真犯人はオレ。『23:50』の悲劇
日曜の二十三時五十分、藤堂はノートパソコンの前で頭を抱えていた。
藤堂はマネージャーである。
コンサルティング会社におけるマネージャーとは、資料を作り、会議を回し、部下を見て、上司に気を遣い、クライアントには落ち着いた顔を見せるという風習のある、頭のおかしなかわいそうな生き物である。
ただし、日曜の二十三時五十分に限って言えば、藤堂はただの中年男性だった。
「ゔあああああああ」
声は思ったより低く、そして思ったより湿っていた。
家の中は静かだった。妻も2人の子供もとっくに寝ている。冷蔵庫の低い唸りと、壁時計の針の音だけが、藤堂の未完了タスクを一件ずつ読み上げているように聞こえた。
画面には、ファイル名だけが立派な資料が並んでいた。
「霞ヶ浦資材_資産管理あるべき姿_v0.1.pptx」
「百景堂リテール_AI基盤ディスカッションペーパー_たたき台.pptx」
「双葉共済_生成AI推進体制案_仮.pptx」
「青嶺ホールディングス_全社DX事務局提案_一旦.pptx」
「アツチヨンブリケ_売り先整理_メモ案.pptx」
「二十六年度上期_目標管理シート_作業中.xlsx」
どれも、名前だけは前に進んでいた。
たたき台。仮。一旦。メモ案。作業中。
この世には、進捗しているように見せかける接尾辞が多すぎる。
藤堂はマウスを握ったまま、何もクリックできずにいた。右下の時計は二十三時五十分を指している。日曜日は、もう残り十分しかなかった。
じゅっぷん。
じゅっぷんでナニができるというのか?バカじゃないの?あはぁん?
藤堂は自分にツッコミを入れ、深く息を吸い、天井を見上げた。
「チクショウ……榊原さん、無茶なこと言いやがって……」
榊原ディレクター。
来年パートナーに上がると噂されている、優秀な上司である。クライアントの前では穏やかで、社内では判断が速く、資料の赤入れは的確で、しかもなぜか人当たりがよい。
いやそんなことはどうでも良い、太客をグリップしてるのだ…着いていけばオコボレは美味しい。
冷静に考えて、そんな上司はまともな人間じゃない。学生時代なら絶対に友達になりたくない人格破綻者に違いない。すごい性癖があるとか、きっとそんなの。
って、それはおいておいて
そういう人には、媚びておいて損はない。
少なくとも金曜の藤堂は、そう判断した。
言った瞬間、脳内で何かが引っかかった。
無茶なこと。
本当に、そうだったか。
金曜の夕方、会議室の前で、榊原はたしかにこう言った。
「藤堂さん、霞ヶ浦資材の件、水曜にクライアントフェイシングだけど、大丈夫かい? 月火、かなり会議詰まってるよね」
榊原は、カレンダーを見ながら眉を寄せていた。
「無理なら、他の人に回すなり、お客さんに日程相談するけど」
その記憶が、やけに鮮明に蘇った。
藤堂は両手で顔を覆った。
そうだ。
榊原は逃げ道を出していた。
出していたのだ。
それを塞いだのは誰だったか。
金曜夕方の藤堂である。
しかも、少し笑っていた。
「大丈夫っス!」
大丈夫ではなかった。
「なんなら、記憶がホットなうちに作った方が品質いいのできるっス!」
藤堂は椅子からずり落ちそうになった。
「ゔああああああ……」
ホットなのは記憶ではない。
火だ。
火事だ。
自分の週末が燃えているだけだ。
「俺かぁ……」
藤堂は小さく言った。
「俺がバカなのかぁ……」
その後も、真犯人の証拠は次々と出てきた。
金曜十九時十二分。
部下の森下からチャットが来ていた。
「藤堂さん、月詠メディアの中間報告資料、週明け前に一度だけ見てもらえますか? ざっくりで大丈夫です」
ざっくり。
この言葉は危険だった。
ざっくりという依頼ほど、ざっくり終わらない。
だが、金曜十九時十三分の藤堂は、ここでも軽快だった。
「見るよ。初回の報告って、最初の印象が大事だからね。土日にコメント返す」
なぜ格好つけた。
なぜ「月曜午前中にざっと見る」ではいけなかったのか。
藤堂は過去の自分に対して、明確な改善要求を出したかった。できれば再発防止策も要求したかった。しかし、当該本人はすでに日曜二十三時五十三分の現在に統合されており、処分のしようがなかった。
さらに金曜二十時四分。
銀杏ペイメント案件の若手からも資料が送られていた。
「キックオフ後の初回定例資料です。違和感あればご指摘ください」
違和感。
あるに決まっている。
初回定例資料とは、違和感の集合体である。目的、論点、次アクション、誰が何を決めるのか。だいたい何かが曖昧で、だいたいそれを見つけるのが藤堂の仕事だった。
そして藤堂は返信していた。
「了解。日曜中に見ます」
日曜中。
いま、日曜は残り七分である。
「俺のバカ……」
藤堂は机に額をつけた。
しかし、真犯人の犯行はこれだけではなかった。
土曜の午前、他部署の同期である長谷部から電話が来た。
「藤堂、ちょっとだけ相談いい? うちのAIソリューション、アツチヨンブリケっていうんだけど、正直あんまり売れてなくてさ。どこに売るべきか、どう売るべきか、壁打ちしたいんだよね」
ちょっとだけ。
これも危険な言葉だった。
「ちょっとだけ相談」は、だいたい相手の頭の中にある混沌をこちらの認知資源で整地する行為である。実質的には無料の事業開発支援であり、終わったころには、相手はすっきりし、こちらの土曜午前は消滅している。
だが藤堂は言った。
「いいよ。売り方の話なら、顧客課題から逆算した方がいいね」
言わなくてよかった。
顧客課題から逆算しなくてよかった。
少なくとも土曜午前には。
さらに土曜午後。
青嶺ホールディングス向けの全社DX相談。
百景堂リテール向けのAI基盤ディスカッションペーパー。
双葉共済向けの生成AI推進体制案。
どれも最初は「ふわっとした相談」だった。
ふわっとした相談は、ふわっとしているうちは軽い。だが、資料にしようとした瞬間、急に質量を持つ。事務局、推進体制、効果測定、ガバナンス、ロードマップ、業務影響、システム影響。言葉が増える。箱が増える。矢印が増える。
そして気づけば、PowerPointの白紙スライドが、こちらを見ている。
「何を言いたいのですか」
白紙スライドは、いつもそう問いかけてくる。
藤堂は答えられなかった。
日曜の夕方、彼は一度だけ立て直そうとした。
冷蔵庫から炭酸水を取り出し、メモ帳を開き、こう書いた。
「まず全体像を整理する」
それは、敗北者がよく書く言葉だった。
全体像。
整理。
優先順位。
粒度。
出口。
これらの言葉は、仕事が進んでいないときに最も輝く。藤堂は三十分かけて、土日の残作業を美しい表にした。重要度、緊急度、所要時間、期待成果物、関係者影響。
表は完璧だった。
作業は何も進んでいなかった。
「違う……違うんだよ……」
藤堂は画面に向かってつぶやいた。
「俺が欲しいのは、整理された未完了リストじゃない。完了したタスクなんだよ……」
だが、その気づきは少し遅かった。
二十三時五十六分。
カレンダー通知が画面右上に出た。
「明日 9:00 週次進捗確認」
藤堂は通知を見つめた。
週次進捗確認。
進捗。
何を確認するというのか。
未進捗ならある。山ほどある。むしろ、未進捗の方が進捗している。
藤堂はゆっくりと立ち上がり、リビングの窓を少し開けた。夜風が入ってきた。五月の夜は、意外と涼しかった。
外では誰かの自転車が通り過ぎた。世界は普通に動いている。藤堂の資料ができていなくても、街灯は光り、信号は変わり、コンビニは営業している。
この社会は、思ったより頑丈だった。
だが、月曜朝の藤堂は頑丈ではない。
椅子に戻り、もう一度パソコンを見る。
「霞ヶ浦資材_資産管理あるべき姿_v0.1.pptx」
藤堂はそれを開いた。
一枚目のスライドには、タイトルだけがあった。
「資産管理高度化に向けた検討論点」
高度化。
何も高度化していなかった。
藤堂はキーボードに手を置いた。
ここからだ。
ここから始めればいい。
人間には、再起の力がある。どれほど愚かな意思決定をしても、どれほど見積もりを誤っても、どれほど金曜夕方の自分が余計なことを言っても、いま、この瞬間から一枚目を書くことはできる。
藤堂は深呼吸した。
そして、新しいスライドを追加した。
タイトル欄に、こう打った。
「本資料の位置づけ」
そこで手が止まった。
位置づけ。
それは何か。
本資料とは何か。
自分とは何か。
なぜ日曜の二十三時五十八分に、資産管理のあるべき姿について考えているのか。
藤堂は再び頭を抱えた。
「ゔあああああああ」
二十三時五十九分。
スマートフォンが震えた。
長谷部からだった。
「ごめん、さっきのアツチヨンブリケの件、月曜午前に軽く話せる? 藤堂の観点、役員に刺さりそうだから」
藤堂は画面を見た。
しばらく見た。
それから、ゆっくりと返信欄を開いた。
「了解、軽くなら」
送信ボタンを押した瞬間、日付が変わった。
月曜日になった。
藤堂は天井を見上げた。
「真犯人は……」
誰もいないリビングで、彼は静かに言った。
「オレ」
そして彼は、未完了の資料を前に、もう一度小さく叫んだ。
「ゔあああぁぁぁぁぁ」




