14.迷路
人の心はまるで迷路だと思うの――佐渡真子は言った。
「へ? なに突然」
日直の日誌を書いていた手を止めて、真麻安孝は間の抜けた顔を上げる。
放課後の教室は、授業中と違って酷く静かだ。いつまでも教室に残っている生徒など居ないし、その内に先生がやってきて帰る様に促すだろう。
だから、沈み掛けの陽に朱く染められている教室にいつまでも残る事は出来ない。
「人は、心に迷いやすいっていう話よ」
佐渡真子が言う。真麻安孝は、少し困った様に曖昧な顔をして、日誌の続きを書き始めた。佐渡真子が彼の机に身体を横向きにして座っているせいか、せせこましく作業をしているが、彼は何も言わない。
実に二人の関係をよく表している様だった。時折、佐渡真子が机の上で組んでいた脚を組み替えると、目と鼻の先にある彼女の白く肉感的な太ももに真麻安孝は反応している。
「それって……思春期的な話?」
「真麻くん」
「なに?」
「私の話より日直の日誌の方が大事なの?」
「はいスミマセン! 会話はちゃんと相手の顔を見るべきですよね!!」
物凄い勢いで日誌を閉じた。その拍子に、使っていたシャーペンが机から落ちる音がする。だが、真麻安孝はそれに気が付いていないのか、それとも佐渡真子の前で不用意な動きを取れないのか、シャーペンを拾う動きは見せなかった。
「えっと、何だっけ? 人が迷いやすいって話?」
「違うわ。心に迷いやすいって話よ」
「何か違うの?」
そうね――と、佐渡真子は机の上で真麻安孝の顔を覗き込む様に前のめりになる。彼女の柔らかく艶やかな黒髪が右肩に流れて、左耳から細い首筋へのうなじの肌が見えた。制服の布地が少し張って、小さな肩の線が見て取れる。
彼女はそのまま、真麻安孝の顎の方に、つうっと指を伸ばした。
「人が居ない教室で、私が急に真麻くんにキスをしたくなったり」
「えっ?! ちょ、ちょちょ、ちょっとそれは迷いに突然過ぎ、過ぎない!?」
「夕飯に食べたいものみたいなものよ」
「肉食系過ぎるよ?!」
真麻安孝は動揺を見せるが、嫌がっている様子ではない。満更でもない様だ。
佐渡真子が愉しそうに笑みを浮かべる。その瞳が、何処と無く嗜虐的に熱を帯びて潤み始めていた。真麻安孝の耳は恥ずかしさで真っ赤になっている。しかし彼は顔を逸らす事はせず、ずっと相手の顔を見ている。
佐渡真子は男の顎の輪郭をなぞっていた指先を自分の唇に遣り、迫る様に挑発的に相手の目線を望むがままに釘付けにしている様だった。
「真麻くんは、食べてみたくないかしら」
「た、たた食べる、って何をっ」
嫌だわ、と佐渡真子は自分の唇で少し湿った指先を、真麻安孝の口元に遣った。
「解っている癖に。私の口から直接聞きたいのかしら? 自分は綺麗なままで、私だけ汚れさせたいのかしら? 下僕契約を結んだ癖に、随分と可愛い生意気を言うのね。そんなに汚れた私を見たいの? 恥ずかしい目に遭わせたいの? 真麻くん、貴方って本当に墓穴を掘るのが好きね」
佐渡真子は熱の籠もった小さな息を吐きながら、真麻安孝の頬を自らで包み込む様に優しく両の掌で掴んだ。
「ほらね、真麻くん。人ってあっという間に迷ってしまうものでしょう? もう自分が何が何だか解らないでしょう? でもね、余りにも簡単に迷い過ぎると、何れ自分の場所を見失って、迷いを正しいものと勘違いして、何もかも解らなくなってしまうわよ」
佐渡真子が頬に遣った掌の爪を甘噛みする様に僅かに立てる。真麻安孝がびくりと身体を震わせた。
そして、佐渡真子は彼の顔を息遣いが聞こえそうな程に引き寄せる。
「でも真麻くんは幾らでも迷っていいわ。だって私が絶対に連れ出してあげるもの――」
「っておい貴様等そこまでだ!!」
教室の床の方から涙声がした。
「このワタシを床に転がした上に何を平然といちゃついている!? 他人の情事等見せつけられるワタシの身にもなれ!!」
「見なさい真麻くん。あれが迷い過ぎて拗らせた代表例よ」
「あ、これそういう話だったんだ……」
「巫山戯るな何が拗らせただ?! いいからさっさとワタシを解放しろ! 何が目的だ、このサドモンスターめ!!」
佐渡真子は、不意に机の上にあった日直の日誌を手に取ると、床に思い切り投げ付けた。鈍い音と「痛いッ?!」という声がした。
「誰がモンスターよ。貴方が日直で教室に一人になった真麻くんを人質に取って、私に復讐しようとか意味不明な中二病を炸裂させたのが悪いんでしょう」
「ワタシは屈しない……!!」
「いや、佐渡さんに屈した方がいいと思うよ……? そんなガムテープでぐるぐる巻きにされてるんだしさ」
「クソッ! 何故こんな事に……本当ならば放課後の教室にワタシがマソーを人質に取って、誰も居ない教室にサドを呼び出す事で、完璧な構図となっていた筈なのに……!!」
「だから意味不明だっつってんのよ」
「痛い?! 踏むな!! 上履きで顔を踏むな!! この国に住んでいながら平然とこんな屈辱的な事を出来る貴様は悪魔か?! デーモンめ!!」
「貴方さっきモンスターって言ってたじゃない」
凄まじい構図となっていた。
金髪碧眼の外国人美少女が黒髪の美少女にガムテープで簀巻きの様にされて踏みつけられているらしい。何て面白い光景だろうか。
床から不平不満と喚き散らす声が聞こえている中で、佐渡真子がガムテープを取り出す。そして三十センチ程切り取ると、座っていた机から降りて手を振り降ろした。バチンッ、という音と呻き声がして、それ以降不平不満は言葉にならなくなった。
傍らで、真麻安孝は日誌を拾って埃を払っていた。どうやら床の彼女を助ける気は無いらしい。
「それで、佐渡さんどうするの? まさか、このまま置き去りに……」
「するわよ?」
「あ、うん。ですよね」
ふぅ、と溜息を吐くと佐渡真子は、再びガムテープを取り出して、今度は両手を広げる様に長く切り取った。
「二人共、きちんと痛い目に見せないと、どうやら理解出来ないみたいだしね。優秀な真麻くんとは大違いだわ」
「うん? 二人って?」
佐渡真子はそう言って、わたしの方に近付いて来た。
あ、やばい。
ばれた。
わたしが慌てて教室の掃除用具のロッカーから出ようとした瞬間、同時に佐渡真子の足でロッカーの扉が閉められた。そしてガムテープを貼られる音がする。扉が開かなくなった。
「何か怪訝しいと思ったけど、そんなところに居たのね」
「え? え? 佐渡さんどういう事?」
「変態よ」
詰んだ。
いや。だがしかし、まだロッカーの中に居るわたしが見られた訳ではないから、このまま黙っていれば遣り過ごせる筈……。
「中から荒い息遣いが聞こえてるわよ」
「すみません出来心なんです許して下さい……」
「嫌よ、許さないわ」
ロッカーの中が急に真っ暗になった。ガムテープでロッカーの隙間が埋められたらしい。
「貴方、名前は?」
「え?」
がしゃんッ、と狭いロッカーの中で大きな金属音がする。突然の大きな音に思わず変な声が出た。
「名前は?」
「お、桜花です」
がしゃんッ、とまた大きくロッカーが揺らされた。怖い! これかなり怖い! 暗い密室の中で騒音で責められるのかなり怖い!!
「フルネームで」
「禾火! 禾火桜花です!!」
「学年は?」
「い、一年生! D組の一年生です!」
がしゃんッ。
「答えたじゃないですか!?」
「私は学年しか聞いてないわ」
ううう……これが佐渡真子……遠くから観察しているのと、実際に話すのでは全然違う……。
「何でこんな変態行為をしていたのかしら?」
「さ、佐渡先輩の噂を聞いて、観察を始めたらついつい楽しくなってしまって……」
「私の噂って?」
「…………」
どうしよう、本人の前でかなり言い難い……。
ガシャンッガシャンッガシャンッ。
「さ、佐渡先輩がかなりの嗜虐体質で普段は普通なのにスイッチが入ると凄いって話です!!」
「……なるほど、そう」
あ、あれ、急に勢いが無くなったけど……。
「真麻くんは、関係無いのね?」
「え? あ、はい。真麻先輩は佐渡さんと付き合っているちょっと変な良い人だと」
ガシャンッ!
「な、ななな何ですか!? 何が悪かったんですか?!」
「真麻くんを貶していいのは私だけよ。で、他には?」
「いえ……特にはありません」
「そう。ならいいわ、許してあげる。但し、今後は観察したいなら、堂々と私の近くに来て許可を取りなさい。いいわね?」
「は、はい!!」
「それじゃあ、帰りましょう、真麻くん」
「え、あ、うん。あれ、ぼくってちょっと変な人なの?」
「真麻くんは気にしなくていいわ。私以外の人間に、真麻くんを理解出来る訳ないもの」
暗いロッカーの外から、そんな会話が聞こえてくる。そして、教室の扉が閉まる音が聞こえた。
「…………」
教室の中には、どうやらガムテープでぐるぐる巻きにされたアビゲイル・リストーンだけが残っているのか、呻き声が聞こえてくる。
一気に静かになり、危機を乗り越えた事に安心感が湧いてくる。緊張の糸が切れたのか、少し催してきた。
そして重大な事に気付く。
「えっ!? っていうかロッカーから出してよ?! と、トイレ行きたいのに!?」
あとで先生に救出されましたけど漏らしたかは知りません。