚をし、わたしの想いを受け取ってもくれないのだろうか。なのに突然優しくされたり抱きしめられたりするのはなぜなのだろうか。
後から後から涌き出て来るそれらの疑問に、直接訊ねれば、先生は答えてくれるのだろうか。
けれどもそれはわたしの勘違いなのだと、思い上がりなのだと思い知らされる事が怖くて、とてもではないけれど確認なんてできなくて。そして今もわたしの頭の中では疑問と焦燥と諦めがマーブル状に混ざり合っていて、しかもそれらは決して溶け合う事なく、わたしの心をかき乱している。
そんなわたしの胸中の乱れになど気付きもせずに、涼しい顔で運転をしている先生を、ほんの少しだけ恨んでみたくなった。
ずっと好きで好きで仕方がなかったおにいちゃん。幼い頃の「好き」なんかじゃなく、今のわたしがどれだけあなたを好きなのか、それすらも伝える事はできないけれど。
伝える前に否定されてしまった苦しいほどのこの想いは、いつか薄らいでいくのだろうか。心と体を引き裂かれるようなこの辛さは、時間が経てば昇華され、思い出になってしまうのだろうか。その時わたしは、心から笑う事ができるのだろうか。
「久し振りねえ。結婚式以来だから、二ヵ月半ぶりかしら」
そう言って差し出されたティーカップに、軽く頭を下げる。
「すみません。暫くバタバタしていて、なかなか顔を出せなくて」
「いやあね、謝らなくても良いわよ。まなちゃんは学生と主婦を掛け持ちしていて、忙しくて当たり前なんだから」
ころころと鈴が転がるような軽やかな笑い声が耳に心地良く響く。そうしている姿は、とてももうすぐ四十路にかかるとは思えないくらいに可愛らしくて若々しい。
「新婚生活はどう? 恭平君に虐められたりしていない?」
「それは大丈夫よ、お母さん。だって恭ちゃん、まなちゃんの事、食べちゃいたいくらいに可愛いいって顔で見ているんだもの」
なんだかつい最近、同じような事を言われた記憶がある。
「いや、それ、鈴華ちゃんの勘違いだから」
「そんな事ないわよ。恭ちゃんってポーカーフェイスが得意だけど、時々ぽろっと素が出る事があるの。大抵まなちゃん絡みの時なんだけど、その目つきがもう、ね」
「あらまあ。六年も前にプロポーズしたくらいだから、よっぽど好きなんだろうとは思ったけど」
鈴華ちゃんと一緒に両頬に手を添えて嬉しそうに微笑むのは、鈴華ちゃんのお母さんの浅子さん。鈴華ちゃんと本当に良く似ていて、服装によっては鈴華ちゃんと年の離れた姉妹でも通用するんじゃないかと思うくらい、お肌に張りがあってきれいだ。
結婚以来浅子さんからは、鈴華ちゃんを通じて何度も家に遊びに来るようにお誘いを貰っていたのだけれど、なかなかお邪魔する事ができずにいた。先生の叔父さんの奥さんだから、わたしとの血の繋がりはないけれど、先生やわたしの事を色々気に掛けてくれている。独特のほんわりとした雰囲気を持ち、そばにいてとても居心地がいい。
それはともかく。六年前どころか実は未だプロポーズなんてされた覚えのないわたしは、どう反応をすればいいのか分からなかった。先生との結婚は、先生と両家の親達の間で決めた事であって、当事者のわたしには結婚式の直前に知らされたのだ。決定事項としてほとんど事後承諾の形だったのだから、プロポーズなんて物があるはずもない。
テレビで良く見る
「お嬢さんを僕にください」
的なシーンさえも、わたしの両親との間であったのかどうかも定かではなく今に至っている。きっかけが普通じゃなかったわたし達の結婚は、やはり色々な意味で普通ではないようだ。
それにしても。こっそり小さく息を吐きながら考える。どうして母達といいこの人達といい、わたしの周りの女性達は、口を揃えて先生がわたしの事を好きだと言うのだろうか。あの日のわたしの絶望感と喪失感を知らないからこそなのだろうけれど、無責任な事は言わないで欲しい。諦めたはずの希望を思い出してしまうではないか。
ついつい逆恨みと言うよりもむしろ方向違いな文句を言ってしまいそうになるのを、思考を遮断する事で必死に避けていると言うのに。
「まなちゃん? 気分でも悪いの?」
突然浅子さんの顔が目の前にあって、かなり驚いてしまった。
「え? 大丈夫ですよ。ちょっとぼーっとしていただけで」
口から飛び出そうなほど踊っている心臓を必死に宥め、笑顔さえ浮かべて答えた。さすがに少し引き攣ってしまったのは、不可抗力と言うものだ。
「お母さん、まなちゃんたら、時々頭の中がどこかに行っちゃうみたいなのよ」
「あらまあ。悩み多きお年頃だものねえ」
至って暢気な口調で交わされるこの親子の会話に、ふにゃんと腰が砕けそうになる。先程までささくれ立っていた心の中も、不思議とすっきりした。二人とも癒しの才能があるのではないだろうか。真面目にそんな事を考えてしまうくらいには、効果覿面だ。
「ところで鈴華ちゃんはどうなの? 春休み、ずっと佐野先生と一緒なんでしょ?」
「んふふー。聞きたい? ねえ、聞きたい?」
話題を変えようと鈴華ちゃんに振った言葉に、なぜか浅子さんの方が釣れてしまった。
「そりゃもう、ぜひにも」
「んもう、まなちゃん、聞いてやってよ! 鈴華と寛人君ったらねえ!」
「お母さん! 勝手に人の事で遊ばないでよ!」
「遊んでなんかいないじゃない。あのね、この子ったら、春休み初日にね」
「きゃー! やーめーてーえ!」
目の前で繰り広げられる大騒ぎ。いつも落ち着いている鈴華ちゃんがこんなに慌てたところを見るのは初めてだったので、わたしもびっくりしてしまう。
そしてこんな騒ぎの中だったから、玄関から誰かが入って来た事もリビングのドアが開いた事にも、誰一人気付かなかった。
「お客さん?」
いきなり背後から耳元で声を掛けられ、背筋を悪寒が駆け抜けた。
「は、はい?」
思い切り体を引いてから振り返るとそこには、見慣れない顔の男の子が一人、呆れたような表情で立っていた。
年はわたしと同じくらい。身長はわたしよりもずっと高そうで、目元が凛と涼しく、多分世間で言うところのイケメンだと思う。くだけた感じはなく、細い黒縁の眼鏡が知的に輝いていて、どちらかと言うと気難しげな雰囲気を持っていた。
「あら、響生、帰ってたの?」
「さっきから声を掛けてるのに、誰も気付かないんだな」
「あ、まなちゃん。この子は長男の響生。初めて会うでしょ?」
どうやら鈴華ちゃんの弟の響生君らしい。響生君は全寮制の中学校に通っていたから、今日まで顔を合わせた事がなかった。
「ふーん」
しげしげと顔を眺められて、とても居心地が悪い。転校して来て二ヵ月半の間、転校生に対する物珍しさからの視線となぜだか言い寄って来る男子生徒達のお陰で、以前よりは異性に対して免疫ができた。とは言え容姿に自信があるわけじゃない上に、未だこういった観察するような不躾とも言える視線は凄く苦手なのだ。
「響生、人妻を口説いちゃダメよ」
「人妻? って、鈴華と同じなら十六だろ?」
「だから、恭ちゃんの奥さんの真奈美ちゃんなの。ちゃんと結婚式の写真、見せたでしょう?」
「一回見たくらいで覚えられるかよ。そうか、あんたが恭平のね」
更に投げつけられる刺すような視線に、いい加減我慢と言うか緊張の限界だった。
「初めまして、高橋真奈美です。年は十六歳。鈴華ちゃんと同じ将星学園高等部で今年二年生になります。以上、何か質問は?」
ぎん、と睨みつけるような視線を投げ返してやる。鈴華ちゃんの弟だとか浅子さんの息子さんだとか先生の従弟だとか、そんな事はこの際どうでも良い。本当は良くないけれど、気にしていたらこの嫌な視線を受け続けなければならない。そんなのはごめんだった。
見ると、響生君の目が少し驚いたように見開かれている。
「はい、響生も自己紹介しなさい」
「え。ああ。元宮響生十五歳。この春から、将星学園の高等部一年。よろしく、真奈美さん?」
浅子さんにお尻を叩かれるようにして自己紹介してくれたけれど、最後の疑問符は何なんだろうか。そう思いながら、軽く会釈を返す。
「響生は、間違っても恭ちゃんの奥さんに手を出さない事。まなちゃんは、響生に隙を見せてつけ込ませない事。わかった?」
正直良く分からないのだけれど、うっかり鈴華ちゃんの剣幕に呑まれてしまって、とりあえず頷いておく事にした。響生君も同じらしく、一瞬呆気に取られていたけれど、気を取り直して不敵な笑顔を浮かべている。そして響生君ってやっぱりイケメンだなあ、とぼんやり考えた。わたしの好みの顔は先生が基準になっているから、響生君はわたしの趣味から少し外れているけれど、多分学校ではもてるんだろう。愛想さえ良ければ。
「あれ? 今日は佐野センセ、来ていないのか」
「今日はお仕事。帰りに迎えに来てくれる事になっているわ」
浅子さんの満面の笑顔での
「たまにはうちで夕食、食べて行ってね」
と言う訴えに負けた佐野先生は、今日はここで夕食を食べるらしい。もっとも以前は毎週一緒に夕食を過ごしていた時期もあったそうだから、特別苦痛だと感じているわけでもないらしいけれど。
そして漏れなく、高橋先生とわたしも夕食をご馳走になる事になっている。
日頃仕事が多忙で遅くにしか帰って来ないと言う義叔父さんも、鈴華ちゃんが佐野先生の家で過ごすようになってからは、一人になる浅子さんのためにできるだけ早く帰宅してくれるようになったのだとか。
つまり今夜は、元宮家四人と先生二人にわたしを合わせた総勢七人になるそうだ。浅子さんの機嫌がいつにも増して良いいらしいのは、今夜を楽しみにしているからなのだ。
「と言う事で、荷物持ちも来た事だし、材料の買出しに行きましょうか」
「荷物持ちって、もしかして俺?」
「ちょっと頼りないけど、いないよりましだからついていらっしゃい」
浅子さんの笑顔には、なぜだか逆らえない物があるような気がする。響生君もそうらしく、不満そうな顔をしながらも、仕方がないと言った風に溜息を吐いた。
スーパーの袋三つ分の食材と、さらにトイレットペーパーとティッシュペーパーを買い、その全てを浅子さんに強制的に押し付けられた響生君が運んでくれた。少し気の毒だったけれど、案外平気そうな顔をしていたので、やっぱり男の子はすごいなあと感心する。
最後にケーキ屋さんに寄って、ようやく買い物が終わった時には、時計の針は午後四時を回っていた。
三時のお茶が少しずれたけれど、とりあえず休憩を取った後、早速夕食の準備に取りかかった。決して狭くはないキッチンだけれど、さすがに三人ともなると少し窮屈になるのは仕方がない。
ばたばたと準備をしている最中、時折響生君がカウンタ越しにキッチンを覗いたり、つまみ食いをしようとして浅子さんに手を叩かれたりしていた。
「あ。帰って来たんじゃない?」
鈴華ちゃんの言葉に耳を済ませると、微かに車のエンジン音が低く響いている。こんな音に気付くなんて、鈴華ちゃんは結構耳が良いらしい。なんて事を感心していると、インターホンがの音が響いた。
わたしは出迎えなんてするつもりはなかったのだけれど、浅子さんに背中を押され三人で玄関まで出る事になった。先生達の姿が現れると、鈴華ちゃんと浅子さんは
「お帰りなさい」
と嬉しそうに微笑んだ。わたしはその二人を見ていたためにタイミングを逃してしまい、どうしたものかと目を宙に泳がせてしまう。
「あら。まなちゃんは恭平君にお帰りなさいって言わないの?」
しっかり浅子さんのチェックが入る。
改まってしまうと何となく気恥ずかしい。ついもじもじしてしまうわたしの頭に、少しひんやりとした先生の大きな手が載せられ、昔良くそうしてくれたように髪をくしゃっと撫でられた。
びっくりして顔を上げると、先生の笑顔がそこにあり、不覚にも顔が赤らんでしまうのが自分でも分かってしまって焦る。
「え。あの」
「いつもは言ってくれるんだけどね。なあ、まな?」
「うっ、はい。えと、お帰り、なさい」
「ただいま」
どうしてだろう。先生の表情がいつもよりもずっと優しい気がするのは。お陰でどぎまぎしてしまい、変にどもってしまったではないか。
「いやん、ほんとにラブラブね」
言葉の後ろにハートがつきそうな勢いの浅子さんに、違うんですいつもはこんなんじゃないんです、と心の中で返す。
本当にここ数日間の先生の行動は先生らしくなくて、わたしは困惑させられ通しだ。もっとも、先生はいつも涼しい顔をしていて、さして気にも留めていないようだけれど。
「暁生さんももうすぐ帰るってメールが来たから、食事にしちゃいましょうか」
「お手伝いしましょうか」
「あら、今日は女手が三人もいるでしょ。寛人君と恭平君は適当に座っていてくれていいから」
浅子さんはにこにこと先生達の背中を押す。どうやら手を洗わせるために洗面所に向かっているらしい。のんびりおっとりしているようでいて、そう言う所はきちんとしているのが浅子さんなのだ。
ようやくどきどきが治まったわたしは、鈴華ちゃんと顔を見合わせる。どちらともなくくすりと笑うと、夕食の仕上げをするべく二人でキッチンに向かった。
「いやあ、娘が二人できたみたいで華やかでいいねえ」
浅子さんの言葉通り、程なく帰宅した義叔父の暁生さんが、ビールグラス片手に頬を緩ませている。世の中親ばか子煩悩な父親ばかりではないはずなのに、なぜだか実父を見ているような錯覚を起こしそうになるのはなぜだろうか。
暁生さんは高橋のお義母さんの弟なのだけれど、顔はあまり似ていない。でもなぜか先生とどことなく似ている感じの二枚目で、やはり血の繋がりがあるんだなと思った。
お母さん似の鈴華ちゃんに対して、響生君はお父さん似らしい。つまり、先生とも少しだけ似ていると言う事になる。どちらも眼鏡をかけているのは同じだけれど、それを外して貰って見比べない事には判断しかねると言った程度の似方なのだ。
「鈴華には寛人君、真奈美ちゃんには恭平か。どちらも美男美女でお似合いじゃないか」
「暁生さんったら、それって親ばか叔父ばかよ? でも本当にお似合いよねえ」
鈴華ちゃんは文句のつけようがないくらいの美少女だし、佐野先生は年齢よりも少し幼く見えるけれどそれなりに整った顔立ちだ。高橋先生ももちろん綺麗な顔立ちで、唯一わたしだけが普通なのに。
なんだかお尻の辺りがむず痒くなるような言葉に、居心地が悪くなって来る。十把一絡げみたいに「美男美女」と言われてしまって、かえって皆とは不釣合いな気がして来た。
「一人身は響生だけか。せっかく男前に生んでやったんだから、さっさと彼女でも作って身を固めなくちゃなあ?」
「父さん、俺まだ十五なんですケド?」
「あらあ。恭平君なんて、まなちゃんの将来の予約をしたのが十六の時だって言うじゃない。プロポーズも十八の時だったんだから」
いつの間にか話がわたしと先生の事になっている。多分高橋のお義母さんから聞いたんだろうけれど、それにしても浅子さんは詳しすぎる。そんな事細かに事情を話さなくても良いのに。
「十六って、恭平、マジで?」
「マジだな」
「って、先生、なに言ってるんですかーっ!」
「まなちゃん、落ち着いて」
予約だプロポーズだと聞かされて、これが落ち着いていられるだろうか。
「そっ、それに! わたし、先生からプロポーズなんて」
そこまで言って、慌てて口を両手で塞いだ。しかし時既に遅し。その場にいた全員の驚いたような視線がわたしに集中し、それがさらに先生の顔に移動した。
「ああ、そう言えばそうか。あの時は、まなの両親に直接結婚の話をしたんだったな」
「高橋君、それってなんだか順番が逆じゃないか?」
「そう言う佐野先生も、浅子さんから鈴華と付き合えって脅されたんじゃなかったですか?」
「え。どうしてそれを、って、今は僕達の話じゃなくて」
佐野先生が脅された? 浅子さんに? 鈴華ちゃんから聞いていた話と微妙にずれているのは気のせいだろうか。そう思って鈴華ちゃんの様子を窺うと、眉間に縦ジワを寄せて不機嫌そうな顔になっている。と言う事は、彼女もこの事は知らなかったらしい。
「良いじゃない。きっかけはどうあれ、今が幸せなら。それにしても結婚して二ヵ月半も経っているのに、プロポーズがまだだったとはねえ。恭平君ったら、功を急ぎすぎて、肝心な事が抜けちゃったのね」
「まあ、そうかもしれない」
浅子さんの言葉を素直に認めてしまった先生の顔を、思わずわたしは凝視してしまった。だって先生は、あの結婚式の日に、プロポーズする気なんて全くなかったはずだから。あの時先生がわたしに告げた言葉は、愛の言葉とは正反対の物だったのに。だからこそわたしが、満足に眠る事もろくに食事を取る事もできないくらいに悩んでいたと言うのに。
今が幸せだなんて、とてもではないけれど思う事ができないわたしは、言葉を失くして呆然としてしまう。
「鈴華もまなちゃんも、どうしたの?」
場の空気を読んでいないのか天然なのか。恐らく後者なのだろう、ようやくわたしと鈴華ちゃんの様子に気付いた浅子さんが首を傾げた。
佐野先生の焦った顔なんて初めて見たけれど、正直今はそれどころではない。高橋先生も少しは慌てるなりすればどうなのよ。そう言いたいけれど言葉が出て来ない。なぜなら、声を出したら泣き出してしまいそうだったから。
「いい年した男が、バカじゃねえの?」
響生君の呆れを含んだ静かな言葉がその場にぴったりすぎて、誰も何も言えなかった。