不思議な不可思議な定義 2
「はい、そうなんです。熱が……三十九度ほど……明日は大丈夫かと……多分……はい、……はい。ありがとうございます……―――」
時計を見て愕然とした。毎日家を出る時間が午前九時。どうしようと思っているうちに針は進み九時を過ぎてしまった。今の私の姿はいまだにパジャマ姿のまま。この場にいるのが私一人なら、早急に身仕度をすればまだ間に合ったかもしれない。
しかし、今この場には意味不明な発言を堂々と繰り出す子供、寝間着にガウンを素敵に着こなしているリアハルト君がいるのだ。
警察にさらりと預けるだけ、とはいかないだろう。だって、あの発言だ。魔法使いの従者と最強の騎士。完璧な侍女はまだありとしても、聞いたままを正直に話せば逆に私が疑われてしまいそうだ。
私の部屋のクローゼットから出てきたなんて、いつの間にか子供が入っていたなんて、誰が信じてくれるだろうか。絶対に足止めされるに違いない。
考えた挙げ句に、私は仮病を使い会社を休むことに決めた。明日までにはきっとこの小さな侵入者も警察に預けるなり、どうにかなっているはず。
迎えは……ちょっと怖いのでここには来ないでくれるように祈っておこう。
「リアハルト君、私ちょっと着替えるからそこで座って待っててくれるかな」
とりあえず着替えておこうと思い、椅子に座っているリアハルト君に呼び掛けるも返事はなく、私の片手に持つ携帯を凝視していた。
何かを言いたげにそわそわしだしたリアハルト君。それをちょっと可愛いなと思いながら気がついた。
「あ、そうか。電話したいんだね。お家の電話番号覚えてる?この携帯一応世界対応だからどこでも大丈夫なはず!国内しかかけたことないけど。え、日本国内で大丈夫だよね?だってリアハルト君、日本語話してるもんね。ってゆうか、どこの国の人なんだろ……」
「そ…――」
「ん?」
「そ、それはどんな魔法なんだ?そんなに小さな箱に人が入れるなんて………お前も魔導師なのか?そうなんだな!ベイルートと一緒だな!」
「…………え?」
ごめんなさい。私に子供との会話は無理みたい。マドウシ?って何?あれ?ベイルートと一緒にされてる?じゃなくて、携帯を………知らないの?
まさか、そんなわけないよね。きっとベイルートだかダリアだか一緒にいる人が小さな箱の中には人がいるんだよ―とか、めちゃくちゃな事を言ったに違いない。
うん、まずは着替えだ。
混乱する頭を左右に振り、もう一度ちょっと待っててねと声をかけ寝室の扉を開けた。一番に目に入ったのが、リアハルト君が出てきたクローゼットの扉。開きっぱなしのままにダイニングへ来ていた事を思い出す。寝室を見渡しても誰も居ない。
心なしそっとクローゼットの中を覗く。もちろん誰もいない。見慣れた私の洋服があるだけだ。
ほっと一安心。しかし、どうやって家の中に入ってクローゼットの中にリアハルト君を入れたのだろう。昨日の夜には誰も居なかったはずのクローゼット。戸締まりもしていたし、寝ている間に誰かが家の中に入ったなら絶対に気付く自信はある。
クローゼットから適当に普段着を出す。ダイニングに居るリアハルト君が座っている間にその場でパジャマを脱いで着替えた。長袖のカットソーにスキニーパンツ姿を姿見の細い鏡で簡単に確認し、そのまま寝室のベッド側にある窓のカーテンを開ける。ついでに窓も開けておく。
朝の爽やかな空気が明るくなった室内に入り、少しだけ気分も良くなったような気がした。
顔を洗って歯磨きもしたいが、リアハルト君をそのままにしておいて私だけというのは気が引ける。客用の歯ブラシなんて置いてないけど、たしか新品の歯ブラシは洗面所に置いてあったはず。そんな事を考えながらダイニングに入り、窓に一直線に進みカーテンを開けた。
ダイニングルームの窓は大きく、大小様々な木々の葉が朝の爽やかな風に揺られているのがよく見える。窓を開ければ緑の匂いが心地よい。晴れ渡る空を見上げて、リアハルト君に振り返った。
「よし、とりあえず歯磨きしようか。洗面所はこっちにあるよ。着いてきてね」
「せんめんじょ?」
「そうそう。一緒に歯磨きしようね」
不思議そうに顔を傾けるリアハルト君。戸惑うしぐさをするリアハルト君を安心させるように、ゆっくりと小さな手を引き寝室とは別の扉を開けた。
私の後ろから洗面所を覗く小さな影が可愛くてほっこりするが、朝の支度をしたら警察に行く予定だ。洗面所に一歩踏み出し、中に入ろうとした瞬間だった。
「凄く狭いな。ここは物置か?」
「…………違います」
「見たことない造りだな。あ、鏡がこんな狭いところに。不思議な部屋だな!あ!もしかしてここは魔法を」
「歯磨き!そしてお風呂の前に服を脱いで洗濯するところです!」
あぶない。この子あぶない!また魔法とか聞こえた気がする!
思わずリアハルト君の危険な言葉を遮ったけど、このまま聞いてしまったら更に危険度が半端ない気がしてしまった。
新しい歯ブラシを戸棚から出し、素早く歯みがき粉をつけてリアハルト君に渡す。大人使用の歯みがき粉だけど、今一度きりのことだから味は我慢してもらおう。
私の分も用意して、歯を磨く。歯ブラシを口に入れたままリアハルト君を見下ろした。
すると私を見上げて、歯磨きしているのを楽しそうに見ていた。泡がもこもこ見えるのが楽しいのか、青い目のキラキラ度が上がったように感じた。
なんだ、可愛いじゃないか。歯磨きしながら笑顔を向ける。そう、それをリアハルト君も口に入れて歯磨きするんだよ、と今は言えないから視線だけで促した。
そっと歯ブラシを口に入れたリアハルト君。それを横目で見ながら私は口を濯ごうと蛇口を上げようとした時だった。
「かっっらあぁ――い!」
「―――!?」
閉じていた口からぐふっと笑いが込み上げた。やはり、そうだったか。リアハルト君が座り込み口を押さえてる隙に蛇口を上げコップに水を入れた。先に私が口を濯ぎ、コップを簡単に水洗いする。再びコップに水を入れ、リアハルト君を抱き起こす。
洗面台の前に立たせたが、小さな子供には高すぎたようだ。仕方がないから後ろから脇に腕を回し少しだけ抱き上げる。
「はい、これで口を濯いでね」
言いながらコップを渡す。抱き上げられた状態のまま、コップを受け取り中に入っている水を暫く眺め、僅かに匂いを確かめるリアハルト君。
水を少し口に入れてぺっと口から出す姿が可愛い。意味不明な発言を除けば、まるで人形のように綺麗な容姿なのだ。そこにいるだけで絵になるお子さまのリアハルト君だ。やっぱり誘拐されてきたのだろうか。
そんな事を考えているうちに口を濯ぐのが終わったようだ。抱き上げていたリアハルト君の体を降ろし、後ろからタオルで口許を拭いてあげて歯磨き完了。歯ブラシを口に入れただけだが、まあ良しとしよう。
次は顔を洗わなければ。さあ、どうしようとかと思っていたらリアハルト君が蛇口を見ていた。
「顔洗おうね。水出すからぱしゃぱしゃっとやっちゃおうね」
再び抱き上げ、蛇口を上げ水を出す。するとリアハルト君は一瞬体を強張らせて―――暴れた。
「うわっ!ど、どうしたの?こら!暴れない!」
「いきな、り!出てき、た!」
体を捻り私にぎゅっと抱き付く。うわっ可愛い!
いやいや、今はそこは置いておいて!
「リアハルト君!ただの水だから!落ち着いて!」
「だって!あんな小さな所から出てくるなんて!どんな魔法なんだ!すごい!すごいぞ!」
そう言ったリアハルト君の顔に恐怖の色はない。怖がって暴れたのではなく、もの凄く興奮していたようだ。
力がどっと抜ける。朝だけど、まだ朝だけど凄く疲れた。蛇口からの水が魔法って………どうしてそんな発想が出てくるのかが理解出来ない。
私の子供では決してないけど、子育ての凄さが少しだけわかったような気がした。