表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/21

終業式――想いつづけることは罪ですか

 積み重なった睡眠不足と栄養不足のため、極端に体力と抵抗力が落ちていたらしいわたしの体は、その後も簡単には回復してくれなかった。二日後には微熱にまで下がったけれど、平熱まで下がるのには、予想以上の時間を要した。

 その間当然の事ながら、お医者様と高橋先生から登校禁止を言い渡されてしまい。ようやく学校に行く事ができたのは、終業式の日だった。

 休んでいた間に、学年末テストの答案用紙が先生経由で戻って来ていた。へろへろの状態で受けたにしてはまずまずの結果で、念願通り約二週間の春休みが確保できてほっとした。


「まなちゃん、春休みはどうするの?」

 五日ぶりに肩を並べて学校に向かいながら、鈴華ちゃんが小首を傾げるようにして聞いて来た。わたしが休んでいる間もクラスメイトからのお見舞いやら伝言を伝えに来てくれてはいたのだけれど、こうして外で会うのは本当に久しぶりだった。

「明日から、実家に帰ることになってるよ」

「ああ、そうよね。長いお休みにくらい顔を見せないと、おじさんとおばさんが寂しがるわよね」

「うん。帰って来いって本当にうるさくって。鈴華ちゃんは、何か予定ってあるの?」

 聞き返すと、鈴華ちゃんが少しだけ怪しくなった。きょろきょろと周囲を見回し、わたしの腕に抱きついて、耳元に口を寄せて来る。

「先生と一緒にいることになったの」

 至近距離でようやくわたしの耳に届く程度の小さな声で囁かれた内容をわたしの頭が理解するのに、少し時間がかかってしまった。

「え? えええーー?」

「まなちゃん、声が大きいわ!」

 思わず叫んでしまったわたしの口を、鈴華ちゃんが慌てて塞ぐ。

「だ、だって、それって」

「一緒にいようって、言ってくれたの」

 真っ赤に染まった顔を俯けて上目遣いでわたしの様子を見ている鈴華ちゃんは、掛け値なしに可愛い。

「わたしも本当はそうしたかったんだけど言い出せなかったのに、分かってくれていたのね。ちゃんと両親に話して許可も取っているのよ」

 鈴華ちゃんと佐野先生の仲は、既に両家公認になっている、と聞いてはいた。なんでも鈴華ちゃんのお母さんである浅子さんが、先生の事をかなり気に入っているらしい。

 春休み中と言う期間限定の同棲も、ちゃんと責任を取れるのならと言う、条件にもならないような約束で許してくれたのだそうだ。

「うわー、浅子さんって、やっぱりすごい」

 事情を知っているわたしでも、やっぱり驚かずにはいられない。

「でもよかったね。鈴華ちゃん、凄く幸せそうだし」

 鈴華ちゃんは、耳まで真っ赤になった。

「いやあね。まなちゃんこそ毎日大好きな人と一緒にいられて、幸せでしょう? 羨ましいわ」

「え? あ、うん、そうだよね。そうかも」

 何となく他人事のような反応を返してしまってから、失敗した、と思った。案の定、鈴華ちゃんの顔から赤味が引き、訝しげに眉根が寄せられている。

「そうかもっ、てどう言うこと?」

「あー、ほら。毎日幸せだと、感覚が麻痺して分からなくなっちゃうのよね」

「ほんとうに? そういうものかしら?」

「そういうものだってば! 鈴華ちゃんもわたしの立場になればきっとそうなるよ」

 慌てて嘘を吐く自分が嫌になる。わたし自身が思ってもいない事を言っているのだから、鈴華ちゃんが未だ納得しきれずに難しい顔をしているのも無理はない。


 いつまで隠さなければならないのだろうか。いつまでごまかしきれるのだろうか。いっそ全てを鈴華ちゃんに打ち明けてしまえたら。そうは思っても、もしもそんな事をすれば、鈴華ちゃんが高橋先生を責める事は目に見えている。従兄である先生のこ事よりも、ほんの一月余り前に親戚になったばかりのわたしのことを気にかけてくれている。それはもちろんわたしにとって凄く嬉しい事であり、ありがたい事でもあるのだけれど。

「……ちゃん。まなちゃん?」

 考えに没頭していたわたしは、鈴華ちゃんの声で我に返った。

「大丈夫? まだどこか辛い?」

「ううん、平気だよ。ちょっとぼーっとしてただけ」

 慌てて顔の前でひらひらと手を振って否定したわたしを正面から見据え、鈴華ちゃんは少し怒った顔をした。

「まなちゃんの『大丈夫』は、ぜんぜんあてにならないじゃないの」

 正門から将星学園の敷地に足を踏み入れた時、予鈴が校内に鳴り響いた。いつもと同じ時間に家を出たにもかかわらず、わたしが考えに沈んでいた間の歩くペースが異常に遅かったために、こんなにぎりぎりになってしまったのだ。

 四階にある一年五組の教室に一旦荷物を置きに行ってから、別棟の体育館に全学年が集合して終業式が行われる。もたもたしていては間に合わない。

 わたしは鈴華ちゃんと顔を見合わせ、転ばないように気を付けながら小走りに駆け出した。

 かなり頑張ったつもりだったけれど、体力が落ちたままのわたしには駆け足を続けることは不可能だった。

 鈴華ちゃんに先に行ってもらって、途中から息を整えながらゆっくりと歩いて行く。わたしの病み上がりの体と足の事を心配した鈴華ちゃんは

「ゆっくりでいいから、一緒に行きましょう」

と言ってくれたけれど、そこまで迷惑をかけるわけにもいかないと固辞したのだ。

 静かな廊下を曲がって階段を下りる。誰もいないこんな所で転んでしまったら、洒落にもならない。一歩一歩慎重に足を運んで二階まで下りた時には、僅かながら額に汗が滲んでいた。


 ふと、体育館への連絡通路に人影を見つけた。わたしの姿を見ると同時に、その人がこちらに歩き始める。

 どうして今頃、こんな所にいるのだろう? けれどすぐに、恐らくわたしのような遅刻者がいないかを確認するために校内を巡回してるのだろうと思い至った。

「気分が悪いのか?」

「急ぎたかったんですけど、体力が足りないみたいです」

 ゆっくりとした足取りのわたしに、少し早足で近づく高橋先生。お互いがお互いに向かって歩いているから、すぐにすれ違うことになる。と思ったのに、先生は体の向きを変え、体育館に向かうわたしと並んで歩き出してしまった。

「先生、見回りはいいんですか?」

「遅刻者を一人見つけたからな。さぼらないように体育館まで誘導するのも仕事の内だ」

 苦笑混じりにそう言われ、遅刻者のわたしは、なんだか申し訳ない気分になってしまう。もちろん先生には悪気などなく、今は少しの皮肉も含んではいないのだろう事は分かっているけれど、迷惑を掛けている立場としては、正直結構きつい。

 先生は決してわたしを急かしたりはせずに、何も言わないでわたしの歩調に合わせてくれている。そんな何気ない優しさが嬉しくて、わたしは一人こっそりと喜んだ。これくらいのささやかな幸せを望んでも、先生の迷惑にはならないよね。

 そう自分に言い聞かせながら、わたしは体育館までの短い距離を楽しんでいた。




「元宮さん、いるかな」

 大掃除が終わってHRを待つ間、ざわつく教室の後ろの出入り口に、一人の男子生徒の姿があった。襟に付けられている学年章で、二年生だと分かる。

 指名された鈴華ちゃんがそちらに行くと、何言か交わし、男子生徒が立ち去っていく。

「また告白?」

 クラスメイトの西條さんが戻って来た鈴華ちゃんに笑いかけると、鈴華ちゃんは頷きながら大きな溜息を零した。

「断るのも疲れてきちゃった」

 ぽつりと呟いた言葉に、わたしは鈴華ちゃんを見上げた。

 告白をする人は皆、かなりの勇気を振り絞っているのだろう。けれどそれを受ける方もそれなりに大変なのだと、わたしも自分の身に降りかかって来るようになってから、ようやく理解した。

 好意を向けられて嫌な人なんて、きっといないだろう。もちろん中には何度断っても言い寄って来る人や、勝手に勘違いをして擦り寄って来る人もいる事にはいる。けれどそういうケースは、特殊と言っていい。真っ直ぐに向けられた好意を断るのはとても心苦しい。できる限り相手を傷付けないように言葉を選ぶのは案外大変な事で、精神的にかなりの疲労を伴うのだ。

「大丈夫? じゃないよね、やっぱり」

「春休みの間はこういう事がないと思うと、余計に明日が待ち遠しくなっちゃうわ」

 鈴華ちゃんと比べれば遥かに少ないとは言え、告白してくれる人達に対して同じようにお断りばかりしているわたしも、やはり同じ事を考えていた。

「告白なんてされた事がないわたしから見れば、かなり贅沢な悩みだと思うけど。でも、告白される方もそれなりに大変なのね」

 肩を竦めて言う里中さんに、鈴華ちゃんはやはり微苦笑を返している。

 好意を向けられるのが嫌な人なんていない、とさっき思ったけれど、応える事ができない好意の場合、それは時によっては重荷にしかならない事もわたしは知っている。鈴華ちゃんには佐野先生という秘密の恋人がいるのだから、異性から向けられる、そう言った好意はありがたくはないだろう。

 そこまで考えて、気付いてしまった。わたしが高橋先生ことおにいちゃんを好きでいる事は、もしかして迷惑なのかもしれないと言う事に。

 先生は、消えない傷が残るような怪我をさせてしまった事に対しての責任感と、わたしの両親への義務感だけのためにわたしと一緒にいてくれているのに。わたしがいつまでも、子供の頃からの恋心を持ち続けている事は、先生にとっては重荷になっているんじゃないだろうか。

 今までその事に気付かなかった迂闊さが、本気で情けなくなった。

「まな、どうしたの?」

 里中さんに名前を呼ばれて我に返る。どうもわたしは一度に二つ以上の事ができないらしい。考え事に没頭してしまい、自分の周りの事さえも頭から遮断してしまう事が多いのだ。

 里中さんだけではなく、鈴華ちゃんと西條さんもわたしの様子がおかしい事を気にしてくれているこ事が、ありがたくもあり、申し訳なくも感じてしまった。




「恭ちゃん、まなちゃんの事、気にしていたわよ?」

 鈴華ちゃんが、イチゴのミルフィーユをフォークでつつきながら、思い出したように口を開いた。HRが終わって解散したのが十時半と中途半端な時間だったので、途中にある喫茶店でお茶をする事にしたのだ。

 フォークに突き刺したレアチーズケーキの欠片を口に運ぶ手が止まってしまい、わたしは鈴華ちゃんの顔を見た。

「HRの間中、まなちゃんたらずっと何か考え事をしていたでしょう。心ここにあらずなんて可愛いものじゃなかったわよ」

「ただぼーっとしてただけだよ」

「気がついているかもしれないけれど、まなちゃんって、すぐ顔に出るのよ。いつもと様子が違うから、恭ちゃんも気になって、何度もちらちら見ていたんだから」

 適当に誤魔化そうとしていたわたしは、続く鈴華ちゃんの言葉に驚いた。考えている事がすぐ顔に出るらしい事は、子供の頃から家族や先生からずっと言われていた事だったけれど。それよりも、まさか先生がわたしの事を気にしてくれていたなんて、思いもしていなかったのだ。

 けれど今度は意識が思考に沈む事はなかった。ただこんなに些細な事に一喜一憂している自分が滑稽で、口元が歪んでしまう。

「まなちゃんって」

「え?」

「どうしていつも、一人で抱え込んでしまおうとするの? 恭ちゃんもわたしもそばにいるのに。どうして頼ろうとはしてくれないの?」

 真っ直ぐにわたしを見つめる鈴華ちゃんの目には、悲しみとも痛みともつかない色が浮かんでいた。その色にどこか見覚えがあるような気がして、はっとする。

「そんなこと、ないよ。わたしって昔から、家族とかおにいちゃんとかに頼りっぱなしだし。今だって」

「でも、まなちゃんはわたしを頼ってはくれていないでしょう?」

 逸らす事なくわたしに向けられているその視線に射竦められる。そして鈴華ちゃんと同じ目をしてわたしを見ている人が彼女の面影に重なり、それが誰なのかに気付いて呆然とする。


 おにいちゃんの、目だ。


「まなちゃんも恭ちゃんも、言葉には出さないけれど。幸せなはずの二人なのに、見ていて辛い時があるの」

「鈴華ちゃん」

 心配を掛けたくなんかないのに、結局はこんな顔をさせてしまうなんて。

 あの六年前の事故以来、わたしの周りの人達はみんなこんな心配そうな眼をしていて、そのたびにわたしの胸の奥がきりきりと痛んだ。わたしが癇癪を起こして飛び出した揚句に、勝手に転がり落ちただけだったのに。そのせいで皆にそんな眼をさせてしまう自分が、とても嫌だった。

「心配してくれてありがとう。でも、ほんとに何でもないから」

 できるだけ自然に笑いながら言うと、鈴華ちゃんは大きな溜息を吐いた。その顔にはまるで、全然納得なんかしていないと書いているみたいだった。




 春休みは他の長期休暇とは違い、4月からの新入学生の準備登校などがある。そのため、教員達の実質の休みはとても短い。それでも先生達は、ひとまず仕事納めだと言う事で、打ち上げに行く事になっている。夕食がメインの一次会で解放されればまだ良いけれど、二次会・三次会にまで及んだりすれば、今日中に帰れないかもしれないらしい。

 実家に帰るのは明日の午後からの予定だから、とりあえず二人分の荷物を用意する事に専念した。荷物と言っても着替えがほとんどだし、先生の車で行くから、他は特に何も要らないという状態だった。

 先生のために食事の準備をするのは楽しいから好きだけれど、自分一人の分なんて全然気が乗らない。だから帰りがけにコンビニでお弁当を買うだけですませる事にした。

 夜も九時を過ぎると、特にする事もなくなって、すっかり手持無沙汰になってしまった。見たい番組があるわけでもないのに、何となく付けっぱなしにしているテレビの画面では、お笑い芸人がボケとツッコミで場を沸かせている。

 かと言って、せっかく三学期が終わったばかりの今日くらいは、勉強もしたくはなかった。

 打ち上げの会場は最寄り駅の近くのお店だから、一次会で終われるのならもうそろそろ帰って来るかもしれない。でも多分、帰って来ないような気がする。若手の先生は、年配の先生に誘われると断り辛いと聞くし。

 お腹を縫い合わせて修理したうさこを抱きしめ、ソファに転がる。学年末テストの最終日に、お腹が裂けて綿が出てしまったうさぎのぬいぐるみ。実は十歳の誕生日に、おにいちゃんから貰ったプレゼントだ。先生はもう忘れてしまっているかもしれないけれど、わたしの一番の宝物。寝る時には、いつも抱きしめている。

 薄汚れるたびに洗っているので、ピンク色だったその体の色はすっかり抜けて、ぼやけた肌色みたいになってしまっていた。

「やっぱり、迷惑なのかなあ」

 学校でよぎった考えが、頭の中に浮かぶ。心は自由だと。好きでい続けるのは自由なんだと自分自身に言い聞かせて来たけれど。もしもそれが、先生の重荷になっているのだとしたら。

 あくまでも責任感と義務感だけで一緒にいてくれる先生。この想いが迷惑になっているのだとしたら。本当に先生の事が好きならば、諦める事が先生のためになるんじゃないだろうか。

 そんな負の考えに押し潰されそうになり、わたしはうさこを抱く腕に力を込めた。


 やはり二次会に突入したらしく、十一時を過ぎても先生は帰って来ない。いつまでも起きて待っている事は、先生が嫌がるからしたくない。

 わたしはリビングの明かりを消し、うさこを抱いたまま一つのドアの前に立った。この家の中で一番広くて、本来ならば二人の寝室になるはずだった部屋。けれど今は先生一人が使っている部屋。

 意を決してドアを開くと、中は当然真っ暗。手探りで中に進み、目的の場所に辿りついた。そこに置かれているキングサイズのベッドは、両家の親達が二人で使うようにと用意してくれた物だ。

 将星学園転入前夜、一度だけ、わたしはここで眠った。先生はリビングのソファベッドで眠り、わたしは一人でこのベッドを使ったのだけれど。

「欲求不満なのかな」

 腕の中のうさこに問いかけても、当然何の返事もない。

掛け布団を捲り上げ、中に体を滑り込ませる。ほんの微かだけれど先生の匂いがして、眼を閉じて体を丸めていると、なんだか先生に抱きしめられているような錯覚を覚えた。

「おやすみなさい、おにいちゃん」

 この日わたしは、懐かしいおにいちゃんの匂いに包まれて眠りに就いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ