プロローグ
二月のある日。
前日まで降り積もっていた雪がようやくやんで、久し振りに晴れ間が見える空。空気がいつもよりも澄んでいて、肌を刺す冷気さえも何だか心地よく感じる。
だから、思いっきり体を伸ばした。雪が積もっている自宅の庭で。そして雪に足を取られ、バランスを崩して見事にすってんころりと思い切り尻餅をついてからさらに転がってしまった。
「いったーい」
お尻を摩りながら身を起こすと、どこからか聞こえるくすくす笑いに、かあっと顔が赤くなる。
誰かに見られていたんだ。近所のおばさんかおじさんならいいけれど、後でからかって来るような同年代の人達だとかなり嫌かもしれない。
そう思って、慌てて辺りを見回すと。
「大丈夫?」
知らない男の人と、どこか見覚えのあるおじさんとおばさんが、我が家の門の前に立っていた。
「約束通り、迎えに来ました」
そう言ってわたしの前に現れたのは、六年ぶりに顔を見る、わたしの幼馴染のおにいちゃんだった。
久しぶりに会ったおにいちゃんはグレーのスーツを着ていて、一目で分からなかったのも無理はないって言うくらい、すっかり大人の雰囲気を身に纏っていた。記憶の中ではまだ高校生だったんだから、そのギャップにひどく違和感を覚えてしまった。
父と母は、なぜだか知らないけれど驚いたり慌てたり、それはもう面白いくらいの反応を見せている。何がどうなっているのやら、「約束」が何なのかさえも良く分からずに、わたしはただ呆然とそんな両親を眺めていた。わたしとおにいちゃんだけが知っているあの「約束」ならもちろん覚えているけれど、その期日はまだ一ヶ月ほど先の事だった。
おにいちゃんと一緒に来ていたおじさんおばさんとわたしの両親の間でどんな話をしたのかは、知らない。知らないけれど、凄く深刻そうな顔をしていたわたしの両親が輝くような笑顔を見せた時、わたしは心の底から安堵の溜息をついた。
おにいちゃんとわたしは、隣同士の家に住んでいた。過去形なのは、六年前におにいちゃんのお父さんのお仕事の関係で、お隣さんが引っ越してしまったから。それまでは両家とも本当に仲が良くて、家族ぐるみの付き合いをしていた。
おにいちゃんは一人っ子で、わたしには姉がいる。姉はおにいちゃんと同じ年だけれど、二人はなぜかあまり仲が良くなかった。その代わりではないと思うのだけれど、わたしはおにいちゃんにとても懐いていて、おにいちゃんもとても可愛がってくれていた。まるで本当の兄妹みたいに。
そんな関係が崩れたのは、おにいちゃんの引越しだけが原因と言うわけではない。その少し前に起こった、ある出来事のせいだ。そしてそれは全てわたしが悪くて、わたしが招いた結果で。だから今日、両家の家族が笑顔でいてくれる事が、本当に嬉しかったのだ。
両親に呼ばれてソファに座った時、向かい側に腰掛けていたおにいちゃんと目が合った。なんだか妙に照れ臭くて、多分わたしの顔は真っ赤になっていただろうと思う。
おにいちゃんは昔と同じように、むしろ、昔よりもずっと優しげで穏やかな笑顔を見せてくれた。その途端、なんだか心臓が大きく跳ねた気がして、顔に血が上るのを自覚した。
「あらあら。そんなに恥ずかしがってちゃだめよ」
「顔を見ただけでそれじゃあ、これからが大変だよ?」
あまりの恥ずかしさにとうとう俯いてしまったわたしに、おじさんとおばさんが優しく声をかけてくれる。
これから? これからって、どう言う事なんだろう。
「転校手続きもしなくちゃいけないわよね」
「色々書類なんかも必要だろう」
そんな両親の言葉の、半分以上の意味を理解できなかった。母はまるで少女のように瞳を輝かせ、あまつさえ胸の前で両手を握り締めていて。父は少しだけ複雑そうに口元を歪め、それでも機嫌が良さそうな事だけは、わたしにも分かった。
転校すると言うけれど、わたしは昨春高校に入学したばかりだ。と言うか、どうして転校する必要があるのか、その理由を事前に何も教えて貰えなかったわたしは、とにかく戸惑う事しかできない。
「全て、そちらにお任せします」
おにいちゃんはやはり笑顔を浮かべたまま、深々と頭を下げている。
この状況下で唯一わたしに分かるような説明をしてくれそうだった姉は、ダイニングテーブルに肘をついて、不機嫌丸出しの顔でそっぽを向いていた。とてもじゃないけれど近付けそうにないオーラを纏っている。
どうやら両家の話題の中心はわたしらしいのだけれど、その肝心のわたし自身には何の説明もなく、結局訳が分からないままその日を迎える事になってしまったのだった。