エンタメが提供する「楽しさ」の罠
エンタメと芸術は完全に別物であるから、両者の優劣をつけることはできないというのが持論である。競うとすれば、それはエンタメ同士、芸術同士であるべきだ。
優れたエンタメが芸術になることはないし、出来の悪い芸術がエンタメになることもない。それゆえに、エンタメが芸術を気取るさまは醜悪であるし、その逆もまた然りである。自分たちの領分で競い合い、高め合えば良いだけの話だ。
注意すべきは両者の境界を曖昧にし、同じものとして扱おうとする存在だろう。難解な芸術作品をわかりやすいものに置き換えて売り出そうとする輩を見かけたら、すぐに遠かるのが懸命である。それは芸術、エンタメの双方の価値を破壊するものであり、文化を破壊するものと言っても間違いではない。
エンタメは究極的には人を楽しませるために作られたものである。「楽しい」ということが至上命題となり、そのために様々な発想、テクニックを駆使して出来上がった商品がエンタメというものの正体だ。
そう、商品である。そもそもなぜエンタメが作られるかというと、ただ他人を楽しませたいという慈善事業ではなく、あくまでお金儲けのためである。お金儲けができるとは、売れるということであり、そのために「楽しさ」を提供することを選択したのがエンタメなのだ。
それに対して、芸術の最大の目的は自己表現である。自分には世界がこのように見える、自分はこんな人間である、自分はこんなことを考えているということを出力し、自分という人間を知ってもらうことが芸術の最大の目的であると考える。
自分を知ってもらうというのは、支持される、理解されるということと必ずしも一致しない。他人がどう受け止めようが関係ないというのが芸術の底に流れるエネルギーだろう。エンタメでいうところの売上というのは、芸術においては意味をなさないのである。
なので、売り上げが良いことを持って、エンタメを芸術よりも価値があると考えるのは間違っている。両者は目的とするところが違っており、売り上げ良いというのはエンタメとしての価値でしかない。
さて、芸術作品に向き合いたい気分の時もあれば、エンタメに浸かりたい気分の時もある。両者に優劣はないのだから、好きな時に好きなように楽しめば良いことを大前提として、エンタメの持ち上げられ方に引っ掛かりを覚えることが最近は多い。
やたらと売り上げのことを全面に押し出して、作品の勢いづけに利用しようとする姿勢が正直言って好きではないし、みっともないとすら感じる。
金儲けという1面だけでエンタメを評価するのであれば、売り上げが絶対的な尺度となるが、それはエンタメを供給する側の事情である。エンタメにとって売り上げは大事な要素だが、忘れてはならないのは、エンタメを受け取る側、消費者にとっては売り上げがどうであるかは本来的にどうでも良いことである点だ。
消費者がエンタメにお金を払うのは「楽しさ」を得るためであるが、この「楽しさ」は千差万別、人の数だけ形が違うはずである。自分にとっての「楽しさ」が得られるものが、その人にとってより価値のあるエンタメとなるのである。
売り上げが良いもの、すなわち多くの人間が「楽しさ」を感じたものがエンタメとして優れていると考えてしまうと、本来個性的であったはずの「楽しさ」が減退してしまう。
何を「楽しい」と感じるかというのは、他人が替わることのできない、極めて個人的な感覚であり、その人間を構成する上で極めて重要な要素と言える。
自分が良いと思ったものが、たまたま世間でもヒットしているというのであれば何も問題はない。自分の判断が先に立っているからだ。問題は、世間でヒットしているから良い作品だと考えてしまうことだ。それを楽しめなかったときに自分の感性を否定するようになったら尚のことを良くない。
「楽しさ」の判定にあたり、まず自分が先頭に立っているかを注意して見ることが大切である。終わり




