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(序)

薄茶の髪を揺らして、一人の女性が花を咲かせた木の下に立っていた。女性の頭上に提がる薄紫の花房は風に吹かれていくつか花弁を散らした。


女性の背に手を伸ばしたとき、緩やかだった風が一瞬にして強風になり視界を舞い落ちた花弁の渦で目も開けていられなくなる。薄目で吹き荒れる風の先を見ていると、薄い紫の残像が残る風景の奥で、振り返る女性の顔が垣間見えた。


それを見た者は驚いて目を見開いた。緩やかになった風に薄紫の花弁が漂うなかで、その女性の口許は優しく綻んでいた。






こういう話を聞いたことがあるだろうか。


あるとき気付いたら、知らない場所に自分がいて、周りには自分の知らない人たちがいる。

知らない人たちは自分を知っているかのように振る舞うが、自分はその人たちを知らない。

例えば、何らかの理由で自分は倒れ、傍にいた誰かによって救急車が呼ばれ病院に運ばれて意識が戻った時に自分がいたのは見知らぬ白い病室、という場合がいえるだろう。


では、こういう話はどうだろう。


あるとき気付いたら、自分は知らないところにいて、周りには見知らぬ人がおり、見知らぬ人は自分を知っているかのように振る舞うが、自分はその者を知らないどころか、自分のことさえまったく分からない、というとき。


わたしは自分や周りの一切のことを思いだせないのに、ふと湧き出てくるような思念にこう思ったのだ。



「ああ、そういうのは記憶喪失だ」と。



段々と澄まされる耳に人の話し声が聞こえてくる。

声は徐々に大きく鮮明に聞こえるようになり、騒がしいそれにわたしは目を開けた。

すこし年のいった女性がまだ若い藍色の服の男性に食って掛かっていた。

しかしそこは言語を喋っているのかと思ってしまうほど促音が激しい。

濁音が多くボソボソとして耳障りな。

顔を歪めながらも、何を言っているのだろうと思っていると、急に女性の言葉が分かりだした。


「メラニー様のご容体はどうなのです!? 倒れなさってからもう二日も目を覚ましておらぬではないですか! いまメラニー様は大事な時なのですよ。これで目を覚まさなければ、御腹の子は……」


女性が途中でわたしに目を向けてきてはっとしたように口を手で覆った。

見る見るうちに目に涙を溜めた女性はがばりとわたしに覆いかぶさってきた。


女性の肩口から見える天井に、わたしが横になっている状態なのを知った。

天井はもちろん、女性にも見覚えがない。


めらにー、メラニー。

”メラニー”とはわたしの名前なのだろうか。

聞き覚えのない、なじみのない音の羅列だ。

けれど理解することができる。


――吐き気。

そう、吐き気がする。

天井を見ていると、若い藍色の服の男性の顔が視界に入った。


「お加減はどうですか」


知らない人だ。

女性の様子からして医者だろうか。

それにしては若い気がする。


いや、最近では若い医者もいるだろう……と、ここまで考えて首をかしげた。

どうしてわたしはそんなことを知っているのだろうと。


自分に関することは何も覚えていないのに。


「メラニー側妃。聞こえておられますか」


眉をひそめていう男性に、ああ返事をしなければとわたしは口を開き、「聞こえています」と言おうとして、違う音が喉から出たことに驚いて小さく息を乱した。

ほんの小さな喘ぎだったのだが若い男性は、聞き逃さなかったのか、先ほど浮かべた険を取り払った顔でわたしの顔の両端に手を差し入れて顎を上向き気味にして放した。


「聞こえておられますか」

「……はい」


小さく答えると、それは自分の喉から出たのにやはり知らない音で、その違和感を意識しだすと唐突に乗り物酔いのような不快な気分に襲われ耐えきれず目を閉じた。

胸の上で泣く女性にどうしてか知らないはずなのに安堵を覚えて、深い疲労と共にもう一度暗闇の中に意識を沈ませた。




次に目に光を入れたのは、聴覚を刺激する音が聞こえたときだ。

鳥の鳴き声が聞こえて目を開けると、一度だけ記憶にある天井があった。

体を起こすと、ぎしぎしと節々が音を立てた。

軽やかな音を立てて肩から掛布が膝に落ちた。


『ここは、どこなの』


ぽつりとつぶやいた言葉に、ほっと人心地ついた。知っている音だ、なじみのある音の羅列だ。

わたしは部屋の周りを見渡して、体が縮こまるのを感じた。


『高級そうなとこ』


何だか嫌な感じだと思う。

どうしてだかは分からないが面倒そうなところにいる気がした。


体はふらつくが何とか立てる。

横になっていた、うまく歩けないほど弾力のあるスプリングに四苦八苦しながらベッドの縁に腰掛け、足を下ろした。

柔らかな絨毯の上だ。

そっと足を進める。

誰も来ないのだろうか。

見知らぬ人とはいえ、それはそれで心細い。


置いてあった履物を引っ掛けて高価そうな家具の置かれた部屋をもう一度見まわす。

ふと、壁にかかる絵に目が引かれた。薄紫の花房の風景画。

淡い色彩で描かれたそれは、霞むようでとても遠い風景を描いたような印象を受ける。


『藤の花……』


呟いた時、背を向けた方から高い金属音と水の落ちる音がした。

息を飲む音と共に、「メラニー様……!」と口から零れるような呼びかけに振り返れば、一度だけ記憶している女性がそこに感極まったように立っていた。

不意を突かれて猛然と飛び掛かってくる女性に固まっていると、


「御身体はようございますか? もう起き出でても大丈夫なのですか!?」


矢次に聞かれる質問に、そして目に涙を溜めたその様子はとても”メラニー”を心配しているのだと思って。


わたしは――そう。何を考えたわけではないのに、


「大丈夫」


気味の悪く感じた、馴染みない音の言語を喉から出していた。

その途端、言いようもない生暖かい空気が体を包んだ気がして戦いたが、母親程の年の女性がわたしの手を取って泣くのを見て泣きそうな気持になった。


――こんなに”メラニー”のことを心配してくれる人なのに。


滑らかな寝間着の手触りに、ぞっとしながら自分の肩を抱いた。

いつのまにか、とは言わない。

わたしが”わたし”として目覚めた時から、わたしは”誰”に対しても、記憶がないことを告げられないだろうと確信していた。


肩を抱く自分の指は、はじめて雪に触れる子供のように、滑らかな手触りを確かめていた。

落ち着かない、少し冷たい生地は、これほどまでに馴染なく感じるものだろうか。


二度目に目を覚ましても、わたしは自分で自分の存在に疑念が浮かんでしまう。


血が凍りついたかのような、怖気を感じて眩暈を起こす。

女性の取り乱した声は、あちこちから聞こえるような気がしてきつく目を閉じると――音は遠くなった。


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