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第1話 クソと聖女には注意せよ

「キルテ! 待ちなさい!!!」

「そー言われて止まる奴はそもそも逃げねーんだよクソババア」


 キルテは後ろからの怒声に舌を出して礼拝堂を抜け出した。修道服の裾を捲り上げて走る。あの口うるさい修道院長が見たら目を吊り上げそうだが、もう既に十分お冠だ。今更怒られることがひとつやふたつ増えても変わらない。

 王都にある修道院。そこで修道女として暮らすキルテは、従順とは言い難い性格の人間だ。少なくとも本人はそう思っていたし、周りの人間に聞いても同じ答えが返ってくるだろう。

 そんなキルテは今日もまた修道院長の怒りに触れたらしい。確かに修道女らしい振る舞いではないのかもしれない。しかし、だからといって可笑しいことを可笑しいと言うことの何がいけないのか。キルテにはサッパリわからなかった。


 (どこでサボるかな)


 キルテは宿舎まで来て少し考えた後、近くの木を伝って屋根に登る。今日は晴天。いい感じに屋根が太陽に暖められていて気持ちがいい。キルテはここで昼寝をすることに決めた。


 (貴族の坊ちゃんに体を触られるよりもここで昼寝した方がよっぽど健全だろ。それをあのババアは……)


 修道院に訪れた若い貴族の男。そいつが修道女たちに対してやたらと話しかけたり体を触っていたので、キルテは言った。


『変態の相手をするのがここの修道女たちのお役目なんだな。じゃー私はそんなお役目は御免なのでサボるわ』


 キルテとしては、事前に話したのでマシだと思っている。しかも件の男の前で言うのは我慢したのだから誉めてほしいくらいだった。だが、その言葉を聞いた修道院長は怒髪天を衝いた。若い女に纏わりつく変態は貴族だろうが、平民だろうがクソだ。それを咎めず見ないふりするババアもクソだし、笑顔のくせに目には諦観しか宿っていない女たちもクソだ。そう思った結果がこの逃亡からの屋根での昼寝だ。誰も傷つけていないのだから文句は言わないでほしい。まあ、あのババアの胃にダメージくらいは与えているかもしれないが。なんでこんな修道院に来てしまったのか。

 痛む頭を抑えながらゴロゴロしていると、何やら下から声が聞こえる。


「うげ、またあのクソかよ」


 下を覗くとそこにいたのは変態貴族。そいつがまだ10歳にもなっていないだろう子供に向かって怒鳴っている。言い分を聞いてればどうやら遊んでいたボールがクソに当たって服が汚れた。何をしてくれるんだと叫んでいるらしい。

 紛れもないクソである。キルテは屋根から飛び降りた。


「お前、私が誰だかわかってるんだろうな!? お前みたいな下賤な人間が視界に入るだけでも気分が悪いのに! お前は何をした!? 私の服を汚したんだぞ! こうなったらお前を――――」

「うるせえよ。てめえが黙れクソ」

「ぐ!? あああ、あひ、ぁ………………」


 音もなく着地したキルテは、背後からクソの首に腕を回す。そしてそのまま締め上げて意識を落とした。一応、首に手を当てる。まあ、死んではいない。


「こ、殺したの?」

「殺してねーよ。残念なことにな」


 じゃ、とその場を立ち去ろうとするキルテの脚を子供が掴む。見下ろせばビクッと体を震えさせるが、腕から手は離さない。むしろ絶対に離すまいと力が込められる。


「おい、放せよ」

「や、やだ。置いてかないで」

「そのクソは当分起きねーよ。その間に逃げりゃいいだろ」

「う、動けない」


 どうやら腰を抜かしたらしい。キルテは息を長く吐いた。再び揺れる小さな肩に苛立つ。虐めている訳ではないのだが。


「この世は弱肉強食。弱いから淘汰される。弱いからあんなクソのへぼ怒声で泣くんだ。弱い奴にいじめられて、弱いまま泣くだけの奴が私は嫌いだ。その手を放せ」

「……い、意味わかんないよ~~~!!!!!」

「っ、うるせー! このクソガキっ………………ち、めんどくせーな」


 足元で泣き叫ぶ子供にキルテは頭を掻きむしる。子供を優しく宥めるスキルは持ってない。仕方なくポケットの中に手を入れる。


「おい、これやるから泣くのやめろ」

「……これなあに」

「飴。ババアからかっぱらったやつだがな」


 隙を見て修道院長の部屋に忍び込み盗んだ代物だ。誰にも見つかることなくあっさりと盗れたそれに首を傾げながら、何となく食べずにとっておいたものだった。まあ、あのババアは自分の肉体を肥やすのが趣味なので、部屋には菓子やら甘味やらが他にも大量にあった。おそらく貴族なんかからの頂きものだ。ただの修道院長に対してなぜ、という疑問は湧くが真相はわからない。ただ他の修道女たちはババアと違い皆細い……というよりもやせ細っている。食事には薄味で量の少ないものしか出ないし、おやつなども一切出ない。日中は忙しなく働き、夜は祈りを捧げる。そんな毎日では肥えるはずもない。院の長は豚のようにブクブクとその面積を増やしているが。野生の鳥を焼いて食べていたキルテに怒り、取り上げたこともあった。絶対後で食べただろうとキルテは思っている。


「泣き止んだな。じゃ、私はこれで……なんだその手は」

「抱っこ」

「なんで私が……」

「お母さんが泣いてる年下の子には優しくしなさいって」


 座ったまま腕を上げる子供は、頬を片方だけ小さく膨らませて言った。泣き止んだ途端、生意気になりすぎじゃないだろうか。


「悪いが私はそんなこと聞いたことないな」

「お姉ちゃん私より年下なの?」

「………………」

「なら、しょうがないね……わっ、お姉ちゃん背え高ーい!」


 コテンと首を傾げる子供の体を持ち上げる。決して子供の言葉にムキになったわけではない。抱き上げられた子供は何がそんなに楽しいのか口を開けて笑う。カラコロと飴が鳴る音と子供の笑い声、腕にかかる生温い体温。馴染みのない感覚にキルテは眉をひそめた。


「お前どこから来た」

「うーん、となりから?」

「隣?……ああ、お前孤児院のガキか」


 修道院の隣には修道院の管理する孤児院がある。キルテはまだないが、修道女たちが手伝いに行くこともあるらしいとは聞いていた。ひとりでボール遊びをしていたらここまで来てしまったらしい。


「お姉ちゃんはここに住んでいる人?」

「まあそうだな」

「じゃあ、せーじょさま?」

「いや、ただの修道女だが」

「へー」


 子供は聞いてきたくせに適当な返事を返す。聖女も、修道女のこともよくわかっていないのだろう。このくらいの子供ならそんなものなのだろうか。その後も子供はキルテに対して様々な質問を投げかける。

 聖女とは何か。どうすればなれるのか。お姉ちゃんは魔法を使えるのか。使って見せて。お姉ちゃんはなんでここにいるのか。

 子供を片手で抱いたまま質問攻めされたキルテは、もう片方の手で良く回る口を塞ぐ。


「あー知らんが、女で治癒魔法やら浄化魔法が上手けりゃ聖女になれんじゃねーの。私がここにいるのは……特に理由はねーよ」

「んーんんっぷはっ…………じゃあ、私もせーじょさまになれる?」

「さあ? 強けりゃなれるんじゃないか」


 こいつ女だったか、と内心で思う。顔に小さな傷をいくつも作り、短い髪は長さもバラバラで傷んでいる。キルテも修道女として、というよりもこの国の女としては珍しく短髪だが。

 ボール遊びに夢中となってここまで来るが、将来は聖女様になりたいらしい。この子供にとって聖女様は憧れの存在でもあるようだ。キルテにはそこまで大それた存在には思えないのだが。


「強ければすごいの?」

「あ?」

「私のお父さんはきし? だったけどお母さんを助けられなかったよ」

「……そーかよ」

「せーじょさまならどんな病気でも治せるって……だから私もせーじょさまになりたい」


 話しているうちにキルテの肩に顔を埋める子供。キルテは肩が濡れる感覚を感じながら、何も言わずに、子供を抱いたままその場に立っている。

 キルテには家族と言える存在はいない。だから別に自分が生きていればそれは十分幸運のことじゃないかと思う。家族を失って泣くというのが、よくわからなかった。そもそも何かを失うことは自分が弱かった結果でしかない。弱かった自分が悪かったのだと、強くならなければいけないのだと気づくきっかけになるのならむしろ喜ぶべきことだろう。しかし、正直に話せば再び泣かれることは予想がついたため黙っていた。


(てゆーかいつまで抱いてりゃいーんだよ)


 結局、子供が腹の音を鳴らすまでキルテは生温い体温を腕に抱いたままだった。

 ちなみにクソはその間、目を覚ますことはなかった。少し強く締めすぎたかもしれない。そう思いながらキルテはその場を後にしたが。……誰かが回収するはずだ。多分。



 *



 こいつ豚のくせによく喋るな。

 それが折檻を受けるキルテの感想だった。


「何ですか。その目は!? まだお仕置きが足りないのですか!?」

「ハッその見た目で調教師ごっこか? ブヒブヒ言った方があんたにお似合いだと思うが」

「……ならお望み通りお仕置きを与えます。やりなさい……はやく!」


 後ろでキルテを抑える2人の修道女の手が震える。両手足を縄で拘束されて椅子に座らされたキルテは、鞭を持ったババアを見て口角を上げた。すぐに鞭がしなり顔に当たる。しかし十分に扱えていない女の鞭など大して痛くない。頬から血が流れるが、見た目だけだ。そんなこともわからないババアは、鼻息荒く再び指示を出す。


「何をしてるのですか!? やらないなら貴方たちにもお仕置きをしますよ」


 その言葉に背後で悲鳴が漏れる。次いで小さな声で紡がれる。


「バ、バインド」

「……サンダーショット」


 魔法が展開され、身動きが取れなくなる。そして魔力で作られた電撃がキルテを襲う。だがそれも長くは続かない。数秒の電撃によって痛みと痺れ、筋肉の痙攣を感じながらもキルテは笑った。彼女たちの魔法の練度はそう高くない。


「…………で? 私はなんでこんなことになってるんだったか」

「貴方なぜ平然としているのですか!?」

「確か聖樹への祈りをサボったことと、魔物を食べて浄化するとかいうイカレた作業をサボったこと、あとは囚人を殴ったこともだったか?」


 ババアの質問に答えることなくそう言ってやれば、また鞭がしなる。ちゃんと言われたことを復唱してやったのに気に入らなかったらしい。本当ならお仕置きとやらをされる理由すらないと思っているキルテだ。反省するつもりは微塵もない。


「まず聖樹への祈りだが、なぜ毎日樹に向かって魔力を送りこむんだ? 意味が分からん。ただの無駄遣いだろ」


 地下の聖堂には古くから王国で尊ばれているという『聖樹』があった。その樹をからさないように祈りを毎日捧げる修道女たち。祈りと共に魔力が樹へと吸収されるのを見たキルテが、なぜ樹に魔力を送るのかと聞いても曖昧な答えしか返ってこない。魔力を与えているのではない。自らの罪を認め、それを神に提示するため必要なのだと言う。

 その言葉を聞いたキルテは、祈る振りして居眠りをするようになった。


「次に食浄だが、これも意味がわからん。不浄であるとされる魔物の肉を食べて体の中で浄化させる? なんだ修道女の糞からは何か特別なものでも収穫できるのか? あと単純にキモイ」


 魔物を聖なる体の中で浄化させるという『食浄』をキルテは気色悪いと言い捨てた。魔法を使いそれを処分していたキルテ。周囲の修道女たちはそんなキルテをどこか羨ましそうに、憎らしそうに見つめていた。おそらく彼女たちが修道院長に報告したのだろう。


「最後に囚人を殴った件だが、私に体を貸せと言ってきたからな。ご注文通り体を貸してやっただけだ。拳だけではご不満だったようだがな」


 監獄への慰問の際に、キルテは喧嘩を売ってきた囚人を殴り飛ばした。女を物のように扱うヤツは虫螻だ。強さを隠す理由がキルテにはなかった。男を尊重する理由もなかった。ただそれだけだ。


「……反省するつもりはないということですね」

「そのとーり。やれと言うならちゃんと意味を教えてもらいたいものだ」

「この国の平和のために祈り、浄化させるのです。さすれば神は私たちを必ず救ってくださるでしょう。貴方には謙遜が足りません。貴方は愛を知りません。だから傷を受けるのです」

「謙遜? 愛? それが何になる? 金にもならんし、強くもしてくれない。その代わり傷は強さの種くらいにはなると思うぜ。私は」

「貴方の意見はいりません。ただ世界にとって必要なことなのです」

「あんたたちは世界というものをよくご存知らしい。この修道院からほとんど出ず、出かけるのだって決まった場所。決められた時間に決められた無駄な事をやっている。それであんたたちが望むのはなんだったか? 世界の平和? この小さな鳥籠の中から何かを変えられるわけがない。弱者は足掻いて、血反吐を吐いて、前に進まなきゃ変わらない。いや、それでもほとんどの場合は変えられない」


 あんたらもそう思うだろと、振り返って声をかける。オロオロと視線を逸らす女たちを鼻で笑った。

 ここにいる人間には自分の意思をはっきり言える奴はいないらしい。いるのは神の御意志だと言って鞭を振るう豚と、魔力装置と魔物処理機、貴族への慰めものというお役目を立派に果たす女だけだ。

 

「……なら、私が何が正しくて、何が間違っているのか体に叩き込んであげます」


 鞭を握りしめて脂肪を揺らしたババアは、嗤う。顔に浮かんだ脂汗がぽたぽたと床に落ちた。


「私が改心するよりもあんたがメインディッシュになる方が早いかもな。いーかんじに脂が落ちて食べごろだろうよ」



 *



「ふつー外からしか外せない鍵なんて付けないだろ。ここは修道院であって監獄じゃないはずなんだがなー」


 夜、外から鍵をかけられた自室。簡易的なベッドと小さな机でほぼ空間が埋まる部屋にキルテの独り言が響く。鍵がかけられているのはキルテが折檻を受けたからではない。ここの修道院では通常の対応だ。普通におかしい。

 キルテはベッドに横たわる。ギシギシと軋む音がするが、さすがに今日は疲れた。結局数時間に渡ってババアの鞭と女たちの魔法で折檻を受けたのだから。早く寝たほうがいいが、つい色々と考えてしまう。


「ま、別に折檻に慣れてるわけでもないよーだし。ただの警告だろ」


 ここのルールを犯せば教育部屋に連れていかれてお仕置きをされる。か弱い女たちは痛みに耐えられず自己意志も表現できない人形となる。仕置きを他の修道女にさせることで予防と伝聞も兼ねているわけだ。単純な仕組みだが、単純だからこそ強力とも言えるのかもしれない。

 そんなことを考えているとシューシューと息の漏れる音がする。その音に気付いたキルテは目を開けて微笑んだ。


「おーまた来たのか。お前」

「シュー」


 そこにいたのは一匹の黒い蛇。金の瞳を光らせてキルテを見ている。チロチロと舌を出して近づいて来た蛇は、器用にベッドを登りキルテの目の前でトグロを巻いた。その身に纏っている黒い鱗をそっと撫でてやると、蛇は目を細めて手に絡みついてくる。


「いつもどこから出てくるんだよ。まーただの蛇じゃないんだろうけど」


 蛇は2週間前にキルテが修道院に来た時から度々目の前に現れた。魔力を微かに纏っていること。そしてこちらを見る瞳に宿っている理性的思考。ただの迷い込んだ野生の蛇とは思えなかった。


「ん? ああ別にこのくらいの怪我は大したことない」


 蛇は頬に出来た傷を舌で舐めた。毒を持っていないことは既に確認してあるのでキルテも好きにさせる。

 傷に関してもそこまで深刻なものではなかった。それは折檻に慣れていない人間がつけた傷だからということもあるが、キルテにとっては傷ができたとしても大して問題ないからだ。

 頬に手を当てて魔力を出力する。すると淡い光が出現し、傷をあっという間に塞いでいく。ただし傷跡はわざと残しておいた。


「全部治すとまためんどーなことになるからな。見えないところはちゃんと治して、見えるところは内側だけ上手く治すから問題ないぞ」


 キルテにとって治癒魔法は、大変手に馴染む魔法だった。今日付けられた傷は全く問題なく治せる。だから折檻されてもあれだけの口を叩けたのだ。別に痛みに興奮する変態ではないので。そんな変態には死んでもなりたくない。出来れば会いたくもない。


 (……いや、なんでそんなこと思ったんだ?)


 そんな特殊な性癖を持つ変態に会ったことはないはずだが。

 キルテは記憶の中を探ろうとしたが、すぐにまあいいかと変態の存在を忘れた。


「治せるといっても、もー眠いから寝る。お前も今日はここで寝るのか?」

「シュシュー」

「そーか。まあ好きにしろ」


 キルテがここに来て一番まともに喋っているのは、この蛇に対してかもしれない。人間よりも蛇の方が話しやすいのは、おかしな話である。けれどもキルテには自分の考えを変えるつもりは全くないのだから、今後も人間よりも蛇と親しいという状況は変わらないだろう。


 (でもしばらくは大人しくして、様子を見るか。まあそんなすぐに問題は起きないだろうし、起こしたくなることもやってこないだろ)


「――――と、思ってたんだがな。翌朝から問題がやってくるとは」

「ん〜!? んんん〜!!」


 ベッドに押し倒した1人の修道女。傷んだ茶髪に顔の雀斑が特徴のそいつは、キルテの右手で口を押さえられて呻き声をあげる。腹に乗り上げて動きを封じて女に聞いた。


「お前誰だ? あのババアの差金か? 折檻の翌朝に刺客を送るとは。修道院長のくせにいい趣味してるぜ」


 手に力を込めながらそう言ってやると、女は苦しげに首を振ろうとする。朝から人の部屋に無断で侵入してベッドに近づいたのに、刺客ではないらしい。見つめながら脚で女の腰を締め付ける。女の両手を頭上でまとめて抑えていた左手を曲線に沿って撫で下ろしていく。


「違うのか。なら目的はなんだ。自分で言うのもなんだが私は問題児でな。他の修道女が寄ってくる理由が思いつかないんだ」


 服装からして、この修道院の修道女だ。もしくはそれに扮した何者か。ただの修道女ならば、キルテが昨日折檻を受けた問題児であることは知っているはずだろう。ルールを犯すことを嫌うここの修道女たちがわざわざキルテを襲う理由として最も考えられるのが修道院長に命令されたから、というものだったのだが。両手を女の耳と首に添える。


「ひえ……ア、アタシ、あなたと一緒の日に入会したリア、です」

「……そーいや、いたな。もう1人。入った後は違う奴に付いて回ったから忘れてた」


 キルテがそう言うと、リアは途端に顔を明るくした。手に伝わる脈は少しばかり速い。


「はい! キルテ姐さんの同期のリアです!」

「おーいきなり元気になるじゃねーか。呼び方も気になるが、まーいい。で? そのリアちゃんはなんでここに?」


 顔を近づけて聞くと、何故かリアは頬を染めて視線を逸らした。脈はどんどん速くなっていく。キルテが右手で両頬を挟むと、林檎が熟れていくようで面白い。


「ひ、ひるてさんに、おねひゃいしたいことがはって」

「お願い? なんだよ」

「うう……は、はなひてくらひゃい」


 頬をムニムニと揉んでいた手を放してやる。口の中に何かを仕込んでいる様子はない。


「アタシをキルテ姐さんの弟子にしてほしいんです!」

「……弟子?」

「はい!」

「私の弟子」

「はい、キルテ姐さんの弟子にしてもらいたくて隙を見て鍵を開けて忍び込んでしまいました! すみません!」


 目をつぶりながら叫んだリアに、キルテは頭を掻いた。なんだか思ってたのと違う。


「あの、キルテ姐さんを初めて見た時から治癒魔法が上手くて凄いって思ってたんですけど! 修道院長とか先輩たちに対してハッキリと意見する姿に、その……あ、憧れて!」


 キルテが黙っていたら続きを促されたと思ったのか、リアは勢いよく叫ぶ。

 

「おい、落ち着け」

「アタシはじーちゃんのために、治癒魔法を学ぶためにここに来たんです! でもなんか、なんか違くない? って思ってたんですけど! ルールを破ったらお、お仕置きされるって言うから! でも姐さんはそんな仕打ちものともしてなくて……痺れました! 好きです!」

「……おー、わかったわかった。取り敢えず口閉じろ?」

「はい! 姐さん!」


 すぐ口を閉じたリアだが、目は爛々としているし鼻息が荒い。キルテにとって初めて会うタイプの人間だ。正直、どう対処すればいいのかわからない。


 (でも、なーんか既視感がある気もするんだよな?)


 頭の中を探るが、どうも思い出せない。キルテは最近こんなことばっかりだなと思いながらリアを見下ろした。嘘を言っているようには、見えない。


「私に治癒魔法を教えてほしいと? 確かに平民が魔法を学べる所なんてほぼないが」

「そうなんです! 貴族なら学園に行けばいいですし、お金があったら人を雇うこともできますけど……ウチはアタシとじーちゃんの2人暮らしで余裕はないし。一定の魔力があれば修道院で魔法を学べるって聞いて、ここに来たんです! でも、魔法の授業があるわけでもなく先輩たちから教えてもらうだけだし。毎日祈って、働いてばっかりでその時間だってほとんどないし……いや、修道女だから仕方ないとも思うんですけど、でもなんかおかしいなって」


 まあその通りだな、とキルテは思いながらリアの上から退いてやる。リアは体を起こして、両手で膝を抱えた。


「修道院では治癒魔法で怪我を治したり、浄化魔法で魔物を退治することも仕事のうちだって聞いてたのに……これじゃあ、じーちゃんを1人にしてまで来た意味がなくなっちゃうんです」

「…………」

「だから! 姐さんに治癒魔法を教えてもらいたいんです!」


 顔を上げたリアがキルテを見つめる。その瞳が部屋の小さな窓から溢れる光を反射してキラキラと光っている。

 キルテはため息をついた。


「…………お前に魔法を教えて、私に何か得でもあるのか? 利もないのに受けるわけがない」

「それなら! 姐さんがアタシに魔法を教えてくれるなら、アタシは姐さんの舎弟になります!」

「舎弟……弟子じゃなかったか?」

「どっちでもいいんですけど! 姐さんが動きづらい時、入りづらい場所に私が動いて入ります。これでもアタシ、物理的にも心理的にも鍵開けは得意なんです! 絶対にお役に立って見せます!」

「いや、だから」

「……姐さんは、この修道院で何かを探しているんじゃないですか?」

「!」

「アタシ、昔から勘がいいんです。じーちゃんからもお墨付きを貰ってるくらい。だから、ビビッと来たらそれを信じるようにしてるんです」


 ジッとキルテを見つめてくるリア。キルテは手で口元を覆って言った。


「……いや、別に何かを探してなんかいないが」

「あれ!? ち、違いました? おっかしいなあ。こういう時に外すことは本当にないのに」


 ううう、と項垂れるリア。その姿を見てキルテは手で顎を撫でながら首を傾げた。


(……別に探すことはない、よな。でも、今の状況で私が動き回るよりもこいつを使えばここのことも何かわかるかもしれない)


 修道院のことがわかれば自分も行動しやすいかもしれないが、キルテは良くも悪くも目立つ。ならば彼女に動いてもらった方が合理的だ。キルテはそう結論付けて未だに落ち込んでいるリアを見た。


「……お前は周りから得た情報を私に渡す。その対価に私はお前に治癒魔法を教える。それでいいならお前の要求を呑んでやる」

「ほ、本当ですか!? はいっ! ありがとうございます!」

「ただし私はあくまでも私なりの教え方をするだけだ。それでお前がどう思おうと、魔法が使えなかろうと文句は受け付けない」

「はい。それで構いません!」


 顔を真っ赤にして笑うリアは、ベッドから立ち上がってキルテの手を取る。


「本当に、ありがとうございます……」

「……別に、少なくとも利があると判断して決めたことだ。契約は守る」

「そうだとしても、ありがとうございます。アタシは何も出来ずに時間だけがただ過ぎて行くのが怖かったんです。弱いままの、何も出来ない自分が、嫌だったんです」


 額に手を当てるように頭を下げたリア。彼女の手は所々荒れて、小さな傷も見える。修道院に来てから荒れたものではない。もっと長い間に積み重ね付いたものだろう。リアの懇願には、彼女の唯一であるらしい祖父が関わっているらしい。他者のために行動するリア。その心理はキルテにとって理解出来るものではない。どういう理由で祖父のために治癒魔法が必要なのかは知らない。しかし、魔法がなくて死ぬのであれば魔法の使えない弱者である祖父が悪いのだ。その祖父をどうにか出来ないリアも悪いのだ。そう言って切り捨てれば良いだけなのに。


(だが、こいつは弱いままの自分が嫌で……どうにかしようと足掻いている)


 修道院に来てからキルテは、大して力を持っていないのにふんぞり返る人間と、何もかも諦めて流されるままに生きる人間ばかり見てきた。だからこそ今目の前で部屋に侵入して寝込みを襲い、舎弟にしてほしいと頭を下げるリアのことを面白いと思った。こういった人間もいるのだと。今まで見てきた選択は、自分よりも強い奴に殺されて奪われるか、自分よりも弱い奴を殺して奪うしなかったのに。こんな風に自分よりも強い人間に対して頭を下げて、庇護下にいれてほしいなんて。キルテが育ったあの場所では、考えられないことだ。

 そう考えて、急に痛みだす頭をキルテは手で抑える。


「姐さん、大丈夫ですか? すみません、アタシがお休みのところ侵入したから」

「……たまにあることだ。気にするな。それよりもリア、お前どうやってこの部屋に入った。鍵でも盗んだか」

「いえ! これを使って普通に開けました!」


 そう言ってリアは細長い棒のようなものを出した。それは先が曲がっている。これを使って錠を外したということらしい。


「なるほど。物理的に開けるのも得意、ね。どこで覚えた」

「じーちゃんです! じーちゃんはよく言ってました。俺も昔はやんちゃしてたって。お前は親も兄弟もいないから、もしもの時のためにこれを教えておいてやるって。これでも筋がいいって褒められてたんですよ! お前は手先が器用で、馬鹿っぽい顔が特にいいって」

「それ褒めてんのか?」


 突っ込みどころ満載のリアの話だが、キルテは深く聞かなかった。どう考えてもリアの祖父は薄暗い世界で生きていた過去があるはずなのに、孫である彼女はそんなことどうでもいいと、むしろ誇らしげに語る。何も察していない、なんてことはないだろう。本人が言うように、馬鹿っぽく見えるだけで。リアは弱いままでは何も出来ないことを、やりたいことをしたければ、力が必要なことを知っている。そういった人間を契約相手にすることは、キルテにとって忌避するものではなかった。


「早速だが、今日は何か持ってきたのか?」

「はい! 姐さんが知らないだろう情報を! 実は今日の午後に聖女様と王太子殿下が慰問に来るんです! それでアタシ達はそのお迎えの準備を昨日からしてたんですが、キルテ姐さんにはそのことは知らせず、今日も部屋に閉じ込めておけと修道院長が」

「ふーん、どーりで今日はこんな時間まで寝れたわけだ」


 普段なら既に部屋の鍵が開けられている時間だ。キルテはいつも外の気配で起きている。何故かキルテの部屋の両隣は空室なので、いつも担当の者が鍵を開けるためにやって来る気配で目が覚めていたのだ。しかし、今日はその担当が来なかったため寝過ごしたということらしい。まさかキルテを閉じ込めておけという指示が出ているとは思わなかったのだが。


「おおよそ、あのババアが面倒ごとを起こさないように指示したんだろうが。そこまでする必要があるのか? その聖女と王太子に対して」

「修道院長からすればそれだけ重要なんでしょう。聖女様は数か月に1回ほど慰問に来るそうですが、毎回丁重にもてなしているみたいですし。聖女様が王立学園に通われるようになってからは王太子殿下や学友の方たちと一緒に来てるとか。皆さん貴族ですからね。そりゃあ、問題を起こさないようにするのは当たり前なのかもしれません」

「学園に通っているということは、聖女も貴族か」

「はい。男爵令嬢ですけど。噂では強力な治癒魔法と浄化魔法の使い手だとか。そのため王太子殿下からの覚えもめでたいらしいです」

「ふーん。そいつらは何しに来るんだ?」

「いつも修道女たちに対して激励というか、話をするそうです。あとは聖樹への祈りもするとか」


 聖女の所属は修道院ではなく、教会だ。現在の聖女が学園に通っているということなら、正式に教会に籍を置くのは、卒業後になるかもしれない。聖女は修道女とは違い、貴族身分を捨てることはない。むしろ生家の身分よりも扱い的には上になるし、結婚も制限されない。国内での権力は、かなり大きいのだ。そんな女に加えて王太子殿下も来るとなったら、問題児を部屋に閉じ込めておきたいと思うのは必然なのかもしれない。

 

「でも逆にみんな聖女様訪問に気を取られているし、姐さんの場所は特定できているし、と思いまして! 今だ! と来たわけです」

「確かにいータイミングだったかもな」

「そうですよね! こうしてアタシは姐さんの舎弟になれましたし!」


 リアが体を軽く揺らしながら言う。結局舎弟で良いのかと思いながらもキルテは、頷いた。


「んで、まさか開けるだけで閉じられないってオチはないよな?」

「ふふふ! もちろん、閉じるのだってお任せあれ! 開けられたと気づかれないように閉じるのも得意です」


 胸の前で拳を握ったリアを、キルテは指を曲げて呼び寄せる。素直に足元に座ったリアの頭に手をのせた。それだけで頬を染める彼女の頭をグリグリと撫でまわす。そのついでに魔法を展開して、体全体に治癒魔法をかけてやる。疲労回復と傷を消す程度のものだが、他の修道女には出来ないレベルの魔法だ。魔法を教えるためにも自分で経験してもらったほうがいいだろう。


「使える子には褒美がなくちゃな?」

「ひゃ、ひゃい」


 再び林檎となったリアに、キルテは抑えきれずに笑う。

 どうやら、ここにも自分の意思を持って行動できる人間がいたらしい。

 そのことはキルテにとって、悪いことではないだろう。もしもの時があったとしても、どうとでも出来るという事実があるから言えることだったが。


「さて、じゃあその聖女様御一行を見に行こうじゃねーか」



 *



「ね、姐さん、大丈夫ですか?」

「………………ああ」

「絶対大丈夫じゃない! ちょ、休みましょう!」

「いや、お前もそろそろ行かないとマズいだろ」

「う~~そうですけど……でもやっぱり」

「いいから、行け」


 頻りに振り返るリアを追い払うように手を振る。その姿が見えなくなってから、キルテはその場でしゃがみ込んだ。片手で頭に治癒魔法をかけるが利きが弱いし、足元の雑草がくすぐったい。そんなことをぼんやりと思いながら深く息を吸って、吐き出す。息とともに頭の痛みもどこかへ行ってくれれば良かったのだが、そうもいかないらしい。


(まさか、聖女の姿を見ただけでこれほど頭痛がひどくなるなんてな)


 リアに連れられて来たのは外から礼拝堂の中を覗き込める窓。既に聖女一行は修道院に来ているということで、部屋を抜け出してやって来たのだが。窓からそっと覗いて見えるのは、金髪の女。聖女である彼女を視界に入れた途端、これまでにないほどの痛みがキルテを襲った。そんなキルテを見て部屋に戻ろうと言うリアに首を振り、彼女を与えられた持ち場へ無理やり送り出した。その行動は、リアを慮ったというよりも、自分の弱った姿を誰かに見られたくないという焦りにも似た感情からだった。


「クソッ、意味わかんねー」


 修道院に来てから度々見舞われる原因不明の頭痛。起きるタイミングは、キルテが過去の記憶を思い出そうとした時だ。そう考えた途端、痛みがさらにひどくなる。頭の割れるような痛みが、礼拝堂から漏れ聞こえる甘ったるい声で増していく。

 ここにいたらマズい。そう感じたキルテは、礼拝堂から離れるべく立ち上がった。ふらつく体をなんとか制御して、足を動かす。とにかく人目のない場所で休まなくてはならない。キルテの足は自然と宿舎の方へ向かっていた。

 宿舎の前まで来たキルテは、風に揺れる葉の音を聞きながら自室に鍵がかかっているのを今さら思い出した。キルテにだって鍵のかかった部屋を開けられる。しかし、その方法では再び鍵をかけることは難しい。それではリアを使って部屋を抜け出した意味がない。

 キルテは、いつかと同じように木を伝って屋根に飛び移ろうと幹に足をかけた。誤算だったのは、キルテが思っていたよりも体調が優れなかったことによる判断能力の低下。そして怪我をしても治癒魔法があるという、ある種の油断だった。

 屋根と同じ高さまで木を登ったキルテが足を滑らせたのは、そんな誤算と油断からのものだった。


「…………っ!」


 マズいとキルテが思った瞬間には彼女の体は落下を始めていた。普段であれば問題なく体勢を立て直して着地できる高さだが、今のキルテにとってはそれも難しい。豚どもの仕置きとは比べようもない痛みに、生い茂る緑の間から見える青を睨む。


(ハッ、とんだ醜態だ)

 

 この程度の高さから無様に落ちる自分をキルテは心の中で嘲る。何が弱肉強食だ。自滅してたら笑い種だ。周囲の時間と乖離したかのような空間で、キルテはそんなことを思った。仕方がない、落ちた後に治癒魔法で何とかしよう。原因不明の痛みには魔法が利かなかったが、外傷なら大丈夫なはずだ。キルテは切り替えて考える。

 ――――――しかし、そんなキルテの考えは突然現れた男によって狂わされた。

 せめて衝撃だけでも和らげようと、体勢を整えようとしたキルテの体を、誰かが下から受け止めたのだ。キルテは自分の体を支える腕から即座に逃げようとするが、痛みと抱きしめてくる腕の力強さのせいでそれは叶わない。


「おい、離せ!」


 腕から逃げようと手足をばたつかせるキルテをものともせずに、男は木の根元まで歩く。抱えられたせいで男の顔も見えないキルテは、男が被るフードに手をかける。そのタイミングで男はキルテを下ろして木の根元へと座らせた。

 キルテはすぐに目の前の男を見上げる。下ろされる時に脱げたフードから、黒い髪が零れて風に舞う。男にしては珍しく長髪を後ろで縛っている男は、こちらを見下ろしている。長髪も珍しいが、それよりも特異なのは顔の上半分を覆うような黒い仮面だ。フード付きのマントと髪、それから仮面も黒いため男の青白い肌が一層目立っていた。


「お前、誰だ」


 この修道院に男はいない。敷地に入って来る男は大抵が貴族の訪問者だ。しかし、こんな怪しい格好をした貴族は見たことがなかった。見上げた状況でもわかる高身長に、受け止められた時に感じた力強さと堅さ。明らかに体を鍛えている人間のものだ。細身で高身長のためそうは見えないが、何らかの武術にも精通していそうだ。キルテは両眉を上げて、聞いた。


「……今は名乗れない。でも僕が君に害を与えることは絶対にないよ」


 見た目に反して穏やかな小さい声で言われた言葉に、キルテは唇を引き結んだ。


「そう言われて納得するとでも――――」


 立ち上がろうとしたキルテだったが、痛みのせいでふらついてしまう。木に寄りかかって息を整えるキルテにゆっくりと近づいた男の手には、小さな瓶が握られていた。


「痛みがひどいなら、これを飲んで。痛み止めだから」

「誰とも知れない奴からのものは、口にしない」


 瓶を差し出してくる男をキルテは睨みつける。そもそも何故あんなタイミング良く落ちるキルテを受け止めて、痛み止めを差し出してくるのか。怪しすぎる。耳鳴りと眩暈もやって来たことに舌打ちしながら、その場を離れようとした。

 しかし、男は木に手をつけてキルテを囲うようにして行く手を阻んだ。


「おい、どけ」

「君が薬を飲むまでは、どかないよ」

「ハッ誰かに毒を盛れとでも頼まれたか」

「違うよ」

「どーだか。私はここの問題児らしいんでな」


 仮面から覗く金色の瞳を睨みつけたキルテは、男の目の前で片手をひらひらさせる。視界に入った自分の手が微かに震えていることに、内心で焦る。早くこの場から抜け出さなければいけない。そう思うのに自分の体が思うように動かせないという状況に、眉をひそめた。ここまで急激に体調を崩すのはおかしい。過去にこんなことはなかったと考えて、ひどくなる痛みに生理的に目が潤む。


「……ここまで副作用がひどくなるとは思わなかったな。うん、やっぱり来て正解だった」

「は? なんのこと――――」


 痛みに細めていた目を開くと、男が瓶を呷る姿が見える。突然の行動に呆けていたキルテは、男の手が頬に添えられたことで我に返った。しかし、そのことを予期していたのか男はキルテの体を木に押し付けて動きを封じる。

 ――――そして、薬を含んだままキルテに口づけた。


「んん!?」


 こじ開けるように侵入してきた舌と流れ込む液体。ドロリとした感触がキルテの口の中を満たした。顔を上に向けられて男の両手で頭を固定されたキルテは、吐き出すこともできずに液体を飲みこんでしまう。顔に当たる仮面の感触と、頬を撫でるかさついた手の感触。口内を探る舌の動き。慣れない感覚にキルテは、体を震わせる。しかしその震えさえも宥めるように頭を撫でられるのだから、なんだか可笑しくなってくる。そこでキルテは抵抗するよりも薬とやらを早く飲んでしまった方が早く解放されると力を抜いた。

 しかし、口内に液体が入って来なくなりそろそろ終わるかと思ったキルテの想像とは裏腹に、男はなかなか離れない。続く行為に苛立ったキルテは、男の舌を噛んだ。鉄の味が滲むのに、口に残った液体を舐める男の体を押しやる。すると唇が離れ、スンと1つ息を吸う音がする。今までの岩のような堅さが嘘かのように離れていった男。彼は赤く染まった唇を親指で雑に拭ってから、キルテと目線を合わせないままに言った。


「……どうかな。体調は」

「おかげさまで痛みは引いたが、違う意味で頭がいてーよ。口ン中も最悪だ」


 薬の効果か痛みはすっかりなくなっていた。しかし、口の中は薬特有の苦さとツンと鼻に抜けるような鉄の臭いで気分は最悪だ。キルテは目の前で佇む男を睨みつけた。

 男は俯いたままその場をじっと動かない。加えてキルテの吐いた息に、びくりと肩を震えさせる始末。これではどちらが襲ったのかわからない。仮面をしている上に俯いているので表情はわからないが、晒されている耳が赤く染まっている。


(敵意はない、とは思うが……)


 害するつもりならば、既にキルテは死んでいるか倒れているだろう。用意周到さと口ぶりから考えるに、キルテの頭痛の原因も知っているようだ。勝手に口移しで薬を飲ます強引さと、目の前で恥じるように俯く男。男が何者なのか。何が目的なのか。キルテを助けた理由は。わからないことだらけだ。


「だが、痛みがなくなったのはあんたのおかげだ。礼を言う」

「いや! 僕も無理やりキ、じゃなくて……の、飲ませてしまったし。お礼はいらないよ」


 どうやら見返りが欲しいわけでもないらしい。男を見つめたまま言ったキルテに、慌てたように手を振った。目線はずっと合わない。男の口を割らせるのは、キルテにとって簡単ではなさそうだ。ならばこの場を離れる方が得策だろう。


「そーかよ。じゃ、行くわ」

「あ、ちょっと待って」


 一瞬前まで俯いていた男は、俊敏な動きでキルテの腕を掴んだ。痕が残らない程度に、けれど簡単には抜け出せないように込められた力。逃がすつもりのない男の手と、仮面の下から覗くこちらを慮るような瞳に、キルテは深く長いため息をついた。


「………………なんだよ」


 先を促すようなキルテに、男が驚いたような雰囲気を出した。その反応に対してキルテは顔をしかめる。キルテはただ早くこの場を離れたいだけだ。どうやらこの男はこちらに敵意はないようだし、ならば用を済ませたら解放されるだろうと踏んだのだ。脳内で言い訳のようなものを並べている自分に、さらにキルテの眉間のシワが深くなる。

 それをどう捉えたのか、男が慌てたようにマントの下から何かを取り出す。それは男の手のひらに握られていて、何かはわからない。


「これを君に」

「………………おい、どういうつもりだ」


 男が見せたのは1つの指輪だった。上下に2本のラインが入っていて、その間に細かい意匠が施されている。キルテには詳しい知識などないが、少なくとも町の屋台なんかで売られているような安物ではなさそうだ。そもそも初対面の女に男が指輪を送る状況は普通でない気がする。男女間のことに疎いキルテにもそのくらいはわかる。だからこそ心底意味がわからないという雰囲気を出して聞いたキルテに、男は数秒考えた後に慌て始めた。


「こ、これはそういうんじゃなくて! いや、違うわけでもないけどこれは違くて! 君の記憶に関係するものなんだ!」

「私の記憶」

「そう! ほら、女性に贈るにはゴツゴツしてるでしょ」


 確かに女の指にするには太い指輪だ。どちらかといえば男の指に嵌めた方が似合う気もする。手渡された指輪を摘まみながらキルテは思った。しかし、ではなんのための指輪なのか。


「誰もいない場所で指輪を嵌めて。救いが必要なら右に、要らないのであれば左に回して欲しいんだ」

「どういう意味だ」

「それも、今は言えないかな。そういう約束だから」


 誰との約束だと聞く前に、男の手がそっとキルテの頬に触れる。この短時間で慣れたのか、キルテは避けることなくそれを受け入れた。一瞬止まった手が、脈を取るかのように首に触れる。


「……うん、大分顔色が良くなってきたね」

「あんたは青白い顔だな。仮面でほとんど見えねーけど」

「……仮面が、気になる?」


 男はキルテから手を放して仮面を触る。見下ろす金の眼は何かを試しているかのようで、キルテは顔を逸らした。


「別に。耳は面白いほど赤く熟れてたから、その仮面の下も、さぞ旨そうなもんが隠れているんだろうと思っただけだ」

「えっ! う、旨そうって……」


 言い方……と、項垂れる男に少々気を盛り返してからキルテは言った。


「あんたは私のことも、私の頭痛の原因も知っている。そしてこの指輪もそれに関係している。そうだな」

「うん。……そうだね」

「で、あんたは私に好意を向けている」

「うん。…………え!? こ、こここ好意って」


 指さしたキルテに男は、頭をグイっと後ろに逸らした。つい先ほど気にならない素振りをしたくせに、今はその仮面をはぎ取ってみたくなる。そんなことを思う自分にキルテは口角を上げた。


「あいにくと私は鈍感女を演じて、時間を無駄にするつもりはないんでね。あんたの言動から敵意じゃなくて好意を向けられていると判断したのだが間違ってるのか?」

「ま、間違ってないです」

「ならいい。少なくともあんたが私に危害を加えないと判断する理由の1つにはなるからな」


 グダグダしてるのは性に合わないんだ、と言えば男は小さく笑みを零した。


「ふっ……じょ、情緒がないね」

「わかりやすい好意に気づかないほうが、情緒がないだろ。そーいうプレイをしたいなら他の女を当たれ」

「うーん。それは無理、かな」


 首を傾げる男に、キルテは真似をするようにして頭を傾けた。


(ここまでが全部演技でした……ってことなら大した役者だな。まあ私に好意なんかを抱いてどうするんだって話だし。うまいやり方はもっとあっただろうしな)


 ひとまずはこれで様子見しようと、心の中でキルテが決めると男が手を伸ばしてくる。その手はキルテの頭の上に乗り、数回撫でると名残惜しそうに離れていく。


「……じゃあ、僕はもう行くね。くれぐれもその指輪は他の人に見つからないように」


 そう言って男は、黒いマントを翻して去っていく。日が落ちて差した影に潜むように男の姿は、見えなくなった。しばらくキルテは影を見つめていたが、ふと力が抜けて木の根元に座り込んだ。


「あーあ……慣れないことをするもんじゃねーな」


 指輪を下着の中にしまい込んだ後、気が抜けたのかキルテの意識は段々と遠のいていく。

 結局、慌てた様子のリアにたたき起こされるまで、その眠りが妨げられることはなかった。



 *



「さて、右に回すか。左に回すか」


 キルテは1人部屋のベッドの上に寝ころびながら呟いた。

 夜も更けた頃、取り出した指輪を睨むように見つめる。


「救いが必要なら右に、ねえ……そもそも救いってどういうことだよ」


 現状からの脱却、と言う意味なら修道院でのキルテの扱いのことを指しているのだろうか。しかし、今の状況はキルテが勝手をした結果だ。それを後悔はしていないし、誰かに助けてほしいなんて考えたこともなかった。そもそも修道院を抜けるだけなら、すぐに出来るはずだ。それをしないのは、修道院で何かをしなければいけない気がするから。その理由もまた、思い出せない記憶に関係しているのだとキルテは予想しているのだが。


「頭痛の原因も、記憶もそのままに行くのは危険だよなー。まさか聖女御一行様と魔物狩りに行く、なんてことになるとはさすがに予想してねーよ」


 修道女数人が、1か月後に聖女や王太子殿下とともに魔物の退治に森へ向かうことになった。その話をキルテを起こしに来たリアから聞いたときに思ったのは「下手すりゃ死ぬな」ということだった。当たり前のようにメンバー入りしていたキルテは、修道院長の思惑かと疑いながら今の自分が抱える不安要素について考えた。なぜ修道女がお供しなくてはならないのか。それを聞いたところで意味がないのはわかっている。修道院長が故意にキルテを危険に晒す可能性が高い以上、変に相手を刺激するのはやめた方がよさそうだ。好き勝手に動きたいものだが、万全の状態ではないのだから仕方がない。キルテだって弱者として死にたいわけではない。


「ならば答えは決まっている……か」


 あの男の言葉が本当かはわからない。しかし、不安要素をそのままにするわけにもいかない。

 キルテは指輪を右の親指に嵌めると、天井に手のひらをかざした。


「ただ自分で選んで前に進むだけだ。救いなんて、いらねーよ」


 キルテは左手で指輪の上部を掴むと、そのまま捻る。

 指輪からカチリと小さな音がしたと同時に、キルテは激しい頭痛に襲われて意識を失った。

最後まで読んでいただきありがとうございます!

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