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錯覚――そこに純愛なんて存在するはずもないのに

「何だっけ? 怖い夢を見たとか言って、夜中に泣きながら家まで来た事もあったよな」

「そんな事、覚えていなくていい」

 ようやく搾り出した声は、自分でも分かるくらいにひどく掠れて、語尾が震えていた。

 とにかくこの状況を何とかしなければと思うのに、体が痺れたように動いてくれない。心臓がまるで別物であるかのように激しい鼓動を刻み、呼吸すら満足にできていなかった。

「穂之香と喧嘩するたびに、泣きついて来たりも」

「先生、もういいです」

 頭がまともに働いていないと言うのに、先生は容赦なく昔の情けないわたしを思い出させるような話ばかりする。こういう意地悪な所は、昔から変わっていない。いい意味でも悪い意味でも、先生はやっぱりおにいちゃんなのだ。

 このままでいるとのぼせてしまいそうで、わたしは先生の腕と布団から逃れるべく、上体を起こそうと体を捩る。きついと言うほどではないけれど簡単には解けないくらいの力で絡み付いている先生の腕は、なかなか離れてくれそうになかった。

「まな? どうした?」

 とりあえずじたばたと足掻いていると、先生が顔を覗き込んで来た。どうしたもこうしたも、先生の挙動不審な行動のお陰で精神状態がかなり危険なのだけれど。

 そう。挙動不審なのだ。終業式の夜なぜか同じベッドで寝ていた事や、江原さんと一緒だった時の事や、たった今こうししている事など、少なくとも再会してからの先生らしくない行動が多すぎるのだ。

 昔は毎日のようにわたしから抱きついたりしていたのだけれど、あの宣告の通り、この一ヶ月余りの間の先生は精神的な面で一定の距離を保っていて、こういったスキンシップなんて絶対になかった事だったのに。

 だから混乱してしまう。だから戸惑ってしまう。先生の真意が見えなくて。先生の想いが分からなくて。こんな事が続いたら、わたしはきっと錯覚してしまう。先生がわたしの事を好きなんだと、勘違いしてしまうだろう。


「え、と。喉、渇いたなって思って」

「さっき水を飲んでいたんじゃなかったか?」

 そうだった。薬を飲むために、ミネラルウォーターを飲んだのだ。

 他に何か上手い言い訳はないだろうか。沸騰寸前の満足に回らない頭で必死に考えていると、ふと先生の腕から力が抜けたのが分かった。その隙を逃さず、必死の思いで体を離して布団から抜け出した。

 あまりに必死だったものだから、途中で先生のお腹に軽く蹴りを入れてしまったのは、ほんのご愛嬌。にはならないだろうか。

「おまっ、げほっ」

「ごっ、ごめんなさいっ!」

 わざとらしく「げほっ」と声に出していると言う事は、大したダメージじゃなかったらしい。ほっとした次の瞬間また伸びて来た先生の手を躱し、わたしは大急ぎでドアに向かった。

 けれど先生はそれ以上追うつもりはなかったらしく、体を起こす気配はない。

「トイレ! 行って来ます!」

 そう言い残して部屋を飛び出し、閉じたドアに背を預けてぜいぜいと肩で息をする。どきどきと煩いくらいに鼓動を刻む心臓を鎮めるため、両手で胸を押さえた。

 本当に、一体どうしたって言うんだろう。

 結婚式の夜先生が告げたあの言葉が、脳裏に蘇る。

『俺は、お前には手を触れない』

 わたしを絶望に陥れたその一言は、今も心の奥深くまで突き刺さっていた。その傷口は癒える事はなく、今も血を流し続けている。

 痛みは治まるどころか日を重ねるごとにひどくなり、わたしの体を心ごと蝕んで行く。

 なのに。なぜ先生は突然、優しく抱きしめたりするのだろう。なぜ中途半端な優しさをくれるのだろう。そのせいでわたしがどれだけ苦しんでいるのかを知りもしないで。

 けれど。

 それは、違う。心のどこかから声が聞こえる。

 先生の態度に戸惑い、苦しんでいるのは本当の事。けれどそれだけではない。わたしは無意識にそれを喜んでいる。絶望を感じながらも、その中で感じる僅かな幸せに、縋ってしまっているのだ。


「まな? あんた、そんな所で何してるの?」

 思いに沈んでいたわたしは、不意に掛けられた声に飛び上がるほど驚いた。

 お風呂から上がったばかりらしく、髪をタオルで拭きながら階段を上がって来た姉が、怪訝そうな顔でわたしを見つめていた。

「あ、あのね。久しぶりに、おねえちゃんと二人でゆっくり話をしたいかなー、とか思って」

「あらー。まなったら可愛い事言ってくれちゃって! もちろん大歓迎よ!」

 ぎゅっと、強い力で抱きしめられる。なにしろ自他共に認める姉バカ妹煩悩。全身で歓迎の意を表してくれた。

「お前ら、何をしているんだ?」

 どうやらわたし達と言うよりもむしろ姉の声がかなり大きかったらしい。いつの間にか先生がドアを開け、呆れた顔でこちらを眺めている。

「恭平、今夜はまなはわたしが貰うからね」

「はあ?」

 おにいちゃんの眉間に、皺が浮かぶ。

「どーせ新婚でいっつもいちゃいちゃしているんでしょう? 一晩くらい姉妹水入らずで過ごさせろって言ってんのよ」

 わたしを抱きしめたまま、おねえちゃんが挑戦的な目つきで先生を見た。なぜだか昔からこの二人は、わたしを挟んで睨み合う事が多かった気がする。もっとも、ほとんどはおねえちゃんの方から仕掛けていて、先生は涼しい顔で受け流していたのだけれど。

 同い年の幼馴染なんだから、もっと仲良くすればいいのに。願いを込めて何度もそう言ったけれど、二人の関係が変わる事はなかった。

「いっ、いちゃいちゃなんて、していないってば!」

 ぶんぶんと勢い良く首を振って、わたしは姉の言葉を否定した。

「なに、力いっぱい否定してんのよ? ってあんた達、新婚でしょ? 普通はいちゃいちゃするもんでしょうが」

「普通じゃないから! 先生と生徒だから!」

「それは学校での事であって、家の中じゃ夫婦でしょ」

 しまった、と思ったけれど時既に遅し。姉の顔には呆れと共に、訝しみの色が濃く浮かんでいる。

 恐る恐る先生の顔を窺うと、しっかりはっきり「馬鹿」と書いてあった。

「なーんか、怪しいわねえ。指輪だって、恭平はしていないし? あんた達、ちゃんと仲良くやってんの?」

「指輪の跡なんか残ると、色々まずいんだ」

「いい虫除けになると思うんだけど。どうせ相変わらず、教師でも生徒でも相手構わず異性に色気振りまいてんでしょう」

「誰がわざわざ色気なんか振りまくかよ。勝手に寄って来て迷惑しているのは、こっちの方だ」

 二人が交わす言葉にはどちらも、どこかしら険を含んでいて、見ているわたしの方がはらはらしてしまう。

 でも実際問題として、一応従兄妹同士という設定があるにせよ二人で暮らしている限り、勘繰られるような材料を提供するわけにはいかないのだ。なにしろ法律的にも、従兄妹は結婚できる関係なのだから。


 先生の言葉に納得しかねている様子で、それでも姉はそれ以上突っ込む事はなく、正直助かったと思った。

「恭平。あんた、八年前の約束、忘れてないでしょうね」

「約束?」

 先生と姉との間で交わされた約束なんて初耳で、当然その内容などわたしが知るはずもない。気になるのだけれど、明らかに先生を威嚇する姉とそれを表情はにこやかだけれど冷ややかな目で眺めている先生に、とてもではないけれど訊ねる事などできない。

 これは何なのだろう。例えて言うならばコブラとマングース。この場合コブラは姉でマングースが先生。僅かだけれど先生の方が優勢のように思える。なんて言ったら姉が激怒するだろうから、絶対に言わないけれど。

「わたしの屍を越えて行ったくせに、忘れたなんて言わせないわよ」

 屍? 姉はこうして生きているのに、どういう事なのだろうか。何かの例えか比喩だとは思うのだけれど、話が全く見えないわたしは首を捻るばかり。でも当の先生はどうやら心当たりがあったらしく、短く

「ああ」

とだけ答えた。

「お前に言われるまでもない」

 そう言って先生は、相変わらず姉の腕の中に抱き込まれているわたしに視線を移した。その時一瞬だけ先生の表情が曇ったような気がしたのは、錯覚だったのだろうか。

 姉は何も気付かなかったようだから、きっと気のせいなんだろう。どうせ聞いたって二人とも答えてなんかくれないのが分かっているから、無理矢理そう思う事にした。

「あ、あの。先生? わたし、今夜はおねえちゃんと一緒に寝たいの」

 怖気そうになる心を奮い立たせ、先生の目を見返す。ちらりと投げかけられる視線の冷ややかさに、体が震えそうになるのを必死で堪えた。

「まな! えらい!」

「くっ、苦しいよ、おねえちゃん」

「好きにしろ」

 幾分呆れを含んだ先生のその声からは、けれど温かみを感じる事はできなくて。ふいと逸らされた視線とその背中がまるでわたしを存在ごと否定しているようで、胸が押し潰されるんじゃないかと思うくらいに苦しくなった。

 嫌われたのだろうか。最初から妹分に対する好意しか持ってくれていないのだとしても、それすらも失くしてしまうのだろうか。

「ちょっ、ちょっと、まな!?」

 姉が慌ててわたしの両肩を掴み、顔を覗き込んで来た。

 頬を何かが伝って行く。それが涙なのだと気付いたのは、間もなくの事。

「ばかね。どうして泣くのよ。って、恭平はあっちに行きなさいってば」

 姉の手が、犬か猫を追い払うかのようにしっしっと振られる。そんなに邪険にしなくてもいいのに。そう言おうとするけれど、声を出すとしゃくり上げてしまいそうで、何も言えなくなってしまう。


 この一ヶ月余り間、泣かないように必死だった。泣けば先生を困らせる事になるのが分かっていたから、少なくとも先生の前でだけは泣かないように、気を張って頑張って来た。

 泣くのは卑怯だ。泣くのはずるい。そう、自分自身に言い聞かせて来たと言うのに。なのにわたしの涙腺は、どうかしてしまったんじゃないかと思うくらい、思い通りになってくれない。

 涙が頬を伝っている事を自覚して、泣いている顔を先生に見られたくない一心で、姉に抱きつく腕の力をますます強くした。抱きつくと言うよりもむしろ、しがみついていると言った方が正確なくらいに。

 最初こそ「原因はあんたでしょ」とばかりに先生を睨みつけていた姉も、さすがにそれどころではなくなって来た。あやすように優しくわたしの背中を撫でながら、どうしたのとか大丈夫だよとか声を掛けてくれる。

 泣きたくなんかないのに一向に涙が止まってくれそうになくて、ただただ声を押し殺す事に必死で、先生や姉がどんな表情をしているのかなんて考える余裕すらない。分かっているのは、二人を困らせているのだと言う事だけだった。


 結局わたしは、姉と一緒に寝る事になった。泣き疲れたからなのかそれとも姉に抱きしめてもらって安心したからか、薬を飲み損ねたにもかかわらず朝まで眠る事ができた。

 深夜わたしが寝ついてから姉が、先生のいる部屋に入って行った事になど、全く気付かずに。




 翌朝目が覚めると、頭が痛かった。泣きすぎたせいだと思うけれど、瞼もむくんで見るも無惨なブス顔だ。

「まなちゃんったら、どうしたの!?」

 高橋のお義母さんが、一目見るなり悲鳴を上げたのも無理はない。それほどひどい顔だったのだから。

 とりあえず母から貰った鎮痛剤を呑み、ぼんやりと時間を過ごす。

 姉は既に仕事に出ている。ちなみに姉は地元の図書館の司書をしていて、土曜日曜も交代制で出勤があり、けっこう多忙なのだそうだ。

「穂之香ったら、今月で図書館を辞めるなんて言い出したのよね」

「おねえちゃんが?」

 わたしは母の言葉に少なからず驚いた。短大で司書の資格を取った姉は、これが天職だなんていつも豪語していたのに。

「そうなのよ。しかも四月からの勤め先が遠いからって、家を出るって言い出して」

「あらあ。まなちゃんは恭平が貰って行っちゃったし、ほのちゃんまでいなくなっちゃうと、和美さん寂しくなるわねえ」

 高橋のお義母さんが、いつものようにのんびりとした口調で言った。


 一人暮らし?

「パラサイトって楽で良いわよお」

 なんて高笑いしていた姉が? 専業主婦の母とわたしが家事をしていたから、料理どころか掃除や洗濯さえもまともにした事のない姉が?

「まあね。でも元々食事と寝るためにだけ帰って来ているようなものだから、わたしは楽になって助かるんだけど」

「じゃあ、何か他に問題でも?」

「それがねえ。主人に言うと怒るに決まっているから、ここだけの話なんだけど。どうやら男の人と一緒に住むらしくって」

「えええええ!?」

 思わず叫んでしまった。

「あらまあ。おめでとう」

「ありがとう。でも、主人には内緒にしてね?」

「分かってるわよお。でもそうかあ。ほのちゃんにも、ようやく春が来たのねえ」

 世間一般に、独身の女性が異性と一つ屋根の下に住む事を同棲と言う。と言う事は、姉はどうやら四月からこの家を出て、誰かと同棲するらしい。

 普段わたしにばかりかかりきりで目立たないけれど、実は父は姉に対してもかなりの親バカ子煩悩だ。姉が鬱陶しがるから、顕著に態度に出す事はないけれど。その父がこの事を知れば、きっと頭から反対するに決まっている。だから母と姉は口裏を合わせ、父には、一人暮らしをするのだと言ってあるらしい。

 わたしの結婚にしてもそうなのだけれど、父とは違いどうも母はその辺りの事に関しては大らかなのだ。大らかと言えば聞こえはいいが、悪く言うと無頓着なのかもしれないなどと少しだけ思ったけれど。

「ほえー。おねえちゃんが同棲」

 余程呆けた顔をしていたらしい。わたしの言葉にこちらを見た二人の母が、同時に吹き出したのだから。

「まあ、穂之香ももうすぐ二十五だしね。好きな人ができたのなら、このまま結婚まで漕ぎつけて貰いたいと思うじゃない?」

「そうよねえ。ただでさえ妹のまなちゃんが先にお嫁に行っちゃったしねえ。って、うちが強引に貰っちゃったんだけど」

 ねえ、なんて小首を傾げて同意を求められ、わたしは少しだけ引き攣った笑みを返した。

「本当はまなにも秘密にしておくようにって穂之香に言われたのよ。どうせ四月になれば分かる事だからって」

「言っちゃって良かったの?」

「だからまなも、ここで聞いた事は内緒にしておいてね?」

 つまり母は誰かに言いたくて仕方がなかったらしい。何しろ一番の話し相手であるはずの父には絶対に言えないのだから、その対象がわたしと高橋のお義母さんになってしまったのは必然だったのだ。あくまでも母にとっては、なのだけれど。


「そう言えば、まなちゃん。一応結婚する時に恭平に言いきかせておいたんだけど」

「はい?」

「恭平、ちゃんと避妊してる?」

 のほほんとした口調で言われた言葉に、わたしは飲みかけていたオレンジジュースを少しだけ吹き出してしまった。

 確かにちゃんと籍を入れている夫婦なのだから、そういう可能性があるという考えは分かる。分かるけれど。

 軽くむせているわたしに、母がくすくすと楽しそうに笑いながら、おしぼりを差し出してくれる。鏡を見るまでもなく、わたしの顔が真っ赤になっているのは間違いなかった。

「孫の顔は早く見たいんだけど、せめてまなちゃんが高校を卒業してからじゃないと、って和美さんとも相談したのよね」

「できれば大学も出てからと思ったんだけど、そうすると恭ちゃんの歳がねえ」

「そうなのよ。三十を超えちゃうのよね。それにせっかくまなちゃんをお嫁に貰ったのに、そんなにお預け食っちゃうのも嫌なのよねえ」

「だからね。今はちゃんと避妊して、高校を出る年に第一子出産、っていうのがベストだと思うのよねえ」

 実に楽しげに交わされる会話に、わたしは赤くなったり青くなったり。頭を抱えたくなって来た。

 母達だけではなく父達も、六年前に決まっていたわたしと先生の結婚を、本当に楽しみにしてくれていたらしい。たとえ直接の理由が何であろうとも。

 だからこそ、無邪気に満面の笑みを浮かべている母達に対して、申し訳なさで一杯になる。そして本当に僅かだけれど、それを鬱陶しく感じてしまう事に自己嫌悪を抱かずにはいられない。

 いっそ今ここで本当の事を言ってしまおうか。頭の片隅に浮かんだ考えを、けれどわたしは即座に打ち消した。そんな事をすれば、この結婚は破綻してしまう。きっとなかった事にされてしまう。それだけは嫌だった。

「それにしてもねえ。予約なんて冗談だと思っていたんだけど、本当に結婚まで考えていたとは思いもしなかったわ」

「は?」

「ほら。えーっと。八年前? だったかしら。恭平がうちでまなちゃんに勉強を教えていた時、クラスメイトの女の子がバレンタインのチョコレートを持って来た事があったでしょ」

 その時の事なら、今も良く覚えている。その女の子におにいちゃんを取られるてしまうかもしれないと思って、興奮して泣き出してしまったんだった。子供だったとは言え、今思い出すと、恥ずかしさで顔から火が出そうになる。

「あの時恭平が、まなちゃんが十六になったらちゃんとお付き合いを考えるって言っていたの、覚えている?」

「うん」

「東京に行っていた間の事は知らないけれど、少なくともここにいた頃までは恭平、誰ともお付き合いしていなかったのよね」

「え?」

 それはどう言う事なのだろうか。

「つまりはずーっとまなちゃん一筋って事。東京に行く前にまなちゃんとの結婚の事を言い出したんだから。派手な見かけの割には純愛の人だったのよねえ」

「純愛、いい言葉よね」

 目の前でうっとりと酔いしれている母達の言葉に、久しぶりにパニックに陥りそうになる。

 先生が? 純愛? 八年も前からわたしとの事を考えていた?

 だけど今の先生はそんな素振りは欠片も見せなくて、それどころかわたしの先生への想いを受け取ろうともしてくれないのに。

「まなは物心ついた時から恭ちゃん一筋だものねえ。これ以上の両想いなんてないわよ。幸せ者ねえ」

 母の言葉に、けれどわたしは素直に頷く事などできなかった。

 両想い? わたしと先生が?

「全くねえ。恭平がまなちゃんを見ている時の目つきったら、そばにいるこっちが照れちゃうくらい優しいのよねえ」

「可愛くて仕方がないって、顔に書いてあるものね」

「そうそう、それ! あーん、若い頃を思い出しちゃうわ。わたしも若い頃、主人とねえ」

「あらあ。わたしも主人とは大恋愛だったのよ。うふ、懐かしいわあ」

 夢見る母親達は、わたしの存在を忘れたかのように、昔話に花を咲かせ始めた。どちらも未だラブラブ夫婦なのだから、無理もないけれど。

 そんな事よりも、まさか思いもしていなかった事を聞かされて、わけが分からなくなってしまった。先生がわたしの事を好きだなんて、それこそ母達の錯覚なのではないだろうか。そうでも思わなければ、先生の言動を納得する事などできるはずもない。

 互いの恋愛話で盛り上がる母達を残し、ふらふらとリビングを後にした。静かな場所で考えたかった。考えたところで、先生の気持ちなんて想像する事さえもできないのは分かっていたけれど。

 それでも今はただ、一人になりたかった。そうじゃなければ、昨夜散々流した涙がまた零れて来てしまいそうだったから。




 その後。

 なぜ母が、姉の同棲の事をわざわざわたしに話したのか。四月になれば分かると言うのが、どういう意味だったのか。不審に感じたものの、いきなりの孫計画に圧倒されて突っ込んで聞かなかった事を後悔したのは、暫く経ってからの事だった。

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