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(1)昼の紅茶と夜の月

半日たって目を覚ましたわたしはその日の午後から、自室と思われる部屋から臨む白く広いテラスで簡単な軽食とお茶を貰っていた。

すこし年のいった女性は「このビバリーになにかお望みのことはございませんか」と言っていたので、名前が「ビバリー」と判明した。

前に意識を取り戻したのが昨日のことだというので、三日間何も飲まず食わずだったらしいわたしは消化に良いものを少しずつ食べるようにと、

ビバリーが呼んで来た藍色の服の男性に言われたとおりにサンドウィッチと暖かい紅茶を胃に入れていった。

紅茶は渋みがなく、口に含んだ瞬間に香った。


「あら、メラニー様。今日はミルクも砂糖も入れないのですね。珍しい」


どきりとした。

カップを持つ手が一瞬震えた。

ビバリーにも他の誰にも、記憶がないことを言っていない。

なんとなく言ってしまうのが憚られた。


その理由と言えば、わたしは以前のわたしのことが分からないのだが、

どうしてか、周囲の人々の対応から見て妥当であるはずの【メラニー=わたし】という構図にはっきりとしない違和を覚えていたことにある。


今もまた――わたしは動揺を押し隠して固い声で応えた。


「そう、かしら」


ええと肯定の笑みを浮かべたビバリーは、緊張するわたしとは対照的に、笑みを明るくして云った。


「女は子を宿すと味覚が変わると言いますからね。

 私もエドナを最初に産んだ時は大嫌いだったチーズが急に食べたくなったりしたものです。

 夫のトーマスに頼んで買ってきてもらいましたわ。懐かしいものです。

 今では一番の大好物ですわ」

「いい、思い出ね」


わたしはビバリーの言葉遣いや「メラニー『様』」という呼称から物言いをこのようにした。

年上であるからと丁寧語を使うとびっくりされて、ベッドにとんぼ返りするかと思ったのはつい先ほどのことだった。

ビバリーの愉しげな思い出話を聞いて、鬱々と自分のことについて悩んでいた心がすこし軽くなった。

すこし引っ掛かりを感じたが、しみじみとしながら言うと、どうしてかビバリーは声を湿らせながらわたしに言った。


「大丈夫ですよ。メラニー様。

 陛下がメラニー様をお捨てになられるなどお思いになってはなりません。

 今こうしてメラニー様に御子を下さったではないですか。心配などないのですわ」

「こ……?」


わたしは目を瞬いて繰り返した。


「ええ。そうですわ。

 メラニー様のおなかに宿られる御子が国を支える王族となられるのです。

 他のたくさんの妃の方々の誰よりも早くご懐妊為されたのは、陛下のメラニー様への愛あってのことですわ」


ひゅうと喉で空気がなって、肌の泡立ちは退いていった。


一気に景色は色褪せ、灰色になる。


そして――わたしは誰よりも冷静になる。


覚えの無い感覚なのに、酷く身体に馴染んでいた。


色褪せた世界に、際立つものは――ここにはない。

灰色に荒んだ世界に、わたしも認められない自分の体にさえ異様なものを宿しているのかと、腹を暴いてやりたい瞬間的な衝動に駆られる。


気分が悪かった。


焦燥と不安と混乱は理性によって押さえこまれ、わたしの冷静な部分はいくつかの恐ろしい疑問を”わたし”に直視させた。


知らない間に自分は誰の子を宿しているのか。

今もまだふくらみの無いこの腹の中に蠢く生き物がいるのか。

そして、そもそもの疑問。


『わたしは誰なの』


小声の言葉は風にかき消された。

周囲から色が失われる。

さながら風景画を見ているかのように、今いる現実が遠くに感じる。


色褪せたビバリーがポットを持って微笑んでいた。





メラニー


メラニーとは本当にわたしのことなのだろうか。


あのテラスの軽食以来数日が経ったが、『今までの』メラニーと異なったところが多い。


――例えば、”メラニー”は深夜過ぎても起きていて昼過ぎまで寝ていたらしいが、わたしは夜早めに寝て朝の日が昇る頃には起きる。


――例えば、絹のドレスより綿のドレスを好んだ。

つるつるとした肌触りは慣れない気がして少し毛が立ったような柔らかな木綿を好んだ。


――例えば、普通に令嬢がするように昼間にお茶をしていても何もすることがないと暇を持て余しているし、食事の量はいくら食べても足りない気がする。


この相違のすべてに対しても、”メラニー”の周りの者たちは懐妊していることによる好みの変化、性格の変化だとしてまったく疑問を抱かないようだ。

全ての者がそうだとは限らないが、違和感を覚えたような顔をした次の瞬間には納得顔で済ませる侍女やビバリーを見るにつけ、言うに言えない感情がある。


何時も飲み込んで曖昧に微笑む。


でも、きっとこれは”メラニー”の仕草ではないと思う。

顔の筋肉が強張るからだ。



今日もまた、ひとり豪奢な寝台に腰掛けて、見るも見事な大きな満月を窓から眺める。

大きな窓からでさえ、おさまりきらないほどの巨大な月は、いつみても壮麗だ。


けれどもここにいる誰もが、この美しさに見向きもしない。


『月が綺麗だね』


誰にともなくそう言ってみる。

応える声はなく、わたしは降ろしていた両足を寝台の上に引き上げて折りたたみ、腕に抱え込んだ。


大きな月は、窓からわたしを覗き込んでくるように見えた。


自分はひとりではない、とそう思いたいからだろうか。

月に向かって話しかけそうになるのを抑えて、今の自分を俯瞰的に考えてみる。

すこし――いや、だいぶん危ない人間ではないか。


わたしは笑おうとして、それでもうまくわらえず、口許は勝手に歪んだ。


今度は、自分に対して少し皮肉気に、悲しみに酔える人間はお気楽な証拠だと言い聞かせてみる。

そうすると、すこしだけ肩から力が抜けた。


ああまだ大丈夫だ。


わたしは寝台に横たわって、楽しい夢が見られるようにと思いながら目を閉じた。


けれども、毎晩のことながら、見る夢はいつも同じだった。

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