問題編
■問題編
俺たちを乗せてきたキャラメルボックスみたいなディーゼルカーが、ぶるぶると震えながら遠ざかっていく。遠ざかる汽車を見送りながら豆粒くらいの旅情にため息をついていると、ついつい、と誰かが袖を引いた。
振り返って、目の前にあった顔に悪態をぶつける。
「ふう、どうせそんな事だろうと思ったよ」
俺はわざとらしくため息をついてやった。それなのに、目の前の霞はにこにこと人懐っこそうな笑みを浮かべて、ボストンバックを両手で提げて立っているだけなのだ。
とある信州の冬の田舎だった。今にも雪がちらつきそうな深いねずみ色の雲が空を覆っていた。俺と霞が降り立ったのは、そんな重そうな雲と、裏手の禿山に今にも押しつぶされそうな、粗末な木造駅舎のある駅だった。
「久しぶりだね、存」
霞の言葉に、俺は自分の不機嫌ができるだけ直截に伝わるように願いながら、霞から目をそらした。
ちょうど、駅前の申し訳程度の広場に、遠くから白い乗用車が近づいてくるのが見えた。
彼女はいわゆる『怪盗』というやつだった。それも、こんな時代にご苦労な事だが、
一、誰も殺めない。
一、誰にも自分を追われない。
一、大胆に鮮やかに。
を信条にして、日々怪盗業に精を出しているのだ。
俺と霞は幼馴染だった。しかし、高校卒業後、彼女は「私、大泥棒になりたい」と言って、ふらりと姿を消してしまったのだ。
彼女の行方が分からなくなってから5年後、立て続けに貴重な美術品が窃盗され、その度に現場には、「怪盗ミスト」を名乗る犯行声明文が残されているのが見つかるのだ。その古風なやり口に、市民は喝采し、金持ちは恐怖した。
しかし、「怪盗霞」なんて名前だから、俺はすぐにそれが霞であることに気づいた。そんなロマンチストな泥棒になれるやつなんて、俺には霞以外に心当たりがない。
そして、俺は今回、仕事でお世話になった資産家の大泉氏の別荘へのお招きに預かっていたわけだが、同時に、絵画狂とも言われる大泉氏のコレクションの中、別荘に飾ってある一つを「怪盗ミスト」が狙っている、ということを、風の噂で聞いていたのだった。
大泉氏の屋敷は堅牢そうなレンガの二階建てだった。無駄な装飾はなく、さしずめ窓の大きな赤レンガ倉庫、とでも言えるような風格がある。建物が見えてきた途端に、隣の席の霞は「壁を登るのは無理だな…………」と小声で呟いていた。大泉にさえ聞こえなければいいと思っているようだ。確かに、無駄な装飾がない分、凹凸が少なく、しかもバルコニーというものがないから、彼女の仕事はやりづらいだろう。壁に嵌っている窓も外側には取っ手がなく、外からは開かないようになっている。
自動車を建物の横につけると、大泉氏は先に立って重そうな扉を開けてくれた。
「鍵は開けっ放しなんですね」
俺の言葉に、大泉は人の良さそうな笑みを浮かべて、
「まあ、こんな田舎の山に盗りに入るようなものなんてありませんから。中に人がいる時は特に、鍵は閉めていないのです」
と言ってから、少し声を小さくして、
「本当のところは、鍵が古くなって、一度閉めてしまうと開けるのに苦労するんですよ。ガタがきたんでしょうけど、面倒くさくて」
と言って、恥ずかしげに笑って見せた。
耳をつんざくような、かなり大きな音で扉は軋んだ。その不快な音に、自然と顔が歪むのがわかる。まるで開くのを拒むかのように鳴き続けた扉が開ききると、二人で会釈して彼の屋敷へとこそこそと入らせてもらう。
むわり、とした暖気にメガネを曇らされながらも、彼の屋敷の絢爛さは内側からでも良く解った。玄関の高い天井からは映画でしかお目にかかれないような照明が吊り下げられ、目の前には大きな絵画がむき出しで飾ってあった。(絵画の説明)。なるほど、霞がこの屋敷をターゲットにしたのも、解る様な気がした。
玄関を折れて左へ進むと、すぐに食堂へ行き当たった。一体この山奥にある屋敷で、この食堂がいっぱいになる事はあるのか、と首を傾げたくなるほどの広さの食堂に、整然と長机と椅子が並んでいるのだった。
と、その一角で何やら固まっていた男たちのうち、一人がこちらに気づいた様だ。片手を上げて、声を張り上げる。
「大泉さーん! どうですか、一局!」
「ありがとうございます、三岡さん。でも私は、八千穂さんと切幡さんをお部屋にご案内いたしますので、その後にでも」
「解りましたぁ! 次は絶対負けませんからね!」
三岡と呼ばれた男はそう言い放つと、また盤の上に乗り出す様にして、何やら次の手でも考え出した様だった。そんな三岡を見ながら、ほっほっ、と、まるで若者の元気さを眩しく思っているかの様に笑うと、「さ、ではこちらへ」と言って、また二人の前に立って歩き始めた。食堂の入り口脇にある幅広い階段をゆっくりと昇って、二階へと上がる。
「私、あの方たちと面識がないんですけど」霞は切り出した。「あの方たちはどなたなんでしょう?」
「私に話しかけていらっしゃったのが三岡さん、彼と盤を挟んで向かい合っていた方が広瀬さん、そばで勝負を見守っていらっしゃったのが、臼田さんと野辺山さんです」
「このお屋敷にいらっしゃるのは、その方たちと私たちだけですか?」
こいつ、どさくさに紛れてちゃっかり情報収集してやがる。しかし、俺は大泉氏主催のパーティーに呼ばれただけなのだ。無用な厄介ごとは背負わないに越したことはない。知らないふりをして会話を聞き流す。
「食堂の奥に厨房がありまして、そこで使用人の乙女という男が夕食の支度をしております」
「乙女さんなのに男の方なんですね」
「本当です。良くできた話ですけど、もっと面白い事に、本人はまあ、今風の言い方をすればイケメンなんですね」
「あら、面白い」
とんでもなくどうでも良い話だ、と思いながら階段を登りきる。二階の中央を廊下が突っ切り、両側にいくつもの部屋が並ぶ、という、単純な作りになっていた。ずんずんと進んでいき、適当な部屋の前で立ち止まる。大泉は振り返ると、プラスティックのタグがついた鍵を俺たちに渡した。
「こちらのお部屋にお泊り頂きます。トイレと洗面所はこちら、廊下の突き当たりにありますが、今日は断水のため、ポリタンクに汲み置きしたお水を使っていただく事になります。ご不便おかけして申し訳ありませんねえ」
そう言いつつ、大泉はトイレの扉を開けて見せた。満タンになったポリタンクが五つ、トイレの壁際に並んでいる。それでも窮屈な感じがしないあたり、さすがお金持ちの家である。
「いえいえ。断水なんて不測の事態でしょうし、大泉さんもお困りでしょう? そんなことおっしゃらないでくださいよ」
「そうおっしゃってもらえると気が楽になりますねえ。では、私は下へ降りてますので、お二人も気が向かれましたら、どうぞいらっしゃってください」
「ありがとうございます」
大泉は最後まで物腰柔らかにそう言うと、ゆっくりと二人に背を向けて歩き出した。
「じゃ、私こっちで」
霞はそう言うと、二本渡された鍵のうち一本をとって、あっという間に鍵を開けて部屋に入っていってしまう。鍵の外れる、かちゃり、という音でさえも、普通の人が開けるときの何倍も小さな音だった。
やっぱりそう言うところは怪盗なんだなあ、と思いながら、俺も霞の隣の部屋へと入った。入って、鍵をかけようと、無意識の内にドアノブを摘もうとしていた。なかなかドアノブの周りにあるはずのシリンダー錠のつまみを探し当てられない。
俺は振り返ってドアノブの近くをちゃんと見た。なるほど、内側からもこの鍵がないと閉まらないのか。俺は面倒くさく思いながら、かちゃりと部屋に鍵をかけた。
窓のカーテンを開ける。冬の陽は気が早く、もう山の稜線の向こう側へと消えてしまっていた。屋敷の周りには少し広場のような空間があるが、すぐ向こうにはすでに葉を落としてしまった、寂しい林が続いている。俺は上着を脱いでハンガーに掛け、荷物を置いて一息ついてから外へ出た。
早速階下から大きな笑い声が聞こえてくる。廊下にはあまり暖房の恩恵が届かないのだろう。肌寒さから逃げるようにして、階段を駆け下った。
食堂の前に立つと、さっきの三人に加えて、大泉と霞の声までも聞こえる。どうも自分だけ出遅れたらしい。窓のない、重厚な木製の扉を軋ませて、食堂へと入る。
「あ、切幡さん、いらっしゃい」
大泉の温厚な笑顔が出迎えてくれる。むわっとまるで形を持っているかのような熱気に体を包み込まれながら、彼らの輪に近づいていく。何やら話に熱が入っているようだ。
「だから、僕はもっと人間の悪意というものにスポットライトを当ててみたいんだ」
熱弁をふるっているのは、詩人である三岡だろう。若々しい見た目だが、今日のゲストの中では一番年上だったはずだ。熱い討論を邪魔しないように、静かに霞の隣に座る。
「おい、これ、なんの話し合いなんだ?」
こそり、と霞に尋ねてみると、霞はわざとらしく肩を竦めて見せた。
「私がこういうことに疎いことくらい、存が一番わかってるんじゃない?」
「そう言われればそうだな」
つまり、霞は自分にこういう話題が回ってこないように、うまく存在感を隠していたのだろう。あわよくば、そのままこの場から消えて、例の絵を盗むという寸法だろう。
その場には他にも、広瀬、臼田、野辺山といった面々が集まって、口角泡を飛ばすような議論を繰り広げていた。芸術家でもなく、別に芸術に明るいわけでもない俺は、何をするわけでもなく、霞の隣で置物のように座っていた。
と、厨房の方から一人の男が、食堂の奥の厨房で手を吹いているのが見えた。少しかがんで大きなお盆を持ち、こちらへと歩き出す。
お盆をテーブルにおくと、彼はお盆から皿やコップとビール瓶を数本、テーブルへ移した。
彼が大泉の言っていた乙女という男だろう。
「夕食は間もなく出来上がりますけど、しばらくこちらをお召し上がりになってお待ち下さい」
慇懃に礼をして厨房へ戻っていく。必要以上の仕事はしないタイプのようだ。
「お、おつまみがありますよ」
テーブルにおかれた皿を覗き込んで、野辺山が歓喜の野太い声を上げた。ひげもじゃ、と呼んで差し支えない風貌の男だ。酒にも強そうに見える。
「じゃ、とりあえずは酒盛りと行きましょうか」
広瀬が明るい声で一座に呼びかける。彼は芸術家という言葉に臭う「一般人と違う」ような空気を一切持ち合わせていなかった。暗くもなく、強い印象を与える何かもない。だからこそ、こういう時に音頭を取れるのだろう。
「いいですな」
一座で一番若い臼田も広瀬に同調する。大泉はそういう若者たちのやりとりをニコニコと見ているし、霞は相変わらず空気と同化しているかのように、自然にお盆をテーブルの真ん中に移して自分もコップを取った。俺も彼ら芸術家の空気には乗れないが、ビールに罪はない。コップを一つ取る。
大泉が乾杯の音頭を取り、一座はまたガヤガヤと騒がしくなった。あっちこっちに会話が飛び、もともと効き過ぎなくらい効いていた暖房に酒の勢いも加わって、一人残らず顔が赤くなった。頭がのぼせてくるような感覚を覚えて、俺は途中から乙女に水ばかりもらっていた。その度に乙女は、ご丁寧にも厨房のタオルで手を吹いてから、氷水をくれるのだった。
やがて、つまみも尽きて、話だけが行き交うようになると、食堂にいた誰もが頭がのぼせてきたことに気づいたのだろう。立て続けに乙女に水をもらいに行くようになった。そうなれば、話だって途切れがちになる。
「ふぅ、暑いですね」
広瀬はそういうと、来ていたシャツの襟元を緩めて、ハタハタと仰ぎ始めた。それでもあまり涼しくならないと気づいたのか、いかにも難儀そうに立ち上がると、
「では、私は少し夕飯まで、上で休んできます」
と言って、食堂を後にした。
「僕もそうしよう」
三岡、臼田、野辺山もそれに続く。やがて、食堂には俺、大泉、霞の三人だけが残されて、急に静かになった。
「ところで」
珍しく霞が話を切り出した。
「大泉さん、お噂はかねがね伺っているのですけど、絵画がお好きなんですね」
大泉は照れ臭そうに頭を書いた。
「ははは、好きと言っても自分で書けるわけではありませんし、取り立てて見る目があるわけでもありません。けれど、画家が情熱をぶつけたキャンバスを、静かに眺めるという行為が、なんというか、まあ、愛しておるのですよ」
「そうですか」
俺はだんまりを決め込んだ。霞はまた、お得意の「それとなく聞き出す」を始めたのだ。後でゴタゴタが起きるのは目に見えている。その時に自分が疑われないように、できるだけ無関心を装っておこう。
大泉は少しお酒が入って上機嫌になったようだった。
「でもねえ、やっぱり私が一番好きなのは、あれですかねえ」
「あれ、ですか」
霞の目が輝いた。お、お目当の絵の話になるのだろうか。
「そうです。私の部屋に飾ってある絵なんです。静物画なんですけど、荒々しいタッチや動きのある構図で、いかにも描かれているものが生きているように見えるのです」
「それは静物画としては珍しいですね」
「そうでしょう? でも、だからこそ、キャンバスの向こう側に画家自身が見えるような、そんな気がして、私は好きなんです」
「その絵を」霞の声は少し澄んでいた、ような気がした。「拝見することはできますか?」
一歩踏み込んだな、と俺は思った。絵を見るのではないだろう。絵の周りの状況を観察して、どうやったら安全に盗み出せるのか、その方法を考えるのだろう。
しかし、上機嫌の大泉はそんな事とはつゆ知らず、はっはっはと笑いながら、
「いいでしょう。良い絵だからこそ、私だけで独占しておくのはもったいない。下世話な話ですが、それなりに高い絵ですし。絵が好きな人なら、あの絵はきっと気にいるでしょう」
がたり、と大泉は椅子から立ち上がり、霞も立ち上がった。大泉は俺の方を振り返る。
「せっかくだから、どうでしょう? あなたもご覧になりませんか?」
「良いんですか?」
「良いですとも」
俺も立ち上がった。
三人で二階に上がる。大泉の部屋は俺の部屋の真向かいだった。厨房の真上の部屋なのだろう。
大泉は鍵をポケットから取り出すこともせず、ガチャリと扉を開けた。嫌な音で軋むこともなく、扉は開いた。
部屋は広かった。いや、広く見えただけなのだろう。大金持ちの別荘の部屋、というのだから、無意識のうちに、何に使うのかよくわからないような無駄な家具がいっぱいの部屋を想像していたのかもしれない。
大泉の部屋には本がぎっしり詰まった本棚が数架と、ソファとローテーブル、そしてベッドがあるくらいだった。俺にあてがわれた客室とそう大きさも変わらない。
そして、視線を右に移せば、暖色系の壁にかかった額縁が見えた。そう大きくもなく、かといって小さいわけでもない。絵に明るくない俺としては、そう印象的にも見えなかった。おそらく、霞も同じだろうと思う。
それでも、大泉は俺たちを部屋の中に招き入れ、ひとしきり絵について説明をした後には、おそらく何度となく眺めてきたであろうその絵に、見入ってしまった。
俺たちはつまり、置いてけぼりを食らった形になったわけだ。
仕方なく、俺は絵を眺め、飽きたら鍵のしまった窓から外を眺める、ということを繰り返していた。俺がここに着いた時にはただねずみ色をしているだけだった空からは、いつの間にか雪が降り出していた。外は真っ暗になっていて、落ちてきた大粒の雪が部屋の明かりを受けて、白く光っていた。窓の外に見えるのはそれだけで、向こうにあるはずの林の中は、ただの黒一色の闇だった。
「おっと、夢中になってしまいました」
大泉がそう言って決まり悪そうに俺たちに向き直ったのは、たっぷり10分も経ったときのことだった。
「じゃ、また、食堂に戻りますか」
「そうですね」
俺と霞は大きく頷いた。退屈にもほどがある。
大泉を先頭にして、俺と霞も部屋を出た。と、大泉がそのまま部屋を立ち去ろうとするのを、霞は止めた。
「すみません」
「なんだい?」
「お部屋の鍵は閉めないんですか?」
大泉はまた決まり悪そうに笑った。
「まあ、閉めなくても大丈夫だろう、と思ってね」
霞はわざとらしく驚いた表情を浮かべてみせると、これまたわざとらしく、勢い込んで大泉に語りかけた。
「いけません。あんなに素晴らしい絵ですもの。日頃から戸締りの癖をつけておかないと、いざという時に泣いたって、絵は帰っては来ませんよ」
一応言っておくが、こいつは泥棒である。なのに、他ならぬターゲットに「不用心はいけない。鍵をかけておけ」なんて事を言うのだ。変だろう。
いや、変ではない。あくまでこいつのモットーは「鮮やかに」盗むことなのだ。密室から絵が消えたなんて、実にこいつ好みの仕事である。
大泉はそんな霞の思惑にかけらも気づかず、頭を書いた。
「ああ…………、まあ、確かにそうですね。いやはや、年寄りになると無用心でいけませんな」
大泉はそう言うと、かちゃり、と扉に鍵をかけた。これで密室が完成したわけだ。
と、今度は後ろ側で扉の開く音が二つした。
「おや、皆さんお揃いで」
振り返ると、三岡と野辺山だった。
「あ、切幡さん、あの絵をご覧になったんですか?」
野辺山は豊かな髭を撫でながらそう言った。俺は作り笑いをして答える。
「ええ。素晴らしい静物画でした」
本当のところは、俺に絵の良し悪しはわからない。
「そうでしょうそうでしょう」
満足げに野辺山は言った。俺は曖昧に頷いておく。
五人で階段を降り、食堂へと戻る。どうやら三岡と野辺山は、二人とも喉が乾いていたので、食堂へと向かうところだったらしい。
木製の窓のない扉を開けて食堂に入ると、ちょうど乙女が手を拭きながら厨房から出てくるところだった。
「ちょっと二階の物置に、缶詰を取りに言ってきます」
乙女の言葉に、大泉はうむ、と頷いて答えた。
俺と霞は適当な椅子に着いた。遅れて大泉もどっこいしょ、と座り、三岡と野辺山は厨房へ向かった。
厨房から、声が漏れ聞こえてくる。
「ありゃ、蛇口から水が出てこない」
「そりゃ、今は断水中なんだし、当たり前だろ」
「あ、そうか」
そして、厨房から三岡の張り上げた声が聞こえてくる。
「大泉さん! このポリタンクの水、飲んでも構いませんか?」
「ああ、大丈夫だよ」
「ありがとうございます!」
三岡の返事に続いて、野辺山の「断水中なのに、すみません」という声がし、とぽぽぽ、と水がコップに注がれる音がした。
コップを持った二人が戻ってくると、大泉は笑顔で二人を迎えた。
「ここは標高が少し高いですし、酔いがまわるのが早かったんじゃないですか?」
「いやあ、高いって言ったって1000m弱でしょう? 誤差みたいなもんです」
野辺山そう言うと、分厚い手の中の、小さく見えるコップから水を煽った。一滴残らず飲み干そうと、ぐい、と上を向いて、それでも足りないのか、また厨房へと入っていった。やがて、さっきの「とぽぽぽぽ」が聞こえてくる。
コップを持って野辺山が戻ってきた。彼はまたその場で一気に水を煽ると、また椅子についた。
一座は再び俺のわからない話で盛り上がっていた。
「こんな時はルバイヤートの一節を歌うのも良さそうですね」
三岡の言葉に、野辺山は頷き、そして意地悪そうな表情をして見せた。
「でも、ペルシアに雪は降らないでしょう?」
「だからこそ、です。雪の降る大地でも、乾燥した大地でも通じる、普遍的な真理、悩み、美しさを、あの詩たちは持っていると、私は思うのです。ペルシアの詩を雪の降る日本で歌うのも、また乙なものではないですか?」
「全くです」
大泉も満面の笑みで会話に加わる。
「でも、ルバイヤートが歌い上げていることに賛同しない人も、少なからずいるのではないですか?」
自分からこの二人の男に議論をふっかけていった。おそらく、大泉の声色を聞く限り、彼の言葉が本心なのかそうでないのか、よくわからなかった。そもそも、俺には何が話の題材になっているかがわからない。ただ、議論することを心の底から楽しんでいるような、そんな表情だった。
「私は酔いが覚めたので、少し上で休んできます」
野辺山はそう言って食堂から出て行ったが、三岡と大泉の会話は途切れなかった。
俺はそのまま、空気となってその場に固まっていた。この話に加わったところで、俺は少しもついていけないだろう。ついていけないものが無理やり会話に加わって、場の空気を打ち毀すよりかは、こうやって静かにしている方がいい。
隣の霞も同じように、存在感をほとんど完全に消していた。俺はそんな同類である霞に話しかけた。
「あの人たち、何の話してるんだ?」
「知らない。私に聞かないで」
そっけない。まあ、餅は餅屋。芸術の議論は芸術家が交わしていておくれ。
と、閉じられた食堂の扉の向こうから、玄関の扉が軋む音がした。案外ここから聞いても大きな音だ。扉はゆっくり開き、そして閉じたようだった。大泉と三岡は、まだ議論の世界から生還していない。
俺はポケットからスマホを出し、SNSでも確認しようとした。が、画面の左上に「圏外」と表示され、俺は溜息をついた。さすがは山奥、大泉の言っていた通り、こんな田舎に物盗りが入ることもないんだろう。
隣に座っている、こいつを除いては。
不意に、とんとん、と肩を叩かれた。振り向くと、そこには霞のうつむいた顔があった。霞は俺の方を向いて、小さくお辞儀をした。
「久しぶりに会ったのに、素っ気なくしてごめんなさい」
「いや、良いって。…………、お前がそういう風に素直になると、俺もちょっと怖い」
「そんなこと言わなくても良いじゃん」
「でも、本当のことだし」
勝気な人間がしおらしくなると、やっぱり心配を通り越して怖くなる。
それから、俺と霞は長く合わなかった間のことを話した。俺はこの国であんまり冒険をせずに生きてきたことを、ダラダラと話した。霞は海の向こう側での大捕物に巻き込まれたことを、静かに、それでも熱を込めて語った。
やっぱり、いつでも霞は俺の羨望の的なのだ。俺はそれを口にしたことがない。
なぜかって? そんなの、格好悪すぎるじゃないか。
十五分も経っただろうか、俺がしみじみと過去を思い出したりしていると、食堂の扉が開かれた。三人の男がぞろぞろと食堂に入ってきた。広瀬、臼田、野辺山だ。
「おやおや、皆さんお揃いですね。我々も喉が渇いて、揃って二階から降りてきてしまいました」
広瀬はわざわざそういうと、厨房の奥を覗き込んだ。
「あれ、乙女さんはどこへ?」
「さっき扉が開く音がしましたし、外の物置に何か取りに行ったようですよ。少し探し物に手こずってるみたいですね。」
三岡が丁寧に答える。なんだ、あの音を聞いていたのか。臼田は三岡の言葉を聞くと、へえ、と言った後、厨房に向かった。冷蔵庫を開ける音がする。
「大泉さん、もう一杯飲みませんか?」
臼田が厨房から顔を出した。手にはビール瓶が握られている。
「良いですね。飲みましょう」
結局、間をおかず二度目の酒盛りが始まった。
「臼田さん、ほんと、お酒好きですね。ほどほどにしないと、またあんなことになりますよ」
野辺山がいうと、臼田は恥ずかしげに頭を掻いた。
「あんなこと、というのは?」
ちびちびとまるでお酒みたいにコップの水を飲む三岡は、俺の問いに笑いながら答えた。
「昔、このメンバーで集まった時、大泉さんの部屋で酒盛りしたんですよ。で、あまりにも深酒をし過ぎたものだから、酔っ払った臼田さんが『俺は空を飛ぶんだ』って言って、二階から飛び降りちゃったんです」
「え…………、大丈夫だったんですか?」
「はい。案外人間の体は丈夫なもので、ちゃんと両足で着地したから、怪我一つしてませんでした。私たちはみんな胸をなでおろしたものです」
「あれは確かに焦ったなあ」
懐かしい目をしながら野辺山はそういうと、水を飲むようにビールを呷った。
「しかし、遅いですねえ、乙女さん」
三岡の言葉に大泉も頷いた。
「ああ、物置の管理は彼に任せているし、普通の探し物でこんなに時間がかかることなんてないはずなんだがなあ」
確かにそうだ。彼は二階の物置に缶詰を探しに行くと言っていた。ものがどこにあるのか大まかにわかっていたんだから、探し物にそんなに時間がかかるはずはない。
「もしかしたらどこかで倒れているのかもしれない」
野辺山の口調はのんびりしたものだったが、それを聞いて、大泉の顔色はさっと変わった。
「少し、二階を見てこよう」
青ざめた顔を見て、俺はただ事ではないと思った。周りの人間もそうだったのだろう。
「僕も行きます」
広瀬がそう言ったのを皮切りに、結局、その場の全員が二階を見に行くことになった。
二階は静かだった。すべての扉が閉まっていて、窓の外に吹き荒れる風の音もしないようだった。雪の舞い散り方を見ている限り、かなり強く風が吹いているようである。
大泉氏を先頭に廊下を進んでいく。まずは一番奥の物置のドアに手をかけた。何度かドアノブを回して、大泉は訝しげな声を出す。
「鍵がかかっている」
短くそういうと、大泉はポケットから鍵を取り出した。俺に渡された鍵についているタグと同じタグに、鍵が二本ついている。
「それ、マスターキーですか?」
俺の問いに、大泉は言葉少なに答えてくれた。二階のすべての部屋ーー俺、霞、三岡、広瀬、野辺山の客室と、大泉の居室、乙女の居室、物置、そしてトイレのことだーーと、厨房の扉、すべてに使えるマスターキーのようだった。
「乙女さんはマスターキーを持っているんですか?」
扉が開く。暗い部屋の中を手探りで電気のスイッチを探しながら、大泉はまた答えてくれた。
「乙女が持っているのはマスターキーじゃなくて、すべての部屋の鍵をひとまとめにして、金属の輪っかに束ねていたんだ」
つまり、キーリングってやつか。確かにそうやってすべての部屋の合鍵を持ち歩いていれば、マスターキーを持ち歩く必要もないかもしれない。
ややあって、物置は明るくなった。電気がついたのだ。古色蒼然とした棚が林のように立ち並んでいて、何やらカビのような匂いもする。俺たちはバラバラになって棚と棚の間を念入りに見て回ったが、結局はスカだった。
「ここにはいないな」
臼田のつぶやきで、誰もがその部屋の捜索を諦めた。
次に、トイレを開ける。もちろん、誰が入っているわけもなく、ただ誰も座っていない便座が顔を出しただけだった。ポリタンクの数が減っている様子もなく、ただ、さっき見た時と変わらないトイレがあるだけだった。
大泉は目に見えて落胆していた。そのまま、突き当たりのすぐ右にある部屋の扉の鍵穴に鍵をさした。差してしまってから、大泉は広瀬に詫びた。
「すまない。乙女を探しているのだ。ここにいるとは思わないが、勝手に部屋に入る無礼を許してくれ」
「そんなそんな。僕も乙女さんのことが心配ですし、謝らないでください」
「ありがとう」
大泉は鍵を回して開け、扉を押した。手探りに電気をつける。
中は几帳面に荷物が広げられており、よく整理整頓されていた。机の上には何やらメモパッドが見える。あれは、俺の部屋に置いてあったのと同じものだろう。もちろん、大泉はいない。
「広瀬さん、ありがとう。次は臼田さんの部屋だね」
大泉はさらに右隣の臼田の部屋の扉に鍵を近づけた。と、臼田は大泉に声をかけた。
「大泉さん、俺、鍵かけないで降りてきたから、扉は開くよ」
「そうか」
大泉の言葉はどんどん短くなっていた。扉を開け電気をつけると、やはり整理整頓された荷物と、テーブルの上に広げられたPCが見えた。そういえば、臼田は作家だった。PCの傍にはやっぱり俺の部屋にあったのと同じメモパッドが置かれていて、何やら細々と書き込みがあった。
大泉はいない。
「切幡さん、申し訳ないけど、開けさせてもらうよ」
「どうぞ」
俺の部屋の扉の鍵を開け、大泉は部屋に入った。やはり決まり切った動きで電気をつける。
おや、と思う。部屋の明かりをつける前に見た窓の外は、先ほどまで見てきた部屋から見た窓の外より、少し明るい気がした。少し考えて、なるほど、と思う。丁度この下から食堂なのだ。厨房の電気は誰かが立ち入って出てくるたびに消していた。もちろん、乙女はいない。
俺たちは足早に部屋を出て、さらに右の部屋を見た。
「八千穂さん、ごめんね」
「いえいえ、どうぞ」
霞の部屋も同じだった。やっぱり乙女はいない。彼女も広瀬や臼田と一緒にメモパッドを使っているが、ちらりとその内容が目に入ってドキッとする。
絵を盗み出す手順を考えた跡が見られた。堂々と密室破りを考えた痕跡がある。全身から嫌な汗が吹き出たが、霞は平気な顔をしていた。
乙女はいなかった。それだけが大泉の関心ごとだった。
大泉は部屋を出て、俺たちもそれに続く。右隣の部屋のノブに鍵を鍵穴に挿し、鍵を開けた。
「入りますね、野辺山さん」
大泉の声にだんだん焦りが入ってきた。急いで扉を押し開ける。
少しごちゃっとした部屋の中に、スケッチブックだったり汚れた画材だったりが散らばっている。
そして何より、絵の具が漏れていた。床が変な色に染まっている。
「あーあーあ」
野辺山が駆け寄って絵の具のキャップを閉めるが、時すでに遅しだった。蓋が開いていたチューブを踏むなりなんなりしたらしい。
「何やってるんですか、野辺山さん」
呆れたように三岡が言うと、野辺山は大きな体を丸めて「済まない。酔っていて」と言った。
けれど、乙女はいなかった。
大泉はそのまま隣の部屋の前へ映った。さっきからずっと、男たちは全員、大泉に金魚の糞みたいにひっついて動いてばっかりだ。
「三岡くん、入らせてもらうね」
「どうぞ、大泉さん。鍵、開いてますけど」
大泉はまた扉を押し開けた。
やはり几帳面に整理整頓された部屋が現れた。詩人という職業柄だろうか、荷物は他の部屋より心持ち少なかった。
広瀬の部屋から三岡の部屋まで、廊下の片側にずっと並んでいた。が、三岡の部屋の右側は階段である。廊下を横断して、向かい側の部屋に行く。そこは乙女の居室だった。彼が住み込みで働くための部屋だ。
大泉はノックをしたのち、鍵を開けると、扉を押し開けた。
洋室の中にベッドが一つと、勉強机のような机と椅子が一脚ずつ。本棚があるだけの質素な部屋だった。主がいるはずの部屋だが、今はがらんとしている。
大泉の顔には焦りの色が濃くなってきていた。二階でまだ見ていないのは、乙女の居室の右隣、大泉の居室だけだ。
大泉の手が震えているのがわかった。鍵がうまく鍵穴に入らない。それでも、大泉は鍵を持つ右手に左手を添えて、無理やり鍵穴に突っ込んだ。
かちゃり、と鍵の外れる音がして、扉が開く。閉じられた扉の向こうに舞う雪が、不吉な空気を作り出している。
暗い部屋に明かりが灯る。
目を疑う光景が広がっていた。
さっき俺たちの見ていた絵は、無残にも破壊されていた。キャンバスがバラバラに砕かれ、絵は破られている。額縁はもともと絵があった場所の下に、無造作に落ちていた。
「ああ、私の絵が!」
大泉の叫び声が聞こえる。彼は絵のそばに駆け寄り、膝をつき、バラバラになったキャンバスをかき集めた。当たり前だが、絵は元に戻らない。大泉はがっくりと力を失ったようにそれらをとり落とし、視線を落とした。
と、彼の傍に小さな紙切れが落ちていた。彼は虚ろな目でそれを見つけると、拾い上げ、二度目の絶叫を上げた。
「な、な、なんだ、これは!」
俺たちは一斉に駆け寄って、その紙片を覗き込む。水に濡れた紙が乾いたみたいにくしゃくしゃになった紙に、走り書きの乱暴な字で、こう書いてあった。
あなたのだいじなえをこわしてしまいました。
わたしのいのちでつぐなおうとおもいます。
ごめんなさい。そして、おせわになりました。
乙女
全体的にインクが滲んでいるが、確かにこう書いてあった。
「こ、これは…………、乙女の手帳を、破った、ものだ……。違いない…………」
切れ切れに大泉が話す。確かに、俺たちの客室にあったメモパッドの紙には、こんな罫線は入っていなかった。
「遺書だ!」
広瀬が叫ぶ。
「探せ! まだ間に合うかもしれん!」
野辺山が叫び、俺たちは団子になって大泉の部屋から飛び出した。大泉もない力を振り絞って、俺たちについてくる。
玄関に下り、靴を履くのももどかしく、大きな音で扉を軋ませて、外へと飛び出した。
「待ってくれ! 外を探すなら、これが要る!」
後ろからやってきた大泉が、懐中電灯を野辺山に手渡した。野辺山は懐中電灯のスイッチを入れ、闇を照らす。
途端に冷たい風が俺たちを襲うが、構っていられない。もしかしたら間に合って、乙女を止められるかもしれない、という気持ちが、俺たちを焦らせていた。
しかし、だめだった。
「あ! 何かあるぞ!」
三岡が叫んだ。
乙女を除く七人で固まって屋敷を回り込んだところで、雑木林の奥、懐中電灯の光を受ける何かの塊があったのだ。
「行ってみよう」
野辺山が先頭に立ち、その「何か」の元まで近寄ってみる。風は強さを増し、吹雪に乗って枯れた枝なども飛んでいた。
いつの間にか雪は深く積もっていた。短時間でかなりの量が降ったのだろう。あたり一面、新雪のような雪が地面を覆い隠していた。
近づくにつれ、俺たちの心臓は高鳴った。期待にではない。恐怖にだ。しかし、恐怖はやがて、はっきりと形を持った現実感に、徐々に変化してきていた。
「だめだ。手遅れだった」
野辺山がそう言い、懐中電灯で「何か」を照らす。
乙女だった。
よくあるホースで首を括っており、ちょうど木から首を吊っている形になっていた。出血もなく、確かに首を吊って自殺した形になっている。
「とりあえず、降ろしてあげてくれないか」
大泉の声がした。落ち着いているように聞こえたが、そうではない、と俺は思った。感情がなくなっている。
彼の可愛がっていた使用人が、こんな姿で見つかったのだ。どの感情を爆発させることもできず、おぞましい無感情が外へと現れていたのだ。
男三人がかりで乙女を新しい雪の上へ下ろした。横たえた乙女に向かって、全員で手を合わせる。
「持ち物を見せてくれませんか?」
不意に声を上げたのは、霞だった。皆、怪訝な顔で霞を見た。
「なぜだ?」
臼田が不思議そうな顔をして霞に問い返す。しかし、霞は平然と返事をした。
「今のままでは、乙女さんが自殺なさったのか、それとも誰かに殺されたのか、分からないからです。持ち物を見れば解るとは申し上げませんが、手がかりが多ければ多いほど良いことに、変わりはありません」
「何?」今度は野辺山が叫んだ。「乙女さんは殺されたのか?」
「かも知れない、と申し上げているだけです」
霞がそう言うと、地面に崩れ落ちていた大泉が、乙女のきていた服のポケットを漁り始めた。
「彼がどうやって亡くなったのか、その真実を明かしてくれるのですね」
「はい、お約束します」
強く霞は言い切った。大泉氏はその言葉を聞くと、大きな息を吐いた。
「これは両方共、乙女くんが肌身離さず身に着けていたものだ。誰に言われても、決して手放すことはなかった」
大泉のその言葉とともにポケットから出てきたのは、キーリングと手帳だけだった。キーリングには確かに同じような鍵が、マスターキーで開けられる部屋の数と同じく九つぶら下がっていて、それぞれの鍵には部屋の名前を記したシールが貼ってあった。
霞は出てきた手帳をペラペラとめくり、やがて、無造作に破られた後の残るページを見つけて見せた。
「ここ、さっき見つけた乙女さんの遺書の切り口と、一致しますね」
そして、手帳に挟んであるペンで、適当なページにぐるぐると線を書くと、
「インクの色も、あの遺書と一致するようです」
といった。
「ああ」
広瀬が力なく頷く。やはり彼も精神的なダメージを受けているようだった。
しばらく、と言っても、ほんの十五秒ほどの間、霞は顎に手を当て、目を瞑り、考え事をしていた。そして、目を開けると、柔らかな雪の上に横たえられた乙女の遺体に目を落としながら、静かに宣言した。
「解りました。誰が乙女さんを殺したのか」
一瞬、風がやんで、雪の降る世界から音が消えた。