第13話 黙っていただけじゃ、何も変わらない
――――後悔ばかりの人生でした。
周りの目を窺い、自分の意見を呑みこみ、愛想笑いをする。それが正しいと、思っていたのです。
――――愛を知った人生でした。
恋する喜び、愛される幸せ、別れてもなお刻まれる約束。愛とはここまで人間を変えるのかと、驚いたものです。
――――自分の愚かさを呪った人生でした。
殺したいと思いました。その存在を呪いました。そしてそんなことを考える自分を、愚かで醜い自分を呪いました。
これは私が最期に残す、この世界に生まれてから感じたことを纏めた日記のようなものです。子供たちがしていた交換日記とやらを見て、思い立ったのです。誰かに読んでもらいたいのか、自分にもよくわかりません。しかし、いい機会だと思い筆を執ることにしました。
もし、この日記を手に取った人がいたら暇つぶし程度に読んでもらえると嬉しいです。
……やっぱり、誰かに話したかったのかもしれません。文字にすることで気づく自分の気持ちもあるんですね。
今日から少しづつ、書き進めて行こうと思います。
*
私がこの世界に生まれたのはもう数十年も前のことです。私は貴族の娘として誕生しました。貴族、と言っても貧乏男爵家の長女として生まれた私は、他の貴族令嬢とはどこか違う存在でした。……いえ、身分のことよりも私を私たらしめていたのはある記憶です。
それは、この世界とは違う世界で生きたある人間の記憶。異世界での前世の記憶です。
……馬鹿なことを、と思うでしょう。私も最初はそう思いました。御伽噺や頭の可笑しい人間の妄想だと思ってもらっても構いません。しかし、それが私にとっての真実でした。
記憶の中の異世界は、魔法のない世界でした。私が暮らしていたのは、戦争とも縁遠い、貴族制度もない国でした。この世界よりも貧富の差はなく、ほとんどの子供が衣食住に困ることなく、勉強する機会も与えられる小さな世界です。
そんな世界で、私はいつも寝ていました。
……サボっていたわけではありませんよ? 寝ていたのは病院のベッドです。いつも個室の病室で静かに過ごす。そんな子供でした。そんな前世の私ですが、家族には恵まれ、両親と妹は私のことを気にかけてくれる存在でした。その分、苦労もかけたことでしょう。妹には特に申し訳ない気持ちです。今思えば、病室にいる彼女の表情がどこか不満そうな時がありました。きっと病弱な姉を構う両親に、何か言いたいことがあったのでしょう。両親を取る姉に、怒りをぶつけたかったこともあったでしょう。けれども妹は、そんなことはしませんでした。時折、図書館で借りてきた本を一緒に読んだり、学校であった面白い出来事を私に話してくれたりしました。優しい子なのです。
今、彼女はどうしているでしょうか。両親は、私が死んで悲しんだでしょうか。多分、泣いてくれたのだと思います。けれども家族は皆、どこか覚悟を決めた顔をしていましたから。私が居なくなっても、立ち直って、彼らの人生を歩んでくれたのだと、そう思います。
…………こんなことを話すのは、初めてで何だか恥ずかしいですね。今日は、子供たちが絵本を読んでとせがむので、思い出してしまいました。というよりも、前世で語れる話はそれほど多くないのです。次回はこの世界に生まれてからのことを話したいと思います。
*
前世の記憶を持ってこの世界に誕生した私ですが、記憶を思い出してからも特に支障なく男爵令嬢として過ごしていました。ある程度分別が付く年頃だったことと、前世で過ごした時間とこの世界で過ごした時間にそれほど差がなかったこと。これらが理由なのでしょう。
私は子供として病室で過ごした記憶しかありませんでしたから、この世界の貴族制度や魔法、魔物なども違和感なく呑み込めました。ああ、この世界はそういう世界なんだ、と。あの白い清潔な、小さな世界よりもよほど広く、鮮やかな、面白い世界だと思ったほどです。今世では丈夫な体で生まれたこともそう思う原因でした。
母が言うには、小さい頃から私は外を駆け回るやんちゃな子供だったそうです。記憶がない頃から、どこかで外に出たいという思いが足を動かしたのでしょう。貴族令嬢にはとても思えない、記憶にうっすらとあるガキ大将のような子供だったとか。今では考えられないことです。
そんな私ですが、大きくなると自然と貴族社会に溶け込み、令嬢としての振舞を覚えるようになりました。異質な目で見られるのが、たまらなく嫌だったのです。周囲に溶け込んで、愛想笑いを浮かべ、目立たないようにしました。同調、というやつですね。だからこそ、前世の記憶のことは誰にも話しませんでした。話せるわけが、ありませんでした。自分が異質だと、自分で叫ぶなんて。当時の私に出来るわけがなかったのです。
子供たちにはしっかりと自分の意見を言え、だなんて言ってるくせに。大人はずるいものですね。それが成長なのか、退化なのか……。
今日は少し疲れました。続きはまた今度にします。
*
目立つことを恐れていた私ですが、ある転機が訪れました。なんと、聖女として教会に認定されてしまったのです。
普通なら喜んで受ける話ですが、私は焦りました。何せ、パッとしない貧乏男爵家の令嬢が聖女に抜擢されたのです。周囲の目と反応は、恐ろしいものでした。好意的なものも、悪意のあるものも、全てが恐ろしく感じたのです。
確かに私の魔力量は多く、治癒魔法と浄化魔法が得意でした。けれども王立学園では力を抑えていたのです。目立たないように、自分が異質であると見抜かれないように。
けれども、その努力も無駄なものでした。ある日学園に教会から人間がやって来て言うのです。あなたには聖なる力が宿っている、と。それも周囲に学生や教師が大勢いる中でのその宣言です。意味が分かりませんでした。あなたは特別な存在なのだと。その力を世界のために使うべきだと。赤の他人がそう声高に言うのです。
ふざけるな。私は目立たず普通に生きたいのだ。この世界では長く生きたいのだから、危険からは離れていたい。
心中とは裏腹に、私の口から出てきたのは了承の言葉でした。口から零れてから、すぐにやってしまったと思いました。場の空気に酔ったのでしょうか。それとも心の奥底では、自分は特別な存在だとでも思っていたのでしょうか。今になってもわかりません。
ただ、あの時聖女になることを拒んでいたら。そう思うことはこれまでに何度もありました。
私の今世は後悔ばかりです。あの時こうしていたら、もしかしたら。そんなことばかりです。
過去を変えることなんて、出来るはずがないのに。本当に愚かな女です。
*
聖女として過ごしているうちに、私は少し変わったのだと思います。自分の役割がハッキリとして、精神的にある意味では安定したのだと思います。聖女として人々を癒し、魔物や瘴気を浄化する日々は大変つらいものでしたが、やりがいもありました。当時は、寝る間も惜しんで、聖女としての職務に励んでいたのです。これがワーカホリックというものでしょうか。実績を積み、感謝をされて嬉しいと思うのに、どこか虚無感を感じるのです。
聖女としての身分、そして元来の性格から友達などは出来ませんでしたし、家族とも疎遠になっていました。忙しいと理由をつけて仕送りをするだけの関係になっていたのです。家族間で何かがあったわけではありません。しかし、家族と顔を合わすことが酷く億劫でした。聖女としての仮面を、外したくなかったのかもしれません。
二度目の転機は、ある貴族からの相談でした。彼はこう言いました。
「聖女様、どうか私をお助けください。そうでないと私は、あの醜い姿に変わってしまいます」
今でもハッキリと思い出せるほど、彼は憔悴していました。目が虚ろで、顔は真っ青、挙動は正直怪しかったのです。
私は訝しみながらも、彼の体を調べ、彼にも話を詳しく聞きました。彼は王国で使われている杖が聖樹なるものから出来たもので、修道院にいる修道女たちの魔力のおかげで魔物化を抑えているのだと。
最初は、その話を信じませんでした。確かに彼の腕は魔物のように変化していましたが、魔物の瘴気に触れて気が可笑しくなる人は多くいました。けれども、私は曖昧な笑みを浮かべたまま話を断ることが出来ませんでした。頭を抱えながら、杖と修道院について調べることになったのです。
……今さらですが、この話は王国の国家としての秘密に関わることです。この先を読むことによって起こることを、私は何も保証できません。私には、どうすることもできません。恐ろしいと、馬鹿馬鹿しいと思う人はここで本を閉じてください。燃やしてもらっても構いません。これはあくまで私の自己満足なのです。最期の悪あがき、反抗とも言えるかもしれません。
そんな私の我儘に付きあってくださる方は、ぜひ続きを読んでください。きっと、椅子から転げ落ちるくらいの驚きは与えられると思います。…………すみません。ちょっとした冗談です。最近、誰とも話していないので少し冗談を言ってみたかったのです。
*
結論から申し上げますと、杖が魔物化を防いでいるという話は事実でした。王国の貴族が魔法を杖なしで使うと魔物のような姿になってしまうということも。
その事実は、貴族の中で親から子へ伝え聞くものなのだそうです。真実だと知るものは多くありませんが、杖を離して魔法を使うなということを貴族の子たちは口酸っぱく教えられるのです。実際に杖を使わないと体調を崩したり、魔法が使えなくなる者もいましたので、皆杖を手放すことはありませんでした。
私は、杖を持たずともそういった症状は出ませんでした。それでも他の子供たちと同様に、杖を決して手放しませんでした。周りから浮くわけにはいきませんでしたので。
そんな子供に、両親たちもわざわざこの話をすることはありませんでした。もしかしたら、本当に自分たちが魔物になってしまうなんて思ってもいなかったのかもしれません。
衝撃の事実に、私は悩みました。悩んだ末に出した答えが、修道女たちが祈りを捧げる時間を増やすというものでした。
何も解決しない、ただの現状維持。それよりも酷い選択でした。
彼は魔物に変化することもなくなり、私に感謝を述べました。良かった。そう思う私でしたが、どこか胸騒ぎもしました。気のせいだと流した私は、その後数年はそのことについて思い出しませんでした。意図的に目を逸らし続けたのです。
しかし、そんな私を嘲笑うかのように再びある事実が目の前に差し出されました。
修道女たちが次々に死んでいるというものでした。
私はそのことを聞いて青ざめました。聖女である私の命令によって極限まで魔力を絞られて衰弱死した者。反発して殺された者。絶望して自害した者。理由は様々でしたが、私の選択によって死んだ者たちでした。
そのことを知った私は、塞ぎこみました。後悔して、後悔して……。そして部屋から出なくなったのです。どうしたのかと様子を見に来る教会の者たち。助けてくれと叫ぶ者たち。それらを無視して、聖女としての職務さえ放棄しました。呆れるほどに、愚かな選択でした。動かなければ何も変わらないのに。ただ周囲の人間が助けてくれるのを待っているだけでは、駄目だったのに。
愚かな女を救う王子様が現れたことは、運命だったとは私には言えません。ただ自分の甘さから生まれた偶然の出会いに過ぎなかったのです。
しかし、その出会いを、その存在を今でも愛おしく思うのです。思うたびに、後悔を繰り返すのです。
子供たちが胸をときめかせる物語に出てくるお姫様が、今でも羨ましく思います。きゃらきゃらと楽しそうに笑う子供たちの声が聞こえてくるようです。
……感傷に浸り過ぎて、頭が痛くなってきました。今回はここまでにしておきます。
*
ドアを開けたのは、本物の王子様でした。
ここだけを聞けば物語の一節のようですが、その様は乙女がときめくものではありませんでした。その王子様――当時の第2王子は、聖女である私の部屋のドアを蹴り破って入ってきたのです。
風貌は王子然としていましたが、体から湧き上がる魔力は苛立ちを隠せていませんでした。無理もありません。職務を放棄している聖女です。文句の1つや2つ、言いたくもなるでしょう。
殿下は直接的な物言いをしませんでしたが、私の行いを批判されました。その言葉は私を貶めるわけではなく、しかし反論が出来ないほどの正論でした。殿下は曲がったことを好まない、そんな性格でした。けれどもそれは押しつけがましくもなく、さっぱりとしたもので、私は殿下のその性格を羨ましく思いました。あんな風になりたいと、そう思ったのは初めてでした。初対面では、お叱りを受けたのもあって会話という会話は出来ませんでした。背後に控える騎士の圧が怖かったのもあります。
しかし、殿下は聖女の仕事に復帰した私の不摂生ぶりを見て何度も私と会う機会を作ってくださいました。恐れ多いと思いながら、私はその機会をいつしか心待ちにするようになったのです。
殿下との距離が近づいて騎士の圧が気にならなくなった頃、彼はある物語を私に話してくださいました。
それが聖女と杖の始まりの物語です。
*
始まりは1人の王女でした。彼女には前世の記憶がありました。そう、私と同じです。違ったのは彼女の方が前世の記憶に囚われていたということです。
王女は狂いました。前世での常識と数十年生きた人格を否定する周囲の者たち。彼女の魔力はいつしか歪な形に変わっていきます。そして、ある日とうとう王女の姿は魔物と似た醜い姿になっていました。
王宮は各分野で秀でた魔法師を呼びつけ王女を診察させました。多くの者が首を振る中、ある魔法師が言いました。
「王女殿下の魂はこの世界に合っていない。肉体と魂、そして魔力が一体になった時にこそ本来の魔法が使えるのです。王女殿下はそれらがバラバラになっているからこそ、このような姿になっているのです。この世界の魔力と魂を持つものが浄化の魔法を施せば、どうにかできるかもしれません」
魔法師の言った通りにすると、王女の姿が元のものへと少しずつ戻っていきました。しかし、それも長くは続きません。時間を空けるとすぐにまた変化してしまうのです。そこで王は、魔力を捧げる修道女と聖樹を修道院に用意しました。これで一安心かと思った矢先、悲劇が起きました。聖樹から作られた杖が完成するのを待たずに、王女が自害してしまったのです。
王女の部屋には、彼女が綴ったであろう日記がありましたが、それを読める者は1人もいませんでした。読めずとも、その筆跡からは深い恨みと恐怖が見てとれました。
王女が死んだことで必要がなくなったと思われた聖樹と杖でしたが、王国では王女の死後に次々と前世の記憶を持って生まれてくる人間が現れました。しかも平民にはそんな人間は見られず、前世持ちが生まれるのは王族と貴族だけ。そこで王宮は聖樹で作った杖を王侯貴族全員に配り、浄化の力で魔物化を防ぐようになったのです。
「誰かから騙して奪った力を何食わぬ顔で享受している奴らが気持ち悪い」
話を終えた殿下は、そう仰いました。その言葉に、私は胸を突き刺されました。私は前世の記憶があることを黙っていましたし、修道院でのことを見て見ない振りしていたからです。私の顔色が悪いことに気づいてか、そっと囁くように自分は魔物化について研究して今のやり方を変えるつもりだと言いました。私に、力を貸して欲しいとも。
私は、自分の感情を制御することが出来ず殿下に全てをぶちまけました。泣きながら、許しを乞いながら話す私を殿下は抱きしめてくださりました。その時の私はパニック状態でしたから、自分がどんな風に殿下の腕の中に収まっていたのかも覚えていません。殿下が私に対して仰った慰めもほとんど覚えていません。しかし、許すと言われたことだけは今でも覚えています。
私はその言葉に、愚かながら本当に許されたのだと思ったのです。
本当に、馬鹿な思い違いでした。
*
私は、殿下とともに魔物化について調べました。2人――堅物な騎士も入れれば3人ですが――で行動することが多くなると、より一層私たちの距離は縮まりました。
殿下と想いが通じ合った瞬間は、今世で最も幸福な時間でした。聖女とは言え、地味な男爵令嬢と第2王子では釣り合わない。想いを告げることすら想像しなかった私にとっては奇跡のようでした。泣く私を抱きしめる殿下は、以前私を慰めた時とは違う様子でした。その時ばかりは、騎士も空気を読んでその場を離れる程度には、私たちは恋人としての関係を築けていたのでしょう。
しかし、そんな幸福も長くは続きませんでした。
――――殿下が罪人として捕まってしまったのです。
罪状は王の暗殺未遂。魔物化について調べる殿下に恐怖した王族と貴族たちが手を組んで作った罪でした。彼らは杖を奪われることを恐れました。変化することに恐怖したのです。ですから、変革を望む殿下を処刑したのも彼らにとっては当たり前の行動の結果でした。
聖女である私が知ったのは、殿下の処刑が終わってからでした。教会が意図的に情報を統制していたのでしょう。馬鹿な私は少しの違和感を抱きながらも、魔物化の研究を自室で続けていました。その自室で殿下が死んだことを知らされた時は何の冗談かと思いました。魔法師としての実力も、民を想う気持ちもある殿下。騎士を始め多くの従者や部下たちに慕われていた殿下。彼が殺されるだなんて、思いもしませんでした。
もし、彼が窮地に立たされたのならば私が颯爽と登場して、怪我を治す。
そんな空想を描いたことのある私は、彼が処刑されることさえ知らなかったのです。
――――私の魔力は暴走しました。
研究の中で魔力と感情が強い結びつきを持つことはわかっていました。そして、感情というものは記憶と深く関係している。魔力を暴走させるのは殿下の処刑を伝えられた記憶。暴走を和らげるのは殿下と過ごした記憶でした。
殿下を想うたびに狂い、癒される自分に嫌気が指しました。殿下を死に追いやった人間が憎いのに、殺意を恐ろしいと感じてしまうのです。
今、私がいる部屋と当時塞ぎこんだ部屋は似ています。ベッドや花瓶、鏡に当たって物を壊しては自傷行為をしていた私を思い出します。そんなことをするのに、一歩を踏み出すことすら出来ないのですから。ヒーローに全てを背負わせるヒロイン気取りの、どうしようもない人間でした。
結局、その状況を変えたのもヒーローである殿下でした。
ある時、私を騎士が訪ねてきました。騎士、と言っても殿下の後ろから睨んできた堅物騎士ではありません。彼は殿下と最期まで共にいたというのですから。
訪ねてきたのは、堅物騎士の親友だと名乗る紅の髪を持つ方でした。あの男に親友なんていたのかと驚くのと同時に、そんな方がなぜ私なんかの所へ来たのか。疑問を持つ私に、彼は手のひらに収まる程度の小さな箱を差し出しました。
中に入っていたのは指輪でした。話を聞けば、処刑前に殿下からこれを私に渡して欲しいと密かに頼まれたそうです。指輪を持ってきた騎士も、水面下で殿下に力を貸していた貴族の1人だったのです。彼は、殿下に自分が死んだ後の王国を頼むと言われたこと。殿下の供は親友に譲ってやったのだと。笑って私に話しました。
指輪は、魔道具でした。私の薬指にピッタリと嵌るそれは、指定した記憶を対象から奪うことが出来るものでした。殿下は、これを異国の王族に手伝ってもらい開発したとも言っていたそうです。私はそんなこと、これっぽっちも知りませんでした。紅の騎士は続けてこう言いました。
「その指輪を使って、魔物化についての研究の記憶を忘れて欲しい」
殿下がそう言って彼にその指輪を渡したそうです。
実際、私は魔力を暴走させていました。殿下は、このことを予想して前々から準備をしていたのでしょう。
私は指輪を受け取り、殿下の望み通りに魔物化に対する記憶を失いました。
*
記憶を失ってからの私は、聖女として忙しくしながらも大きく魔力や感情を乱すことなく過ごしていました。研究の記憶と付随して殿下との思い出もハッキリとしないものになっていましたが、私は結婚することもなく聖女の役目を後任へ引き継ぐことになりました。
引退した私は、王都から離れて田舎にある孤児院で子供たちと一緒に暮らしていました。子供たちと過ごした時間は平穏で、豊かとは言えずとも十分幸せなものでした。
そんなある日、王都から手紙が届きました。王都の修道院長からの手紙で、内容は修道院で新たに使用することになった魔道具について相談したいというものでした。私は王都に行き、件の魔道具を目にしました。その魔道具は鏡の形をしていました。魔道具に魔力を通すだけでその人間の核となる記憶が鏡に映るというものでした。新しい修道女が来るたびに使用するように、教会から通達があったと修道院長は言いました。彼女は、その通達に違和感を持って私に相談をしてきたのです。彼女には魔法を教えたり、それなりに長い間付き合いがありましたので、私を頼ってくれたのでしょう。
私は彼女に少しこの魔道具を調べさせて欲しいと部屋と魔道具を借りました。そして、自分の魔力を鏡に与えたのです。
――――鏡に映ったのは、私の失った記憶でした。
その人間の核となる記憶、というよりも心の奥底に閉じ込めている、隠していることを暴く魔道具なのでしょう。前世の記憶を隠している人間を炙り出すためのものかもしれません。平民の中にも、王族や貴族の血を引いた人間はいるはずですから。もしかしたら、王立学園にも似たような魔道具があったのかもしれません。だから私は聖女として突然に指名された。そう考えれば辻褄が合います。
私は鏡に魔法をかけました。鏡が対象の人間に干渉する力を弱めたのです。固く心に閉じ込めておけば、その記憶を暴くことが出来ない程度に。
そして、修道院長に魔道具が問題なかったことを伝えて、いくつかの助言をしました。
修道女たちをもっと徹底した管理下に置いて無駄に反抗するものを出さないように。魔物の一部を体に取り込むことで魔力を聖樹に吸われ過ぎるのを防ぐように。
魔物化のことまでは知らない修道院長は、あなたがそう言うのであればと了承してくれました。そんなに慕ってもらえるほどの人間ではないのに。私はそう思いながらも余計なことは一切喋らず、修道院を出ました。
その時、私の胸中に渦巻いていたのは激しい怒りでした。この国の王侯貴族たちに対して、王国のやり方、何よりも若い頃の自分の選択に燃えるような憤りを感じていました。鏡で見た記憶はあくまでも私の中の記憶を映したもので、その時に完全に記憶を取り戻したわけではありませんでした。私も年を取って精神的にもあの頃よりも大人になりましたし、鏡の記憶に対して客観的に捉えることが出来ました。だからこそ、自分に対しての憤りの感情を抑えることが出来ませんでした。
今は変革の時ではない。殿下は早すぎたのです。その時ではなかった。そう漠然と私は感じました。私自身にも、時間がありませんでした。
*
教会からの使者が来たのは、それからすぐのことでした。私は抵抗もせず、彼らについて行くと答えました。ただ、子供たちと過ごす期間を少し与えて欲しいと言いました。そうして子供たちと過ごす中で、この日記を書くことを思いついたのです。誰かに自分の気持ちをぶちまけたかったのかもしれません。
もう、残された時間もありません。今は教会の人間に連れられて来た部屋で日記の続きを書いています。この日記は、魔法で見つからないようにしてからこの部屋に置いていくつもりです。教会の人間に見つかるかもしれませんが、それでも構いません。私はただ、感情を吐き出したかっただけですから。
ですが、もし、この日記を読んだ方がいたのなら……。いえ、これを言う資格を私は持っていませんね。
そろそろ、行かなければいけません。
この国の平和と安寧を祈ることは出来ません。ただ、今思うのは何も喋らず、何も行動しなかった自分への後悔。そしてあの方に会いたいという気持ちです。これを読んでいる方には、私と同じ過ちを犯して欲しくありません。私の日記が1つの教訓になれれば、良いのですが……。
もう時間のようです。こんなに長く自分の気持ちを言葉にしたのは初めてでしたから、いざ終わるとなるとほんの少しだけ名残惜しいですね。
最後まで読んでくださった方がいましたら、感謝を。
それでは、御機嫌よう。さようなら。
数多くの作品の中から選んで読んでくださり、ありがとうございます。
この話を読んだ感想や評価など「与えてやんよ」という方がいらっしゃいましたら、頂けると大変ありがたいです。小説を書く上での参考、糧にさせて頂きます。




