堕落したアリさんと、優雅であり続けたキリギリスさん。
そのアリさんは、勤勉でよく働き、力持ちで根性もあり、毎日の重労働に少しの弱音も漏らさない、他の模範となるべきアリでした。とはいっても、そのために誉められたり、表彰されたりしたことは一度もありません。アリの世界では、そのように優秀であることが当然なのです。
「俺は女王様へのお食事をこしらえたんだぜ」
「俺は新しい部屋を五つも掘ったんだ」
そんな風に自慢するアリはいません。いたとしても、他のアリはそんな言葉を気にも留めず、黙ってせっせと働き続けることでしょう。アリは働かなくてはアリではありません。文句を言わず、ただひたむきに集団のために働き続ける。それは優秀であるということではなく、アリであるための最低条件なのです。
その日もアリさんは、いつものように必死に働いていました。食糧調達隊が道端で偶然見つけた菓子パンは、アリからするととても巨大で、大きな顎で削り取って、その欠片を大勢で運んでいました。アリの巣と菓子パンの間には、行きと帰りの綺麗な二つの行列が出来ていました。
アリさんはもはや、何度菓子パンを削って持ち帰ったのかも忘れて、ひたすら往復を続けていました。しかし、菓子パンが三分の二ほど削れた時、人間の子供が行列の横を通りすぎました。ずんずん地面を踏み鳴らし、落ち葉や土を蹴りあげて、静かな森の中を駆けていきます。
アリの行列は、ピクリとも乱れる様子を見せません。そんなことでいちいち動揺していては、冬の準備などは到底成し得ないということを知っているのです。
しかし、精神は動揺していなくとも、世界が止まるわけではありません。人間の子供は、道端の砂利を蹴って走っていきました。運動靴のゴム底に砂利がはじき飛ばされ、空中を舞いました。とてもとても小さな砂利ですが、アリにとっては巨大な落石でした。
アリさんは菓子パンの欠片を持って巣に帰る途中でしたが、不運にもその脚に砂利が当たってしまいました。そして衝撃と激痛に身体をよろめかせ、行列の横に倒れこんでしまいました。他のアリは、そんなアリさんに目を向けることすらせず、せっせと菓子パンの欠片を運んでいきます。アリさんはあまりの痛みに立ちあがることすら叶わず、思わず涙まで浮かべてしまいました。
行列の「行き」の列、すなわち菓子パンへ向かう方の列に、うずくまっているアリさんの姿を見つめている一匹のアリがいました。そのアリは列の邪魔をしないように速やかに横断し、アリさんの元へと駆け寄りました。アリさんはその様子を見て、(嬉しい)と感じました。アリに感情は必要ありません。だから、みんな日常においては感情を圧し殺しています。しかしこのように異質で辛い状況下であるからこそ、アリさんはそう感じたのです。
しかしそのアリは、地に転げたアリさんの姿を一瞥すると、それだけで何を言うこともなく、アリさんの落とした菓子パンの欠片を拾い、巣へ帰る列に入っていきました。何のことはありません。そのアリは地面に落ちている菓子パンの欠片を拾いにいっただけであり、使い物にならない一労働者の存在など、気にもしていなかったのです。
アリさんの眼から、涙がこぼれ落ちました。それは、先程の涙とは何か違う色をしているように思えました。
アリさんは、キャタピラのように機械的に動き続ける行列をしばらく眺めた後、行列に背を向け、脚を引きずって歩き始めました。動きの遅いものは、行列を組んでも足手まといになります。巣の狭い通路では邪魔になります。天敵とまともに戦うことも出来ません。そういうことを考えて、アリさんは自ら集団を去っていったのでした。
アリは集団の中でのみ生きられます。集団の効率を乱す個体、端の方が欠けている歯車は、生きる価値すら無かったのです。少なくともアリさんは、そういう考え方を信じて疑わなかったのです。他のアリも、同じことだったでしょう。
秋も暮れてきて、冬の足音が聴こえてきます。色を無くした森林には、冷たい風が吹き付けています。アリさんはよろよろと、今にも倒れそうな歩き方で落ち葉の上をさまよっていました。
途中で、カエルと鉢合わせてしまいました。カエルは降り積もった落ち葉と背の低い草むらの中から、目ざとくアリさんを見つけたのです。アリさんは満足に動けないながらも、必死に逃げようとします。カエルの方は容赦するはずもなく、アリさんを見失わないよう、一目散に向かってきました。アリさんは何度も何度も振り返り、その大きくて恐ろしい姿を確認します。その度に目を背けて、前を向いて、必死に逃げ続けました。
しかしカエルの姿は、アリさんの元へ近寄る前に無くなってしまいました。大きな鳥が地面にぶつかるかと思ってしまうほどの低空飛行をして、カエルをくちばしで捕まえたのです。カエルは叫ぶ暇も、避ける余裕もなく、空の彼方へ運ばれていきました。
アリさんは、その場に座り込んでしまいました。そしてまた涙を流しました。これもまた、前に流したどんな涙とも色の違うものでした。
アリさんは、自分が何のために生きているのか、何故生きているのかが分からなくなってしまいました。そんなことを考えたことは、今までに一度もありませんでした。巣で忙しく働いていた毎日の中で、そんなことを考える余裕はありませんでした。
落ち葉の上を寒風が撫でていきました。アリさんはぶるりと身体を震わせます。お腹も空いてきました。しかし、もう巣の中の温もりを得ることも、食糧を分け合うことも出来ないのです。そう考えると、果てしないほど心細くなってきました。
アリさんは、ここで死のうと思いました。そしてそのままじっと、動かなくなりました。もはや怪我のせいではなく、凍えるような寒さが脚を凍りつかせ、動けなくなっていました。目を閉じれば、あの世へ行けそうな気がしました。
「何をしているんだい、そんなところに座っていては寒いだろう」
仏像のように静止して動かないアリさんに、話しかける声がありました。キリギリスさんです。稽古の帰りなのか、片手にヴァイオリンを引っ提げています。
アリさんは顔も向けずに、自分に起きた不運について語りました。そして、今から死のうとしているから関わらないで欲しいと言いました。
「なんてばかなことを。まだ失っていない命を、自ら捨てようと言うのかい、君は?」
アリさんは頷き、アリの集団の構造について話しました。脚が使い物にならなければ、生きる価値も無いということを説明しました。キリギリスさんは黙って話を聞いていましたが、腕を組み、納得がいっていない様子でした。
「君、悲しいのかい?」
アリさんは頷きました。
「ならその想いを詩にするんだ。キリギリスは喜んだ時、怒った時、悲しい時、おかしい時、あらゆる気持ちを詩に表す。君の溢れるような気持ちを、詩に表現しないなんてもったいない」
キリギリスさんはそう言うと、アリさんを引っ張るようにして自分の家へと案内しました。アリさんは不本意でしたが、脚が動かないために抵抗もままならず、結局キリギリスさんの家まで連れていかれてしまいました。
木の根っこに構えられ、秋風を防いでいる家の中は、暖かくてとても心地好い場所でした。アリさんは温かいスープを手渡され、椅子に座るよう勧められました。こんな経験は生まれて初めてでした。まるで、アリの女王様のような扱いだ、と思いました。
アリさんがスープを飲み終えるタイミングを見計らい、キリギリスさんはアリさんの前にテーブルを運んできました。そしてその上に、ペンと紙を用意しました。
「さあ、気持ちが緩む前に書くべきだよ。運命に見放された時の陰鬱で悲壮に満ちた感情を、その用紙にぶつけてみるんだ」
アリさんは言われるがままに、ペンを走らせました。地獄のような寒さの森から、天国のようにくつろげる家に来て、自分がどういう状況に置かれているのかもよく分からないほど、呆然とした心持ちだったのです。
しかし書き始めてみると、あの時の絶望と孤独とが再び鮮明に蘇ってきて、しかもそれを文字にしなくてはならないので一層悲しくなり、ついにぽろぽろと涙がこぼれてきました。アリさんはキリギリスさんの横で泣くことが恥ずかしくて、つい顔を背けました。キリギリスさんは優しく微笑みました。
「恥じることはないよ。君はとても感受性の高いアリなんだね。悲しい作品を書きながら涙を流せるなんて、詩人の鑑じゃないか」
アリさんは詩の製作に夢中になって取り組み、完成した頃にはとっくに日が暮れていました。アリさんは一日の疲れが溜まっていたのか、詩を書き終えるなりテーブルにバッタリ伏して、眠りに落ちてしまいました。キリギリスさんは、寝息を立てているアリさんを横目に、詩の書かれた紙を手にしました。しばらく読みふけって、呟くように言いました。
「素晴らしい」
日が昇り、朝が来ました。アリさんが目覚めると、キリギリスさんは既に食事を用意してくれていました。双方テーブルを囲んで、朝の日差しが射し込む小さな家の中、朝食が始まりました。
「君の作品を品評会に出してみよう」
キリギリスさんは、唐突にそう切り出しました。
「君はアリの集団には戻れないのだろう?だが生きるためには食糧を得なければならない。今は僕の情けで食事を与えてあげられるが、あんまりにも長くご馳走ばかりしてはあげられない。働かないキリギリスが食事を得る方法は、楽器の演奏会をするか、奇怪な芸を見出だすか、詩を品評会に出すかだよ」
朝食を終えるなり、二人は家を飛び出してキリギリスの集まる広場へと向かいました。そこでは既に沢山のキリギリスが、芸を見せたり、ヴァイオリンを演奏したり、詩を発表したりしています。観客の方のキリギリス達は、良いと思えた作品に対して、食糧を手渡してその気持ちを伝えます。表現者も観客も皆楽しそうで、広場は活気づいていました。
「やあ、ちょっと聞いてくれ」
キリギリスさんは、知り合いのキリギリス達の集団に話しかけました。後ろにはアリさんが付いてきています。キリギリス達の視線は当然、この場所に似つかわないアリさんに向けられました。
「このアリは詩人なんだ。それもとびきり良い作品を作り出すね。一先ず、見てもらってもいいかな」
キリギリスさんは紙を広げ、皆にアリさんの詩をさらけ出しました。キリギリス達は興味深そうに、アリさんと詩とを何度か見比べた後、皆で寄り添って詩をじっと見つめ始めました。
アリさんは不安と羞恥とに包まれて、小さな体が更にきゅっと縮こまったような感覚を覚えました。自分の初めて書いた作品が、初めて他の者に見られていて、初めて評価を受けようとしている、その事実に圧迫感を覚えました。
しばらくして、キリギリス達は作品を読み終えたのか、一斉に顔を上げました。そして緊張しているアリさんへと向けられたのは、
―なんて深い作品なんだ
―感動して、涙が溢れてきたよ
― こんなに惹き込まれた作品は、久しぶりだ
絶賛の嵐でした。アリさんはその歓声に包まれて、どうしたらいいのか分かりませんでしたが、ただ、ほんのりとした気分の良さを感じていることだけは事実でした。
そして何より驚いたのが、キリギリス達が、次々とアリさんに食糧を渡していったことでした。それも、一匹の渡す量が多いので、アリさんは両手いっぱいに食糧を抱えることになりました。アリさん一人だけならば、余裕をもって冬を越せるほどの量でした。
「ほら、言っただろう。簡単に死んでしまうのは勿体ないって」
キリギリスさんはアリさんに向かって微笑みました。歓声を浴びているアリさんも、恐らくは巣を去ってから初めて、キリギリスさんに向かって笑いかけました。
その日の夜は宴会でした。アリさんとキリギリスさんの二人は、おもうままに飲み、おもうままに食べ、アリさんの作品が激賞されたことを祝いました。アリさんは一夜の間、心で受け止めきれないほどの幸せを感じていました。
それからの日々は、過酷な労働をしていた日常からは考えられないほど優雅なものでした。アリさんは芸術というものを知り、絵や、詩や、歌や、芸や、演奏を、四六時中鑑賞していました。その良さが分かってくると、余るほどある自分の食糧を、表現者に与えたりしました。そうすると、自分も優雅なキリギリス達と同じような存在になれた気がしました。
きらびやかな生活をしている途中、働いているアリを見かけることがあります。彼らは食糧を探し求めていたり、食糧を運んでいたり、天敵に大勢で挑んでいたり、ただ一心に自分の使命を果たそうとしていました。
彼らは、道端で著名なキリギリスが素晴らしい演奏をしていても、脇目も振らずにスタスタ歩いていきます。アリさんは、そんな様子のアリ達を蔑み、哀れみました。彼らは芸術の才能がないばかりに労働を強いられており、自分は選ばれた者なのであると、そう考えていました。
しかし、アリさんは調子に乗って豪遊を続けていたために、持っている食糧が段々と少なくなってきました。実は最初に詩が評価されて以来、どれだけ作品を発表しても鳴かず飛ばずだったのです。
「そりゃあ君、あの時の詩は君の悲惨な境遇から生まれたまぐれの作品だからね。今の満ち足りた生活から良い作品を生み出すには、君の素直な才能が必要になるんだよ」
キリギリスさんはそう言って面白そうに笑いました。アリさんは気分を悪くしました。詩が評価されたことはまぐれであり、自分には才能が無いのだと言われたからです。
アリさんは悔しさをこらえて、作品を書き続けました。しかしいずれも評価されるような名作ではなく、そのように駄作扱いされる度に、アリさんはやけになって残り少ない食糧をむさぼりました。アリさんが最初に作った詩があまりにも良くできていたために、求められる作品の基準も高くなっていたのかもしれません。
そうして暴食を続けているうちに、ついに食糧が底をついてしまいました。アリさんは困り果て、またしばらく食糧を分けてくれないかと、キリギリスさんに相談しました。キリギリスさんは、いやみのような苦笑を浮かべて言いました。
「僕が君に食事をご馳走していたのは、君がまだ食糧を得る術すら知らなかったからだよ。しかし君はもう、詩の書き方も知っているし、毎日のようにキリギリス達の芸術を鑑賞しているじゃないか」
キリギリスさんは、優雅にスープを飲みました。アリさんは憤慨し、キリギリスさんに返答することもせずに外へ出ました。吹き付ける風が一層冷たくなっており、もうすぐで冬が来るようでした。冬になればキリギリス達は家にこもって出てこなくなりますし、食糧を得ることも出来なくなります。アリさんは焦っていました。
いつもなら通りがかるだけで心が躍るキリギリス達の集会も、今は暗い気持ちが沸いてくるだけです。アリさんは演奏しようにも、楽器を持っていません。芸をしようにも、脚が動かずどうにもなりません。歌を歌おうにも、アリが働くときの、野太い声で歌う民謡しか知りません。唯一の希望である詩も、今はてんで思い付きません。アリさんはその場を通りすぎ、とぼとぼと歩いていきました。
歩き続けていると、何の偶然なのか、それともアリさんの中の無意識が働いていたのか、以前過ごしていた巣の前にたどり着いていました。巣の周りでは、いつものようにアリ達が出掛けていったり、食糧を運んできたり、大忙しで働いていました。
アリさんは、途端に巣にいたころの生活が恋しくなってきました。辛い労働と統制された集団の中で、変わり映えのしない日々ではありましたが、毎日決まった量の食事を貰うことは出来ました。今はただ、自分の中にある空腹が痛いほど苦しいのです。
そうして、身体が動くことを止めようともせず、よろよろと巣の入り口に近寄っていきました。しかし、巣の入り口にはアリの門番が立っています。危険な生物や部外者が入ってこないよう、監視しているのです。
門番は、アリさんが巣穴の中に入っていこうとするのを見て、その肩を掴みました。そしてきつい目線で睨み付け、その場に投げ倒しました。アリさんは驚いて、地面に倒れたまま、門番を見上げました。まだ巣にいたころ、よく見かけた顔のアリでした。門番は恐ろしい顔をして、アリさんの姿を見下ろしています。
アリさんと門番の横を、幾匹ものアリ達が通りすぎていきます。見慣れた顔が、いくつもありました。その誰もが、アリさんの姿に目もくれず、淡々と自分の役割をこなしていました。アリさんの心に、あの時の悲しみが蘇ってきます。そしてそれ以上に、生物の根源的な恐怖が心の奥から感ぜられてきました。
アリさんは泣き出しました。泣いて、門番の脚にすがりつきました。自分は以前この巣の一員であったこと、不運な事故が原因でしばらく巣を離れていたこと、そして、脚は動かないが、女王の食事の切り分けや、部屋の装飾作りくらいならば出来るかもしれない、ということを必死に叫びました。
門番はアリさんを殴り付け、蹴り飛ばしました。アリさんは地面を転がり、頭や腕を走る激痛に、しばらくの間うずくまっていました。その間、アリさんに手を差しのべる者も、声をかける者も居ませんでした。アリの行列が行進していく音だけが、アリさんの耳に入っては抜けていきました。
肌を切り裂くような黄昏時の寒さの中、アリさんはとぼとぼと帰路についていました。森の地面は、燃えるような夕焼けと、むせかえるような腐った葉っぱの色が合わさって、鮮やかすぎる色合いを作り出していました。それはきらびやかで美しいようにも見え、また、吐き気さえ催すほど醜いようにも見えました。
何の運命なのでしょうか。アリさんは再び、カエルと鉢合わせてしまいました。あるいは、彼らの棲みかはこの周辺に固まっているのかもしれません。
アリさんは逃げました。脚が折れてしまうのかと思うほど、手が千切れてしまうのかと思うほど、全身全霊を駆けて生きようともがきました。しかし、カエルとは体の大きさからして違いすぎます。距離は縮まっていくばかりです。
アリさんは、視界の隅にあるものを見つけました。木の根っこに絡まってのんびりしている、ヘビです。アリさんは急激に方向転換をし、木の方へと向かいました。カエルはアリさんを追いかけることに夢中で、周りの状況などは見えていません。
アリさんが根っこの下を通り抜けていくと、カエルも同じように追いかけていこうとします。しかし、そのタイミングをヘビが逃すはずもなく、瞬きをするよりも速く、カエルは鋭い牙に捕らえられました。牙は皮膚を侵食し、内臓を掻き切り、体液を噴出させて、カエルを絶命に至らせました。
アリさんは無惨に肉片へと変貌したカエルを見て、狂楽的な笑みを浮かべました。そしてそれだけで何を想うこともなく、さっさとキリギリスさんの家へ向かいました。
家に帰ると、キリギリスさんは椅子に座ってくつろぎながら、読書をしていました。キリギリスさんはボロボロのなりになっているアリさんを見て、奇妙な笑みを浮かべました。
「どうだ、良い詩は思い付いたかい、未来の売れっ子詩人殿」
アリさんはその言葉に返答せず、ただニヤリとほくそ笑んだだけでした。 そして紙とペンを用意して、テーブルにつきました。アリさんは先ほど門番に蹴飛ばされ、カエルにも襲われました。この「悲しい気持ち」があれば、きっと素晴らしい詩が書けると、そう考えていました。
しかし、幾度ペンを走らせども、納得のいく詩が作れないのです。詩を書いてはその紙を捨て、書いては捨て、を繰り返し、とうとう頭を抱え込んでしまいました。何故、あの時のような詩が書けないのか、まるで分かりませんでした。
そんな様子のアリさんに、キリギリスさんは歩み寄り、そこらじゅうに散らばっている詩の欠片達を拾って眺めました。
「君、こんな詩を書くようじゃあ、いつまで経っても傑作は作れないだろうよ」
嘲笑うかのような口調で、そう言ってのけました。アリさんはカッとして、キリギリスさんのことを睨み付けました。キリギリスさんはその視線に怯むこともなく、ただ皮肉のこもった瞳をたたえていました。
「君と最初に出会った、あの時の詩は素晴らしかった。何故かわかるかい?君の、純粋で心から溢れ出ているような想いが、そのまま詩という器に注がれていたからだよ」
キリギリスさんは、憤怒に染まったアリさんの顔を、憐れむように見下しました。
「今の君は、濁っている。不純物で満ちている。欲と、焦りと、怒りと、驕りが、詩を醜く染めてしまっているんだよ。……こう言っては何だがね。恐らくもう君に詩は書けない。あの時の君には、もう二度と出会えないだろう」
そう言うとキリギリスさんは、夕食の残りのスープを飲み干しました。そして満足げな笑みを浮かべ、自らの寝室へと向かおうとしました。
アリさんはキリギリスさんの言葉に憤慨しました。自らを締め付けるような空腹も、その怒りを増幅させる原因となりました。その瞬間、アリさんの心は一点の曇りもない鮮血の色に染められました。
アリさんの大きくて鋭い顎は、その役目を待ちわびていたかのように、ゆっくりと開かれました。それから、少しの時間もありませんでした。キリギリスさんの首もとは切り裂かれ、その胴体は床に倒れこみ、切り離された頭部は転がって壁にぶつかり、飛び散る体液は家具を汚しました。
全てが終わっていました。アリさんがハッと我に返った時には、全てが成し得られてしまっていました。ポツ、ポツと自分の顎からたれている体液を見て、アリさんは目を見開き、胸に穴を空けられたような感覚を覚えました。
アリさんは、一生で二度目の絶望を覚えました。しかもその原因は、一度目の絶望から救ってくれた相手を、殺してしまったことだったのです。
アリさんは、背中を引っ張られているかのようによろよろと後ずさり、椅子に座り込みました。目尻から、ポトリ、と一粒の涙がこぼれました。それ以上は、どれだけ頑張っても涙は出てきませんでした。
アリさんは、呆然としたままペンを持ち、詩を書き始めました。ただ書きました。ひたすら書きました。ひたむきに書きました。書き続けました。
詩が、出来ました。アリさんは、完成したその詩を見返すことはしませんでした。そしてそのまま、迷うことなく、自らの命を絶ちました。
その詩は後日とあるキリギリスに発見され、世に広まり、大変高い評価を受けたそうです。
アリの行列は動き続けます。キャタピラのように、機械的に、休むことなく。
ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。
動き続けます。
キリギリスの集会は、いつものように騒がしいです。歓声と熱気に包まれ、狂ったように。
がやがやがやがや、がやがやがやがや。
騒ぎ続けます。
アリさんのことを覚えているアリはいません。
キリギリスさんのことを覚えていたキリギリスも、すぐに忘れてしまいました。
ただ、詩だけは。
アリさんが最初に作った詩と、最後に作った詩だけは、この世界で静止しながらさまよっています。
今も、さまよっています。