危険な侵入者
身仕度を終え、今はまだ正午には余裕がある時間。私は玄関前でリアハルト君を抱えたまま、寝室のある方角を見つめていた。
このアパートは街から少しだけ離れていて、緑と畑に囲まれた自然豊かな場所にある。古いアパートだが、洋風でお洒落な外観をしているのがお気に入りだ。
建物は私の伯母の不動産で、格安で借りている。
後、半年でこのアパートは出なくてはならないが、次の住まいも伯母の持つ物件に、と伯母から言われているのでそこは安心している。
大学を卒業してから今まで、このアパートに住んでいた。というか、伯母からほぼ無理矢理住まわされたと言うべきか。独特の雰囲気を持つ伯母には逆らえないのである。
三階建ての二階角部屋、1LDK。割りと広めに設計してあるのだが、リアハルト君には狭いな!と笑顔でダメ出しをされたのはつい先ほど。苦笑いしか出来なかった。
そして私の職場はここから車で四十分。バスもあるが郊外から離れているので本数がかなり少なく、あまり利用していない。
田舎道の景色を楽しみながら進めば、そこはちょっとした街中だ。その中の一画の小さなオフィスビルが私の職場、事務を短期契約で働かせてもらっている。就職難であたふたしていたところを、伯母からの紹介でどうにか大学卒業までに入ることの出来た小さな会社だ。
しかし、その仕事も一年という短期での契約。アパートを出るころには次の仕事も探しておかなければならない。忙しい身の上なのである。
そう、私は忙しいのである。
洗面所にいる間に、その奥にある風呂場を覗いておいた。なぜって、リアハルト君を連れて来た誰かが隠れているかもしれないからだ。
洗面所を出た後にトイレと玄関の鍵も見ておくことも忘れない。なんの問題もない。物や金品もまるまる無事だ。犯人はやはり、リアハルト君だけをここに連れて来たようだ。
推理は嫌いではないが、得意でもない。完全にお手上げ状態である。
警察に行く前に少し気分転換とダイニングの窓を開けた。少し強めの風が入りカーテンが大きく揺れる。そして、このアパートの数少ない住人の大きな声と車の音。それらの何れかに身を引かれるようにリアハルト君が窓へと近付く。
カーテン越しに見えるベランダ。そして、その向こうの景色はなんてことのない平凡な風景。なのに、リアハルト君は綺麗な青い目をまん丸に見開いている。
その直後、宅配便のトラックがアパートの前を通りすぎた。ベランダの壁は柵になっているので、リアハルト君にもよく見えたことだろう。男の子って車やトラックが好きだもんね。
しかし、リアハルト君は違った。ほのかに赤みのあった頬が強張り、一目散に寝室のクローゼットの中に逃げ込んだのだ。
すぐに後を追った。クローゼットが中途半端に開いていたので、膝を抱えて踞るリアハルト君が丸見えだった。
「リアハルト君、どうしたの?出ておいで」
「嫌だ」
クローゼットの前から声をかけるが、返ってきたのはおそらく本音の否定。怯えて殻にとじ込もっているような固い声。想定外のこの状況下に、どうしたものかと頭を押さえる。
外が怖い?それとも、リアハルト君を怯えさせた何かがあった?
考えても考えても、わからない。ならば行動は一つだ。手早く寝室とダイニングの窓を閉める。そしてバッグを持ち、中にお財布と免許証、車のキーがあることを確認した。よしっ。
「リアハルト君、外に行こうか。格好は………まあ、他に無いからしょうがないね。暑くなるからガウンだけ脱いじゃおうか。警察署前に車を置かせてもらって、ぱぱっと入れば大丈夫!」
「そと………?行かない!僕は行かないぞ!ここにいて、帰るんだ!」
「そうだよ、帰ろうね。だから、お巡りさんに任せればきっと大丈夫だから」
「どこにも行かない!外は魔物がっ」
動く気の無さそうなリアハルト君を無理矢理抱き抱えて、そのまま玄関に向かう。マモノ?ナマモノ?それが何かは知らないが、子供の妄想にはもう付き合っていられない。
ガウン姿のリアハルト君を抱き上げたまま、ダイニングを通りすぎて玄関に続く扉を開ける。見ための割りに軽い体は線が細いが、さすが男の子。足をジタバタされると抱き上げ続けるのは難しかった。
玄関前で一度降ろし靴を靴箱から出そうとした時、リアハルト君が私のお腹目掛けて飛び込んできた。
「待って!外は護衛がいないと!」
「大丈夫大丈夫。私がちゃんと連れて行ってあげるからね」
「見たことない魔物が!」
「あはは、まだ言っちゃう?私も忙しいからね、早く済まさないとね」
「お前、頭が変だぞ!」
「失礼な!それにお前じゃなくて、糸子という名前がちゃんとあるんです!」
頭が変なのはそっちだ!とは小さな子供が相手なので言わないが、そろそろ私も限界だ。意味不明な言葉と過ぎていく時間に焦りがつのる。
無理矢理にでも外へ連れ出してしまおう。そう思った時だった。
ガタンッ
今この場ではない、この家の中で音がした。おそらく、ダイニングルームのそのまた向こう側。寝室のある方面からだ。
窓は閉めたから風の仕業ではないはずだ。冷や汗が頬と背中を伝う。どうして、誰も居ないはずの部屋の中から音がするのか。
咄嗟にリアハルト君を抱き寄せる。そして寝室のある方面を見ながら、どうすればよいのか考えた。外に逃げた方がよいのか、それとも音の原因を確めた方がよいのか。
そうこう考えているうちに、なんとリアハルト君は私の腕からするりと抜け出し、音のした寝室の方へ駆け出してしまった。
あわてて追いかける。しかし私がダイニングに入った時にはもう、リアハルト君は寝室へと入った後だった。
「リアハルト君!」
「ライアン!!」
「殿下!ご無事で!」
「え?」
「遅かったぞ!」
「申し訳ありません、お寂しい思いをさせ」
「えっと………え?」
「寂しくなんてなかったぞ!」
「殿下、離れている間にお強くなられたのですね」
「だから、どこ……から………?」
開いた扉から見えた光景は、もう私の許容範囲を超えていた。だって、見慣れぬ格好をした男が片膝を床につき、リアハルト君に頭を下げている。
どこから、どうやって、………どうして?
優しげな笑みをリアハルト君に向けていた男が、ふと私を見た。寝室の入り口で立ち尽くす私に向けられた眼差しは鋭く、深緑を思わせる色をした双眼に体が震える。
一言で言うと、恐い。その男の目付きと、姿が。
小さな体に喜びを表して男に飛び付くリアハルト君。そしてリアハルト君を片腕で抱き上げ、立ち上がる男。私から一瞬も視線を離さず、値踏みするかのように見る男。
厚手の黒い服に、長いマントを背中に流して、腰に大きな棒状の物騒な物を差している。それが何かなんて、想像に容易かった。
背が高く、やけに筋肉質そうな大柄な男。だから、どうしてこんな男が寝室に。
見たことない姿の見知らぬ男、リアハルト君を知っていてリアハルト君が笑顔を向ける男。
クローゼットを見た。扉が開いていてその前に立つ男の様は、まるでそこから出てきたように見えた。
「……え?クローゼット………から……?」
「ライアンだ!ほら、来てくれたぞ!」
「あなたが殿下を保護してくださった方で?」
「保護?………でん、か?」
男は片腕にリアハルト君を乗せたまま、もう片方の手は腰にある物騒な物に添えていた。
だから、恐いから。ライアンだかなんだか知らないが、帰るんなら早く帰っていいから、もう無理。
早朝に続き、二人目の侵入者は危険な男だった。腰に差した剣の柄を握り、僅かにカチリと音をさせたのを聞いた直後、私の意識は暗転した。