第十九話 天秤
「グルルルァァァァッ!!」
ダイチが俺の方を向いて咆哮した。
血走った目は赤く光り、唸り声を上げながら大きく開いた口から涎を垂らしている。やはり、完全に理性を失っている。
ついさっきまで、一緒に食事をしていた仲間の変わり果てた姿。
それを改めて目にして、身体が震えた。
でも、元に戻す方法はある。
その事実が、胸の奥に希望として灯り、恐怖を押し返してくれていた。
「まさか、人間であることを忘れてたとはな」
「いや、お前も忘れてただろ!」
「来ますよ!」
ダイチが地面を蹴り、一気にこちらへ突進してくる。
――どうする!?
「乗れ!」
次の瞬間、フワッと体が浮いた。柔らかな感触が全身を包み込む。
「ルーヴェン!?」
ルーヴェンは、いつもの三倍ほどの大きさに巨大化し、俺とリューベルド先生、アステラを背中に乗せて跳躍していた。
「こんなことまでできたのか!」
ルーヴェンは三人を乗せていることなど意にも介さず、森の木々を縫うように力強く駆ける。
対するダイチは、小枝や背の高い草を避けることもなく、直線的な走りで追ってきた。
どうやらルーヴェンの方が速いらしい。一定の距離を保ったまま、森を疾走する。
「ケイトさんは、このままルーヴェンさんに乗って距離を取ってください! 私たちは、ダイチが戻るのを見届けます!」
アステラも「そうしてください!」とリューベルド先生の言葉に重ねた。
少し考えたが、他に方法は無さそうだ。
「先生! アステラ! 頼んだ!」
二人はルーヴェンの背から飛び降り、見事に着地した。
すぐに、リューベルド先生が呪文を唱える姿と、こちらに微笑むアステラの姿が見えたが、それもすぐ森の木々に遮られて見えなくなった。
「頼む……上手くいってくれ……!」
絶対に、誰も死んでほしくない。リューベルド先生も、アステラも、ダイチも……!
しばらく森の中を疾走したあと、唐突にルーヴェンが念話で話しかけてきた。
『村長は、本当に知らなかったのだろうか』
かなりの速度で走っているせいか、普通に喋るよりも念話の方がはるかにクリアに聞こえる。
『……え? 聖遺宝のこと?』
『いや、魂波制御鏡のことだ』
『え……?』
『廃遺跡の床には、コボルト語に似た言語で封印が施されていた。地下の門にもだ。遺跡の存在を知っていて、それを知らなかったとは考えにくい』
『でも、それじゃあ……』
『わざと、我々を仕向けて調査団を襲わせようとした可能性もある』
――そんなことッ!
そんなこと、あるはずがない。
だってそれじゃあ、洗脳されたコボルトも、人間も傷つく。そんな残酷なことを、村長が考えるだろうか……?
『ワフデュス村長は言っていたな。ヴェルダ・アルカ……ここでは沃森杖と呼ばれる聖遺宝は、この森の心臓そのものだと』
――しかしな……沃森杖は、この地にとって言わば心臓部じゃ。これを動かせば、きっと森は枯れ果ててしまうじゃろう
村長の言葉が、脳裏に蘇る。
『心臓を守るためなら、ただのコボルトの命などノミのように軽い』
『お前……!!』
反論したかった。だが、言葉が出てこない。
森全体の命と、ダイチ、アステラ、リューベルド先生の命。
その重さを比べるなんて、俺にはできない。
「俺は、誰の命も天秤には乗せられない。大切な仲間だから……」
『それでも、選択せねばならぬ時は度々訪れる。エルシエラが、自分の命とお前の命を量った時のようにな』
ハッとする。
そうだ。俺は、エルシーが選んだから、今ここにいる。
でも……だからこそ。
『なおさらだ! 俺が守りたいものは全部守る! ダイチが元に戻ったら、村長に説明してもらう!!』
『……ばかだな』
『力を貸してくれるだろ? ルーヴェン』
ルーヴェンは、吹き出すように笑った。
『ばかな相棒だが、契約は契約だ。我は全力を貸そう』
「ありがとう」
ルーヴェンは「そろそろかもな」と呟くと、大きく旋回し、リューベルド先生とアステラを降ろした場所へ戻った。
***
二人を降ろした位置に近づいたようで、ルーヴェンは元の大きさに戻った。
木陰からそっと様子を窺うが、戦闘している気配はない。
ルーヴェンもしばらく鼻を鳴らして気配を探っていたが、やがて「問題ない」と言いたげな目でこちらを振り向き、静かに頷いた。
「ケイト殿!」
木々の間から姿を現した俺たちを見て、アステラが安堵したように声をかけてきた。
「アステラ、無事でよかった!」
「はい。ケイト殿も」
その背後には、静かに目を閉じて横たわるダイチと、その身体にできた無数の傷を治療しているリューベルド先生の姿があった。
「先生! ダイチ!」
「ケイトさん。ダイチの暴走は止まりましたよ」
「そうか……よかった……!」
ルーヴェンから飛び降りた二人は、気配と匂いを消す魔法を使い、木の上からダイチを観察していたらしい。
人間という目標を見失ったダイチは、その場でしばらく彷徨った後、糸が切れたように倒れた。
近づいて調べると、洗脳されていた時とは違い、元に戻ったように見えたという。
「――まだ、目を覚ましてみないと完全とは言えませんが……」
その時、ダイチの指先がピクリと動いた。アステラが俺を庇うように一歩前に出る。
「――リュー……ベル、ド……先生……」
「ダイチ!」
ダイチは目を開き、リューベルド先生を見て言葉を発した。俺にもわかる、コボルト語だ。
その目は、洗脳されていた時の狂気ではなく、穏やかな光を取り戻していた。
「まったく……世話が焼ける」
アステラは悪態をついたが、その目は潤んでいる。
「ダイチ! よかった!」
俺も近づいて声をかける。
「ケイト殿……俺は……」
意識がはっきりしてきたのか、アステラに支えられながら上体を起こす。リューベルド先生は黙々と治療を続けていた。
「すまなかった……。とんでもない失態だ……あんな物に操られるとは……」
「ダイチ、覚えてるのか?」
ダイチは耳を伏せ、泣き出しそうな顔で俯いた。
「……全部、覚えている。この手で……調査団の人間を切り裂いたことも……」
両手で顔を覆い、身体を震わせる。
「俺は……俺が狩ってきたウサギを喜んでくれた人間や、一緒に食事を囲んだ人間を……!」
「ダイチ……」
リューベルド先生が、負傷者の治療は終わっており、死者はいないことを告げると、ダイチは「よかった……」と小さく呟き、肩の力を抜いた。
こんな非道な道具、存在してはいけない。
「あんな物、壊そう」
俺の言葉に、リューベルド先生もアステラも静かに頷いた。
廃遺跡へ戻ろうとしたが、土地勘のないルーヴェンが無茶な走り方をしたせいで、正確な方角が分からなくなっていた。
そんな時は、これだ。
俺は張り切ってスキル《ハイジャンプ》を発動する。
廃遺跡の周囲には木が生えていないから上空からなら見えるはずだ。
ほとんど日が沈み、わずかな光だけが残る森の上空へ跳び出すと、三時の方向に廃遺跡が見えた。
よし、あそこだ――
だが、その廃遺跡のさらに向こう、森の奥から黒い煙が立ち上っているのが見えた。
嫌な予感がする。
急いで地上に戻り、見たものを伝えると、皆の顔色が一気に青ざめた。
「リューベルド先生……もしかして……」
「……コラコルン村の方角です」




