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帰郷――予期しない不可解な出来事

 朝目が覚めたわたしは、自分の置かれている状況が理解できず、しばらくの間呆然としていた。

 昨日の夜は先生を待たずに、今は先生専用になっているけれど本来ならばわたしも使うはずだったキングサイズのベッドで眠った。腕には昔先生から貰ったうさこを抱えて。そこまでは間違いなく記憶にあったはずだったのに。

 いつの間に先生が帰って来たのかは、知らない。お医者様から処方された軽い睡眠薬を飲み、朝までぐっすり眠ってしまっていたのだから。

 多分午前様だったはずの先生は、かなりお酒を飲んでいたはず。帰宅してそのままシャワーも浴びずにベッドに直行して、そこにわたしの姿を見つけたはず。そして、眠っているわたしをベッドから追い出すわけにもいかなかったはず。

 そう。全てはわたしの想像でしかないのだけれど、そう考えれば今のこの状況は納得できた。むしろ、そう考えなければ納得が行かないのだ。

 いくら寝起きの悪いわたしでも、あまりの事態に眠気なんて虚空の彼方に吹き飛んで行ってしまった。そうじゃなければ、未だ夢を見ているのかと勘違いしてしまいそうなほどに、非現実的な状況だったのだ。

 わたしの目の前に、気持ち良さそうに眠っている先生の顔がある事なんて。しかもまるで抱き枕のようにしっかりと、両手で抱きしめられているなんて。

 驚きのあまりパニックに陥る寸前、何とか正気を保つ事に成功したわたしは、しげしげと先生の顔を観察する事にした。こんな機会でもなければ、とてもじゃないけれど正視する事もできないのだから。

 日ごろ銀色の細いフレームの眼鏡をかけているために気付かれにくいけれど、先生の顔はとても綺麗だ。女性的な美しさではなく、男の人として整った造りをしている。だから、昔から異性からの人気が高かったのだと、おねえちゃんから聞かされていた。そう言われれば、バレンタインに家までチョコを届けに来た人がいた事を思い出し、納得した。

 今はもうすっかり大人の顔立ちだけれど、寝顔にはまだどことなく子供の頃の面影も残っていて、わたしはなんだか複雑な気分になる。ただ純粋におにいちゃんの事が好きで、後を着いて回っていた頃の名残を感じる事ができるのに、今はこんなに近くて遠い存在になってしまったなんて。

 指でそっと、頬を突いてみる。思いの外柔らかくて触り心地の良い肌には、僅かだけれど髭が伸びていて、男の人を感じさせた。

 突いたくらいでは起きない事を確認し、わたしはほっと息を吐く。


 会えなかった六年間、忘れる事なく胸の中でずっと焦がれていた存在。再会してからも、ほとんど触れる事ができなかった人。その人が今、無防備な寝顔を見せてくれている。

 わたしの怪我のために先生の人生を縛り付けてしまっていると分かっているのに、わたしは先生を手放す事ができない。そこに心などないと分かっているのに。

 体の奥底から湧き上がって来る想い。捨てる事などできない狂おしいほどの愛しさに、わたしは唇を噛み締めた。

「先生、ごめんなさい」

 好きでいて、ごめんなさい。甘えてしまって、ごめんなさい。諦められなくて、ごめんなさい。色々なごめんなさいが、心の中で渦巻いている。

 わたしのために先生は、何を犠牲にしているのだろう。一体どれだけの物を諦めているのだろう。

 安らかに眠り続ける先生の姿に、知らない内に涙が頬を伝っていた。泣いちゃいけないのに、泣くのは卑怯なのに。そう思っても、意思に反して涙は止まってはくれなかった。

 腕に抱いたうさこに顔を埋め、無理矢理涙を拭うと、わたしはゆっくりと先生の顔に唇を寄せた。

 僅かに唇が触れ合うだけの、キスとも呼べないような口付け。それでもわたしにとっては、何よりも誰よりも愛しい人との、大切な口付け。

「ごめんなさい」

 もう一度だけ小さな声で呟くと、起こさないように細心の注意を払って腕から抜け出し、先生の体からずれかけた布団を掛け直した。

 足音を忍ばせ、物音を立てないようにそっと部屋を出る。閉じたドアに背を預け、胸の中に溜まった何かを追い出すように大きな大きな息を吐いたわたしは、先生の目がうっすらと開いていた事に気付くはずもなかった。




 車の窓の外を流れる景色が、高速道路の殺風景な防音壁から懐かしい町並みに変わって行くにつれ、わたしの中の望郷の思いがだんだん強くなって行く。ほんの二ヶ月余り離れていただけなのに、こんなに懐かしく感じるなんて。予想もしていなかったわたしは、そっと目を閉じ実家で待つ家族の姿を思い浮かべた。

 そして、ふと気付いた事に閉じていた目を開き、運転席の先生を見る。

「先生はお里帰りしなくていいんですか?」

 わたしの両親と姉の懇願とも言える「春休みには里帰り」コールに従ったのだけれど、先生の両親はもうここには住んでいないのだ。

「親の家はもうないけど、高校卒業まで住んでいたんだから、実質ここが里みたいなものだからな」

 確かに、高校時代までの先生の友達は、この町にいる。でも、いくつになっても子供の元気な顔を見てみたいと言うのは、どこの親でも思う事なのではないだろうか。

 改めて、わたしの都合しか考えていなかった事を申し訳なく感じてしまった。けれど先生は気にした風もなく、いつも通りの涼しい横顔でハンドルを握っている。

 やがて車は滑るように、わたしが生まれ育った家の前に着いた。家自体は6LDKでそれほど広くはないけれど、庭の広さが自慢だったりする。駐車スペースも三台分はあるのだけれど、今日はなぜか満車状態だった。父と姉の車の他にもう一台、見覚えのない車が停まっている。お陰で先生の車を停める事ができず、やむなく家の前の私道に駐車する事にした。私道なんだから駐車禁止の問題はないので、まあ良しとする。


「あれ?」

 車のトランクから荷物を降ろしていた先生が、見覚えのない車のナンバープレートを見て首を捻った。

「どうしたんですか?」

「いや、このナンバーは多分」

「お帰りなさーい!」

 先生の言葉が終わらない内に、家の中から数人の人影が飛び出して来た。その内の一人に体当たりするかのような勢いで抱き着かれ、おたおたしてしまう。

「元気だった? んもう、顔を良く見せてちょうだい!」

「おっ、おかあさん、苦しいっ」

 首元に抱き着くのはやめてって、いつも言っているのに。わたしが苦笑しながらそう言うと、母はえへっと可愛く反省して見せた。

「あら? 痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの?」

「え。うん、食べてるよ」

 さすがに母は目敏い。この二ヶ月余りの間の不摂生と先日の気管支炎が祟って、実は三キログラムほど痩せてしまっていたのだ。まさか、抱き着いただけで気付かれてしまうなんて思いもしなかった。

「ご無沙汰しています」

 一連の再会騒ぎを一歩離れた場所で静観していた先生が、どうやら父に向かって挨拶をしたらしい。父はにこにこと静かな笑みを浮かべて、わたしと母と先生を見比べていた。

「あの。ところで、この車は」

「まなちゃんっ! 久しぶりねえ!」

 先生の言葉はまたしても、別の声に遮られてしまう。そして声の主を見た先生は

「やっぱり」

と大きな溜息を吐いた。

 そこにいたのは、先生のお母さんでありわたしのお姑さんでもある人だった。もちろんすぐそばには先生のお父さんもいて、何だかやたらと人が多くて賑やかだ。

「今日からまなちゃんがお里帰りするって聞いて、せっかくだから会いたいと思って飛んで来たのよ。新婚家庭に押し掛けるのはさすがに申し訳ないから、せめてここで会うくらいはいいわよね?」

「もちろん! わたしもおじさんおばさんに会えて嬉しい!」

 元々庄司家と高橋家とは二十七年来の家族ぐるみのお付き合いで、それは高橋家がお仕事の都合で地方に引っ越してからも変わらない。両家の親はお互いに連絡を取り合い、年に何度かは顔を合わせる機会を作っていたのだから。


 仕事に行っていた姉は夕方になって帰宅し、そこでまたひとしきり再会騒ぎがあった。

 どちらの両親もわたしと先生が仲良く過ごしている事を期待していて、とにかく何をするにも二人で、とお膳立てをされてしまって少し困った。にも係わらず相変わらず先生の事を目の敵にしている姉は、なぜだかやたらとわたしと先生の間に割り込んで来ては、両親から苦言を受けていたけれど。

 結婚してからはずっと先生と二人きりだったけれど、その夜は本当に久し振りに賑やかな夕食になった。




 翌日は久し振りに友達と会ったりして、あっと言う間に時間が過ぎてしまった。先生も都合のつくお友達と会いに出かけたりして、一緒には行動しなかったのだけれど。もっとも、そこまで一緒じゃ束縛されすぎてお互い息が詰まってしまうから、別行動がちょうどよかった気がする。

 さらに翌日、わたしは何となく買い物に出かけたくなった。つい二ヶ月ほど前まで住んでいたのだから、勝手知ったる何とやら。一人でも十分だと思っていたのに、両家の母によるごり押しで、先生と二人で行動する事になってしまった。

「先生もどこか行きたい所とかあるんじゃないんですか?」

「いや、特にない。どうせ暇だから、まなに付き合ってやるよ」

 結婚してからと言うもの、誰かに見られるとまずいからと、外で一緒に行動する事はほとんどと言っていいほどなかった気がする。一応従兄妹同士という設定を用意してはいるけれど、それでも教師と生徒が一緒に住んでいるというのは、あまり喜ばしくはない事なのだ。

 だから週末などはたまに出掛ける事もあったけれど、知り合いに会う可能性が少ない遠方にまで足を伸ばしたり、それでも周囲が気になって、とても外出を楽しむ気分にはなれなかった。

 もちろん、二人きりでもっと楽しく外出できるのならば話は別だ。そう思うけれど、それを先生に求めるのは単なるわたしの我侭だから、とてもではないけれど口に出す事などできなかった。

 でもこの町ならば、万一知り合いに会っても、先生とわたしの関係をいちいち説明する必要なんかない。生まれ育ったこの町にいる限り、わたし達はただの幼馴染のおにいちゃんと妹分でいられるのだから。


 今日の目的地は、郊外にある大きなショッピングセンター。三年前にオープンしたばかりだから、先生はその存在を知らないはずだ。

「ここも都会化して来たんだなあ」

 先生がしみじみと言うものだから、おかしくて吹き出してしまった。

「やだ、先生、じじくさーい」

「大きなお世話だ。だいたい、俺のここでの記憶は、六年前で途切れているんだ。あちこち変わっていれば、驚くのも当たり前だろう」

 こんな風に他愛無い事を言いながら先生と歩いたのなんて、それこそ六年以上ぶりの事で、わたしはなんだか浮かれた気分になっていた。


 ショッピングセンターをひと回りしてから書店に立ち寄る。わたし達は店先のベンチ前で落ち合う事に決め、それぞれ好みの本を求めて別行動を取る事にした。

「あれ。まなちゃん?」

 文庫本のコーナーを物色していたわたしは、不意に名前を呼ばれ、顔を上げた。

「え。あ、江原さん」

「やあ、久しぶりだね。春休みで家に帰って来ているの?」

「はい。一昨日から。でももうすぐ戻らなくちゃいけないんですけどね」

「そうなんだ。残念。あ、でもせっかく会えたし、良かったらお茶でも一緒にどう? それくらいの時間なら大丈夫?」

 なんだかナンパみたい。江原さんって、こんなキャラじゃなかったと思うのだけれど。そう思いながら首を捻ると、江原さんは

「ナンパなんかじゃないからね」

と笑った。

 江原さんの年齢は、二十六歳だったと思う。背丈は高橋先生ほど高くはなく、けれど先生よりもがっしりとした体型。笑うと左頬に片えくぼができて、実際の年齢よりもずっと若く見える。

 厳しい所もあるけれどとても思いやりのある人で、わたしは兄のように慕っていた。

「えーと、ごめんなさい。今、連れと一緒なんです」

「でも、さっきから見ていたけど、まなちゃん一人だったよね?」

 さっきからって、いつから見られていたんだろうか。壁にかかった時計を見ると、この書店に入ってから既に三十分近く経っている事に気が付いた。

 わたしは元々一つの事に集中し始めると時間を忘れてしまう性質だけれど、どうやら今日もやってしまったようだ。本を見るのに熱中していて、先生との待ち合わせに遅れてしまうところだった。

「やだ、もうこんな時間! 江原さん、ごめんなさい!」

 慌てて手に取った本を元の場所に戻し、江原さんには申し訳ないと思いながらも、簡単に挨拶して体の向きを変え、視線の先に先生の姿を見付けた。

 陳列用の棚一つ分先に立つ先生は、いつもよりも目を細め、口を固く引く結んでいる。どうやら機嫌を損ねているらしいと察したわたしは、小走りで先生の元に駆け寄った。

「まな、走るな」

 感情の籠もらない先生の視線と声に、思わず足が竦んでしまう。

「ごっ、ごめんなさい。本に熱中しちゃって、時間を見るのを忘れいて」

「話に熱中して、の間違いじゃないのか?」

 思い切り眉を顰めた先生の視線が、わたしを通り越して後ろに立つ江原さんに向けられた。何だか目つきが怖い。

「もしかして例の『おにいちゃん』かな。六年間音沙汰なしだったって言う」

「そう、です」

 江原さんはにこにこと笑顔で先生を見ている。対して先生は、どこか険しい表情のままだ。

「まな、この人は?」

「俺は江原昭介えはら しょうすけです。君がいない間、まなちゃんの『おにいちゃん』の代わりをさせてもらっていました」

 その言葉に間違いはない。けれどなぜだか言葉の中に刺々しい物を感じ、わたしの胸の裡がざわついた。

「江原昭介、って、江原先輩?」

 先生の表情が緩んで目が丸くなり、江原さんの口元が少しだけ皮肉っぽく歪む。

「やっと思い出したか、薄情者」

「え。二人とも、知り合いだったんですか?」

 思いがけない事態に、二人の顔を交互に見比べた。

「中学の時の部活の、先輩後輩の仲。だからまなちゃんから『おにいちゃん』の話を聞いた時から、実は高橋の事だって気が付いていたんだ」

 先生の中学時代の部活と言うと、確か陸上部だと聞いていた。

「えー。江原さん、そんな事一度も言ってくれなかったじゃないですか」

「言っちゃうと、俺の顔を見るたびに高橋の事を思い出して辛かっただろう? なあ、頑張り屋のまなちゃん?」

 伸びて来た手が、頭を優しくぽんぽんと撫でてくれる。わたしはその懐かしい感触に目を細め、てへへと舌を出して頷いた。

「で、江原先輩とはどういう知り合いなんだ、まな?」

 江原さんの手を振り払って、今度は先生の手が頭に乗せられる。なんとなく機嫌が良くないと感じるのはなぜなんだろう。

「江原さんは、わたしのリハビリの先生なの」

「リハビリ? 足の?」

「まなちゃんが『もういや』と駄々をこねたり、泣いて手がつけられなかったりした時、かなり親身になってお世話させてもらったよ」

 正確には江原さんは、理学療法士と言う資格を持っている。簡単に言えばリハビリの指導者と言ったところだろうか。再手術の後の四年間、リハビリでお世話になっていた人だ。

 江原さんが言っているのは本当の事だけれど、これではまるで先生がいない間の寂しさを、江原さんに慰めてもらっていたかのような印象を与えてしまいかねない。実際先生の目つきが何となく険しくなっているし、変な誤解をされたりしたらどうしよう。

 そこまで考えて、ふと冷静になる。誤解も何も、わたしと江原さんがどうだろうと、先生には関係ない事なのだ。わたしに「本当に好きな人」ができたら離婚していい、なんて言ってくれているのだから。

 勝手に焦っている自分がバカみたいに滑稽に思えて、苦い思いを噛み締めた。

「そうだ。江原さん、この後何か予定ありますか?」

「ないから、まなちゃんをお茶に誘ったんだけど」

「もし良かったら、うちに来てくれませんか。江原さんが来てくれたら、両親も喜びますから」

「それは、俺は構わないけどね」

 構わないと言う割には、江原さんが少しだけ困ったように首を傾げ、微苦笑を浮かべた。その目はわたしではなく、すぐ後ろに立つ先生に向けられている。その視線を追うように見上げた先生の顔は、なぜだか苦虫を噛み潰しているような、何とも言えない表情を浮かべていた。

「今日はやめておこう、まな。俺の親もいるし、お義母さんに迷惑だろう」

「え。そう? おかあさん、江原さんの事はとても良い人だって気に入ってたし、久しぶりだから喜ぶと思うけど」

 江原さんは、リハビリのあまりの辛さに癇癪を起こしたわたしに対して、宥めたりすかしたり時には厳しく接したりして、本当に良くしてくれたのだ。母は感謝こそすれ、迷惑だなんて思うわけがない。

 母の都合を聞いてみようと思い、携帯電話を取り出したら、江原さんがやんわりとそれを断って来た。

「ああ、そこまでしなくてもいいよ。外で会うのならともかく、家まで押し掛けるのはやっぱり申し訳ないしね」

「えー。残念。じゃあ、せめて三人でお茶だけでも」

 そう思ったのに、遅くなると皆が心配するから、と先生に反対されてしまった。先生と一緒なんだから、心配なんかするはずはないのに。さらにそう言おうとしたら、先生の機嫌が目に見えて悪くなったので、言えなくなってしまった。本当に、今日の先生はどうしたんだろう。

 そして対照的に江原さんはやたらと機嫌が良さそうで、いつの間にかにこにこがにやにや笑いになっている。

「また今度、ゆっくり時間のある時にでも、ね」

 先生の耳元で何事かを囁いた江原さんは、意味ありげなウィンクを残して人混みの中に消えて行ってしまった。

 後に残された先生は不機嫌そうに何事かを考え込んでいて、声を掛けるのが躊躇われる。何だろう。江原さんは、先生に何を言ったんだろう。

「買う物がないんだったら、帰るぞ」

 不意に手を掴まれ、心臓がどきりと跳ねた。わたしからはその表情が確認できない。けれど纏う空気から、どうやら不機嫌ではなさそうだと分かる。

 掴まれた手はそのままに、先に立って歩き出した先生の背を追って、わたしは慌てて歩き始めた。




 実家に帰ってからも、先生はなぜか不機嫌そうに考え込んでしまっていて、声を掛ける事さえ躊躇われた。

 夕食の間もその後も、とにかく必要最低限の事しか話さない。途中おねえちゃんが

「ご飯がまずくなる」

と苦情を言ったけれど、それさえも無視していた。


 かつてわたしが使っていた部屋に敷かれた客用の布団に枕を抱きしめて座り、相変わらず難しい顔をしている先生をぼんやりと眺めていた。

 わたしが何か気に障るような事をしたんだろうか。それとも体調が悪いのだろうか。もしも後者だったら大変だ。そう思って、先生のおでこに手を伸ばした。

「うわっ!」

 手が触れたかと思った次の瞬間、突然先生が声を上げた。

 わたしは呆然と、振り払われてしまった自分の手を見つめた。振り払われたなんて言うよりもずっと強い力で叩かれた手が、赤くなってじんじんと痺れている。

 わたしの手を払い除けたままの姿勢で固まっている先生は、やはり自分の掌をじっと凝視していた。

 さして広いわけでもない二人きりの空間に、奇妙で重苦しい沈黙が流れる。

 そんな中、わたしはふと思い立って、わたしの荷物を詰め込んであるボストンバッグに手を伸ばした。ごそごそと中を探り、薄ピンクのポーチを取り出すと、脇に置いてあったペットボトルを手に取る。

 ここに至ってさすがに何をしているのか気になったらしく、先生の目がわたしの手元に向けられているのに気がついた。

「お薬、飲むのを忘れていたんです」

 手に取って先生の前に差し出したのは、マンションの近所の薬局の薬袋。それを見た先生が、訝しむような目つきでわたしを見た。

「風邪は、もう治ったんだろう」

「あ、うん。これは、風邪じゃない方のお薬」

「睡眠薬か? まだ、眠れないのか?」

 布団は別とは言え、先生と同じ部屋でしかも布団同士はぴったりと隙間なくくっつけられている。こんな状況で眠れるはずなんかない。もっとも、普通の夫婦ならばあまりにも当然の状況で。だからわたしと先生の夫婦仲が良いと信じきっている母が、この部屋を用意してくれたのもまた当然の事なのだ。

「保険みたいなものです。眠れないかもしれないから、飲んでおこうかなって感じで」

「眠れるかもしれないんなら、飲まないほうが良いだろう。睡眠薬なんて、程度の弱い麻薬みたいなものだからな」

 そう言って、先生はわたしの手から薬を取り上げてしまった。

 眠れるかもしれない確率は、眠れないかもしれない確率に比べればほとんど皆無といっていい。心配をかけたくないから言わないけれど、それだけは妙に自信があるのだ。

 仕方なく敷布団の端を掴んで引き摺り始めたわたしを、先生が奇妙な物を見るような目で見た。

「何をしているんだ、お前?」

「お布団を、動かして、いるんです」

「何のために」

「何の、って」

「心配しなくても、隣にお前が寝ていようが、変な気は起こらないぞ?」

 呆れ顔の先生を、軽く睨んだ。

 そうでしょうとも。わたし相手にそんな気にならない事は、良く分かっていますとも。だけど先生は平気でも、わたしが平気じゃないんです。わたしが、妙な期待をしてしまうんです。叶う事がないと分かっているけれど、期待せずにはいられないんです。そして後でやっぱり激しく落ち込んでしまうのが分かっているから、困るんです。

 言葉にならない苛立ちが、諦めの溜息と共に胸の中にわだかまる。

「とにかく、わたしはこっちで」

「だから、意味のない事はするなって」

 一生懸命運んだ布団を、先生はいとも軽々と持ち上げ、元の場所に戻してしまった。

「人がせっかく運んだのにー!」

「電気、消すぞ」

「はっ? ええっ?」

 言い終わらない内に室内の電気が消され、目の前が真っ暗になる。これではわたしの意志も何もあったものではない。文句の一つも言ってやろうと思った時、不意に右手を掴まれ、布団の上に引き倒されてしまった。突然天地が逆になり、わけが分からない間に布団の中に引き込まれ、ふかふかの掛け布団を頭から掛けられる。

「いったー! なにす……」

 文句の一つも言ってやろうと思ったのに、それは叶わなかった。布団よりもずっと温かい物に体を包まれ、はっと息を呑んだ。

「昔は、良くこうやって一緒に寝たよな」

 息がかかるほど近くで、先生が囁くように言った。その呼気に耳をくすぐられ、心臓が勝手に走り出してしまう。体中が、熱くなる。

 背中に回された腕が、宥めるように何度もゆっくりと往復する。髪を梳くように撫でて行く掌の優しい感触。触れ合う胸。絡まり合う脚。

 触れ合った部分から、甘美な痺れが広がって行く。

 激しい眩暈に襲われ、あまりの息苦しさに喉の奥からぐう、と唸るような声が漏れた。

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